「ノーモア南京」として
 日本帝国主義の中国侵略によって、犠牲になった中国人は2000万人をくだらない。日本軍は中国全土を踏みにじり、中国人民に筆舌に尽くしがたい苦しみをもたらした。1945年の日本の敗戦までに中国全土で日本軍によって組織的に行われた虐殺・暴行事件(惨案)は2300件を超え、そのうち100名以上の犠牲者が出た惨案は390件を超える。その多くは数百名から数千名単位のものである。離散家族は何百万世帯を超え、行方不明になった人の数は計り知れない。「戦争中のことで仕方がない」とは決して言えない。ことは中国で日本軍が起こしたことであり、「ある夜、平和な暮らしをしていた中国人の枕元に日本兵が立っていた」というような事態なのである。南京大虐殺といわれるものはこうした無数の惨案の中のほんの一つの事件でしかない。中国各地に、中国人にとっては,自分自身と家族に関わる、忘れることのできない惨案がたくさんある。中国人にとってはそれらを含めた象徴としての「南京大虐殺」である。私たちは、この歴史に踏まえた時、被害者としての「ノーモアヒロシマ」の前に、上の世代が語らず、私たちが知ろうとして来なかった歴史をとらえかし、「ノーモア南京」を自覚することが必要でしょう。



1.1937〜8年冬、南京で何があったか

1)南京占領まで
 日清戦争(1894年)に始まる日本の中国侵略は、 1937年からの日中戦争で全面的な拡大局面に入った。 7月7日北京郊外ではじまった戦闘(「盧溝橋事件」)を契機にして、日本軍は8月13日には上海へと戦線を拡大した。8月15日には、近衛文麿内閣は「暴支膺懲(暴れる中国を懲らしめる)」声明を出して全面戦争を宣言する。しかし、「簡単に片付く」と思っていた上海では、中国軍の頑強な抵抗に遭遇した。日本軍は予想外の苦戦を強いられたので、新たに、11月杭州湾上陸をもって攻撃を強めた。挟み撃ちにあった中国軍は退却を開始。 これを追って日本の「中支那方面軍」は二度にわたって、軍中央で決定された「制令線」(追撃停止線)を独断で突破し、 首都南京へと追撃を続けた。 中央政府もまた11月20日に宣戦布告もないままに「大本営」 (天皇の下におかれた戦争指揮本部)を設置し、本格的な戦争態勢を固め、12月1日には正式に南京攻略を発令した。8月15日以来、海軍航空隊は南京に無差別爆撃を繰り返し、多数の市民を殺傷した。 これは僅か半年前のゲルニカ空爆にならい、 戦略爆撃の思想を大々的に実行した世界最初の例となった。

地図:上海から南京へ(南京攻略戦経過要図) 無錫許巷惨案
証言:上海市宝山区における被害(1)(2)上海市金山衛における被害

2)南京陥落
 当時の中華民国の首都南京は、城壁に囲まれた美しい古都で、 人口は百万人を超えていた。 日本軍が近づくにつれて首都は重慶に移り、一部の人々は西に避難したが、逃げ遅れた人、 行き場のないひとが、まだ四五十万人残っていた。上海からの避難民もいた。中国軍は南京死守を叫んで十数万人が立てこもるが、 日本軍が城門を突破した12月12日夜には、すでに防衛軍司令部は離脱し、中国軍は完全に抵抗を停止していた。日本軍は南京城を包囲するように南京市街地に攻め込んだ。逃げ場を失った中国軍、中国民衆は揚子江岸に殺到し、その人々に向かって日本軍は対岸から容赦ない機銃掃射を行った。
地図:南京市攻略図

表:南京攻略に参加した日本軍主要部隊
証言:「空爆と機関銃掃射(中華門付近)」「下関での被害」

3)国際安全区
 日本軍の南京攻略が確実になったとき、南京に駐在していた多くの外国人は南京を離れたが、一方とどまった外国人たちは、避難できない貧しい家の女性や子供、その他の市民を保護するために、南京安全区(難民区)国際委員会を結成(委員長ラーベ、合計22人のメンバー)し、11月22日に、「不幸にも戦闘が行われた際の市民の避難場所として安全区」を承認するように申し入れた。安全区は東京の台東区や中央区よりもやや狭い面積に相当する。この地域は、公共の建物が多く、また高級住宅街で住民がすでに避難しており難民を収容するのに便利であるとして選ばれた。安全区への避難のよびかけに、ただちに市民は続々と避難を開始し、金陵大学、金陵女子大学、五台山小学校などの学校施設や政府の建物に(20の難民収容施設に一つの施設に数千から万に近い数が避難)、あるいは留守になった中国人高級官僚たちの邸宅や外国人の邸宅そして空き地や道路に掘っ立て小屋を作って避難した。9日までにすでに十数万人が避難した。最高時には約20万人に達した。しかし、12月13日、日本軍の南京占領以後、安全区内において、莫大な「敗残兵狩り」と称する虐殺、性暴力がくりひろげられた。
地図:南京国際安全区
証言(1)(2)(3)(4)(5)

4)「残敵掃蕩」の実相

 日本軍は南京を占領してから6週間以上にわたり、城内、あるいは城外の農村で、世界に類を見ない野蛮な行為を繰り返した。城内に進撃した日本軍はほとんど組織的な抵抗を受けることはなく、 大量の捕虜を獲得し、これを計画的に殺害した。 また、「便衣兵(制服を着ていない兵隊)狩り」と称して、元兵士や一般市民の男性を無差別に拉致連行して集団虐殺した。 捕虜殺害を戦闘行為であるとしたり、 「便衣兵狩り」を「対ゲリラ戦闘である」というのは、日本軍がもともと「捕虜をとる」という考えのないことの裏返しである。これは 明らかに国際法(ハーグ陸戦法規)違反である。
証言:「日本兵による中国兵の捜索と女性の強姦」「良民検査、虐殺か強制労働か」

