本多勝一"噂の真相"同時進行版

1999年3月発行分(10-13号)合併号

(その10)本多勝一流「自己文章改竄癖」軽視のわが反省録

 前回の前置きを繰り返すが、岩瀬達哉が本多勝一らを訴えた名誉毀損事件に関しては、すでに、本多勝一側の弁護士が、いわゆる市民派で、しかも、すべて私とは旧知の仲だったことを記した。その内の唯一の女性、小笠原彩子は、私が日本テレビ放送網株式会社を相手取って不当解雇撤回闘争をしていた時の弁護団の一員でもあった。

 前回は、小笠原彩子からの、まるでプライヴェートではない手紙を紹介した。そこには、拙著『湾岸報道に偽りあり』を、本多勝一に推薦したとあった。それを見た時に、そう言えば確か、本多勝一が文藝春秋相手に裁判をしていたな、などと微かな記憶が蘇り、その弁護団に小笠原彩子が加わっているのかな、とも思ったのだが、特に興味はなかったので、別に詮索はしなかった。小笠原彩子からは、もう一度、やはり、まるでプライヴェートではない手紙を貰った。それには、当時準備中だった『週刊金曜日』の定期購読者になって予約金を振り込んでくれという推薦の辞がしたためられてあり、定期購読者募集の申込書付きチラシが添えてあった。しかし、この手紙の方は、捨てたはずはないのだが、どこへしまったものか、心当たりの場所を探しても出てこない。

 その手紙と同時期に、本多勝一から著書の献呈を受けた。こちらは残っており、対『週刊金曜日』裁判の書証として提出した。私は、同裁判の本人陳述書の「被告・本多勝一からの著書献呈と『週刊金曜日』創刊以前の寄稿依頼」の項目に、つぎのように記した。

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「私は、1993年[平5]5月ごろに被告・本多勝一から、同人の著書、『貧困なる精神Z集』(毎日新聞社、1993年[平5]5月10日発行、甲第10号証の1)の献呈を受けました。この献呈本には、「引用箇所」を示す付箋が貼られており、その箇所には、私の著書に関しての、つぎのような評価が記されていました。

「たとえば最近刊行された木村愛二氏の『湾岸報道に偽りあり』(汐文社)(前略)などは、『中東の石油支配を狙うブッシュのワナにはめられたイラク』という構図が実にわかりやすく分析されている」(甲第10号証の1,67頁5-7行)

 この部分を含む旧稿の出典に関しては、「(『サンデー毎日』1992年8月16/23日合併号)」(同右69頁2行)と記されていました。私は、その『サンデー毎日』記事を見ていませんでしたし、右『湾岸報道に偽りあり』(甲第1号証)出版後も湾岸戦争関係資料の収集に努力していたので、内容としては重複になると思いつつも、日課のような図書館通いのついでに武蔵野市立中央図書館で右『サンデー毎日』の取り寄せを依頼し、入手するとすぐに該当記事を複写しました。

 ところが、右記事(甲第10号証の2)には、拙著『湾岸報道に偽りあり』(甲第1号証)についての記述がまったくないのです。

 はてなと思って、『貧困なる精神Z集』(甲第10号証の1)の方を見直すと、やはり、そのどこにも出典記事への増補の事実が記されていません。これでは読者が、最初の『サンデー毎日』記事のままだと誤解します。

 出典を明記しないのは新聞界の悪習であり、誤報、虚報、冤罪推進・拡大の根本的原因をなしています。それでも、個人名で出版する単行本の場合には、現または元新聞記者の多くが出典を明記しています。出典明記はするものの文章は断りなしに改竄するという被告・本多勝一の仕事振りは私の主義に反することなのですが、今にして思えば、被告・本多勝一の杜撰さに一応は気付きながら「一事が万事」という警句を忘れ、その後の仕事上の付き合いを拒否しなかったのは、まさに「千載の悔いを残す」というほかありません」

