No.1997-1
伍 正禧さん
南京市・市内(1923年生れ、当時14歳、男性)

 来賓の皆様、そしてここにお見えになった外国人の方々、私は中国人で名前は伍正禧と申します。今年で74歳になりました。
 私が14歳の時、1937年という年に南京大虐殺が行われました。その年のことですが、8、9月から既に南京は日本軍の空襲に遭っていました。生き延びるため、祖父の決断で一家は南京の難民区(安全区)に移りました。その住居は寧海路華新村6号にありました。
 (12月)13日の昼頃、日本兵3人が我が家にやって来ました。その内の2人は小銃を担いで、もう1人は左側に刀を下げていました。その人の左腕には腕章があり、そこには「中嶋」という文字が書かれていました。私たちは中国の少数民族である回族ですので、祖父が家族・親族をみんな集めて住んでいました。
 3人の日本兵は私たちを庭の方に集めて、地面に支那軍という字を書きました。支那軍というのがどういう意味か分からなかったので答えずにいたら、3人の日本兵はブツブツと何か話し合ってから戻って来て、私たちの中から人を引っ張り出そうとしました。そこで私の兄と従兄弟3人と叔父の計5人が連行されて行きました。
 その後私たち一家は5人の行方についてあちらこちらを捜してみました。しかし、捜すといっても南京の難民区の外には出て行けなかったので、難民区の中でしか捜すことが出来ませんでした。難民区と非難民区の境の所に鼓楼という所があって、そこには溜池がありました。その溜池の中に死体が沢山浮いていました。死体を動かそうとしましたが動かせませんでした。何故かと言いますと、死体の腕が紐で縛られ、5,6人が繋がれていたからです。死体はみんなうつ伏せになって、顔が下を向いたまま浮いていました。その人たちの顔を、一番水際に近い所の人の顔を上を向かせて、一人一人確認していったのです。この中に自分の家族・親族が見つかりませんようにと、一所懸命祈りながら捜しました。しかし、連行されて行った5人は見つからず、未だに行方不明です。
 翌月になりますと、慈善団体、例えば当時の紅卍、赤十字、回族の埋葬隊、慈善堂という埋葬隊などが出て来て、死体の片付け作業に入りました。埋葬作業の行われていた場所ですが、1箇所憶えています。鼓楼区にある上海路ハクシュウソンという場所です。そこに大きな穴が2つ掘られていました。深さはこの会場の天井(6メートルほど)より僅かに低いくらいで、幅は4メートル位でした。そこに大きな竹を何本かで滑り台を作って、それを使って死体を下へ落として、穴の下では別の人が死体を受け取って、一体一体きちんと並べていきました。
 それからまた、私より年上の親戚の人について別の所へ捜しに行きました。その場所は白衣庵という尼僧院でした。その尼僧院の玄関は二枚戸でしたが、その内の1枚は既に壊されていました。入って行く前に他の人から、尼僧院の中で女の子が殺されているということを聞かされました。中に入ってみると、女の子がテーブルの脚にしがみついたまま、目も開いたまま、とても恐ろしい表情で死んでいました。
 更に見ますと、そのテーブルの上に女性が横たわっていて、両足を下に垂らしていました。女性の下半身は裸になっていて、棒が挿されていました。それはとても凄惨な情景でしたので、布で隠してあげました。でも、一緒について来た埋葬隊の人が、その棒を抜いてやれと言ったので、抜こうとしたのですが抜けませんでした。そこで埋葬隊の人がお腹の辺りを押して、力を入れて棒を抜き取ったのです。よく見ると棒の先には釘なども付いていました。
 更にまた我が家に不幸が訪れました。14日にまた日本兵がやって来たのです。その時家の中には私と祖父と祖母の3人がいました。母と従姉妹などの女性はみんな、アメリカ人がやっているキリスト教学校 ――現在の南京師範大学――に避難していました。
 祖母は日本兵が我が家に入って来たことに気付かず、日本兵は祖母の後ろに立ちました。私はそれを見て「お婆ちゃん、日本兵だ!」と言いましたが、言い終わらない内にその日本兵は祖母の左腕をつかんで、「娘はいるか」――中国語で言えば「ホワクーニャン(花姑娘)」――と聞きました。祖母が非常に怯えて震えだしたので、日本兵は祖母が反抗しようとしていると思って、銃剣を出して祖母の左腕を刺しました。その時、幸いなことに祖母は厚い綿入れの上着を着ていたので、かすり傷で済んだのですけど、その衝撃で地面に倒れて、さらに日本兵から蹴りを加えられました。そこで私はすぐに、祖母を抱えて玄関の外に逃げました。そのとき、どこからそんなに大きな力が出て来たのか分かりません。
 2人で逃げ出して隠れている間に、家の方から大きな叫び声が聞こえてきました。それか
ら20分位経ってから、その日本兵が去って行きました。それを確認してから、私は祖母を連れて家に戻りました。祖母は寝室に入った途端、「ワー!」と叫びだしました。入ってみると祖父が倒れていて、全身血だらけで口から泡と血を吹いていたのです。ようやく母と叔父たちが駆けつけた頃には、祖父の息は非常に弱くなっていました。祖父をよく見たら、胸と右足、左足の3箇所に刺し傷がありました。その時も血が僅かに流れ出ていましたが、もう多くはありませんでした。そして夜の7時半頃、祖父は息を引き取りました。
 次の年に入って、私は家族の生活を支えるために難民区の外にあった元の家に戻りました。元の家は消失して焼け跡しか残っていませんでした。焼け跡を片付けて、その前で煙草や卵やお酒を売る屋台を出しました。或る日、近所の女の子やって来て買い物をしようとしたところへ、日本兵がまたやって来ました。日本兵を見ると女の子は逃げ出して、我が家の焼け跡の周りをぐるぐると何周も逃げました。私は女の子に、いくら逃げても逃げ切れないから隠してあげると言って、焼け跡の残骸の中に隠してあげようとしました。そしたら私は後ろから日本兵に髪の毛を掴まれて、焼け残った玄関の扉の上に力任せに叩きつけられました。今でも天気の悪い日や寒い日には眩暈(めまい)がしますし、天気の良い日でも何となく頭痛を感じます。自分と同じ中国人の女の子を助けるためにこんな酷いことをされるなんて、本当に無念でなりません。そのあと私は意識を失ってしまいました。気がついた時、母にその女の子のことを確かめたら、その子は日本兵に辱められた後、首吊り自殺を図ったそうです。
 本日、ここで皆様とお会い出来て、証言を行いましたが、中国人であれ日本人であれ、お互いに力を合せて戦争に反対しましょう。戦争が再び起きないように、皆んなで頑張りましょう。このことを伝えるために、私はここに参ったのです。以上です、有難う御座居ました。(拍手)

<出 典>
●“南京大虐殺60年東京国際シンポジウム 報告書、1997年12月13日/東京”、南京大 虐殺60年 東京国際シンポジウム実行委員会、1998年9月18日発行