日本ナショナリズム研究3

日本ナショナリズム研究会:第1期
明治初年(幕末を含む)——19世紀後半:「万邦に対峙する」の国家目標 その3

伊藤晃

明治維新

国家目標にあわせた国家の作りかえ

明治維新は、政治過程の表面を見れば、国家創設行為というよりは妥協的な国家譲うけ、幕末政争で分岐した武士・公家支配集団の再統合と言えますが、しかし新権力にとっては、この過程で浮かび上がった国家目標「万邦に対峙する」に沿って、万邦(列強)にならった国家の大きな作りかえが必要でした。

世界的な列強支配の一員であるためには、それなりの力が必要、当時その力は日本から見て軍事と経済に感じられましたから、富国強兵が中心政策になりました。同時に欧米モデルの近代的国家権力機構の創出が必要であり、差し当たり維新指導集団は共同の独裁中央集権権力に結集します。前回お話した、「公議」は一旦ここまで収縮させられ(これを拡大するための試行錯誤はありましたが)、天皇が支配集団融和の働きを想定して権力機構の中枢に組み込まれました。同時に1871年、廃藩置県による旧幕藩統治機構の変革。

さらに領土の確定(北方、沖縄)。条約改正は当面実現困難だが、目標として設定。国権の主張は早くも朝鮮・中国に対する、アジア世界での伝統的外交方式の無視と列強なみの態度に態度に表れる。1874年には台湾出兵、近代日本最初の対外戦争です。これらにアジアを飛びこえた、万邦が対峙しあう欧米列強の世界支配への一体化の願望があります。この「高さ」から伝統的アジア世界に臨む、自己の進出を通じてこの世界の破壊者となる第一歩が、明治維新の第一歩で印されたわけです。

はっきりした国家目標と統一的権力による効率的行動は、小柄なだけに機敏で、国も歴史のスケールも大きい中国で同じような近代化の試み、洋務運動が大変革運動にならなかったのと対照的でした。日本は国家の新方向に邪魔なもの、非生産的なもの、旧武士身分(新権力集団の母胎であったもの)を手早く処置してしまった。浪費のない蓄積への集中ですが、ただしこれを裏から見れば、人と社会の再生産費用の最小化ということにもなる。旧体制の公租制度を改革(1873年、地租改正)したとき、当初、旧時代の年貢総額を新しい税総額が下回らないよう、税率を定めた。これでは農民には拡大再生産が困難で、のちの自由民権運動の争点になりました。

やがて生まれてくる工業生産においても、労働賃金は、資本主義経済学が理論上想定する「最低生活費」を頭においたかの如くでした。

インフラストラクチュアは、産業上・軍事上のそれに手厚かったのに対し、社会的なそれははなはだ貧困、公的に負担するべきものと思われていなかったのでしょう。日本ではたとえば上水道の全国的普及は1960年代、下水道は1970年代ですね。都市部でさえ一部を除けばこれらは長年お粗末でしたが、ヨーロッパの大都市などこれらはいつできたのでしょう。「レ・ミゼラブル」に出てくる地下下水道はよくご存知と思いますが、私は若いころ、映画「地下水道」(A・ワイダ、ワルシャワの場合)、「第三の男」(O・ウェルズ、ウィーンの場合)などを見てもそんなことを考えたものでした。いずれにせよ明治の「近代化」はモデルになった19世紀欧米を丸ごと平行移動したものではなかったわけです。

人民の国民化

国民国家であることは欧米列強の強さの要因であって、これも独自な様相を呈しながらいちはやく実現されました。全人民(当時3000万くらい)を旧身分から解放して(四民平等、ただし被差別部落民への実質的身分差別は周知のとおり)、国家の資格ある構成員、権利主体(例えば私的所有権の)として認め、国家事業の義務的負担者(納税義務者、兵役義務者——1873年徴兵令による国民軍創設)とした。こうしたものとしての人民を国家は等質化しなければならず、学制(1872年)は初等教育を、実現されるべき国民社会の知的モラル的水準形成の場として与えました。人民の側もここにある種の上昇目標を感じ、相当の意欲を持ってこれにこたえたようです(就学率、識字率のかなりの高さ)。