 その後に私は、被告・本多勝一からの直接の電話で、その当時創刊準備中であった『週刊金曜日』への寄稿を依頼されました。

 私の寄稿は、同誌の1994年[平6]1月14日号に、「湾岸戦争から3年/だれが水鳥を殺したか/湾岸戦争報道操作は続いている」という題名の5頁の記事(甲第9号証の2)として掲載されました。本件の場合と比較するために、ここで、その際の原稿料に関する事実経過を述べておきますが、記事掲載後に同誌からの電話の問い合わせに答えて私が告げた銀行の個人口座に振り込まれる以前には、一切、金額や支払い条件の提示はなかったのです。だがこれは、電話一本の寄稿依頼と同様に、現在の日本の出版界の通常の慣行ですから、その際には、私はあえて問題とはしませんでした。

 私は、その間及び以後に、被告・本多勝一と、日本ジャーナリスト会議(JCJ)などが主催する集会で何度か顔を合わせる機会があり、その都度、短い友好的な会話を交わしました。被告・本多勝一は、同会議をかつて退会していましたが、1993年[平5]11月5日に予定されていた『週刊金曜日』の創刊を前にして、支援を訴えるために再加入していました。

 私は、同会議に、1991年[平3]から1996年[平8]まで加入していました。

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 実は、上記の記事、「湾岸戦争から3年/だれが水鳥を殺したか/湾岸戦争報道操作は続いている」の『週刊金曜日』(1994.1.14.)掲載に当たっても、今にして思えば、いささか奇妙な事実があったのである。

 上記記事には、つぎのような部分がある。

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 詳しくは拙著『湾岸報道に偽りあり』をご参照いただきたい。歴史学者の弓削達氏は、「イラクがまんまとCIAの『挑発』にのった、という構図がほぼ疑いえない」とし、過分ながら拙著が「このことをみごと追究してほぼ立証」(『21世紀に平和を』)したものと評価している。

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 文中の『21世紀に平和を』は、前回紹介した「全教」の教育研究集会の記録をまとめた単行本だが、『週刊金曜日』の編集実務担当者は、なぜか、紙面の関係と言うだけで特に箇所を指定する理由は言わずに、以上の部分を削ってほしいと申し入れてきたのである。私は実は、この部分で、本多勝一の本の方の評価にもふれようかなと一度は思ったのだが、くどくもなるし、前述のように『サンデー毎日』の記事と単行本との関係があったし、なによりも掲載誌『週刊金曜日』の代表格におもねるようなことはしたくなかったので、それは省いたのだった。だから、この部分を削れないかと言われた瞬間に、あっ、これは本多勝一の指示ではないのかな、と思ったのである。

 しかし、これは本当に事実経過の通りなのだが、その時すでに私は、弓削達宛てに礼状を出していた。評価への感謝と同時に、お陰様で記事掲載に至ったと報告していたのである。これは事実通りだから、編集実務担当者に対して、「こういう事情で、この部分は削れないから、ここ(箇所は忘れた)を、こう短くする」という主旨のファックス通信を送って、それでパスした。

 この記事の掲載直後に、当時は結成したばかりの「アジア記者クラブ」の主宰者で、結構きついことを平気で言う菅原秀が、あるパーティの席上、私の顔を覗き込みながら、ニヤリと笑って、つぎのような主旨のことを言ったのである。

「木村さん、『週刊金曜日』に取り上げられてご機嫌のようだけど、あそこは前宣伝とは大違いで普通の週刊誌に比べれば桁外れに原稿料は安いし、本多勝一は酷い奴ですよ」

 まずは、本当に「原稿料は安い」のだった。

 以上で(その10.1999.3.5.発行)終り。次回に続く。

(その11)『創』1999.4月号で「疋田・本多vs岩瀬裁判」寸評

 前回の続きを予定していたら、標題のごとく月刊誌『創』に、2頁見開きの寸評が載った。2頁目の下段の中程には、「公判終了後には本多氏と別件(注1.本稿末尾に関連情報)で係争した木村愛二氏が傍聴席の柵ごしに本多氏に大声で詰め寄り、周囲から制止される一幕もあった」などとあるので、一言しないわけにはいかない。しかも、手帳を見れば、きたる3月17日には、第4回(反訴の方は第2回)の口頭弁論である。

