No.2002-2

南京大虐殺の幸存者の証言
謝 桂英さん
1924年生れ、当時13歳、女性、下関在住

 私は謝桂英と申します。今日はここで南京大虐殺の生存者として証言します。  
 私は南京の下関区柵欄門に住んでいました。当時私の家は9人家族でした。私の家は農民で、野菜を作りそれを売って生活をしていました。日本軍がもうすぐ南京に来るということを聞きましたので、私たちは他の所に避難しました。その時お母さんが私たち兄弟を連れて揚子江の北の瓜封に避難しました。お父さん一人、家を守るために残りました。
 私たちは瓜封と言う田舎で2ヶ月くらい過ごしていました。2ヶ月を過ぎるともうご飯を食べられなくなったので、仕方なく私たちは小さな舟に乗って帰ろうとしました。その時途中の揚子江の燕子磯の辺りにある大渦子、名前の通りいつも大きな渦が巻いている所でしたが、そこを通りかかりました。当時私は13歳でした。小さな舟に乗っている私たちはその辺りで沢山の死体を見ました。死体はほとんど水ぶくれの状態で、13歳の私はとても怖くてたまりませんでした。

 お母さんは私たち兄弟を連れて家に戻りました。家に帰ってから私たちは叔父から次の話を聞きました。私たちのお父さんは、旧暦の11月11日に日本軍に殺されて死んでいました。叔父の話によると、お父さんは日本軍を歓迎するために行ったのですが、何の理由か分かりませんが日本兵が発砲して、お父さんは腹を撃たれて死んでしまいました。
 その時そばにいた叔父さんはそれを見て、怖くて家に逃げました。家には大きなタンスがあってその下に隠れていました。日本兵が家に来て叔父さんをずっと探していましたが、結局叔父さんは見つかりませんでした。家には2羽のめん鶏を飼っていましたが、日本兵はそのめん鶏を捕まえて持って行ってしまいました。夜の10時頃になって叔父さんは外に出ました。河に沿って新民路から南京に入り、三碑楼という難民区に逃げました。叔父さんは難民区の中に18日いました。そしてそこを出て、家族が避難していた七里州に行きました。

 私たちは農民だったので、食べるためには野菜を作らなければなりません。私たちが家に帰ったのは1938年2月のことでした。ある日、私は兄嫁と一緒に野菜を作りに畑へ行きました。その時、7人の日本兵が畑に来て私と兄嫁を連れて行こうとしました。日本兵は私たちをつれて小さな寺に来ました。寺の辺りには5人の年寄りがいました。私たちは寺に着いてから、もうこれ以上前には死んでも行きたくないので、そこに跪いて日本兵に色々お願いしました。お母さんはそれを聞いて駆けつけて来て、二人を助けようとしました。その時日本兵が銃剣の柄の所で母の頭をたたきました。母は一生懸命手で頭を守ろうとしたので、手が血まみれになってしまいました。その時この事を聞いた一般の年寄りの人がだんだん集まって来ました。みんな一緒に日本兵にお願いをしたので、日本兵は仕方がなくそのまま帰って行きました。

 母方のお祖母さんからは、二人の叔父さんが家で寝ていた所を日本兵に殺されてしまったことを聞きました。二人の叔父さんは40代でした。みんな農民でした。

 あの事があってから10日間たって、私は弟を背負って畑に出かけて野菜を採ろうとしました。その時一人の日本兵が来ました。その日本兵は私を捕まえて連れて行こうとしましたけれど、私は必死になってあがいていました。地面に転がって色々許してくれるように願いました。私は日本兵に「私はまだ子供です。」と言いました。私はその時男性を装うために男の帽子を被っていましたが、日本兵は私の帽子をとって「お前は男じゃないな。女の子だな。」と言って私を連れて行こうとしました。私はまだ子供でしたけれども、もう死ぬ覚悟で、どうせ死ぬならここで死ぬ方がよい、もし連れて行かれたらきっと犯されるに違いないと思っていました。私は地面に転がって泣き叫び、一刻でもいいから時間をかせごうとしました。その時、もう一人の腕章をつけた日本兵が来ました。私は日本語が分からないので彼らが何を話しているのかは分かりませんでしたが、結局、腕章をつけた日本兵が私を連れて行こうとした日本兵を連れて行きました。

 また10日間が過ぎました。私たちは家にいました。兄嫁が日本兵がこちらに来るのを見て、「桂英(私の名前)、日本兵がまた来た。」と言いました。兄嫁は私にそう言ってからすぐに家の裏から逃げて行きました。しかし私は逃げるのが間に合わず、仕方がなくベッドの下に隠れようとしました。まだ完全に隠れる前にもう日本兵が家の中に入って来てしまいました。ベッドに敷いた板を取って、私を引っ張って連れて行こうとしました。2歳の弟も大声で泣いていました。私は仕方がなくベッドの下で丸まって大きな声で「洋先生(日本兵に対して尊敬の意を表す言葉)、私を許して!私はまだ子供ですよ!」と必死に訴えました。日本兵はそれに全くかまわずに引き出そうとしましたが、私は「助けて!助けて!」と叫びました。その声を聞いて近所の主にお年寄り達が集まってきました。お母さんも、その時は顔を墨で黒く塗っていましたが、家に戻ってきました。みな部屋の中に立っていました。日本兵はそんなに大勢の人が集まってきたのを見て、仕方なく帰って行きました。
 私は3回もこのような酷い目にあってとても危ないことでした。今思い出してもとても悲しくてたまらないですが、お父さんが日本兵に殺されてしまって、私の家も部屋の家具は日本兵に焼かれてしまいました。私の家の近くには一つの防空壕がありましたが、その中には人間の死体がありました。とても臭くてたまりませんでした。前に言いました、揚子江の大渦子の死体もとても臭くて怖かったです。
 
 私の証言は以上です。

<出 典>
●「忘れてはならない日本の戦争犯罪、見つめよう歴史の真実、南京大虐殺から65年、2002東京集会」報告集、2002年12月15日、社会文化会館 編集・発行:ノーモア南京の会、2003年5月1日発行

<参 考>
●この幸存者、謝桂英さんの別の機会の証言記事が“松岡 環著「南京戦 切りさかれた受難者の魂、証言者120人の証言」社会評論社、P-91”にも収録されている。