国民化された人民の内面に国家への従属性が見られることが重要です。維新変革に際して人民は受動的で、それは「与えてくれる」国家への屈従性につながっていったと思います。国家の政策にしばしば反抗しました(地租改正や徴兵令への反対一揆など)が、自己の権利へのこだわりや相互の共同性に系統性があったとはいえないでしょう。

人民の知的モラル的形成に標準を与えたのはむしろ武士的知識人層だったといえると思います。かなりの数の旧武士が新社会の官・民の職に移行したし、国家は身分としての武士集団は廃止しましたが、この集団の知的水準、モラル的性格を、人民の方向づけに動員したのです。徳目でいえば、忠、孝、仁、義、天下国家への責任・義務感(公益・世務意識)から勤倹、自彊、克己、自己啓発、独立心、名誉心、質実剛健、男性的武断的精神、女性向けのあれこれの婦徳などに表現されます。これらは、古い儒教起源のものも含めて、人民を国民に媒介していく国家的価値意識として働いたとみるべきでしょう。

人民の新国家への媒介者になったものに村落指導層(村役人層、豪農層)、一家の中では家長(明治家族制度における戸主)があります。いずれも旧社会の人民従属構造のカギを握ったものですが、豪農層はだいたいかつての地侍層、兵農分離過程で武士に上昇せず農村に残ったもので、当然その性格には武士に通ずるものがあったでしょう。

もう一つ、人民の国家への媒介者として最大の働きをしたのが天皇でした。時期は少しのちのことにわたりますが、ここでふれておきましょう。

「国民の天皇」形成期

1882年の「軍人勅諭」。いまあまり眼にする機会がないでしょうから、資料としてお配りしておきました。徴兵される兵士、それまで国家の軍事などまったく縁がなかった兵士たちの意識を、国家の兵士としての意識に作りかえようとします。忠節・礼儀・武勇・信義・質素の徳目をかかげる。ごく一般的なこれらの徳目が、わたくし・「地方」(軍隊では軍隊外の世界をこう呼んだそうですが)から「おおやけ」・国家の兵士に立場を変えると意味が変わる、意識の変革をせよと説くものです。なお、よく指摘される天皇への忠節は、国家の軍隊を率いるものとしての天皇への態度のことで、天皇の私兵になるのではない。「私のもとで私に従って忠実な国家の兵士になってくれ」。山縣有朋・西周らの構想の文章化に文人福地桜痴が働いたという説得調文章は、天皇を啓蒙者として働かせるものでありました。

1890年の「教育勅語」。新しい国家の一員として持つべきモラルの基準を示す。儒教由来の徳目も多いが、これが国家主義によって高められています。終わりの方で「一旦緩急アレバ義勇公二奉ジ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」とあるが、ここでも守るべきものが国家の頭主としての天皇であることはもちろんです。この教育勅語、言われていることはだいたい当たり前の徳目だとして、戦後も復活論をいう人がいましたが、問題は眼目が国民の国家への一体化であること、それにかりにふつうの道徳でもこれを天皇が与えるということが重大な政治性を与えたことなのです。

1889年、憲法公布の際の勅語。そのなかに、古来、天皇の一貫した存在(万世一系)は汝ら国民の祖先の助けがあってのことであった、ということが言われています。万世一系は万民翼賛、人民の積極的同意と結びついて「国体の精華」をなすということです。万世一系が裸でやってきて国民をとらえられる、国民イデオロギーになれる、というわけではない、と起草者には感じられているのではないでしょうか。

こうして、明治になるまで人民に現実的政治的存在として意識されることのほとんどなかった天皇が、「国民の天皇」として歩みはじめるのです。維新当初から天皇を人びとに周知させるために手は尽くされていたし、国家意識の中心に据える場として学校や軍隊がその後にわたってどれだけ働いたかなどは、いまは省略しますが、それらは概して成功したのです。権威として上から臨むものとしての天皇は人民の受動的な内面に入りやすかった。恩恵を与えてくれる天皇、「御一新」によって理想の世を作ってくれるはずの天皇、「そういうものらしい」というだけである種の期待が維新前後から生まれていたようで、それを煽って利用しようとした例もあります。その一つに赤報隊事件(偽官軍事件)があります。

