『本多勝一"噂の真相"』同時進行版亜空間通信版辛口時評版

WEB雑誌『憎まれ愚痴』連載(1999~2002年:34回)
『本多勝一“噂の真相”』同時進行版

(その1) 東京地裁721号法廷「岩瀬vs疋田&本多」裁判開始

 クリスマス・イヴの12月24日、時折街角でジングルベルとかホワイトクリスマスとかを耳にしながら、野暮もここに極まれり、霞ヶ関の裁判所まで出掛けた……
 執筆した岩瀬達哉は、その仕返しに本多勝一から、「捏造記事」「パパラッチ」「講談社の飼い主にカネで雇われた番犬・狂犬の類」「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」「人間のクズ」「カス」などと言いたい放題の罵詈雑言を浴び、それらを名誉毀損で訴えた。⇒全文を読む

(その2) 本多勝一に騙された市民派弁護士たち

 「岩瀬vs疋田・本多」裁判閉廷後のエレヴェイター内も、定員すれすれで、しかも、まさに呉越同舟だった。
 私の隣に、被告側代理人の梓澤弁護士がいた。そのまた隣には、原告側代理人の渡辺弁護士がいた。7階から1階まで降りるのだから、結構時間が掛かる。そこで私が旧知の梓澤弁護士に向かって、「本多勝一はゴロツキですよ。最初から学歴詐称。自分の過去の文章まで改竄している。本多勝一に騙された弁護士ってのを書こうかと思っていると言ったら、出版社が、それは面白いっていうで、……」と、そこまで言い掛けると、ベランメエ口調の渡辺弁護士が、「早く書いてよ」と大声を出し、エレヴェイター内には失笑・爆笑が渦巻いた。
 つまり、敵も味方もない。実は皆が皆、本多勝一の“噂の真相”を熟知しながら、裁判というゲームの場で相対しているのである。⇒全文を読む

(その3)「本多勝一反論権裁判」敗訴確定「頭隠して尻隠さず」

 本来ならば、本多勝一も弁護団も、この負けた事件の最高裁判決を批判して、さらに論陣を張るべきところなのであるが、『週刊金曜日編集部』に直接確認したところ、「そうですね。見掛けませんね」という気の抜けたビールのような返事しか戻ってこなかった。「人の噂も75日」とばかりに、ひたすら「頭隠して」いるに違いない。こちらは、嫌な役割だが、「尻見えた!」と言い続けるしかない。⇒全文を読む

(その4)「羨ましかった」第1回口頭弁論のザックバラン

 揃いも揃って私の旧知の市民派弁護士ばかりが4人も、被告・本多勝一側に並んだ時には、いささかの感慨が無きにしもあらずでした。
 彼を弁護すること自体を非難するわけにはいきません。しかし、彼の正体は正確に知って置いた方が、今後のためと思われますので、コピ-資料をお送りする次第です。⇒全文を読む

(その5)「反訴状」で蒼白の「ゾンビ」本多勝一が登場した波乱万丈

 第1は、たとえ発端の『ヴューズ』記事に間違いがあったとしても、特に、「講談社の飼い主にカネで雇われた番犬・狂犬の類」「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」などの、被告・本多が原告・岩瀬に投げ付けた名誉毀損の表現は、それ自体だけでも「不法行為」であるという主張である。
 第2は、『ヴューズ』記事の「リクルート接待旅行」という記述にも誤りはないという主張である。⇒全文を読む

(その6) 朝日新聞と講談社は「高みの見物」か「洞が峠」か?

 「『言論には言論で応戦すべし』という議論もある。しかし、朝日新聞をバックにした著名な記者が声高に書き続ければ、フリーライターをジャーナリズムから追放することも可能だ。現に疋田氏と『連帯するつどい』には、岩見隆夫(毎日新聞元編集委員)、斉藤茂男(共同通信元編集委員)、下村満子(『朝日ジャーナル』元編集長)、筑紫哲也(TBSキャスター)、中江利忠(朝日新聞前社長)各氏らが『呼び掛け人』になっている。『言論の自由』とは何か。改めて考えさせられる裁判だ」⇒全文を読む

(その7) 本多勝一がヒトラーなら和多田進はスターリンか?