 まずは「大声」だが、これは、名誉毀損とまでは言わないが、「号令調整、シュプレヒコール、合唱団、宣伝カーの上などでの街頭演説で、長年鍛え上げた持ち前の良く通る美声」と、厳重に訂正を申し入れる。別に無理して怒鳴ったわけではない。「カラオケ酒場」」の、あの退廃的な、あの暗くて、あの狭い空間で、エコー付きマイクなど使わなければ声が出ないような、腰抜け世代ではないのだ。えへん。

 さて、次回の口頭弁論を控えて、すでにわが Web週刊誌が、並み居る月刊誌を尻目に、早々と報道した前回の口頭弁論に評価について、さらに『創』を論評しながら、論じ直したい。

『創』1999.4月号では、巻頭の「情報の焦点」欄の2番目に「疋田・本多vs岩瀬裁判、反訴も含めた一括審理開始」を配した。疋田・本多が、別の日に別々の反訴状を出した経過までは、本連載報道の通りであるが、つぎの部分が、わが速報よりも詳しくて、「反訴状を読む限り」ともあるので、実物を確かめているようだから、間違いなくより正確であろう。以下、一部引用する。

「反訴の内容自体は両氏とも基本的に同じで、『リクルート社から接待を受け、同社の関連会社の経営するホテルに無料で宿泊したとの虚偽の事実を広く伝えられた結果、反訴原告(被告)の名誉並びに同人がこれまで築き上げてきたジャーナリストとしての高い評価は著しく傷つけられた』という従前からの主張に沿ったものとなっている。

 もっとも岩瀬氏の訴訟に対する反訴と言う形になったことで、疋田氏らが当初抗議対象としていた講談社はとりあえず裁判の当事者から外れる結果となった」

 私は、すでに、なぜ、講談社と朝日新聞が、当事者ではないのか、なぜ、一介のフリーのものかきが、減収覚悟で争わなくてはならないのか、について何度も論じてきた。だから、上に引用した『創』記事の文脈の最後の部分、「講談社はとりあえず裁判の当事者から外れる結果」についての想いが深い。

 ぜひとも以上の引用部分全部を再読し、吟味してほしい。『 』内のような偉そうな主張をするのならば、なぜ、両氏は、掲載誌『ヴューズ』の発行元、講談社を相手取って堂々と争わないのか。この「嘘付き!、腰抜け!、ドズル!」と、これは本当に破鐘(われがね)のような「大声」で怒鳴り付けてやりたいのだが、法廷の壁が破れたりすると面倒だから、やはり「美声」程度で我慢しよう。

 しかも、本多勝一の場合には、何度も繰り返すが、岩瀬に対して、つぎのような実に汚い最低の罵詈雑言を投げ付けているのだ。

 以下、本連載(その1)から一部引用する。

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『ヴューズ』(97.1)「正義を売る商店・朝日新聞株式会社の正体」第1章「リクルートの『接待旅行』」を執筆した岩瀬達哉は、その仕返しに本多勝一から、「捏造記事」「パパラッチ」「講談社の飼い主にカネで雇われた番犬・狂犬の類」「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」「人間のクズ」「カス」などと言いたい放題の罵詈雑言を浴び、それらを名誉毀損で訴えた。

 元を糾せば、岩瀬の記事を「捏造」と非難した側の方が、講談社と岩瀬を相手取って名誉毀損の訴訟を起こすのが筋なのだが、彼ら元朝日新聞著名記者らも朝日新聞社も、未だに訴訟を提起していない。この辺の裏の事情についての観測は、のちに詳しく記す。

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 以上の内、上記『創』記事と特に深い関係にある罵詈雑言は、「講談社の飼い主にカネで雇われた番犬・狂犬の類」である。「講談社」を「飼い主」と呼び、その「飼い主」が「番犬・狂犬の類」を「カネで雇」ったと非難するのなら、なぜ、主敵であるはずの、しかも、ご両氏が愛社精神を捧げてきたはずの「朝日新聞株式会社」を「誹謗中傷」したはずの、その「飼い主」の「講談社」を、なぜ、相手に取って堂々たる戦いを展開しないのか。この「嘘付き!、腰抜け!、ドズル!」。

