No.2007-2

被害の証言;「罪もない赤ん坊、子供、女性に日本兵は何をしたか」
張 秀紅さん
南京市・市内(1926年生れ、当時11歳、女性)


 私の家に突然、10数人の日本兵が入って来ました。そして父親を捕まえて、こいつは中国兵だというふうに言いがかりをつけました。私の父は農民です。畑仕事のときに麦わら帽子をかぶりますが、その帽子の跡を、日本兵はこれは軍帽の跡だと言いがかりをつけたのです。そして農民ですから手にタコができます。それが銃を撃った証拠だと言いがかりをつけたのです。私たち家族は周りに跪いて、「そうじゃない、そうじゃない、ただの農民だ」と、必死に懇願しました。もちろん中国語が通じるわけがありません。形で、ジェスチャーでそれを示したわけです。納屋に飛び込んで、そして鍬を持ってきて、鍬を持つときにタコができるんだと、鋤を見せながら、父親が兵士ではないということを日本兵に訴えたわけです。日本兵はそういう私たちの懇願を聞いて、いまいましげに銃床で父親を殴って、家の中から出て行きました。こうして父親は命を取りとめることができました。

 2日ほどしてから日本兵は再び来ました。そして私たちの家をすべて焼き払ってしまいました。私たちは家を出るほかありません、田んぼに筵(むしろ)で小さな掘っ立て小屋を建てて、そこで暮らすしかなかったのです。そのときのことを思うと本当に日本人が憎くて、憎くて仕方ありません。

昼間、日本兵はしょっちゅう来ました。私たちは筵の小屋の中でも危険だと、とくに若い女性は危険だと、家族の者は草を積んだ中に若い女性を隠しました。たくさんの若い女性が藁の中に隠れるわけですけれども、そのうちに日本兵はそれを発見します。草の中に銃剣を刺して、中に若い女性がいないかと探したり、あるいは火を付けたりします。中から悲鳴が聞こえると、若い女性を引きずり出す。悲鳴を上げて逃げ出す女性を捕まえて、もう一度火の中に追い込んで、焼き殺す。そういうことがしょっちゅう起きました。私も草の中に隠れました。同じように日本兵が来ました。銃剣で何度も刺しました。その銃剣が私の指を貫きました。たくさんの血が流れました。非常に痛かったです。しかし、私は声を立てませんでした。声を出せばきっと殺されるとわかっていたからです。もう一方の手で傷口を必死に押さえて、痛みを抑えながら我慢しました。
 もうそこにいるだけでも危険だということで、近所の人たちと一緒に逃げました。大きな池があって、その真ん中に中州のようなところがありました。そこには高い葦が生えていて隠れやすいということで、10数人がそこに隠れたわけです。しかし、不幸にして、葦が動いたのか、人の影が見られたのか、日本兵はこちらに向けて機関銃を乱射しました。私はとっさに水の中に身を半分隠すようにしました。しばらくして機関銃の音が鳴り止んで、あたりは血の海でした。10数人の中で、生き残ったのは私を含めて3人だけで、他の人たちはみなそこで撃ち殺されていました。

 祖父と2人だけでいたときです。日本兵が来て私を祖父の手から奪おうとしました。祖父は必至で私を守ろうとしました。しかし、私は祖父に言いました。私を離して欲しい。このままだと2人とも殺される、私はどうなってもいいから早く逃げて下さい、と言いました。私を祖父の手から奪った日本兵は裏の家の中に私を連れ込みました。そして私を押さえつけて、両足を力まかせに拡げて私を強姦しました。私はそのまま気を失っていました。祖父がその後、小屋の中に入ってきました。私の股間からたくさんの血が流れていました。そして私の開ききった足を閉じて、そして紐でしばりました。そしてお腹を一生懸命にさすりました。汚いものを出すんだと、そういうようなことだったそうです。
 その後も日本兵はしょっちゅうやって来ました。私は髪の毛を短く切って男の服装をするようにしました。幸い小柄でやせた身体だったので日本兵に見つかることはありませんでした。しかし、男の子を装うことで、別の問題が起こりました。当時、日本兵は村に来ては家の中に入ってたくさんの物を奪って行きました。そして奪った物を男の人に担がせて営舎まで持って行かすのです。私が男だということで重い物をたくさん担がせます。しかし私はとどのつまりは女ですから大きな力はありません。動作が鈍い、遅いということで何度も腰を日本兵に殴られました。
 私はそのときのことを思うと本当に辛くてなりません。そして、日本兵が憎くてなりません。荷物が持てないというだけで銃の底で腰、背中、肩を何度も殴られました。その後遺症で今でもかがむと起き上がれない、股間に大きな後遺症を残したままです。私は当時11歳でした。そんな小さいときに何でこんな目にあうのか。そのときのことが今でも思い出されます。何度も、何度も殴られた記憶が今でもずっと残っています。それを思い出すと憎いです。
 難民区に入っていない私たちの被害は本当に大きなものでした。私は直接この目で見ています。日本兵は女たちを一カ所に集めます。そして赤ちゃんを抱いている女の人もいました。そしてその赤ちゃんを奪い取って、銃剣で赤ちゃんのお尻を刺して持ち上げる。それをまわりの日本兵たちが手を叩いて笑いながらそれを見ている。そして静かになる、赤ちゃんが死にます。するともう一人の赤ちゃんを別の女の人から奪って、同じように刺して殺します。それを日本兵たちは見ています。これを私は目の前で見たのです。
 たくさん話すことがあります。でもこれ以上話すと悲しくなります。本当に日本兵のひどさというのは言葉では言い表せません。私のすぐ近所の2人の女性も強姦された後、お腹を突き刺されて殺されています。それも銃を突き刺した後、わざと銃をこねるんです。そういう残酷なことがなぜできるのか。あのときはもちろん、今も私には理解できません。
 本当にこの目でたくさんたくさん死体を見ました。途中になりますが、お話しはこれで終りにします。

<出 典>
●2007年南京大虐殺から70年・東京集会報告集、“被害と加害の証言から見える「南京1937」”、ノーモア南京の会