連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態(その12)

『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』:ティル・バスティアン(著)、石田勇治、星乃治彦、芝野由和 編訳(日本版1995/11)

『アウシュヴィッツの嘘』:元ドイツ軍の中尉、ティエス・クリストファーセンが1973年に発表した短い回想録の題名。参照➡『アウシュヴィッツの嘘』の内容をなぜ正確に報道しないのか

『ガス室』妄想ネタ本コテンパン(換気扇編1)

1999.3.19 1999.3.22.一部ミスプリ訂正。

 これまで3回にわたって、『ガス室』妄想ネタ本『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』の「ガス室」に関する記述のカラクリを追及してきた。それでもなお語り切れないのであるが、それは、ひとえに、この「ガス室」こそが、拙著『アウシュヴィッツの争点』では「核心的争点」と表現したように、中心的かつ複雑な問題点だからである。

 そこで、いくつかの問題点については、また再び項目を立てて論ずることにして、「ガス室」の構造に関わる問題点の一つ、換気扇についてだけ、簡略に片付けて置きたい。これだけでも2回は必要となる。事実そのものは簡単なのだが、それほどに作られた嘘の数が多いのである。

 さて、デタラメ本の典型『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』の冒頭に配された「編著者まえがき」(p.7)は、つぎの文句で始まっている。


 雑誌『マルコポーロ』1995年2月号に掲載された「戦後世界最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」という記事をご存じだろうか。


 ところが、すでに指摘したように、『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』の中の原著の部分は、100頁そこそこのパンフレット程度でもあるし、上記『マルコポーロ』記事で提出されていた数々の疑問には、ほとんど答え切れない内容のシロモノだった。その一つが、「ガス室」の「換気扇」の問題である。そこで、「編著者代表」と名乗る石田勇治が、でしゃばって、「日本版〈アウシュヴィッツの嘘〉」(p.141-152)と題する再録雑誌記事の中で、つぎのように(p.146-147)補っている。


 アウシュヴィッツに展示されるガス室は「処刑用ガス室に必要な構造、特徴」を備えておらず、「全く科学的ではなく」、戦後の共産主義政権の「提造である」

 ……これが西岡氏の2つ目の論点である。具体的には、窓を取り付ける穴や換気扇をつける場所がそこにはないこと、また気密性が低く、青酸ガスで内部を充満させた場含、外部にガスがもれたであろうこと、さらに「ガス室の内部のどこにも青酸の沈着を示す青いシミは見られない」ことなどを指摘している。

 西岡氏の主観的意図はともかく、こうした主張は欧米の修正派だけでなくドイッのネオ・ナチが好んで用いる言説と同じである。アウシュヴィッッ収容所に関する史料の多くが戦後ソ連に押収・封印され、そのために生じた研究上の間隙を、彼らは巧みに衝きながらセンセーショナルな論議を展開してきた。しかし、ソ連解体後、史料状況は一変した。彼らがつけいる隙はほぼ完全に埋まったと言えるだろう。多くの歴史研究者が、いまや自由に利用可能となったモスクワ国立中央特別文書館の関係史料にもとづく本格的な研究を展開しているのである。

 その一人、フランスの研究者ジャン=クロード・プレサックは、初めて日の目を見た膨大な史料との格闘の末『アウシュヴィッツの焼却棟・大量殺裁の技術』(Die Krematorien von Auschwitz. Die Technik des Massenmordes 初版パリ1993年、ドイツ語版ミュンヒェン1994年)を発表し、展示されている焼却棟(このなかに、間題のガス室と焼却炉がある)を含むすべての処刑施設の建設工程、ガス殺に関する「技術革新」の詳細を明らかにした。とくに同書が示すアウシュヴィッツ収容所建設本部の文書史料(帝国保安本部宛報告書、建設計画書、設計・施工企業の送り状、図面、作業目誌、請求書等)を検討する限り、西岡氏の議論に勝ち目はない。