 きたる3月17日、午後4時から5時、私の「号令調整、シュプレヒコール、合唱団、宣伝カーの上の街頭演説などで、長年鍛え上げた持ち前の良く通る美声」を確かめたい方は、ぜひとも法廷にお越し下さい。終了時刻も夕刻なので、新橋方面の酒場などで感想を語り合うのも結構、結構、結構、毛だらけ、猫、灰だらけ。

注1.「別件」については、この間、下記mailを関係各所におくった

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[pmn 6346] ベルリンから「ガス 室」泥酔電話

Sent: 99.3.9 11:46 AM

 木村愛二です。

 とりあえずの「ガス室」裁判、緊急状況報告です。

 今朝8時、時差を計算すると相手のベルリンでは深夜24時、私が日課の朝の体操中に、電話のベルが鳴りました。出ると、ヤクザっぽく潰れた声が「ベルリンの梶村です」と凄みました。株式会社金曜日と『週刊金曜日』記事執筆者2名を私が名誉毀損で訴えた事件の内の1人で、元慶應の全共闘とかです。

 今は時間も無いし、判決文は、私自身がこれを機会にスキャナーの使い方を勉強しようと思っていたら、ヴォランティアで引き受ける人が出てきたりしている最中なので、詳しくは後に論じますが、梶村は、「控訴したのか」と明らかに泥酔の口調でからんできました。国際電話の料金はそちら持ちだから、勝手にせいというところですが、やはり時間がもったいないので、「あんたは従犯、主犯の本多勝一の化けの皮が剥がれたから、下らない連中相手にこれ以上の時間は掛けない」、と答え、さらに、「あんたらは法廷で『ガス室』の実在を立証しようとしなかった卑怯ものだ」と叱りました。

 すると、ますますダミ声で凄む梶村は、「待ってろ、今度はこちらが訴える。2週間すれば訴状が届く」と怒鳴りました。有り難いことです。私が控訴しなかった最大の理由は、控訴には初審の150%の印紙を貼る必要があるからです。約9万円になります。地裁の段階では、ともかく黙ってはいないことの宣伝費および傍聴の仲間に聞かせる部屋代と考えることができましたが、高裁では最低1度、最高裁ではほとんどゼロで、法廷は開かれなません。しかも、さらに反動的になるのが常識です。

 すでに準備書面でも、これはインターネットで公表するから、訴えてみろ、と本多勝一に挑戦し、費用をそちら持ちで争えれば結構至極と記しました。

 梶村被告は、ベルリン居住を口実として訴状の受け取りまで拒否した卑怯未練の「ガス室」商売人です。アウシュヴィッツと広島の団体旅行案内が彼の主要な仕事です。またぞろドイツの裁判所にでも訴えるのでしょうが、旅費と宿泊費、法廷通訳さえ用意してくれれば、喜んで出頭し、ドイツの法廷でも堂々と同じ事を主張します。新たな期待に胸がふくらむ想いです。

 以上。

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 以上で(その11.1999.3.12.発行)終り。次回に続く。

(その12)裁判長を不機嫌にした本多流「罵倒」擁護論

 1999年3月17日、午後4時10分から5時丁度までの50分間にわたって、第4回(反訴の方は第2回)口頭弁論が、東京地裁721号法廷で開かれた。すでに本連載の初めに記したように、裁判長が積極的に「議論を」という日本では珍しい法廷の試みでもあり、当日は特に、疋田被告(反訴原告)の代理人、梓沢弁護士が、立ち上がるや否や、「傍聴人にも聞いてほしい」とか、「この法廷の傍聴人は外へ広げる人々」とか言って、ものかきがノートを広げて取材する法廷を大いに意識する面白い展開になった。

 傍聴人は、24名であり、36の座席数には満たないが、丁度良い感じの埋まり方で、その内の約3分の1がノートを広げていた。ただし、司法記者クラブ所属の不勉強なサラリーマンは、事件審理の途中には来ない習性だから、先にも述べたように、記者専用席になることが多い一番前の一番左の最上席には、私が陣取って、ゆったりと被告(反訴原告)側の席を見渡していた。

