『本多勝一"噂の真相"』 同時進行版(その30)

居直り:自分の記事を全部読まぬ読者が悪い?

1999.9.10

 インターネット上の「本多勝一研究会」関係者に、本多勝一から回答があった

 それに先立って、本多勝一が『週刊金曜日』発行元の株式会社金曜日社長を辞任した。辞任の弁の中に「不義理」の解消と言う主旨の表現があったので、インターネット「本多勝一研究会」のメーリングリストには、「不義理」とは「カンボジア報道に関する自己文章改竄」(本誌本連載既報)の後始末も含まれるのか、という主旨のmailも現われた。

 本来の質問の中心は、自己の雑文集に初出の雑誌名を記しながら、9刷で文章の一部を書き換え、その書き換えの事実と、書き換えの理由を明記しなかったのは、なぜか、と言うことである。これが敵対的な関係の暴露であれば、直ちに「言論詐欺師」と決め付けても、本多勝一が何等の反論もできなかったであろう性質の問題である。

 ところが、本連載の前号で警告した通りに、本多勝一は相変わらず「自己文章改竄」と、その執筆・出版の姿勢の誤りを、まったく認めず、それどころか、「[質問者が本多勝一自身の]その後の活動を全くご存じないのだな、と改めて残念に思いました」などという居直りに転じたのである。最早、「呆れてものが言えない」と言う表現さえ使う気にならない。これが同じ人類の一員の言かと思うと、わが身さえ汚らわしく思えてくる。

「本多勝一研究会」のメンバーには、『潮』1999年10月号の「読者の声」欄で回答するとの回答があった。以下のような投稿であるが、これも最早、論評する気にもならない。ただ、文中に、「最近、この記事を見たらしい読者から、この後者の部分(背景説明)がその後の収録本から削除されているのはおかしいのではないか、という指摘のお便りをいただきました」とある「最近」についてのみは、一言、注釈を加える必要があるだろう。

 上記のインターネット「本多勝一研究会」の発足以前、広島大学関係者の週刊金曜日読者ホームページに掲載され、本誌でも既報の投書によると、「1995年12月に『週刊金曜日』編集長本多勝一様宛ての質問状が送付され、追って本多さんご当人から『質問には全てお答えします』という趣旨のご返事をいただけました」なのである。しかし、その後、一向に「お答え」がないので、業を煮やした元ファンが、ついに広く世間に訴えて「本多勝一研究会」を開き、いささかなりとも、世間に訴え、ようやっと、回答を得たのである。

 独裁者ナポレオンは、「余の辞書に不可能という文字はない」と語ったと言われるが、本多勝一の辞書の「最近」の項目の説明は「4年弱の期間」なのであろうか。もっとも、手元の安物辞書の「最近」は「現在にかなり近い過去のある時」となっており、「かなり」の方も「非常にとまではいかないが、程度が普通よりはまさっていること」であるから、曖昧模糊の悪文を最大の特徴とする本多勝一には、もっとも適した表現なのであろう。

 だから、この「最近」表現を巡る議論を始めるのは、ますます以て、愚の骨頂、時間の無駄であろう。ただただ、一瞬の軽蔑だけに止める。「全文削除」キーを押すと、頭の中の「本多勝一」ファイルの記憶が全部消える仕掛けでも、誰か作ってくれぬものか。


『潮』1999年10月号(398ページ「読者の声」)

私のカンボジア報道について

(長野県下伊那郡・本多勝一・ジャーナリスト・67歳)

 もう二十余年も前の古い話で恐縮なのですが、本誌で随筆や評論などを連載していたころのこと、一九七五年十月号で「カンボジア革命の一側面」と題して一文を書いたことがあります。

 かんたんに要約すれば、サイゴンで会った一人の若い中国人女性の体験の紹介が主たる内容ですが、その背景としての解説も加えられています。この中国人女性は、当時カンボジアから命からがらベトナムヘ脱出してきた一人で、ポル=ポトをリーダーとする赤色クメール(カンボジア人民軍)によるひどい弾圧と虐殺政治の体験者でした。

 しかしサイゴン陥落直後の当時、まだその実態が外部にほとんど漏れてきていませんから、読売新聞の永井清陽記者とともに聞いたその信じがたい内容には非常に驚かされたものの、彼女が嘘を捏造しているとも思われず、ともかく聞き書きとしてありのままを書いたわけです。

 ただし、それに加えて書いた背景説明では、カンボジアのベトナム以上に「侵略されつづけた歴史」に起因する極端な革命路線や「行きすぎ」とか、末端まで指導が徹底していないための誤りの可能性などを指摘し、総じて「カンボジア革命」を擁護する方向で書かれています。