 昨年の1998年7月2日の「ロフトプラス1」に戻る。
 この時、一日店長の岡留安則『噂の真相』編集長は、本多勝一と決裂寸前だった。そのことを店の客のほとんどが先刻承知だった。だから当然、「来いと呼んだけど返事がなかった」本多勝一と和多田との関係は、話題の焦点である。
 岡留店長は、本多勝一と和多田とが決裂した当時の『週刊金曜日』解雇騒ぎにおける自分の表現、「本多勝一がヒトラーなら和多田進はスターリン」まで持ち出して、和多田による当時の「噂の真相」公表を迫る。和多田も、いくつかの点での「本多勝一のボケ症状」を認める。しかし、これが、実に煮え切らないのである。⇒全文を読む

(その8) 和多田「編集長」と「元恋人」本多勝一の「お返事」集

 木村愛二さんから話を聞いてはいましたが、今回のお手紙を読むまで私は本文にあたってはいなかったのです。フェアか否かという点で言えば、私たちはやはり本多さんの態度がフェアだとは思えません。本多さんは「立場が変わるということはあり得ることだが、その場合は必ず自分の立場の変更について説明・公表すべきだ」という主旨の主張を常日頃からしてこられ、私どももその言説に共感して参りました。そうした経緯に照らしてみて、今回のことにびっくりしたという次第です。⇒全文を読む

(その9)「美人弁護士」に異義を唱えた「市民派弁護士」

 手紙の内容は、まるでプライヴェイトなものではないが、私に対する善意に満ちていた。実に有り難い手紙だった。しかし、カール・マルクスは言った。「地獄への道は善意で敷き詰められている」と。この時の彼女の善意こそが、意外も意外の世間は狭い類いの関係で、私と本多勝一との橋渡しとなり、やがては、名誉毀損の提訴にまで至るのである。
「世の中は一寸先が闇」とは、まさに、このことであろう。⇒全文を読む

(その10)本多勝一流「自己文章改竄癖」軽視のわが反省録

 「湾岸戦争から3年/だれが水鳥を殺したか/湾岸戦争報道操作は続いている」の『週刊金曜日』(1994.1.14.)掲載に当たっても、今にして思えば、いささか奇妙な事実があったのである。……(略)……この記事の掲載直後に、当時は結成したばかりの「アジア記者クラブ」の主宰者で、結構きついことを平気で言う菅原秀が、あるパーティの席上、私の顔を覗き込みながら、ニヤリと笑って、つぎのような主旨のことを言ったのである。「木村さん、『週刊金曜日』に取り上げられてご機嫌のようだけど、あそこは前宣伝とは大違いで普通の週刊誌に比べれば桁外れに原稿料は安いし、本多勝一は酷い奴ですよ」⇒全文を読む

(その11)『創』(1999.4)裁判傍聴記事への追加注文

 今朝8時、時差を計算すると相手のベルリンでは深夜24時、私が日課の朝の体操中に、電話のベルが鳴りました。出ると、ヤクザっぽく潰れた声が「ベルリンの梶村です」と凄みました。株式会社金曜日と『週刊金曜日』記事執筆者2名を私が名誉毀損で訴えた事件の内の1人で、元慶應の全共闘とかです。
 明らかに泥酔の口調でからんできました。国際電話の料金はそちら持ちだから、勝手にせいというところですが、やはり時間がもったいないので、「あんたは従犯、主犯の本多勝一の化けの皮が剥がれたから、下らない連中相手にこれ以上の時間は掛けない」…⇒全文を読む

(その11)『創』(1999.4)裁判傍聴記事への追加注文

(その11は2版ありますが、内容は同じです。原因不明)

(その12) 裁判長を不機嫌にした本多流「罵倒」擁護論

 唖然とした。私は、高見沢と個人的な会話を交わしたことはあるものの、良く考えてみると、実際の闘争現場で顔を見たことはなかった。市民派弁護士とは言っても、ピンからキリまである。非常に程度の低い「三百代言」並みのも沢山いる。どうやら、雇主の都合に合わせ何でもかんでも、しゃべりまくるだけの程度なのかもしれない ⇒全文を読む

(その13) 言論人同士の「罵倒」訴訟無用論の二枚舌

 このようなゴロッキ雑誌のゴロッキ編集長にひどい目にあわされた被害者は、もちろん私以外にもたくさんいる。裁判のばからしさを知つて、ほとんどが泣き寝入りである。だが、私は死ぬかボケるかするまで、泣き寝入りはしない。裁判そのもののひどさを知って、裁判所あるいは裁判制度自体を批判する作業にとりかかることにした。⇒全文を読む