 効果音も加わった。梓沢弁護士が、「3万5千円の根拠を示せ」と芝居掛かって2度もテーブルを叩くと、裁判長が制止する間もなく、岩瀬側代理人の渡辺弁護士が即座に、「テーブルなんか叩くなよ」と大声で注意するなど、爆笑シーンも交え、内容も豊富だった。次回は3カ月も先の6月16日(水)11時から(721号法廷)となったので、それまでに、わが連載は今回を含めて13回もある。だから、今回の法廷の状況に関しては、何回かに分けて、課題別に詳しく報じ、かつ徹底的に論じ来たり、論じ去ることにする。

 今回は、本多勝一代理人の高見沢弁護士による本多流「罵倒」擁護論、特に、「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」に関わる「詭弁」と、それらに対する裁判長の不機嫌な意見開陳を特集する。裁判長の不機嫌とは、一種の中間判決の様相を呈するので、それを最初に要約する。

 まず簡単に言うと、高見沢弁護士は、『日本を駄目にした百人の文化人』とかいう本を持ち出して、めくりながら、かのブラック落語家風の論客、佐高信が、猪瀬直樹を「みみず」呼ばわりしていることなどを論拠に、「ジャーナリスト同士、言論人同士の罵倒合戦を、お互いに言論で争うべきであって、法廷に訴えるべきではない」と主張した。これに対して、裁判長は不機嫌になって、「言論の自由の問題」「何を言っても構わないということか」という意見を開陳したのである。

 そこで、説明の都合上、まずは、事件の概要に関する本連載の記述を再録する。

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『ヴューズ』(97.1)「正義を売る商店・朝日新聞株式会社の正体」第1章「リクルートの『接待旅行』」を執筆した岩瀬達哉は、その仕返しに本多勝一から、「捏造記事」「パパラッチ」「講談社の飼い主にカネで雇われた番犬・狂犬の類」「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」「人間のクズ」「カス」などと言いたい放題の罵詈雑言を浴び、それらを名誉毀損で訴えた。

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 高見沢弁護士は、まず、以上の主要な罵倒の内、「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」について、「岩瀬さんを売春婦と言ったのではない」、「売春婦を卑しいと言ったのでもない」「世間一般に卑しいとされる売春婦よりも」と言ったのだという屁理屈を捏ねたのである。

 私は、唖然とした。私は、高見沢と個人的な会話を交わしたことはあるものの、良く考えてみると、実際の闘争現場で顔を見たことはなかった。市民派弁護士とは言っても、ピンからキリまである。非常に程度の低い「三百代言」並みのも沢山いる。どうやら、雇主の都合に合わせ何でもかんでも、しゃべりまくるだけの程度なのかもしれないので、これからは、眉に唾をたっぷり付けて見ることにする。

 というのは、この「売春婦」に関しては、すでに本多勝一自身のごまかしが始まっていたのである。しかも、そのために、私の上記引用部分に関して、某インターネット・オタクから、実に下らない絡まれ方をされたばかりだったのである。

[以下、mailについては氏名など一部を1999.3.24.改訂]

 さて、すでに、インターネットの「本多勝一研究会」につては、本誌でも簡単に報じた。この研究会のmailは、一応お互いに断ってから発表しようということになっているので、別途の公開mailによって、その状況を紹介する。引用mailの「若者」は、これが公開mailであるのもかかわらず、私が勝手に個人情報を使ったかのように主張する抗議を各所に送りつけたので、いちいち相手にするのは時間の無駄だかし、個人があいてでないので、匿名とする。30歳台、図書館でコピーした資料をスキャナーで読み込んでは、一日に何通もmailを送る典型的なマニアである。

 以下、主要箇所のみ引用。改行、句読点を一部変更。

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若者:本多発言テキストを正確に引用すること。

(木村氏には原資料にきちんと当たるべきことを申し上げねばなりません)

 くだんの本多氏の「売春婦」発言は、『週刊金曜日』1997年10月3日号に載ったもので、正確なフレーズは「よく卑しい職業の例にあげられる売春婦よりも本質的に下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中である」

 本多氏の文章はいちおう「よく……あげられる」なる一節があって、一応「一般的には売春婦は卑しい職業と言われている(がそれは自分の本意ではない)」と言う程度の意味で言ったんだといういいわけはいえそうです。