討幕運動の志士であった相楽総三さがらそうぞうは、戊辰戦争で赤報隊というグループを作り、東征軍に先鋒として加わります。途上、動向のはっきりしない農民を引きつけるため「天朝様の御支配になると年貢半減」と宣伝しながら進む。赤報隊は官軍指導部公認のものですが、戦後のことを考えれば農民にこんなことを本気で信じられても困る。結局相楽らは「偽官軍」として捕えられ、殺されることになります。

こうしたことの背景には、当時各地の村落指導層(豪農層)のなかに、本居宣長の流れ、平田篤胤の国学の影響が広まっていたことがあった、とされています。

その後、日清・日露戦にも勝って帝国日本の飛躍がめざましく、希望のナショナリズムが国民を高揚させるなかで、その成功を率いる天皇への崇拝は高まっていきます。それはのちにふれることにしましょう。

さて、以上に述べてきたのは、外圧に対して支配集団が、退守的でなく逆に「進取的」に万邦に対峙するのでなければならぬとして欧米をモデルにしたつもりで国家・国民を変革・近代化していった過程です。欧米資本主義世界によるグローバリゼーションは、地球の一角におけるそれへの主体的対応としてこんな「進歩」を生み出したわけです。

「進歩」の歴史とナショナリズム

かつて多くの歴史学者は、一段階古い社会体制の支配集団が歴史段階を飛んで新しい社会体制の創始者になるという、この過程の理論的説明づけに苦しみました。封建社会が資本主義経済の満足な形成なしに近代社会にどうして移行できるのか。近代の胎動へのヨーロッパ封建支配集団の受動的対応の一つの型、「絶対主義」に説明を求める学者がたくさんおりました。明治以降の日本は外見はともあれ本質的には封建社会であり、天皇制は「絶対主義天皇制」だということでした。これは政治とのかかわりもあって、当時歴史学をリードしていたマルクス主義・近代主義(これらについてはいずれおはなしすることになるます)に共通する意見で、私が学生のころ、1960年代初頭、歴史学者の中の多数意見でした。それからすぐ、社会的大変動のなかでこの多数派はなしくずしにくずれていきますが、この過程のきちんとした歴史的総括はなされず仕舞いになっています。

考えてみると、これらは日本だけのことではないけれども、歴史発展の過程を経済過程と単純に関係づける、しかも一国単位でそれをやる傾向が日本ではことに強く、案外ここにもナショナリズムの一つの表れを見ることができるのかもしれません。

とにかく明治維新以降の「進歩」の歴史、この「進歩」は、現在ある如き世界に向けての歴史の進行というだけの意味ですが、結局ここにその後の日本ナショナリズムの基本的道筋が敷かれました。そしてそれは国家の主導によるのであり、従ってその国家の最初期の政府指導グループ、大久保利通一派(大隈重信、伊藤博文、井上馨、山縣有朋ら)や岩倉具視、木戸孝充がナショナリズムの本筋、主流をなしたことになります。けれども一般に、政府批判派としての西郷隆盛らの方にナショナリズムの源流を見る見方も強いのです。これにもたしかに理由があると思います。

独裁国家の核をなすものとしての政府主流はどうしても「有司専制」(強度の官僚政治)、藩閥性(薩・長の排他性)を印象づけ、またこれにまつわる金権性、俗物性が臭います。外交当事者としてのやむを得ざる現実主義があります。これらが政府批判派に、明治維新の理想が裏切られたと主張する根拠を与えるのです。われわれは天皇のもとでの理想的王道国家をめざしたのではなかったのか。現実の国家からは武士的な緊張感に満ちた倫理性が排除され、変革を進行させるための社会の生命力、根源的エネルギーが閉塞させられる。「西洋の芸」に傾くあまり、物質文化を支えるべき「東洋の道徳」が忘れられていないか。

