連載:シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態(その62)

水晶の夜[Kristallnacht]にユダヤ人移住促進目的のシオニスト謀略の疑い

2001.3.1

 私は、2001年3月28日出発、3月31日から4月3日の4日間、ベイルートで開かれる画期的な人類史上初の「見直し論とシオニズム」に参加する予定だった。

 現地との往復には、一番安いのは確実で、一番危険との噂しきりのロシア国営アエロフロートに乗ることでもあり、それを口実にして、これまた「ホロコースト見直し論」の中でも一番危険な匂いが立ち込める「水晶の夜」シオニスト謀略説を、まさかの際の「遺言」と称して、インターネット空間に放ってから、出掛けることにしたのだが、肝心の会議がアメリカの国務省まで動員した妨害で中止された。

 だららといって、ここで引くわけにもいかない。断固、中止圧力への抗議の第一弾として、これを放つ。

水晶の夜(1938)ナチ・ボグロム説を疑うゲッベルズの秘書

 この件を私が知ったのは、『アウシュヴィッツの争点』(1995.6.26)の出版以前だから、もう6年も前のことになる。同書の参考文献リストでは、「日本語訳がない外国語の単行本(日本語題名は本書で仮につけたもの)」の中に、次のように明記したが、誰も、このことでは、私を非難していない。実物を見てもいないのだろう。

『引火点/水晶の夜 1938 /扇動者・犠牲者・受益者』(イングリット・ベッカート、歴史見直し研究所、1991) [Flash Point: Kristallnacht 1938, Insitigators, Victims and Beneficiaries. Ingrid Weckert, Institute for Historical Review, 1991]

 イングリット・ベッカートは、第二次世界大戦の最後の2年間、10代の学生の身分のままゲッベルズの日記の刊行のために秘書を務め、事実上、報道の窓口ともなっていた。つまりは、ナチの宣伝相だったゲッベルズの晩年の2年間、ほとんど行動をともにしていたのである。私が持っている彼女の著書は、上記のごとく英語版で、私自身が直接、1994年末に訪れたアメリカのロサンゼルス郊外にある歴史見直し研究所が、1991年に発行したものである。同研究所で私が買い求め、本物の登山用リックサックに詰めて持ち返った膨大な資料の中に、本文が180頁の同書もあった。

 しかし、それ以前にも、同書のコピーを、『マルコポーロ』廃刊事件の渦中の人、西岡昌紀からの郵送で受け取って、走り読みしていた。ドイツ語の原著に関する情報はない。ドイツ国内では刑事犯罪となる内容だから、もしかすると、最初から英語版で出したのかもしれない。

 西岡昌紀とも、『アウシュヴィッツの争点』の発表以前に、この件について話し合ったことがある。当時は、双方ともに、わが身に降り掛かる火の粉を払うのが精一杯だったこともあるが、このベッカートの本以外には同じ見解の資料が見当たらなかったので、とりあえず留保していた。それから、あっと言う間に、6年が過ぎてしまった。

 ベッカートは、編集者の紹介文によると、戦後、高等学校(Gymnasium)を卒業して、スイスでユダヤ教を含む神学を学び、イスラエルに渡ってイスラエルの歴史への認識を深め、図書司となり、その後、歴史研究と著述に転じており、1991年現在は、ミュンヘン在住だった。

 内容の紹介は、以下、拙訳『偽イスラエル政治神話』の中から、関係箇所の抜粋を引用し、その後に、再び立ち戻ることにする。

ロジェ・ガロディは水晶の夜を疑っていなかった

 私は同書の「訳者解説」[p.348]の冒頭に、次のように記した。

「本書の数多い主張の中には、まだまだ複雑な問題が潜んでいるが、ここでは四点についてだけ、補足をして置きたい」

 この「四点」には、「水晶の夜」は含まれていない。「まだまだ複雑な問題が潜んでいる」という微妙な表現をしたのは、特に、この問題を意識していたからである。というのは、なぜか、『偽イスラエル政治神話』の原著者、ロジェ・ガロディは、水晶の夜を疑っていなかったからである。そのガロディとも、ベイルートで会えるはずである。彼は、主要な発言者として、広くその名前が発表されているのである。私は彼とパリ地裁で会ったが、その時は、詳しい話をする時間がなかった。今度は、泊まり込みの会議だから、少しは突っ込んだ話もできるだろう[2001.3.27.追記:会議の中止で未遂に終わった]

 以下、同書の改訂版に追加された「結論」の中から、関係箇所[p.329-331]のみを抜粋する。


 差別政策は、一九三八年の水晶の夜を、以後の口実として、さらに野蛮さを加えた。

 一九三八年一一月七日、パリ大使館の顧問、フォン・ラトが、グリンスパンという名の若いユダヤ人によって暗殺された。

 この事件は、ナチの新聞で交響曲よろしく一斉に報道された。一一月九日夜から一〇日に掛けて、本物のユダヤ人追放の暴動が荒れ狂い、彼らの商店は襲われ、掠奪され、ショーウィンドーが破壊された。水晶の夜の呼び名は、割れたガラスのイメージからきたものである。

 結果は陰惨だった。《八一五の商店、一七一の住居、二七六のユダヤ教会堂、それ以外に一四のユダヤ人社会の記念物が襲われ、破壊された。二万人のユダヤ人、七人のアーリア人、三人の外国人が逮捕され、三六人が死に、三六人が負傷した》(ニュルンベルグ裁判記録・ゲーリング以下、これを提出された被告が、すべて真正と認めた一九三八年一一月一一日付けのハイトリッヒからゲーリング宛ての報告書)

