連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態 (その25)

紙背貫徹で読むポーランド本丸陥落寸前状況

2000.2.4

「ガス室の嘘」、または「シオニスト『ガス室』謀略」の「本丸」陥落が、いよいよ間近かに迫ったか、と思わせる実に興味深い情報が出現しました。

 ポーランドを「本丸」に位置付ける理由は簡単です。現在、最先端の「ガス室」論争は、ポーランドのアウシュヴィッツ第2収容所、ビルケナウの崩れた煉瓦造りの建物跡に集中しています。最早、それ以外の場所に関する説は、すべて完全に崩壊しているのです。

 そのポーランドで、あえて再びその場所の意味を強調するならば、ユダヤ人殲滅を目的とする大量虐殺用の「ガス室」の、唯一の「現地」として残されていたポーランドで、ついに、私の5年前の予感の通りの事態が起きたらしいのです。「ガス室は嘘」と主張する主旨の大学の歴史学博士の論文が発表され、しかも、その行為が既存の、いわゆる「アウシュヴィッツの嘘・取り締り」刑法に触れるにもかかわらず、「不起訴」となる事態にまで発展したようなのです。

 しかも、この情報を最初に得たルートが、これまた、実に面白いのです。その経過はかなり複雑なので、詳しい論評は別途記事、「見直し論の現状」、

の方に、まとめてHPに入力しますが、簡単に言うと、いわゆる敵方の情報の「行間を読む」とか、「眼光紙背に徹する」と言う情報の読み取り方の、実に簡単な典型なのです。しかし、その情報収集の経過を紹介する前に、まずは、上記の「私の5年前の予感」を覚えた事情を説明します。

 ポーランドを私が訪れたのは、今から5年以上も前の1994年12月でした。私としてはギリギリ捻出の大枚、20万円也をはたいての貧乏旅行の目的は、今やポーランドのアウシュヴィッツとマイダネクにしか残存しない観光名所の「ガス室」の実物を、直接、自分の目で検分することでした。この取材旅行におけるポーランドの研究者との接触の概略については、次の頁、

 に、拙著『アウシュヴィッツの争点』の一部(p.239-249)を転載し、若干、書き加えておきますので、ご参照下さい。そこには、いくつかの興味深い「予感」を記してあります。確実に言えることは、ポーランドの研究者たちの対応振りです。彼らは一様に、私が「ガス室の嘘」論を前提に質問をしても、決して反発はしなかったのです。

 次には、私が最新のポーランド情報について、上記のように「敵方の情報」の中から、それを「眼光紙背に徹する」読み方で読み、必要な事実らしきものを取り出したメカニズムについて、日本人にも分かり易い例を示して置きましょう。それも、私の幼少期の実体験の記録から出発します。具体例で説明すれば、実に簡単明瞭な秘訣だからです。

 私は、そのころの正式名称では「大日本帝国」が、第二次世界大戦の敗北を渋々認め、無条件降伏の受諾を通告した時、まだ8歳の少年でした。1945年8月15日には、北京の日本人専用の国民学校3年生として、なぜか薄暗かった記憶の講堂で、「整列!」、「前へ習え!」、「気を付け!」、直立不動の姿勢でビッシリ、整然と並び、「あの奇妙な声」の、何を言っているのか全く分からない、雑音まじりのラディオ放送を聞きました。その光景の映像記憶は、その後に何度か聞き、敗戦の「詔書」の印刷の実物を読んだりした記憶と一緒になって、おそらくは編集し直され、私の脳の新皮質に蓄えられています。

 そこから少し時計の針を戻しますと、戦争中の日本人は、中国の抗日運動の参加者を「匪賊」と呼んでいました。「匪賊」とは、手元の安物辞書によりますと「集団的に略奪を行う賊」のことです。最後に中国の覇権を握る中国共産党のことは、「共匪」と呼んでいました。

 私の家族が北京で住んでいたのは、父親の勤務先のセメント会社の社宅で、中国人の大富豪の屋敷を接収したもののようでした。まるで小さな要塞のような屋敷の中に、いくつもの独立家屋があり、日本人の数家族が入っていました。周囲に巡らされた煉瓦造りの厚い塀の上には、尖った太い針がビッシリと植え込まれていました。

 当時は「隣組」指導の時代でしたから、多分、隣組の組長さんだったのでしょう、「退役下軍曹」とか聞き及んでいた目付きの鋭いオジサン(以下、仮に「組長」)が、とてもとても張り切っていて、その「組長」の指揮下に防空壕に入る訓練なども経験しました。記憶に残る当時の映像を検索し直してみると、「組長」は、かなりオッチョコチョイの「おにいちゃん」程度の人だったようです。