この分岐が1873年、「征韓論」をきっかけに西郷隆盛・板垣退助らの政府離脱に発展します。この派は、主流派推進の国家目標の基本線に反対しないのです。むしろそのナショナリズムを、自分たちが体現する主体性、エネルギーで充填し、その内実を形成しようとするということです。ここに私たちは、政府反対派がナショナリズム急進派として現実主義の政府を攻撃・鞭撻する形、その後長く続く伝統の出発点を見ます。また征韓論からは、内に不満があれば外の緊張を利用し、あるいは外に事を起こして内の変革のきっかけをつかもうとする、これも伝統化していく心性をみることができます。

政府反対派は、一方では1877年、西郷派の武力反乱(西南戦争)に行き着きますが、その鎮圧によって武士的なものの直接的な自己主張は力を失いました。これに代わった行き先が自由民権運動で(板垣退助もこちらに位置を移す)、ナショナリズムの内実としての武士的な急進エネルギーの国家内再引き入れ要求が、人民勢力を政治運動に引きつけるという新しい発想を伴った、国会開設要求運動の形をとりました。のち、現実に人民的エネルギーの噴出口となり、人民の意識性と組織性にとって画期的な意味をもちましたが、他方で武士的なものの指導性は、はじめから国権主義への親近性を潜在させていました。しかし自由民権運動は次回のテーマとして、今日はナショナリズムの内実充填のさらにもう一つの方向、福沢諭吉の思想を見ておくことにしましょう。

福沢諭吉

福沢諭吉は、ナショナリズムの内実充填を人民の内面的向上に求めた思想家です。人民の精神的知的水準、その基礎をなす生活水準、市民社会・生産社会での働きなどに関心があったでしょう。福沢は人民の国民化という国家の課題に、終始民間にあって共働した最も有力な働き手です。

福沢の生涯のテーマは、万邦が対峙するなかでの国の独立、これを人民がどう支えるのかということでした。そのためには人民が自主独立でなければならない。「一身独立して一国独立す」。一身の独立とは何か。物質文明面での開化を支える精神面での開化、西洋社会を基準とした知的・モラル的形成、「実学」(市民社会・生産社会で実際的効用のある学問)を主として人民の間にある水準の常識(common sense)が作られること。こうして人民に自立的気風が育ち、日本の悪伝統である「権力の偏重」、人民の卑屈・権威への屈従、国事への無関心が克服されること。

福沢はもともと幕臣系知識人の最有力者ですが、自ら士族を脱して平民になった人で、人民啓蒙にふさわしい砕けた口調に特徴がありますが、しかし啓蒙の対象の人民の「愚昧」を強く意識し、だから啓蒙家であって人民の自主的自己形成には期待しない。国民的な知的モラル的形成、国を支える気力において核をなすのはやはり武士的知識層、彼らをmiddle class として持って国民社会は形成されると考えるのです。こういう社会の基幹分子養成機関としてかれは慶應義塾を経営しました。

こうして国民が自立・自覚して、国に対して同一感情をもってこれを守る。統治をまかせるという約束をしているのだから、国が国民のために統治する代わり、国民も自主的にこれに従う。いま約束といいましたが、これがいわゆる社会契約説とは違うことに注意してください。福沢においては、はじめに社会契約ありき、ではなく、はじめに国家ありき、です。

彼の天皇論をここで述べておきます。天皇は「万機に当るものにあらず、万機をぶるもの」、「政治社外のもの」、つまり直接権力的な場にあるのでなく、政治をまとめる立場のもの、さらには「人心収攬の中心」であるべきだ。天皇の実際の政治的働きにむしろ合致しています。また第二次大戦後の天皇の姿に通ずる考えでもあって、戦後天皇主義者の代表的な1人、若き明仁皇太子の師匠であった小泉信三は、自分が父子2代にわたる慶應大学の幹部だったせいもあろうが、福沢天皇論の深い帰依者であったといいます。もっとも福沢本人が真底からの天皇崇拝者だったかどうか。天皇のもとで乱臣賊子が出ない国柄を言いながら、国民一体のための天皇の効用という口ぶりも感じられます。合理主義者の彼は天皇についてある種のプラグマティストであったのかもしれません。

