連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態 (その17)

『偽イスラエル政治神話』の書評紹介と批判(1)

1999.4.23

 この間、『偽イスラエル政治神話』の書評が2つ出たので、2度にわけて紹介し、評価と批判を加える。とりあえずのところ、表現はどうあれ、双方ともに「アラブ」による評価を無視し得ない点が面白い。この点だけは最初に評価しておく。

 両者に共通する点には、もう1つ、気取って、持って回り、曲がりくねり、「晦渋」を衒う文体である。これは、私よりも1世代以上は若い層の自称文化人の特徴の1つでもある。日本語というよりも、下手糞訳文の真似ごとである。

「巧言令色鮮(すく)なし仁」。言葉は巧みだが中身が無い例が多いことは、昔から知られていた。多くの場合、中身がないのを隠すために、表現を衒うのである。最近にも、ある女性が、ある男性を批判して、「あの人の持って回った言い方が一番不愉快。コンプレックスが透けて見える」と語っていた。さてさて、……。


『図書新聞』(1999.2.20)

ロジェ・ガロディ著 木村愛二訳
偽イスラエル政治神話
9.30刊四六判413頁 本体3800円 れんが書房新社

ロジェ・ガロディ『偽イスラエル政治神話』を読む

“歴史修正主義”の手法
問題の核心に迫る

杉村昌昭

出来事の記憶を未来に開かれた
文脈のなかで刷新しつづけること

 なべて記憶も持続も出来事に属しているが、記憶は単なる持続ではなくて、つねに刷新でなければならない。そうでないかぎり、記憶に依拠する過去の事実の生命力は朽ち果てていく。

 20世紀最大の出番事といってよいナチスによるユダヤ人大虐殺の記憶は、戦後一貫してさまざまなかたちで刷新されてきた。資料、映像、証言、理論的研究等々、それなりに時代状況に応じたナチスとファシズムについての考察を通して、この出来事は地球上に戦争の脅威が絶えないかぎり不可欠の参照経験として機能してきたのである。

 しかし、この2,30年、とりわけ80年代以降、一方で、目に見える戦争が局地的に分散化すると同時に、他方で、戦争を内在化させた日常が広くいきわたるという世界界的状況のなかで、ユダヤ人大虐殺の記憶はヨーロッパにおいても風化をとげはじめていた。

 つまり、同時代の出来との関係におけるその記憶の刷新が、大小さまざまな目前の事態に目をくらまされて困難を強いられるようになったのである。そして、そういう時期に符節を合わせたように、ユダヤ人大虐殺の事実をも“再考証”しようという“歴史修正主義”の流れがしだいに浮上し、今日にいたるまで議論を呼ぶところとなったのである。

 フランスでは、80年代初頭に物議をかもしたロベール・フォリソンの「ガス室存在否定論」から、最近この本の出版を告発されてフランス法廷で有罪判決を受けたロジェ・ガロディの主張にいたる展開がそのもっとも露出的な局面を体現している。

 わけても、このガロディの本は、キリスト者としての真摯な社会活動で知られるカトリック神父アべ・ピエールがガロディの友人として推薦者のひとりにくわわっていたことなどからもスキャンダルとなった。ことほどさように、この本はその内容もさることながら、戦時中のレジスタンス活動家から戦後共産党の大幹部へと、そして70年に共産党を除名されたあと独立活動家を任じながらカトリック進歩派の極左翼に接近し、さらに80年代にイスラム主義者へと転身した著者ガロディの数奇な足跡の着地点として大きな関心を集めたのである。しかし、私の見るところ、ガロディの政治的転身はそれほど意外なものではない。

 私事にわたって恐縮だが、私の翻訳活動家としてのデビュー作は、60年代の末に軍事クーデターで逮捕されたギリシャの作曲家ミキス・テオドラキスの獄中記『抵抗の日記』(河出書房新社刊)である。さて、そのテオドラキスがフランスへ脱出後の73年に続編として出版した『文化と政治的次元』という本(残念ながら未邦訳)にガロディがかなり長い序文を寄せていて、そのなかで彼はテオドラキスを援用しつつ共産党離脱後のみずからの政治的立場と世界認識を披歴している。

 個の自立を重んじる独立左翼としての立場を強調しながら、めざすべきは「各人の全面開化がすべての人の全面開化の条件であるような社会」というマルクスからの引用でしめくくられているこの序文は、反米(アメリカ民主主義)反ソ(ソ連官僚主義)主義者としてのガロディの立場を鮮明に示したものてある。その彼が、やがてソ連崩壊とアメリカによる一元的世界支配への流れが強まるという情勢変化のなかで、孤立した独立左翼としてのいささかのぶれをともないながら反米=反イスラエル(シオニズム)=親アラブという路線にむかっていったのは不思議でもなんでもないといえよう。

 だからこそ、少なからぬアラブの知識人がガロディに「いかれる」という付随現象も生じているのである(ちなみに、エドワード・サイードが昨年の『ル・モンド・ディプロマティック』8月号でこうしたアラブにおける親ガロディの傾向を批判的に論じている)。

 したがってこの本は本質的に反シオニズムの書といえるのだが、それを歴史的に補強する一環としてナチスによるユダヤ人大虐殺の「再考証」を「歴史修正主義的」な手法でおこなっているところがみそである。その手法の特徴は、大きな出来事の経験に必然的にともなう多様なトラウマの蓄積過程への洞察を欠いた単面的な「文書証拠主義」であり、またそれと表裏をなすさまざまな様相をもって現れる「非文書的証拠」の希釈である。