 例えば、「換気扇がない」とされたガス室は、もともと焼却棟内の死体置き場であったが、そのころに使われていた換気装置が、ガス室に改造された後もそのまま使用されていたことを、1942年夏の煙突改修工事の図面が証明している。そもそも換気装置が死体置き場にあったため、そこがガス室に改造されたのである(プレサック、ドイツ語版42ぺージ)。

 1943年以降、アウシュヴィッツのユダヤ人虐殺の主な現場は、隣接の大規模なビルケナウ(アウシュヴィッツ第2)収容所へと移行するが、そこに建設されたガス室にはトプフ・ウント・ゼーネ社製、排気圧8000立方米/時の電動換気装置が取り付けられていることが、1943年3月の同社作業日誌と施工図面から明らかである。ホロコースト見直し論者は、こうした数多くの新史料にどんな反証を寄せるのであろうか。


 以上の内、最初の段落の最後、「気密性が低く、青酸ガスで内部を充満させた場含、外部にガスがもれたであろうこと、さらに『ガス室の内部のどこにも青酸の沈着を示す青いシミは見られない』こと」という部分に関しては、すでに『ロイヒター報告』の法医学鑑定を紹介したが、この件は、また別途、項目を立てて詳しく論じ直す。とりあえずここでは、石田自身が、この部分の疑問には答えていないという事実だけを指摘して置く。

 さて、石田は、以上の引用部分の最後に、いかにも自信たっぷりな調子で、「ホロコースト見直し論者は、こうした数多くの新史料にどんな反証を寄せるのであろうか」などと見栄を切っている。ところが、石田がドイツ語訳しか示し得ない上記プレサックのフランス語の著作については、すでに紹介したフォーリソン、マットーニョなどが、完膚無きまでに論じ尽くしているのである。私の手元にも、それらの原著があるが、石田が下手くそな揚げ足取りを狙った相手の西岡も、当然ながら、それらの資料を事前に読んでいた。西岡の知識のほどに関しては『アウシュヴィッツ/「ガス室」の真実』(日新報道、1997)を参照されたい。石田の揚げ足取りは、まるで見当違いであり、その上に、この部分のテーマの「換気扇」に関する論争の経過を知らないのか、または、ごまかしているのか、どちらにしても噴飯物でしかないのである。

 細部の追及以前に、まずは、比較検討のために、『マルコポーロ』(1995.2)「戦後世界最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」記事そのものから、換気扇に関わる部分(p.176)のみを引用する


「ガス室」の「実物」とされるものはアウシュヴィッツとマイダネックにしかないのだが、実はそれら「ガス室」というコメント付きでポーランド当局が展示している部屋は、処刑用ガス室に必要な構造、特徴を全く備えていないのである。

 例えば、今日アウシュヴィッツに展示されているあの有名な「ガス室」は、半地下式の「ガス室」で、すぐ隣に四つの焼却炉を持つ「焼却室」が併設されている。というよりも、そのような半地下室をポーランドの共産主義政権が、戦後「ガス室」として展示してきたのである。この部屋が仮りに説明されている通リ、殺人用ガス室だっだと仮定してみよう。

 すると、まず、この「ガス室」には窓がないことに気付く。窓というより、窓を取付ける穴が何処にも開けられていないのである。窓そのものは、処刑用ガス室にとって必要とはいえないが、窓を取付ける穴が一つもないということほ、換気扇を付ける場所がないということである。

 処刑用ガス室においては、一回処刑が終わるたびに換気をしなけれぱならない。換気をしなければ、次の犠牲者たちを「シャワーだ」とだまして「ガス室」に入れることは出未ないのだから、これはガス室にとって必要欠くべからざる機能なのである。しかし、そのために必要な換気扇を付ける場所が、アウシュヴィッツの「ガス室」にはない

 アウシユヴィッツの「ガス室」で使用されたことになっている「毒ガス」は青酸ガスだが、青酸ガスの物理的性質の一つに、壁や天井に吸着しやすいというやっかいな性質があり、例えば倉庫などで青酸ガスによる殺虫作業を行なった場合、自然の通風では、殺虫作業後の換気に二十時間前後を要したとされている。