(その14)「言論人」としての本多勝一の評価2例

 彼が果たして「言論人」と言えるものかどうか、ここらで、本多勝一らの朝日新聞ゴロツキ記者たちから激しいバッシングを受けた先輩の意見をも紹介して置きたい。この2 例を掲載した『人民新聞』は・・・ともかく、時折、面白い記事が載るのである。
 加藤晴康が、そのコメントで「本書は……カンボジア革命とは何であったのかという問いに正面から取り組む意図をもって編集されている」と述べているように、私たちが目指したのは、センセーショナルな議論に隠されて見えにくいカンボジア革命を知るための基本研究文献を提示することであった。
 ところが、本多勝一とその同僚井川一久は、私たちに「虐殺の擁護者」「連合赤軍張り」というレッテルを貼り、当時の大阪朝日担当記者や私たちに陰湿・姑息・執拗な激しい恫喝を加えてきた。⇒全文を読む

(その15)『週刊金曜日』読者が「本多勝一デッチ上げ」告発?!

 『噂の真相』の記事掲載が事実だとすると、その発言者は、おそらく、私が、昨年の1998年12月9日に新宿のディベイト酒場、「ロフトプラス1」で、当日の一日店長、『噂の真相』岡留編集長からの質問に答えて、同主旨の発言をした際にいた客の1人であろう。その時にいた顔見知りの『週刊金曜日』読者が、すでに、その後、私も活動発表者として参加した1998年12月18日の民衆のメディア連絡会年末交流会の席上、朝日新聞の現役記者、伊藤千尋に対する質問の中で、同主旨の発言をしている。⇒全文を読む

(その16) 本多勝一の同志「朝日『重鎮』」井川一久「改竄疑惑」

 ベトナム戦争を描いた小説はかく改ざんされた! 製本会社経営・おおかわ・ひとし 大川均
 ベトナム戦争を描いた、ハノイの作家バオ・ニン(元北ベトナム軍兵士)の「戦争の悲しみ」は悲しい小説だ。著者の分身ともみえる主人公、北ベトナム陸軍の志願兵キエンは、米軍との南ベトナム中部高原での合戦で全滅した大隊の、わずか数人の生き残りの一人だ。瀕死の重傷の癒えるのをまって戦線に復帰し、米軍、南軍と死闘をつづけ、戦後、遺骨収拾隊員としてジャングルを経巡った後、除隊して作家になるが、戦争の心的外傷(ルビ:トラウマ)から逃れられず、幼馴染みの歌姫フォンとの恋にも破れ、ついには精神の崩壊へと進む。
 この戦争小説は、北ベトナム軍の、どこの国の軍隊とも共通する、善悪とりまぜたありのままの姿を描いている。そのために軍当局の不興を買い、また却ってそのために英語、フランス語その他十数か国語に訳されて欧米で高い評価をえた。そして欧米での評価が高まるほど、国内での作者の立場は困難になった。今でもやはり「人民の軍隊は正義の軍隊」という看板をはずすことは許されないのだ。1991年に2000冊印刷された初版は出版と同時に絶版とされた。⇒全文を読む

(その17) 続1:「朝日『重鎮』」井川一久のベトナム小説「改竄疑惑」

 疑惑告発者の大川均に電話で事情を聞いていた時、大川が突然、「井川さんは最初、私を、それ以前に対立関係にあった関西の別人と間違えていたらしいのですが、その名前が思い出せません。珍しい名前なんですが……」と言ったのである。大川も堺市に住む関西人だが、この一言でピンときた私が、「鵜戸口さんではないですか。長良川の鵜飼いの鵜に扉の戸口……」と言うと、「そうでした。そんな名前でした」と答える。⇒全文を読む

(その18) 続2:ヴェトナム小説「改竄疑惑」に対する井川一久本人の反論

 以下の反論は大川執筆の告発記事から7ヵ月後に同じ雑誌『正論』に掲載されたものである。翻訳の経過をめぐる両者の主張は、真っ向から食い違っている。しかし、意図と経過はどうあれ、「書き直し」「書き加え」の部分があることは、井川自身も認めているのである。それが著者の了解の範囲内なのかどうか、などの事実関係の評価は、双方の主張をすべて再録した後に行うこととしたい。ともかく、事態は奇々怪々なのである。
『正論』(1998.7)「戦争の悲しみ」の悲しみ 大川均氏の非難に答える 小説「戦争の悲しみ」訳者●いかわ・かずひさ 井川一久⇒全文を読む