 こうした「修正主義」の手法は、すでに邦訳もあるピエ-ル・ヴィダル=ナケの本(『記憶の暗殺者たち』、人文書院刊)によって痛烈に批判されているのだが、それに対するガロディの反批判(私はそれを期侍して読んだのだが)はこの本のなかに皆無である。そして、この「いきちがい」、この「すれちがい」か、この論争ならざる論争の最近の不毛な生産性を象徴しているように思われる。

 しかし、紙幅の都合もありここでは示唆するだけにとどめるけれども、読者はこの2著を合わせ読むことによって、出来事の記憶の仕方しだいで、過去は死にもすれば生きもするというこの問題の核心に迫る手がかりを得られることはたしかであろう。

 一言だけ付言するなら、歴史の創造的主体としてのわれわれに課せられた仕事は、出来事の記憶をつねに現時点において未来に開かれ文脈のなかで刷新しつづけることである。そして、その刷新の仕方の創造性の質が、過去の事実のもつ生命力を保証するとともにその価値評価を決する試金石となるのである。また、そういう前提があってこそ、記憶の刷新から未来の創設へという新たな展望も開かれてくるのではないだろか。むろんこの程度のことはガロディにも十分わかっでいるはずなのだが・…(館谷大学教員)


 まずは、ひとつだけ、基本的な「すれちがい」だけを指摘して置くと、この書評では、「こうした『修正主義』の手法は、すでに邦訳もあるピエ-ル・ヴィダル=ナケの本(『記憶の暗殺者たち』、人文書院刊)によって痛烈に批判されているのだが、それに対するガロディの反批判(私はそれを期侍して読んだのだが)はこの本のなかに皆無である。そして、この『いきちがい』、この『すれちがい』か、この論争ならざる論争の最近の不毛な生産性を象徴しているように思われる」としているのだが、『偽イスラエル政治神話』には、以下の痛烈なヴィダル=ナケらに対する批判がある。『記憶の暗殺者たち』は、この同じ主張に貫かれる「言論弾圧」思想の発露以外の何物でもないのである。


『偽イスラエル政治神話』(p.151-152)

[再検証を禁止し議論を拒否する歴史家たちの論理]

 これだけのことが明らかになっても、ヴィダル=ナケとレオン・ポリアコフの煽動に乗って、つぎのような声明に署名した他の歴史家たちがいる。

《……どうしてあのような大量虐殺が技術的に可能だったかということを、われわれは自分自身に問い掛けてはならない。それは実際にあったことなのだから、技術的に可能だったのである。このようなことが、この問題の歴史的な探索に関しての義務的な出発点である。われわれには、この真実を単純に訴える義務がある。》
[34名の歴史家の連名発表『ル・モンド』79.2.21]

 ……われわれは自分自身に問い掛けてはならない

 ……義務的な出発点

 ……議論をしてはならない

 3つの禁止、3つのタブー、調査に対する3つの決定的な制限。

 このような文書は、歴史の歴史の中で、まったく歴史的な画期を刻印する。ここでは、証明されなければならない事実が、すべての調査、すべての批判より以前に、勝利の直後に勝利者によって1度だけ行われた決定に関するすべての調査と、すべての批判に対しての、3つの強制的な取り消しの権限を持つ絶対的な真実および触れてはならない禁止事項であるかのように、主張されているのである。

 しかし、歴史は、もしもそれが科学的基準に適うという評価を望むのであれば、絶えざる調査と、ユークリッドの公理やニュートンの法則のように、決定的な確立が信じられている問題に関してさえも、現に行われているような再検証を必要とするものなのである。


 問題のピエ-ル・ヴィダル=ナケの本『記憶の暗殺者たち』は今、私の手元にある。これも、上記の書評と同様の曲がりくねった「晦渋」を衒う最近の若者特有の訳文なので、まるで読む気にはならないが、以下、その「序言」の最後の締め括りだけを紹介する。


[前略]私は次のような自分なりの規則を立てることにした。すなわち、「歴史修正主義者たち」について議論することはできるし、かつまた、そうしなければならない。嘘を解剖するように彼らのテクストを分析することができる。諸々のイデオロギーが配置されている図柄の中に占める彼ら独自の位置を分析し、彼らが何故、どのようにして現れたかを自問することができるし、かつまた、そうしなければならないが、「歴史修正主義者たち」を相手に議論はしない。「歴史修正主義者たち」がネオ・ナチスの変種に属するのか、それとも、ウルトラ左翼の変種に属するのか、心理学の面からいって彼らが信用のおけない連中の変種、倒錯者の変種、パラノイア患者の変種に所属するのか、それとも、ただ単に馬鹿な連中の変種に所属するのか、そういったことは私にはほとんどどうでもよい。私には彼らに答えるべきことが何もないし、彼らに答えるつもりもない。そのためにこそ、知的首尾一貫性があるのだ。


 この気取ったというべきか、論理的ごまかしに終始しているというべきか、要するに前述の「34名の歴史家の連名発表」そのままに他ならない文章は、結局のところ、「ガス室の存在に関しての議論は存在したことがないし、議論をしてはならないのである」という声明の表現を変えた繰り返しでしかない。気取っているだけで無意味な文句を取り除けば、「ネオ・ナチスの変種」「ウルトラ左翼の変種」「信用のおけない連中の変種、倒錯者の変種、パラノイア患者の変種」「ただ単に馬鹿な連中の変種」と言う本多勝一並の下手糞低俗な罵詈雑言以外の何物でもない。

 こういう本に「いかれる」水準の連中が「大学教員」の肩書きで書評専門紙の記事を書くのだから、これからもますます頭のおかしい若者が増えるばかりであろう。ああ、嘆かわしい。

以上で(その17)終わり。(その18)に続く。


(その18) 『偽イスラエル政治神話』の書評紹介と批判(2)

「ガス室」謀略
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