5)性暴力
 日本兵は、「便衣兵狩り」や「食糧調達」=財物掠奪の一方で、 「戦利品」探しのように女性を探し、多数の無差別な強姦・殺傷、 あるいはさらにおぞましい変質的性暴力を働いた。被害者の年齢も幼女から老婆に至った。このような行為は戦闘とはなんの関係もなく、 いかにしても正当化できるものではない。 南京安全区国際委員会の報告によれば、12月16日と17日だけで1000人を超える南京の女性が強姦され、さらに全体では2万件以上に達した。性暴力の広汎さと変質性は南京大虐殺を特徴づけるものである。
証言:(1)(2)(3)(4)(5(6)

6)「南京大虐殺」の範囲と規模
 虐殺は南京攻略の途中においてもすでに発生しており、 また翌1938年3月ごろにもまだ続いた。 上海上陸時から放火、虐殺、強姦は始まっているが、南京に限っても場所の広がりは、南京城内だけでなく、近郊農村を含む南京特別区全面にわたっており、 一般市民の被害は郊外の方が甚だしかったともいわれる。南京大虐殺の範囲を、城内だけや陥落後の二三日に限定し、 あるいは旧軍の公式記録だけを数えて、虐殺は少数であったと強弁する説もあるが、 彼等の論理はすでに論破されている。軍関係資料、各兵士の資料は、大部分が敗戦時に証拠隠滅され、 一部はいまも隠匿されている。最近の埋葬記録などの詳細な研究では、 南京大虐殺の犠牲者の数は少なくとも20万あるいは30万とみられる。 しかしながら「30万でなければ大虐殺ではない」かのような議論自体が欺瞞である。1万でも5万でも、非戦闘員である民衆に対する無差別、大量虐殺である。そして、それは三千万人を超える犠牲者を出したアジア太平洋戦争につながる象徴的事件でもあった (ちなみに日本人軍民の死者は約350万人)。

地図:南京行政区概略図
証言:南京市湯山区における被害(1)(2)(3)、「罪もない赤ん坊、子供、女性に日本兵は何をしたか」(農村部)


2.証言

生存者証言
元日本兵の日記、証言
東史郎日記

3.異常な事件はなぜ起こった

1)国際法無視
 日本は、対中国との戦争において国際法を適用せず、従ってすべて「事変」と称して侵略をすすめた。「捕虜」をとるという考えがなく、彼等を虐待し、虐殺してもよいとしていた。 さらに実際に南京攻略時のように大量の捕虜が発生したときには、 自軍の補給でさえもままならない状況のなかで、まして「捕虜を食わす」考えなどなかった。 「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリコレヲ片付クルコト」 (第16師団長、中島今朝吾の陣中日記)と、捕虜虐殺は組織的に実行された。

2)日本軍のなかの頽廃
 日本の軍隊の内部は、 天皇=上官の命令には絶対服従、苛酷で恣意的な懲罰など、抑圧構造が兵士たちを圧迫していた。 このような抑圧構造の最下層にあった兵士たちが、その憤懣をより弱い者、 無力な捕虜や一般市民に向けることになった。また簡単に制圧できると考えていた上海戦の苦戦と大量の戦死から、日本軍は「戦友の仇」を煽り立てた。

3)食糧などの「現地調達」
 日本軍の作戦には、現実的な兵站(へいたん=弾薬・食糧などの補給)の計画が 軽視されていて、弾薬はともかく、食糧は多くを「現地調達」に頼っていた。従って戦闘の合間に、 小部隊単位で民家に入って食糧を「調達=掠奪」せざるをえなくなり、 これが次第にこうじて食糧以外の金品財産を強奪し、拒まれると虐殺し、 あるいはレイプなどの性暴力に及ぶ過程を生んでいった。(この兵站軽視が、 敗戦の前には「名誉の戦死者」の大部分が餓死であったという、 自滅の道に導くことにもなる。)

4)「神国優越―中国人蔑視」の思想
 南京大虐殺のようなすさまじい暴虐行為の根底には、 自国民優越すなわち他民族蔑視の思想が働いていたことを否定できない。日本軍は、もともと初年兵教育として、捕虜の中国人を「刺突訓練」の対象としており、ゲーム感覚で「首切り」を行った。
明治維新以後いちはやく「脱亜入欧」に走った日本は、 近隣諸国を「遅れた国」であり、帝国主義支配の対象であるとのみ考えた。 江戸時代には文化の源泉として崇拝していた中国を、日清戦争に勝ったあとは一転して侮蔑の目で見るようになり、 国民の間に「神州不滅」の優越思想をすり込んだ。

5)日本軍における虐殺の系譜
 日清戦争のなか旅順陥落のときにおこった虐殺事件は、南京大虐殺の原型であり、 さらに南京以降も日中戦争で中国全土にわたって「三光作戦」として広がっていった。


6)戦争を煽った報道
 歴史に見る戦争報道 南京戦を報じた記者たち
 報道にみる南京1937(喚起の日本列島


4.戦争犯罪に対する態度

極東裁判
日本とドイツ どのように過去と向き合ってきたのか
被害と加害の証言から見えてくるもの
歴史教育 南京大虐殺は教科書にどのように書かれたか
南京大虐殺と日本人の精神構造
日本人にとっての戦争責任−東史郎の場合

          (ノーモア南京事務局:参考『南京絵画展』、パンフ『南京・閉ざされた記憶』展図録集ほか)