 ただし、以前の本多氏の「売春婦」発言にはもっととんでもないものがありました。

「カンボジア革命の一側面」(『潮』1975年10月号277ページ)

プノンペンにいるカンボジア人の多くは、女中だの下男だのといったいわゆる下働きを、それも主として外国人の下働きをつとめるにすぎない存在であった。でなければ売春婦やポン引きのような賎業である。つまり大ざっぱにいえば、プノンペンの町は外国人およびその“下僕”としての国辱的カンボジア人からなっていたと極論することもできた。

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木村:後者は、私の裁判でも書証にしました。前者は、『創』記事の岩瀬訴状解説から取ったもので、それで十分です。私には『週刊金曜日』を図書館で見て時間を無駄にする気は、今後もまったくありません。

 また、[この若者]は、「いいわけはいえそう」としていますが、その国語解釈は間違いだと思います。本勝の文章の「よく・・・・あげられる」は、まったく逆の意味で、世間一般の常識を根拠に決めつける本勝流「虎の威を借る狐」の卑劣な手法です。以上。

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 以上で、マニアは沈黙した。つまり、本多勝一は、以前にも「売春婦やポン引きのような賎業」と書いていて、それに今度は「よく卑しい職業の例にあげられる」という「虎の威を借る狐」の卑劣な手法を加えたのであって、さらに卑劣にも、自分の罪を「世間一般」になすり付けようとして、逃げ惑っているだけのことなのである。その上、実際には、そのような「世間一般」の差別意識を助長したのは、本多勝一らの大手紙ゴロツキ記者たちだったのである。

 この程度の本多勝一流「国語解釈」のごまかしに、どうやら当世流行のフリーター程度の未熟な若者が引っ掛かるのなら、まだ理解できないでもないが、私よりも年齢は少し低そうだが、白髪交じりの中年の「司法試験合格者」の「市民派弁護士」までもが、真に受けてか、それとも弁護料稼ぎのためにやむを得ずにか、ともかく、何人ものプロのものかきのノート風景を横目に見ながら、さらには私までも真っ正面に見ながら、平気でしゃべりまくるというのは、最早、唖然、呆然、愕然、寒心の至りと言う他なかった。

 しかも、最も重要なことは、疋田・本多は、事件当時には朝日新聞の現役記者であり、いわば「功なり名(悪名)遂げた」大物である。今も、朝日新聞の威光を笠に着ているのであって、基本的には大手メディアの立場である。岩瀬は、駆け出しと言っては失礼だろうが、まったくのフリーである。問題の記事の掲載誌の版元、講談社は逃げ腰である。岩瀬は、本多勝一流バッシングに負けたら、業界から追放され兼ねない立場の弱者である。高見沢が論拠にした佐高・猪瀬の罵倒は、同程度の著名フリー同士の「やらせ」に近い「プロレス」ごっこであって、全く比較にはならない。

 こういう立場の違いも分からない「市民派弁護士」とは何ぞや!

 私の目には、この件では裁判長の方が、ずっとましに見えたのである。

 訴訟ということに関しては、次回に詳しく論ずるが、本多勝一自身が文芸春秋『諸君』記事を「名誉毀損」として訴え、昨年、最高裁で敗訴が決定したばかりではないか!

 しかも、その事件の弁護団の内、2人までもが高見沢の隣に座っていたのである。

 以上で(その12.1999.3.19.発行)終り。次回に続く。

(その13)言論人同士の「罵倒」訴訟無用論の二枚舌

 前回に引き続き、1999年3月17日、東京地裁 721号法廷で午後4時10分から5時丁度までの50分間にわたって開かれた、「岩瀬vs本多・疋田」裁判の第4回(反訴の方は第2回)口頭弁論における「裁判長を不機嫌にした」問題点の第2.名付けて「訴訟無用論の二枚舌」(ダブル・スタンダード)を詳しく紹介する。

 まず前回述べた口頭弁論の経過を要約すると、本多勝一代理人の高見沢弁護士による本多流「罵倒」擁護論は、「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」をも言論の許容範囲と強弁し、さらには、「ジャーナリスト同士、言論人同士の罵倒合戦には、世間一般から見れば極端な表現もあるが、お互いに言論で争うべきであって、法廷に訴えるべきではない」と主張するものだった。これに対して、裁判長は不機嫌になって、「言論の自由の問題」「何を言っても構わないということか」という意見を開陳したのである。