 最近、この記事を見たらしい読者から、この後者の部分(背景説明)がその後の収録本から削除されているのはおかしいのではないか、という指摘のお便りをいただきました。本誌に掲載された一文をめぐる件ですので、この場を借りてご説明いたしましょう。

 本誌のあの一文だけを読んだ人であれば、右のように思われる人もあるかもしれませんが、その後の活動を全くご存じないのだな、と改めて残念に思いました。

 と申しますのは、このあと最終稿としてまとめた本(たとえば著作集第16巻『カンボジア大虐殺』とか文庫版『検証・カンボジア大虐殺』=いずれも朝日新聞社)までの間に、取材を通じて私の認識が変化してゆく過程が、ルポや対談・インタビューなどのかたちですべて明らかにされているからです。

 最初のそれは、「カンボジア革命の一側面」より三カ月前の本誌一九七五年七月号に書いた「欧米人記者のアジア人を見る眼」で、これはプノンペン陥落直後の執筆にあたります。これが最も「カンボジア革命」を擁護する内容でしょう。ついで「…一側面」(十月号)となり、問題が出はじめたわけですが、まだ擁護的解説がついています。

 このころは私に限らず、ベトナム戦争を現地取材してきた記者たちは、ほとんどがカンボジアの解放勢力に「理解」を示していました。その最大の理由は、べトナムの解放勢力と同一視していたことによります。ですからカンボジアの解放区取材に潜入した記者たちも、まさか殺されるとは思わずに次々と消えていきました。ところがカンボジアの赤色クメール(ポル=ポト派)は、ベトナムとは似ても似つかぬものであることが、少しずつわかってくるわけです。

 これを虐殺政権とみる人々と、それは誤解であり、ベトナムでみられたような米軍側の捏造による宣伝とみる人々(いわゆる中国派が多かった)とで論争する時代がかなりつづきました。私はジャーナリストとして、とにかくまず事実を知ろうと努力しました。そして現場取材による決定的検証ルポとなったのが『カンボジアの旅』(朝日新聞で一九八○年秋に二六回連載=翌年に単行本)です。

 本誌の一九七五年七月号から五年かかったわけですが、この間における私の認識の過程は、前述のようにすベて明らかにされています。一部は本誌(一九八一年四月号・一九八五年八月号)でも書きました。

 したがって、これらの過程を知る読者であれば、最終的にまとめた前述の本の中で、わざわざ本誌での当初の論評、のちに私自身のルポによって自ら訂正したものを掲載するはずもないことを理解されましょう。

 右の「欧米人記者の…」も、収録していた単行本『貧困なる精神・第3集』の重版からは削除してあります。

 また私のこの検証ルポは、イギリスの大学院でカンボジア問題を研究しているある学者のお便りによれば、世界で最も徹底して詳細な現地調査だとのことです。

 ご参考までに、本誌一九七五年七月・十月両号以後の五年間に発表した私の記事やインタビュー・対談の類を左に列挙しておきます(ほかにも漏れがあるかもしれませんが)。

▽カンボジア国境紛争(朝日新聞』一九七七年九月十九日)

▽カンボジア国境戦争を考える(『朝日ジャーナル』一九七八年四月二十八日号)

▽中国・ベトナム関係(『朝日新聞』同五月十八日号)

▽引き裂かれたインドシナ(『朝日ジャーナル』同六月三十日号)

▽カンボジアと馬渕直城氏(『朝日新聞』同八月二十一日)

▽カンボジア報道はどうなっているのか?/馬渕直城氏へのインタビュー(『マスコミひょうろん』同十月号)

▽単行本『カンボジアはどうなっているのか?』(すずさわ書店・同十二月)

▽単行本『ベトナム・中国・カンボジアの関係と社会主義とを考える』(朝日新聞社・一九七九年一月)

▽衝撃のカンボジア(『文化評論』同三月号)

▽ポル=ポト政権の大虐殺と報道(『赤旗』同二月四日)

▽自著『カンボジアはどうなっているのか』を語る(『50冊の本』同三月号)

▽単行本『このインドシナ』(井川一久編・連合出版一九八○年一月)で本多が司会

▽単行本『虐殺と報道』(すずさわ書店・同十一月)

▽事実には事実を(『朝日新聞』一九八一年一月二十七日)

▽単行本『カンボジアの旅』(朝日新聞社・同二月=前年末の新聞連載分)

▽私の取材方法と認識論(『社会科学研究年報(5)』合同出版・同年版)

 以上のうち、集大成として残したものが著作第第16巻『カンボジア大虐殺』に収録された。


 以上で(その30)終わり。(その31)に続く。


(その31)悪名に縋り利用し続ける“親衛隊”の低水準
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