(その18 別紙) 続3:大川均氏への公開書簡

1998年1月24日 バオ・ニン(ヴィエット・ホア訳)

(その19) 続4:大川再反論は公開論争を求める「果たし状」

 とりあえず経過を要約すると、井川は、「詐欺師との同席は出来ないから、公開討論は拒否する」と答え、本誌前号で紹介し、今回も問題となる「バオ・ニン氏の大川均氏への公開書簡」の実物を見せようとしてない。
『正論』平成10[1998]年10月号 「『戦争の悲しみ』の悲しみ」に答える 井川一久氏への公開書簡 製本会社経営・おおかわ・ひとし 大川 均⇒全文を読む

(その20) 続5:ヴェトナム小説「改竄」疑惑、最後の誌上論争

 大川は『正論』(1997.12)で井川訳のキエンの台詞、「学校をめちゃくちゃにするなんて、もう誰も命ってものを大切にしなくなったのかなあ」の「命」を誤訳とし、「英語のlifeを『命』と訳したためにキエンの台詞は意味不明になっている。原文のcuoc song[ヴェトナム文字の髭は省略。以下同じ]も、英訳のlifeも、『生活』である」とし、井川を「訳者失格」であると批判した。
『正論』平成11[1999]年1月号「編集者へ」=大阪市の大川均さん(会社経営)から。⇒全文を読む

(その21) 割り中:『週金』が依頼記事を不掲載の奇怪な経過

 「『同和中毒都市』の中で触れられている問題がとても重要なことであることは,弊誌も重々承知しております。ただ弊誌としては,逆差別の問題を問う前に,あまりに理不尽な部落差別の歴史があり,いまだに差別に苦しんでいる方々がたくさんいらっしゃることを読者に伝え,読者に考えていただきたいと思っています。その上で,寺園さんが『同和中毒都市』でご指摘なされている問題に踏み込んでいきたいと思っています。が,編集部の力量不足で,まだ十分な記事掲載ができていません。/ですから,現時点でこの原稿を掲載することは,見合わさせてください。」(後日送ってもらった副編集長の文書による説明より)⇒全文を読む

(その22) 発端記事に見る「ヴェトナム小説」日本上陸の関心事

読売新聞1995.4.19. 傷跡を越えて ベトナム戦争終結20年 2 悲しみの自由な表現まだ先 無名戦士描いた小説家⇒全文を読む

(その23) 同前(2)日経記事(1995.5.2)

日本経済新聞1995.5.2.本の表紙と顔写真の説明: ベトナムで論争を呼んだバオ・ニン著の小説『愛の宿命』  世界の潮流  ベトナム戦争再評価の風  「声なき声」への封印ゆるむ⇒全文を読む

(その24) 井川はヴェトナム小説を英訳から重「誤」訳

 以上により、私は、井川の反論を却下し、この点に関し、まず、大川勝利の中間判決を下す。上述のように、超大手新聞社の著名記者、井川は、「訳者失格」であるばかりか、「文筆業失格」である。 ⇒全文を読む

(その25) 地裁で本多・疋田側が「情報源を明かせ!」

 「岩瀬vs本多・疋田」名誉毀損損害賠償請求事件、または「朝日新聞著名記者リクルート接待スキー旅行」の場合、本多・疋田側は、「接待ではない。パック料金」などと反論するものの、何らの物的証拠も出せないのである。本多勝一は、「領収書は」と裁判長に聞かれて、弱々しく首を振り、代理人は、「メモがありますので、それを書証として提出します」と言う。
 その癖、岩瀬に対しては、「新幹線代を含めて3万5千円の根拠を示せ。誰に聞いたのか」と反撃する。岩瀬が、当然のことながら、「取材源を明かせば、これからのジャーナリストとしての仕事に支障が生ずる」と答えると、今度は疋田側代理人の梓沢弁護士が、「取材源を明かさないと不利になるのを覚悟せよ」と念を押す。 ⇒全文を読む