 門番は中国人でした。我が家にも「お手伝い」の「クーニャン」と呼ばれる若い中国人の女性がいました。時折、中庭で集会が開かれ、「組長」が一生懸命に演説していましたが、これもまるで意味が分かりませんでした。以下は、この状況下での仮定的「情報」伝達状況です。

「組長」:ギンギンに張り切って、北支那派遣軍の司令部あたりから聞きかじってきたらしい最新情報、「匪賊と密通する不逞なる支那人の動向」について、つぎのように胸を反らして演説したとします。言葉は、少し当時風、少し現代風にします。

「組長」曰く:「北京大学の中国人歴史学教授が、密かに匪賊と通じ、わが皇軍を誹謗中傷する文書を、大学構内で学生に配布したことが内部通報により判明し、憲兵隊が直ちに逮捕に赴いたところ、すでに逃亡していたので、目下、捜索中である。今後、近辺で不審な者を見掛けたら、直ちに報告されたい」

 この「組長」情報を、普段は日本語が分からないふりをしていた中国人の門番か「クーニャン」が聞き、密かに「匪賊」に伝えたとします。「匪賊」は、某「教授」の勇敢なる抗日闘争への決起と、無事脱出を知って喜ぶでしょう。「内部通報」とあったので、即刻、北京大学の同志には「スパイに要注意!」の警報を発するでしょう。言うまでもなく、この「組長」情報の正解は、当然も当然のコンコンチキ、日本軍の暴虐なる侵略に対して密かに抵抗してきた中国人の教授が、身の危険をも省みず、中国人学生に抵抗運動への参加を呼び掛け、逮捕寸前に無事脱出したということなのです。

 はい、はい、では、では、後に紹介する現代日本の「組長」様々の悲憤に満ちたmailの紙背を、上記のように逆の立場から読むと、ついに、「『ガス室』観光名所」が残る唯一の国、ポーランドの足下に火が付いたらしいのです。ポーランド人は長い間、あの極右「偽」イスラエルを支配する政治的シオニストが、アウシュヴィッツ収容所跡を、あたかもかつての日本の靖国神社のように利用し、修学旅行の「偽」イスラエルの子供たちに愛国心を叩き込むべく、イスラエル国家を斉唱させながら、行進して入場させる風景を、永年、苦々しくは思いつつも、東西冷戦のはざまの小国ゆえの悲しさ、ただただ耐え抜いてきたのでした。

 しかしついにここでも決起が始まったのです。ポーランド人から見れば、戦勝大国による猿芝居、ニュルンベルグ裁判の「判決」と称する「大嘘」が覆えるのは、実は、これで二度目になるのです。一度目は「カチンの森のポーランド人将校大虐殺」でした。ニュルンベルグ裁判では、この大虐殺がナチスドイツの仕業として判定されていました。しかし、その判決の直後から、あれはソ連の仕業だという主張が、何と、ニュルンベルグ裁判の主導権を握っていたアメリカで、議会の調査委員会の名で発表されていました。いわゆる「冷戦」状況下でのことでした。

 この「カチンの森」についても、すでに拙著『アウシュヴィッツの争点』(p.46-47) と拙訳『偽イスラエル政治神話』(p.146-147) に記しましたが、次の頁にまとめますので、ご参照下さい。

 ではでは、以下が、上記の現代版「組長」情報の主要部分です。公開mailで、しかもそのmailが発表されたamlMLのホームページにも掲載され、一般公開され続けているものなのですから、転載は自由なのですが、実は私に対して挑発的発言を続けてきたその発信者の思い込みが、あまりにも愚かしくて気の毒なので、ここでは発信者の氏名は省略し、検索用の記号のみとします。


[aml 15927](2000.1.19)aml-HP: http://www.jca.apc.org/aml/

ラタイチャク事件

Gazeta Wyborcza, Historyk oskarzony, z dnia 1 czerwca 1999, str. 6.
『ガゼータ・ヴィボルチャ』
「告発された歴史家」1999年6月1日号6面
Krzysztof Grybos'(クシシュトフ・グルィボシ)

裁判にかかるアウシュヴィッツ[オシフィェンチム]の嘘

 オポーレ[ドイツ語形はオペルン、シレジアの都市]検察局は、昨日[5月31日]オポーレ大学の歴史家であるダリウシ・ラタイチャク(Dariusz Ratajczak)博士を、ナチス犯罪に対する否定の罪で告発した。