 とすれば、アウシュヴィッツの「あの部屋」が「ガス室」だった場合、換気扇がないのだから、出入口または天井の小穴(そこから青酸ガスが投げ込まれたことになっている)から換気したとして、一日に一回しか「ガス室」での処刑は行なえなかった筈である(何という非効率的な「民族絶滅」だろうか?)。


 西岡だけではなくて、私も拙著『アウシュヴィッツの争点』で同じような方法を取ったのだが、西岡は、上記のプレサックらの説の存在は十分承知の上で、しかし、実情を知らない読者向けに「ガス室」の初歩的な問題点を論じているのである。西岡が「『ガス室』というコメント付きでポーランド当局が展示している部屋」と表現するのは、あくまでも、アウシュヴィッツに行けば必ず見せられる「現存の状態の部屋」のことであって、その部屋の歴史を語ろうとしているのではない。これを題材として「ガス室」物語を始めているのである。この「現存の状態の部屋」は、「処刑用ガス室に必要な構造、特徴を全く備えていない」のであるが、「この部屋が仮りに説明されている通リ、殺人用ガス室だっだと仮定してみよう」という書き出しで、いわゆる「ガス室」に関する疑問を展開しているのある。

 それに対して、石田は、揚げ足取りにために、いきなり大袈裟に、プレサックが「初めて日の目を見た膨大な史料との格闘の末」、決定的史料を発見したかのように騒ぎ立て、「死体置き場であったが、そのころに使われていた換気装置が、ガス室に改造された後もそのまま使用されていたことを、1942年夏の煙突改修工事の図面が証明している」と言い切るのだが、その図面には、なんと、ここでもまた、「ガス室」とは書かれていないのである。フランス語の原著には平面見取り図が4つあるが、最初の1つだけにドイツ語でLeichenraum(死体部屋)とあり、あとの3つではフランス語のMorgue(死体置場)になっている。これが「ガス室に改造された」というのは、「説」でしかないのである。

 しかも、この「改造」説とか、「1942年夏の煙突改修工事の図面」とかが議論の材料に持ち出されたのは、上記の西岡記事のような数々の疑問が提出され、博物館当局が弁解に窮して以後のことである。言わば2段構えの嘘でしかないのである。私は、『マルコポーロ』廃刊決定発表の記者会見で、出たばかりのフランスの名門週刊誌、『レクスプレス』の国際版(1995.1.26)を振り上げて、フランスではホロコースト見直し論に反対の立場のエリック・コナンが「アウシュヴィッツ・メインキャンプのガス室をだと書いている」ことなどを紹介した。「嘘」の原語はfouだが、この日本語訳には「デッチ上げ」も入っている。コナンは、そこで、博物館の従来の説明、「生き残りの記憶に基づく再現」を記しているのだが、その「記憶」には、どうして「換気扇」が入っていなかったのだろうか。コナンは同時に、以上の「嘘」の暴露に関して、ホロコースト見直し論者で自分の終生の敵、フォーリソンの業績を認めざるを得ず、つぎのように記していた

 1970年代の終りには、ロベール・フォーリソンが、この変造を見破って、博物館の責任者たちを渋々ながら事実を認めざるを得ない立場に追い込んだ。

(p.41.以下の原文はaccent略)

A la fin des annees 70, Robert Faurisson exploita d'autant meiux ces falsifications que les responsables du musee rechignaiet alors a les reconnaitre.

 フォーリソンは『ジャン=クロード・プレサックへの返答』の注26で、認めた博物館の責任者の名前をイアン・マケレク、日付を1976年3月17日(p.77)と記している。石田は、2,3冊のデタラメ本で鼻血ブーとなったり、偉そうに見直し論者に挑む前に、まずは、ホロコースト見直し論に「反対の立場」のエリック・コナンに弟子入りして、自分がいかに時代遅れのデマゴーグであるかに気付き、大いに恥じ入るべきであろう。

以上で(その12)終わり。(その13)に続く。