(その26) 短評:『週刊金曜日』の言論詐欺

 まるで目を通す気になりませんでしたが、丁寧に読んで質問してくる方から聞くと、どうやら、編集部による本文とは違う見出しの付け方、実に卑劣な判決文からの恣意的引用が行われているようなので、その点のみ、とりあえず指摘し、『週刊金曜日』の言論詐欺を告発して置きます。

(その27)『週刊金曜日』への公開問題提起文(mail:江ノ原元)

「本多勝一はジャーナリズム界から追放すべき人物だ」
 --いささかショッキングな言葉であるが、何を隠そう、これは『週刊金曜日』初代編集長・和多田進氏のオフレコ発言だという(木村愛二氏の証言)。
『金曜日』といえば、「一切のタブーに挑戦し、自由な言論をくりひろげる」「反論文や論争を活発に取り上げる」「苛烈な論争によって問題を前進させていく」というのがこの週刊誌のモットーであり、ウリである。だが、はたして本当にそうだろうか?⇒全文を読む

(その28)「疑惑情報源を明かせ」と言う一方で「領収書はない」

 当日の法廷では、裁判長が身を乗り出して、「接待ではない」という証拠を求め、「領収書は?」というと、本多・疋田側は、一様に虚ろな「死んだ魚の目」を見合わせ、どんよりと頷き合って、「ないんですね」と力なくコックリ、感情を殺した虚ろな顔。本多側代理人の高見沢「市民派弁護士」は、「メモがあります」と力なく呟く。⇒全文を読む

(その29) ポト派「虐殺」本多勝一「回答」前に警告!

 前代未聞の「本多勝一研究会」が発足した最大のきっかけは、「元」本多勝一ファンによる本多勝一の自己文章「改竄」発見、質問、回答拒否にあった。本多勝一は、『潮』(19975.10)で「ポト派虐殺は嘘」と書き、それを、雑文集『貧困なる精神』第4集に収めていたのだが、その第9刷では、何の断りもなしに書き換え、初出は、そのまま、『潮』(19975.10)としていたのである。⇒全文を読む

(その30) 居直り:自分の記事を全部読まぬ読者が悪い?

 本来の質問の中心は、自己の雑文集に初出の雑誌名を記しながら、9刷で文章の一部を書き換え、その書き換えの事実と、書き換えの理由を明記しなかったのは、なぜか、と言うことである。これが敵対的な関係の暴露であれば、直ちに「言論詐欺師」と決め付けても、本多勝一が何等の反論もできなかったであろう性質の問題である。
 ところが、本連載の前号で警告した通りに、本多勝一は相変わらず「自己文章改竄」と、その執筆・出版の姿勢の誤りを、まったく認めず、それどころか、「[質問者が本多勝一自身の]その後の活動を全くご存じないのだな、と改めて残念に思いました」などという居直りに転じたのである。⇒全文を読む

(その31) 悪名に縋り利用し続ける"親衛隊"の低水準

 この会は、大手メディア特有の言論詐欺師、本多勝一が、「百人斬り」という不可能な軍事英雄創出・戦争煽動デタラメ記事のまた聞きを、その元のデタラメ新聞記事の確認すらせずに、朝日新聞連載に得々と記したために、実に歪んだ形で始まった論争が生んだ「本多勝一御用運動」です。善意の参加者には直接、本多勝一に騙されるな、むしろ揚げ足取りを誘う逆効果と、御注意申し上げていますが、まだ表面的には利き目が現れていません。ただし、私個人宛てに理解を示す教授も現れています。⇒全文を読む

(その32) 百人斬りを据物斬りや捕虜虐殺と言い抜け

 以上の資料を冷静に比較検討すれば、本多勝一が、自分でも「有名な話」と書き、東京裁判でも審理されて向井(元)少尉らが無罪になっていた事件について、その「モト」の記事すら確かめずに、平気で聞きかじりに勝手な憶測を交えた署名記事を書くデタラメ記者であり、その手抜きを指摘されると逆上して、手段を選ばぬ仕返しに転じ、最後には、「据物斬りや捕虜虐殺」があったのだと、言い抜けに終始する卑劣漢であることが、明白に浮かび上がってきます。
 そのような「偽の友人」の著名度に頼る自称平和主義者にも、再度、警告を発して置きます。「腐った腕を切り落とさないと全身に毒が回る」のです。⇒全文を読む