 上記の「「ジャーナリスト同士、言論人同士の罵倒合戦は、お互いに言論で争うべきであって、法廷に訴えるべきではない」という主張を、さらに要約すると、こういう場合には訴訟を提起してはならないということになる、事実、高見沢弁護士は、気のせいか、私の方に目を向けていたようだったのだが、「そういう訴訟を起こしたジャーナリストはいない」とまで断言したのである。だから私は、前回の終りに、つぎのように記した。

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 訴訟ということに関しては、次回に詳しく論ずるが、本多勝一自身が文芸春秋『諸君』記事を「名誉毀損」として訴え、昨年、最高裁で敗訴が決定したばかりではないか!

 しかも、その事件の弁護団の内、2人までもが高見沢の隣に座っていたのである。

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 上記裁判については、すでに本連載でも紹介している。しかも、この「岩瀬vs本多・疋田」裁判の裁判長は、訴訟指揮についての見解の一部として、「こちらにも最高裁判例がありまして……」と発言し、実は、上記の本多勝一が原告の通称『本多勝一反論権訴訟』の最高裁判決の一部を暗唱してみせたのである。以下、すでに記した出典などは省略して、その最高裁判例の該当部分の文章のみを再び紹介する。

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 他人の言動、創作等について意見ないし論評を表明する行為がその者の社会的評価を低下させることがあっても、その行為が公共の利害に関する事実に係り専ら公益を図る目的に出たものであり、かつ、意見ないし論評の前提となっている事実の主要な点につき真実であることの証明があるときは、人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱するものでない限り、名誉毀損としての違法性を欠くものであることは、当審の判例とするところである。

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 今回の問題に関わる部分のみを指摘すると、「最高裁判例がありまして……」という立場の裁判官としては、「事実の主要な点につき真実であることの証明」と同時に、「罵倒」表現が、「人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱するもの」かどうかという判断を、しなければならないのである。つまり、裁判長は、そういう判断もしますよ、と予告したのである。ところが、高見沢弁護士の主張では、訴訟を起こすのがおかしいのであり、ひいては「裁判所は黙って見てろ!」ということになってしまう。

 弁護士から「黙って見てろ!」とまで言われて怒らない裁判官がいたら、お目に掛かりたいものである。司法試験合格と言う資格では同等でも、裁判官への任官拒否事件の多発に見られるように、裁判官として最高裁の人事当局に選ばれるためには、なにがしかの努力が必要である。少なくとも本人たちの自覚では、相当に、お行儀を良くする努力が必要なのであって、結果として、気楽な、誰でもなれる弁護士とは違うというエリート意識を持っているはずなのである。私の観察によれば、上記のように不機嫌になって、「言論の自由の問題」「何を言っても構わないということか」という意見を開陳した時の裁判長の顔は、かなり引きつっていた。

 しかも、上記の通称『本多勝一反論権訴訟』は、訴訟提起当時も著名な大手新聞記者であった本多勝一自身が起こした裁判なのだから、高見沢弁護士による「そういう訴訟を起こしたジャーナリストはいない」という主張とは、完全に矛盾するのである。おそらく高見沢の主張は、『本多勝一反論権訴訟』を「事実」に関する反論請求によるものと規定して、自らが規定した「そういう訴訟」の方を「罵倒」表現の争いにのみ限定するつもりなのであろうが、そういう曲芸は通用しない。無理をすれば、「猿も木から落ちる」ということになる。

 参考のために、上記の事件に関する最高裁の理解の仕方を、以下に再録する。

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[前略]

 本件は、上告人の著作物について被上告人殿岡昭郎の執筆、公表した評論が上告人の名誉を毀損するものであるとして、上告人が被上告人らに対して損害賠償等を請求するものであり、前提となる事実関係の概要は、次のとおりである。[中略]