 この事件は、激情に駆られたドイツ人の民衆の暴動ではなくて、ナチ党が組織したポグロムであった。その証拠となるのは、調査を依頼された国家社会主義党の最高裁判事、ヴァルター・ブッフの報告(ニュルンベルグ裁判記録)である。彼は、一九三八年一一月一一日以後に逮捕された一七四人の党員の裁判を担当していたが、それらの党員たちは、ハイトリッヒの命令を受けてポグロムを組織し、参加していたのだった。

 しかし、この一七四人の党員の中には、下級幹部しかいなかった。

 政府と総統本人は、関与を否定した。犯罪を認めた例外はゲッベルスだけだった。しかし、命令が“最上部”から出たという仮説を排除することはできない。ゲーリングが直ちに、つぎのような三つの差別拡大の命令を出しているので、なおさら、この疑惑は強まる。

 第一に、ドイツのユダヤ人に、総額で一〇億マルクの罰金支払いを課した(ニュルンベルグ裁判記録)。

 第二に、ユダヤ人をドイツの経済的職業から排除した(同前)。

 第三に、水晶の夜の事件で起きた被害に関して、保険会社が被害当事者に支払うべき保証費用を、被害当事者にではなくて、政府に収めるように決定した(同前)。

 衝撃的な問題点は、このようなドイツのユダヤ人に対する圧迫に用いられた口実と、その仕打ちが、パレスチナのアラブ人に対してイスラエルが行っていることと、いかにも類似していることである。


 イスラエルの新しい歴史家ツィンメルマンも同様だった。

 次は、やはり同書の改訂版に追加された「付録:イスラエルの“新しい歴史家たち”」[p.341]の中の、ヘブライ大学教授、ツィンメルマンの発言の一部である。


 水晶の夜を例題にして考えてみよう。一九二三年の暴動を記念しはじめて以来のヒトラーの課題は、ドイツからポーランド国籍のユダヤ人を追い出すことだった。ヒトラーは演説の中でユダヤ人の殺害について一言も語っていない。しかし、パリでのユダヤ人の若者によるドイツ人外交官暗殺という口実を得たゲッベルスは、それを利用するためにポグロムを組織したのだ。


“暗殺者”グリンスパンの身元は確認されていたのか

 ベッカートは、1945年に20歳として考えると、1991年には66歳、現在は75歳となる。執筆時にはすでに60代で、図書司の経験もした後だから、資料収集は徹底的に行ったようである。

 第1章は「グリンスパン事件」(Grynszpan Case)である。

 犯罪者の身元確認は、当然の初動捜査の基本だが、一般に流布されている説には、これがまったくない。ベッカートは、グリンスパンが、戦闘的なシオニスト分派と関係し、扇動されていた可能性を追及する。シオニスト分派とはいっても、事情は複雑である。ユダヤ人国家の建国派は、お互いに利用し合うところがあった。この点を、ベッカートは、水晶の夜の「受益者」は誰かという視点で追及する。

 ナチは、水晶の夜によって、国際的に孤立を深めたのだから、「受益者」ではあり得ない。結果から判断すると、建国派が望んだドイツ国内のユダヤ人の「追い出し」政策が強化されたのだから、一番の「受益者」は政治的シオニストなのだ。そこから「扇動者」が割り出される。

 もう一つの重要な視点は、ナチによるボグロム説の必然性への疑いである。ベッカートは、ユダヤ人の歴史上、ボグロムは、ユダヤ人を贖罪の山羊(scape goat)として血祭りに上げる民衆の反乱だと説く。権力に真っ向から歯向かえない民衆が、弱いユダヤ人をいじめるのだ。だから、絶対的な権力を握り、その気になれば何時でも、ユダヤ人をまとめて追放することもできたナチが、下手をすれば混乱を招き兼ねない下からのボグロムを組織するのは、理屈に合わないと説く。

 ここで再び、前出の『偽イスラエル政治神話』からの抜粋を読み直して頂きたい。戦後の裁判による認定の部分が多くて、証拠不十分の気味がある。

「歴史見直し論の父」ポ-ル・ラッシニエも疑っていた

 さて、ここで、種明かしのようだが、私が「遺言」と称して、発表する気になった理由を、もう一つ明らかにする。私は、3年前、ガロディ裁判の傍聴にパリを初詣でした際、裁判所のロビーで知り合ったパレスチナ人に案内された書店で、「歴史見直し論の父」と呼ばれる故ポ-ル・ラッシニエの晩年の著作を発見し、即座に購入した。1967年初版とあるから、まさにラッシニエの人生の最後の年の出版である。題名は『第二次世界大戦の責任者たち』(LES RESPONSABLE DE LA SECONDE GUERRE MONDIALE)である。この中に、「水晶の夜」(La nuit de cristal)[p.123-129]の項目があった。

 ラッシニエは、戦前、高等学校の歴史の教授だった。彼は、ベッカートを知らない。しかし、グリンスパンの単独犯行説を「私は信じない」と明記している。第一次世界大戦の引き金となった暗殺事件を引き合いに出して、謀略として疑うのが当然とし、「それが政治的暗殺の法則だ」と説く。

 以上、資料の紹介と概略説明だけに止めるが、これだけの手掛かりを残せば、必ずや、「ガス室の嘘」よりも、ずっと簡単な謎解き、絵解きとなるだろう。

以上で(その62)終り。(その63)に続く。