 以上で一時連載終了を、2002.01.14.新事態発生に付き継続。
 以降は、亜空間通信(2001.1~2005.9)・辛口時評(2005.9~2007.5)に続く

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『本多勝一“噂の真相”』亜空間通信版(2002.1.16~2005.8.23)

142号(2002/01/16)【アフガン意識:真実公開の場でも隠蔽された朝日・井川ヴェトナム戦争文学改竄】

 下記の集会が開かれることを、昨年末、後出のヴェトナム戦争小説『愛は戦場の彼方に』の訳者、大川均さんからの書状で知らされた。手紙のやり取りと電話で しか接していない大川さんにも初めて会えるようだし、中央線では隣の駅から乗り換 えで行ける近場なので、休日を返上して参加することにした。以下が集会の概略である。
【戦争の悲しみ/戦場の記憶---《ハリウッド》ではないベトナム戦争】 詳しくは次回とするが、会場の受付の前には、上記の二つの日本語訳本が展示されていた。展示の係りの学生に聞くと、ヴェトナム語専攻の大学院生で、私が、大川均さんの訳の方を指して、「こちらの方が原文に忠実でしょ」と言うと、素直に、はにかみながら、「そうです」と答えた。
 どうやら、背後の事情を知っているらしいのである。⇒全文を読む

143号(2002/01/18)【ほろ苦い想い出のヴェトナム戦争政治的誤報に朝日・赤旗反省なき地獄存続の怪】

『週刊文春』(1997.11.27)
朝日元記者にベトナム戦争文学『戦争の悲しみ』「改ざん」疑惑
[中略] 
 ベトナム戦争を舞台に、極限状況における人間の内面を描いて好評の文学作品の邦訳に改ざんの疑惑が持ち上がっている。訳者はサイゴン陥落にも立ち会った元・朝日 新聞記者。政治的な意図はなく、自身の経験を生かして、日本人向けに訳しただけと いうのだが……。⇒全文を読む

408号(2002/10/23)【何と4年も経て「岩瀬vs疋田・本多」裁判の原告本人・岩瀬達哉さん証言実現】

 これがまた、驚くまいことか、何と、4年も引き延ばされていたのである。

593号(2003/05/08)【従軍戦意高揚虚構記事の先輩日本で毎日・朝日・本多勝一を遺族提訴の卑劣報道】

 こうなれば当然、提訴は間違いないと判断できるので、早速、かつての争議団時代に通い馴れたる東京地裁に電話をして、事件番号は「平成15ワ9271号」、原告の代理人は、稲田朋美と確かめ、日弁連に電話して、代理人の事務所は西梅田法律事務所、電話は06-6363-1622なり、これも直ちに電話して、「この件は自分も本多勝一の被害者で詳しいから協力する」と約束した。⇒全文を読む

648号(2003/08/15)【8.15は敗戦・戦犯・靖国避けて通れず左右に憎まれ愚痴「百人斬り」言論詐欺批判】

 この件では、日本国内で、毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一が、「被告」となっている。しかし、1947年に2人を死刑に処したのは「国民政府」であった。当時、中国共産党との内戦を抱えていた国民政府は、一方で妥協、一方では民衆の対日報復気運への迎合という矛盾を抱えていた。それまでの勢いからすれば、「昭和天皇を処刑せよ!」と叫ぶのが筋だったのだが、その代わりに証拠不十分な2人の将校を殺してしまい、しかも、それを中国共産党の政権が、そのまま、引き継いでいるのである。
 中国も、相当に好い加減である。中国に対しても、2人の名誉回復の処置を要求すべきなのである。それができるメディアが、組織が、あるのか無いのか、個人が、いるのか、いないのか。⇒全文を読む

