連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態(その13)

『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』:ティル・バスティアン(著)、石田勇治、星乃治彦、芝野由和 編訳(日本版1995/11)

『アウシュヴィッツの嘘』:元ドイツ軍の中尉、ティエス・クリストファーセンが1973年に発表した短い回想録の題名。参照➡『アウシュヴィッツの嘘』の内容をなぜ正確に報道しないのか

『ガス室』妄想ネタ本コテンパン(換気扇編2)

1999.3.26

 読み切り説明の都合上、若干繰り返すが、デタラメ本の典型『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』で、「編著者代表」を名乗る東京大学教養学部助教授、石田勇治は、「日本版〈アウシュヴィッツの嘘〉」(p.141-152)題する補足を行い、つぎのように(p.146-147)主張している。


「換気扇がない」とされたガス室は、もともと焼却棟内の死体置き場であったが、そのころに使われていた換気装置が、ガス室に改造された後もそのまま使用されていたことを、1942年夏の煙突改修工事の図面が証明している。そもそも換気装置が死体置き場にあったため、そこがガス室に改造されたのである(プレサック、ドイツ語版42ぺージ)。

 1943年以降、アウシュヴィッツのユダヤ人虐殺の主な現場は、隣接の大規模なビルケナウ(アウシュヴィッツ第2)収容所へと移行するが、そこに建設されたガス室にはトプフ・ウント・ゼーネ社製、排気圧8000立方米/時の電動換気装置が取り付けられていることが、1943年3月の同社作業日誌と施工図面から明らかである。ホロコースト見直し論者は、こうした数多くの新史料にどんな反証を寄せるのであろうか


 しかし、この文中の前段部分の「部屋」については、前回も指摘したように、フランス語の原著には平面見取り図が4つあるが、最初の1つだけにドイツ語でLeichenraum(死体部屋)とあり、あとの3つではフランス語のMorgue(死体置場)になっている。これが「ガス室に改造された」というのは、「説」でしかないのである。

 しかも、これは単なる「平面見取り図」であって、不動産広告の図面と同じような素人向けの配置説明図でしかないのである。さらには、「平面見取り図」があったということは、その「平面見取り図」通りの工事が行われたこととイコールではないどころか、工事を実施するためにも、まったく不十分なのである。建築には素人でも家を建てた経験などがあれば、すぐに分かることだが、工事用の「平面見取り図」は「設計図」ではないのである。縦、横、前後左右、細部の構造、材料などについての工事用の精密な「設計図」なしには、工事に掛かるどころか、見積もりも材料の発注も不可能である。

 アウシュヴィッツ・メイン・キャンプの場合、「ガス室」と称されてはいるのは、奇妙なことに、現在も半分は斜めの土手で覆われている小さな建造物である。この建造物に関して、しかも、いわゆる「ユダヤ民族絶滅」が行われたと称される時期について、確かに言えることは、「戦争の末期に防空壕」として使用されていたことだけなのである。それを戦後、ニュルンベルグ裁判終了後の1948年になってから、「生き残りの記憶に基づく再現」によって「改造した」というのが、博物館の従来の説明だったのである。

 上記の石田執筆の引用部分の後段、「ビルケナウ(アウシュヴィッツ第2)収容所」に関しても、「ガス室」という記述は、勝手な妄想にしかすぎない。すでに詳しく論じたように、「平面見取り図」には「死体置場」(Leichenkeller)としか記されていないのである。しかも、この「平面見取り図」も、プレサックの新発見でも何でもない。

 ここで、今後の研究の上での注意をも指摘して置きたいのは、ニュルンベルグ裁判で提出された「証拠」の位置付けである。私は、拙著『アウシュヴィッツの争点』で、ドイツ人の現代史家、ウェルナ-・マ-ザ-著『ニュルンベルグ裁判/ナチス戦犯はいかに裁かれたか』(TBSブリタニカ,1979)などの資料を紹介して、ニュルンベルグ裁判の状況の一端を示した。たとえば、「アメリカ検察局の人員は総計1100トンの書類を調べた」(『アウシュヴィッツの争点』p.100)のである。この「人員」の正確な人数は記されてないのだが、「書類調べ」に動員されたのは、何万人もの軍隊そのものプラス、これも大量動員された法律専門家の一群だった。当然、これと同規模の「書類調べ」作業を個人が行うのは、絶対に不可能である。

