No.2000-1

李 秀英さん
南京国際安全区(1919年、南京生れ、当時18歳、女性)

 上海から南京へ

 私は李秀英と申します。1919年2月24日、南京で生まれ、南京で育ちました。結婚をし、1937年に夫の都合で上海に移り、そこで新婚生活を始めました。とても幸せなひとときでした。しかし、幸せな生活はそう長くは続きませんでした。爆弾を積んだ日本軍の飛行機がやってきたのです。はじめのうちは上空を通過していただけでしたが、やがて私達の家の付近にも爆弾を落とすようになりました。日に日に激しくなる空襲で生きた心地がしませんでした。
 とうとう私は1937年の9月に南京に避難することになりました。夫は政府の役人でしたから上海に残りました。南京に戻ると、妊娠していることがわかりました。新しい命が私のお腹にあると思うと、とても幸せな気持ちになると同時に、大きな不安を感じました。これから戦争が激しくなってきて赤ちゃんを無事に出産することができるのかしらと。
 12月に入ると南京も大混乱となっていました。このころ南京の外国人は安全区を作って、難民を避難させていました。私と父は五台山にある外国人の小学校の地下に避難しました。南京が日本軍によって占領される1週間ぐらい前のことです。

 南京国際安全区で日本兵による暴行を受ける 
 
 避難小学校にはたくさんの避難民がいました。私達は小学校の地下室に隠れていました。しかし12月18日にとうとう日本兵に見つかってしまいました。そして、その翌日、12月19日、私にとって忘れられない日です。この日の朝、何人かの日本兵が地下の部屋に入ってきて、若い女性たちを外へ連れ出そうとしました。女性たちは泣き叫んで、部屋は騒然となりました。私は日本兵に強姦されるくらいなら死んだ方がましだと思い、自殺しようと決意しました。私は地下室の壁に激しく頭をたたきつけ、気を失って倒れてしまいました。こうして私は日本兵に連れ去られないで済みました。この時連れ去られた女性たちとは、その後二度と会うことはありませんでした。
 日本兵が去ってから、私は避難民の人たちに介抱され、ようやく意識を取り戻しました。
しかし、夕方になってまた日本兵が3人やってきました。そのうちの2人がそれぞれ女性を一人ずつ連れ去りました。残った一人が部屋にいた人達を追い出し、私を一人部屋に残しました。他の人たちが私のことを「病人だ」と言いましたがだめでした。その日本兵はベッドに寝ていた私の方へ近づいてきて、私のかけていた布団をはぎ取ると、強姦しようと服に手をかけてきました。その瞬間、私はとっさに日本兵が腰につけていた刀を抜きました。そして壁を背に立ち上がりました。日本兵はまさか女性が刀を振り上げるとは思わなかったのでしょう。あわてて近寄ってきて両手で私をつかまえ、押し倒そうとしました。私は日本兵を噛みました。このとき、別の日本兵が来て私の足を刺しました。こちら(左)の足が前、こちら(右)の足が後ろで、背中は壁につけていました。手に刀を持って彼らを防ぎました。日本兵は、私が服を着ているので脚を刺しきれないと思い、顔を刺してきました。こちら側もこちら側も刺して、顔は血だらけになりました。その時痛みは感じませんでした。口に入ってきた血を彼らめがけて吐きました。しばらくして私は、大きくなりかけたお腹をさされて気を失いました。
 日本兵は出て行き、食べ物を探しに外へ出ていた父が戻ってきました。周りの人に「おまえの娘はもうだめだ」と言われたそうです。私は血の海の中に倒れていて、呼びかけたけど反応しないので死んだかと思い、裏山に穴を掘って埋葬するために外へ運ばれたそうです。そのときに、外の冷気にふれ、私の鼻から血の混じった泡が出てきて、それを見た年寄りが「まだ死んでいない、すぐ病院に運ぼう」と言ってくれたそうです。

 マギー・フィルムに残る李秀英さんの姿

 そして、私は鼓楼病院に運ばれました。非常に危険な状態が続きましたが、私はそこで九死に一生を得たのです。しかし、残念ながらお腹の赤ちゃんは流産してしまいました。
今でもそのことを思い出すととても悲しい気持ちになります。入院した当時の様子は、マギー牧師によって撮影され、現在もそのフィルムが残っています。顔は異常に腫れ上がっていて、他の患者はみんな怖がって病室の外から遠巻きに見ていたのを覚えています。マギーフィルムは本当に痛々しい、自分で見るにはあまりにもつらいフィルムです。
 医師が言っていましたが、私の傷は、刺された箇所は全部で29箇所、刺された回数は37回だそうです。

 事実をゆがめ、謝罪しない日本人へ

 私のその後の人生は本当につらく苦しい毎日でした。いまでこそ皺で目立たなくなった傷跡ですが、若い頃は惨めな思いをたくさんしました。どこへ行っても、変に思われて仕事に就くことができないのです。それに加えて、私の医療費が多く、夫一人の収入ではとても生活が成り立ちません。子供に恵まれたことは幸せなことでしたが、9人の子供たちに貧しい思いをさせることになってしまいました。 
                   
 今度、私は日本政府に対して賠償を請求することになりました。日本兵に傷つけられた 私の身体に対して、また事件の翌年に生れる予定だった赤ちゃんの生命、そして何よりも、それまで幸せに暮らしていた家族の生活を破壊されたことに対して、訴えたいと思います。日本の中には、善良な方が多くいらっしゃるということはよく知っています。しかし、一方で「南京大虐殺は無かった」と主張している日本人もいることを聞き、怒りを覚えました。そして、被害を受けた私を偽物だと言っている人達もいると聞き、さらに怒り、悲しい気持ちになりました。一言で言えば、私は二回、日本の右翼から被害を受けたと思っています。1回目は1937年の南京で、2回目は日本政府に訴えている私に対して偽物だと言っている今現在の被害です。こんなに年数、月日がたったのに、また自分の体にも傷口がたくさんあるのに、もし証人が欲しければまだ生きているのに、証拠もあるのに、なぜこんなでたらめなことを言ったのか本当に残念に思います。
 日本の人たちに言いたいです。日本軍が中国に侵略したのは今明らかな事実ではないでしょうか。あのとき日本兵に殺された赤ちゃんが生まれていればもう60(歳)を過ぎています。いろんな可能性を持っていたことでしょう。戦争は残酷です。戦争の犠牲者はいつも一般の庶民です。私の顔を見てください。子どもは死に、家は焼かれ、私は半分障害者です。歴史を冷静によく勉強して、戦争中何があったのか、戦争のむごさを知って欲しいです。

<出 典>
●「南京大虐殺の事実をみんなのものに−−東京集会」記録集、2000年10月28日;
 編集・発行:「南京大虐殺の事実をみんなのものに−−東京集会」実行委員会、2001年5月1日 発行
 連絡先:「李秀英名誉毀損裁判を支援する会」

<補足事項>
●被害者・李秀英さんの墓は雨花台墓苑の中にある。

《李秀英裁判》勝利