611号(2003/06/09)【南京攻略「百人斬り」記事謝罪広告請求事件の第1回口頭弁論は奇しくも7月7日】

 何とも実に面倒臭いのだが、当時の馬鹿な日本人が、当時は「中華民国」と名乗っていた国を、「支那」とか、「シナ」とか、「シナジン」とか、さらには、「中国人」の現地の北京官話の発音、普通の日本人には無理なので簡略化すると「チュンクオレン」を、「チャンコロ」とさらに簡略化して、侮辱的に使ったものだから、言葉の使い方が歴史の事実を差し置いて議論の題材となり、肝心の歴史的な記述が、ややこしいというよりも、言葉の本来の目的の意志疎通から考えると、事実上、不可能になってしまった。
 その馬鹿の不始末が、戦後にまた、新たな馬鹿どもによって、自乗され、三乗され、「支那事変」ではなくて、「日中戦争」と呼ばないと、国賊、匪賊、いや、卑俗な右翼と見なされ、罵倒され、それにまた馬鹿の四乗の卑俗な右翼が、「自虐史観」などと罵倒し返し、わが呼称によれば、「草野球の酔っぱらい観客の場外乱闘」の罵倒合戦にまで発展し、いやさ、犬も食わない夫婦喧嘩並の泥仕合にドロドロと動転し、ますます、ややこしいことになってしまった。⇒全文を読む

624号(2003/07/08)【南京攻略百人斬り虚報記事謝罪要求事件の第1回口頭弁論に百を超す傍聴希望者】

 ああ、何とも、呆れたことに、いや、実は、馴れっこで、まるで驚きもしないことには、毎日新聞、朝日新聞、本多勝一、柏書房は、揃って、「虚報」の主張を否定した。
 本多勝一の代理人は、脂ぎった中年の半分禿で、簡単に言うと、原告側に「虚報の挙証責任」を求めるという悪質な手段を駆使し、「論争すべき問題」と居直った。もともと、本多勝一が自分の「中国の旅」の署名記事を批判され、文藝春秋を訴えた事件なのだから、ご都合主義も甚だしいのである。ああ、呆れた。いや、ちっとも驚かない!⇒全文を読む

731号(2004/02/03)【英BBCケリー事件逆転の先例に米CBSヴェトナム嘘報道攻撃先例あり日本で朝日新聞実質敗訴快報】

 似たような下品の標本、「心情左翼と食い物にする商売」の典型が、似非紳士、朝日新聞であるが、その朝日新聞が、上記の英米の実例、「裏取り不十分」攻撃を駆使した裁判で、実質敗訴となった。
 御同慶の至りである。これも、すでに報道例が多いが、スキャナー読み込みで、週刊新潮記事だけを紹介する。
 週刊新潮04.2.5[特集] 「朝日新聞の良心」と言われた 看板記者が受けていた 「豪華スキー接待」⇒全文を読む

843号(2004/07/31)【好戦でっち上げ100人斬り記事の護持で生き恥さらす毎日新聞ほかのメディア関係者は日本の恥】

 この記事で重要なのは、「今年91歳になる車椅子に座った老人が原告側証人として出廷した」ことも、さることながら、当の毎日新聞自身が、平成元年に発行した「昭和史全記録」の中の南京関連の項目で、「100人斬りは事実無根だった」とはっきり記述している、との記述があることである。
 私は、この「老人」「佐藤振壽」元写真報道班記者の同趣旨の証言を、産経新聞記事で知っていた。それだけでも、毎日新聞は「降参」すべきであると考えて、同紙の広報部に電話したが、応じなかった。 ⇒全文を読む

853号(2004/08/15)【敗戦記念日に断罪する百人斬り左右の言論詐欺と傲慢無礼の自己中心ご都合主義歴史歪曲押し付け

 昔から戦争に反対して続けてきたかのような売り込みの「嘘ばっかり」の朝日新聞は「反戦」を名目にして、その実は文化大革命当時の中国の共産党に胡麻を摺って、重要な情報源の北京支局を確保するために「嘘ばっかり」の「でっち上げ」で売り出し、この時も自ら売り込んだ言論詐欺師の典型、本蛇蝎一記者を中国に派遣し、本蛇蝎一は「中国の旅」連載で、1937年の東京日日新聞の記事を、また聞きで不正確になぞり、さらに歪めて報じた。
 死刑となった元少尉の娘の訴え、朝日新聞と本蛇蝎一への批判を載せた文藝春秋の『諸君』と『週刊文春』の記事を、本蛇蝎一は、名誉毀損として訴え、最終的には最高裁で敗訴した。
 ところが、本蛇蝎一は、最高裁を「反動」と決め付け、朝日新聞も、何ら反省しない。 ⇒全文を読む