 私の考えでは、プレサックが新発見であるかのように振りかざす図面は、「死体置場」(Leichenkeller)としか記されていないからというよりも、むしろ、そう記されていたが故にこそ、ニュルンベルグ裁判では、「これがガス室の証拠だ!」として提出されなかったのである。むしろ、不利な証拠になってしまうからである。そして、今も実は、冷静に検討しさえすれば、「ガス室」妄想患者たちにとっては、不利な証拠なのである。

 なぜ「不利な証拠」なのかということは、まず、犯罪捜査や訴訟の常識に戻って考え直さないと分からなくなる。そうしないと、思考の論理的過程が混乱する可能性がある。この混乱こそが、本連載の冒頭に述べたような「死体」の写真などの心理的影響による「ガス室問題」の特殊性である。だからこそ、1970年代になって、戦後の議論の過程を知った文書鑑定家のフォーリソンが、この特殊性に着目し、『ガス室問題』(le probleme des chambres a gaz)という問題の立て方をしたのである。

 フォーリソンは、ラッシニエの著作によって、ホロコースト見直し論者になった。ラッシニエは、戦後のニュルンベルグ裁判当時に「ガス室」は嘘だと主張し始めたレジスタンス勲章受賞者、社会党の下院議員だった。ラッシニエは今、「ホロコースト見直し論の父」と呼ばれているが、私は、フォーリソンを、日本流の表現で「ホロコースト見直し論の中興の祖」と位置付けている。ラッシニエは歴史学教授であった。フォーリソンは文書鑑定で博士号を取った元ソルボンヌ大学教授だった。両者に共通するのは、冷静で厳密な史料、資料、証拠、書証などの研究である。

「史料」などと、口でしゃべっても分からない業界隠語、符丁を、活字で偉そうに書き、ドイツ語をちりばめたりするのが、とてもお偉い教授、様、様、方の、素人騙しの常套手段の一つなのであるが、どう呼ぼうとも、ともかく「物証」、もっと分かりやすく言うと「物的証拠」にこそ、決定的な重要性があるのである。上記のビルケナウの「死体置場」(Leichenkeller)としか記されていない図面は、常識で考えれば、「ガス室」がなかったことを立証する「物的証拠」なのであり、むしろ、実地検証をまったくしなかったニュルンベルグ裁判の判決を覆す決定的な「新証拠」なのである。

 しかも、このプレサックの「ガス室」妄想ネタ「図面」には、デタラメ本の典型『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』が、その他の数多の「ガス室」妄想本と同様に、気付いていないのか隠しているのか、その経過は分からないが、さらに重大な事実が潜んでいるのである。ここで再び「換気扇」が登場するのだが、フォーリソン著『プレサックへの返答』の指摘によると、上記の「死体置場(Leichenkeller)の換気扇は、壁の下部に設置されているのである。これが「ガス室」なら、「殺人ガス」のはずの青酸ガスは空気より軽いから、換気扇は、普通の家庭の台所でガスコンロを使う場合と同様に、壁の上部に設置されていなければならないのである。それがまったく逆に、下部に設置されているので、そのために、プレサックは、途中で改造したという「新発明」を余儀なくされたのである。

 この「新発明」をめぐる事情も、以外に複雑なので、次回に繰り越す。

以上で(その13)終わり。(その14)に続く。


(その14) 「ガス室」裁判 判決全文 詳細目次 (その1)
(14、15、16は「ガス室」裁判判決文。
他に「訴状」「本人陳述書」「最終準備書面」などあり)

(その17)『偽イスラエル政治神話』の書評紹介と批判(1)

「ガス室」謀略
週刊『憎まれ愚痴』13号の目次