 後段部分は、全体の長さが76行であり、その内容は、「何より間題なのは、本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである。」、「従ってカントーの事件でも本多記者は現場に行かず、行けずに、この12人の僧尼の運命について改府御用の仏教団体の公式発表を活字にしているのである。」、「もちろん逃げ道は用意されている。本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか。」、「誤りは人のつねといっても、誤るにも誤りかたがあるというもので、12人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言訳はできまい。」などとして、本件焼死事件が無理心中事件であるとするティエン・ハオ師の談話をそのまま紹介した上告人の執筆姿勢を批判するものである。

[後略]

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 以上を受けて、最高裁は、「本件評論部分は、専ら上告人が本件焼死事件に関するティエン・ハオ師の談話をその真偽を確認しないでそのまま『鸚鵡返しに』紹介したことを批判するもの」と要約している。この括弧に入れた『鸚鵡返しに』と言う表現が「罵倒」であるか否か、という判断もあろうが、実は、上告人(本多)の方の「上告理由」では、それ以外にも、「被上告人殿岡昭郎」が用いた「インチキ臭い」「『ハノイのスピーカー』と呼ぶ人がいるのも非難ばかりはできない」「報道記者としての堕落」などの表現を列挙して、これらを、「口を極めて上告人を罵っているのである」とか、「口を極めた罵言」とか評価しているのである。つまり、「罵倒」表現として主張しているのであり、その「罵倒」を不当だとして最高裁上告までしていることになる。

 これらの「被上告人殿岡昭郎」が用いた表現が、「口を極めた罵言」であると評価して、最高裁まで争った本人、当時は大手新聞記者、現在も週刊誌を発行する会社の社長、本多勝一自身と2人の弁護士が同じ法廷の隣の席に座っているというのに、高見沢は、「売春婦よりも下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中」という罵倒を浴びせ掛けられても、駆け出しの若手のフリーのものかきは、

「訴訟を提起すべきではない(?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!)」

「裁判所は黙って見てろ(?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!)」

 と主張したのである。これが呆れずにいられようか!

 以上の「二枚舌」と、以下の、本多勝一自身の文章、『週刊金曜日』(1996.5.31)連載記事「貧困なる精神」68「文春の本質を見誤ってはならぬ」4.の一部とを比較してみると、さらにこの「二枚舌」の矛盾が明瞭になる。なお、文中の「スリかえ」「大改竄」は、まったくの嘘八百である。

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『諸君!』1981年5月号は、「今こそ『ベトナムに平和を』という評論で、他人の言葉をそっくり私の言葉になるように改竄した上で私を非難中傷した。これは20余年間にわたる私への文春の攻撃の中でもあまりにひどい例なので、「投書欄でもよいから」と訂正なり反論文掲載なりを求めたが、当時の堤尭編集長は3年間にわたって拒否しつづけた上、反論文を再度送れば「間違いなくクズ籠に直行させる」と反応した。3年すぎれば時効になるので、私としては提訴せざるをえなかった。[中略]

『週刊文春」1988年12月15日号は「“創作記事”で崩壊した私の家庭、朝日・本多記者に宛てた痛哭の手記」として、私が幼児のころ(1937年)に書かれた『東京日日新聞』(のちの『毎日新聞』)の記事を私の記事のようにスリかえた上で攻撃し、しかも私のコメントを大改竄して発表した。[中略]

[前記『諸君!』記事]の裁判であまりに時問がとられ、これ以上また提訴で時問をとられては仕事に差支えるので、時効のままに放置せざるをえなかった。日本の裁判は明白な改竄や捏造による名誉毀損に対しても即決せず、10年単位の時間と費用をかけた上で、勝訴してもウン10万円ていど。これでは暴力団に依頼した方が早いと考える例があるのは当然であろう。アメリカ合州国だったら雑誌がつぶれるほどの損害賠償をとられる事例が「お家芸」となっていることこそ文春の内実なのだ。このようなゴロッキ雑誌のゴロッキ編集長にひどい目にあわされた被害者は、もちろん私以外にもたくさんいる。裁判のばがらしさを知つて、ほとんどが泣き寝入りである。だが、私は死ぬかボケるかするまで、泣き寝入りはしない。裁判そのもののひどさを知って、裁判所あるいは裁判制度自体を批判する作業にとりかかることにした。

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 以上で(その13.1999.3.26.発行)終り。次回に続く。

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