880号(2004/10/24)【南京事件とホロコーストに関するわが電網宝庫記事への質問に答えて懸案の既存頁整理へのメモ】

 裁判は、ホロコーストが嘘だとする拙著、『アウシュヴィッツの争点』に対する『週刊金曜日』を舞台としての攻撃を、名誉毀損として訴えたものであって、私は、略称「ガス室」裁判の被告の中心人物、私への攻撃の主犯の本多勝一(通称「本蛇蝎一」)の犯行動機を、綿密に調査した。
 すると、本多勝一が、ホロコーストの嘘の問題を発端として廃刊に至る事件の渦中の人となった『マルコポーロ』の当時の編集長、花田紀凱に対して、深い逆恨みを抱いていたことが、判明したのである。 ⇒全文を読む

1046号(2005/07/06)【ホロコースト裁判被告『週刊金曜日』代表・学歴詐称に始まる元・朝日記者・本多勝一の正体暴露

『Will』(2005年5月号)記事。朝日を裁く!第2弾 人、われを「朝日の天敵」と呼ぶ 堤堯
 数ある朝日新聞記者の中で、箸にも棒にもかからぬ筆頭は本多勝一なる記者である。この本多記者に訴えられたことがある。それも人違いで(!)。笑うべき次第は以下の如くである。……
 訴状を見て驚いた。当方が掲載責任者として名を連ねている。五月号の編集責任者は先輩の村田耕二氏であり、翌六月号から代わって当方の責任編集になる。つまりは人違いである。
 実は殿岡氏の糾弾を見て、本多記者が抗議のハガキを送ってきた。罵詈雑言(ばりぞうごん)の羅列で、反論にもなっていない。掲載するに値しないとしてボツにした。これを掲載しろ、イヤしないで押し問答があった。
 「反論に値するもの」なら検討の上、掲載するに吝(やぶさ)かではない旨を答えた。なんと二年後、「反論に類するもの」が送られてきた。見れば殿岡氏が所属する東京学芸大学教授会宛ての内容で、
 「このような者を助教授にしておいていいのか。納税者として黙っていられない」
 と例によっての罵詈雑言である。⇒全文を読む

1085号(2005/08/23)【百人斬り訴訟で東京地裁は遺族の敗訴だが朝日新聞記事と東京日日新聞記事は違う点を無視の報道】

 「虚偽とは言えない」との主旨の判決であり、「百人斬り競争」を「事実」と判断したわけではない。
 しかも、どの報道を見ても、朝日新聞記事と、その原典であるはずの東京日日新聞記事は、違っていたという点が、完全に無視されている。
 実はこの点を、元TBSの『調査情報』編集長鈴木明が直後に指摘していた。本多勝一は、中国での耳情報のみに基づいて記事を書いていたのだが、この鈴木明の批判には直接答えず、『諸君!』の記事の見出しの「まぼろし」との表現を奇貨として、「右翼」の文藝春秋が、「南京大虐殺」を否定したと誇張し、不勉強な左翼を煽った。⇒全文を読む

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『本多勝一“噂の真相”』辛口時評版(2006.5.27~7.17)

2006.05.27 ホロコーストと南京「大虐殺」はデマゴギーの双璧で化けの皮剥げ同時並行

 著者の東中野 修道には、「南京事件」に関して、数冊の著書があるが、今回の書評では、小林 進, 福永 慎次郎が共著者の『南京事件「証拠写真」を検証する』2005年1月、草思社刊の続編として評価されている。以下、そのレビューを、そのまま紹介 ⇒全文を読む

2006.05.31 ジャーナリスト最低評価の本多勝一と共同被告の朝日・毎日も最低

 この裁判の最初、傍聴にも報告会にも参加し、3分ビデオを作成した。しかし、先行きは、間違いなしに暗いと予測していた。簡単に言うと、原告の応援団が悪すぎる。「靖国の英霊」云々の右翼、元軍人、つくる会教科書の推進者たちである。
 被告の応援団は、本蛇蝎一の一味で、これまた、さらに悪い。しかし、朝日新聞、毎日新聞、週刊金曜日など、いわゆる「左」の方が、裁判所では強い。⇒全文を読む

2006.07.17 本多勝一を斬れない朝日新聞には何か決定的な弱みでもあるのか。

 本多勝一の経歴詐称に関しては、「本多勝一、経歴 の検索結果約9,240件」もある。
 http://oudon.at.webry.info/200607/article_3.html 本多勝一の謎 ⇒全文を読む