自由民権運動が起きると、これにはいささか冷淡でした。民権論者のほとんどが著書を通して彼の弟子であったと言ってもよい(著書『学問のすすめ』は無断出版まで入れると300万部出たという話。ただし分冊を全部数えているのかもしれない)のだが、福沢の方は、民権は政府反対よりも、外に対して国権を伸ばすために人民が自分を伸ばすのであって、愚民には抑圧的権力もやむを得ないと言います。国難に際して人民の愛国心は重要、内では争っても外に対しては一体となるべきだ。

さらに、日本人はこうした気力をもった一体になれるはずだ、しかし中国・朝鮮では結局これは困難だろう、先を行く日本の指導も効果はあるまい、と言う。西洋列強が跳梁する東アジアでこういう国が近隣にあっては日本の迷惑、これらの国の主体化に期待して親密にしていては日本も不利益をこうむるから、友達づきあいはたいがいにして、むしろ日本も西洋列強なみの態度でこれらに臨む方がよい。1885年ころのこの論は「脱亜論」と呼ばれて有名ですが、なにもこのころ急に出てきたのではなくて、はじめから彼は国権論者なのです。朝鮮の親日派(近代化派)、親清派(守旧派)の対立では前者を一貫して支持・後援してきました(その思惑は想像がつくでしょう)が、この派の劣勢で対清戦争までが展望される中での脱亜論です。

まとめていえば、福沢諭吉は終始「万邦に対峙する」国家目標を忘れない人でした。そしてこうした国は国民が支えねばならないとして、人民にそのための自己向上を要求した。自己向上は自己主張を生むでしょう。そうした青年が簇生するする時代、彼らが抑圧的体制に対して自己を主張するとき、福沢に自分のことばを見出してもふしぎはありません。彼は国家主義の思想家だったが、民権青年にも多くの信奉者を持つ、柄の大きい思想家でした。それだけに彼がナショナリストとして存在したことの意味は大きいのです。

明六社

明治初年の啓蒙派知識人が福沢諭吉も加わって作った結社に明六社(明治6年創立。『明六雑誌』を刊行)があります。ちょっとふれておきます。

メンバーは唱道者森有礼(のち文部大臣)は薩摩出身だが、加藤弘之(国家学・国法学)、中村正直(ミル『自由論』、スマイルズ『セルフ・ヘルプ』訳書名『西国立志編』の翻訳)、西周(哲学用語多数の訳語を創る)ら有力同人は福沢と同じく幕臣系で、維新後は福沢とちがって多くが官途につきました。このことへの違和感からか、福沢は明六社の活動にはやや不熱心だったようで、『明六雑誌』にもあまり書いていません。

『明六雑誌』を見ると、西洋文明輸入の先頭集団、物質文明輸入の裏打ちとして精神文明方面を担当するものとして、啓蒙家らしい自負心に満ちた論説が目立ちます。人民の智力・気力の高揚をめざすのは福沢と同じ。ところが徹底した愚民感がだいたいの人に共通しているが、これも福沢と同じ。無学文盲、怠惰卑屈、公共心欠如、威威に弱く自立心なし等々。上の専制政府と下の蒙昧な人民とは必然的組合せなのだ。議会開設運動に対して多数の意見は人民の開化がそこまで進んでいないと言う。

ちょっと注目されるのは、低い人民に学問への志を高めさせる上で文字の問題が論じられていること。漢字が大きな障壁として意識されています。

森有礼らが男女関係、夫婦関係の改革を強調し、妾の廃止を提唱したことも目立ちますが、これは西洋モデルでの家族改革を言ったのであって、家族の中での女の役割の重さ、女子教育の重要性など、良妻賢母主義の枠内で理解できると思います。

2025年9月19日 於文京区民センター

「日本ナショナリズム研究会」が伊藤晃さんを中心に2025年6月からスタートしました。この「日本ナショナリズム研究」シリーズはその3回目で、今後も研究会での伊藤さんの報告記録を随時掲載していく予定です。どうぞ、お楽しみに。

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