 告発は「国民記憶研究所」(Instytut Pamieci Narodowej)に関する法律の第55条に基づいている。告発状は次のように述べている。すなわち:ラタイチャクが「1999年3月、オポーレで公的にそして事実に反して、第二次大戦におけるユダヤの民族性を持つ人々に対する犯罪(zbrodnie)を、『危険な論題』(Niebezpieczne Tematy)という文書を刊行しかつ頒布するというやり方で否定した。この書物で彼は、ツィクロンBは人を殺すために用いられたのではなく、ただ消毒のためにのみ用いられたと主張することにより、オシフィェンチム[アウシュヴィッツ]とマィダネクでの虐殺収容所でのユダヤ人の大量虐殺を否定している。

『危険な論題』で、ラタイチャクは、自分自身の見解を織り交ぜながら、いわゆるホロコースト修正主義者の見解をまとめている。この本の著者は、自費出版で350部を刊行しそしてそれを知り合いや学生そして大学の書籍部で頒布した。

 この本については、オシフィェンチムのホロコースト記念館の館長がオポーレ大学の学長に対する手紙の中で反対を表明したとき、騒ぎとなった。ラタイチャクは講師としての資格を停止され、大学では彼の問題に関して懲罰手続がとられている。ラタイチャクは罪を認めておらず、説明を行うことを拒否している。彼は罰金または最高3年の禁固が課せられるおそれがある。さらに裁判所は判決を公に告知することを義務付けられている。

この記事に関するGazetaの同日の新聞での解説
マレク・ノヴィツキ(Marek Nowicki)/ヘルシンキ人権基金会長

 地球は平面であるとか、亀の甲羅に乗っているであるとか確信している人間は、物理学を教えてはならない。そして、ホロコーストを疑問視する人間が歴史を教えてならないのも同様である。しかしこういった見解を罰する意味が私にはわからない。かりにオシフィェンチムの嘘を罰することが、ファシズムを経験したドイツで必要であったとしても、収容所で犯された犯罪についての意識が一般的でありかつ多くの実際に体験した証人が生存しているポーランドでは必要ではないだろう。明らかに馬鹿げた確信に対する刑罰は、ただ単に見解の表明の自由が憲法において保証されていることに対して疑わしいのみならず、また司法制度の尊厳と権威を危うくしうるものでもある。なぜなら、あたかも地球が平らであることであることとか、ワルシャワでは蜂起がなかったということを確信していることを罰するかのようなところもややあるからである。

 結局、ラタイチャクは不起訴になったようです。
[中略]
 ポーランドでもラタイチャク事件のようなことが起きるところに、この問題の深刻さが現れています。


 さて、このように、いわゆる「絶滅収容所」の地元、ポーランドでも、ついに噴き出し始めた「ホロコースト見直し論」には、いかなる言論上の位置が保障されているのでしょうか。基本的な範疇を求めれば、その多くが支配層の御用学問、神話である可能性が高い「歴史」の通説に異を唱え、それを実証的研究によって覆そうとする努力の一つなのでして、本来ならば、当然、「オルタナティヴ」などと標榜する「市民運動向け」amlMLの花形として、歓迎されてしかるべき位置付けの議論なのですが、いやはや、どの世界でも、その美名に掲げる「本来」の建て前は、もともと正確に理論化もされておらず、場当たりのご都合主義に揺れ動き、なかなか守られないものなのです。

 それどころか、amlMLにおける私の「ガス室の嘘」論には、別途記事、「見直し論の現状」、

 http://www.jca.apc.org/~altmedka/review-1.html

に記します。昨年来、様々な妨害の果てに、本年、2000年1月中旬、私の長期にわたる投稿を、まとめて「返品」するという不気味な予告付きの大量長文mailという、mail爆弾を投げ付けられ、mailソフトの崩壊から、ノート型パソコンMac-PowerBook損傷、使用不可能に至る事態さえ生じました。この新たな反撃の頁は、1月27日に届いたばかりのiMacによる初荷です。

 それでも、まだ、まだ、遥かに想えば、かの野蛮極まる辺境のヨーロッパの中世末期に、それより数千年紀以前の古代エジプト人がすでに気付いていたらしく、その後のアラビア科学の一部でもあった地動説の、翻訳受け売りによる提唱者たちが受けたような「受難」「受苦」に較べれば、私が受けた「mail爆弾」などは、とてもとても軽い「マゾ体験」でしかなく、まことにもって、先人には申し訳ないような気持ちで一杯なのです。

以上で(その25)終わり。(その26)に続く。