No.2004-1
        
被害の証言;上海金山衛区における侵略の証言

       証言者   瀋 永良さん
      
        1932年生れ、当時5歳、男性、上海市金山衛区
        1937年の第二次上海事変における受難者

 日本の友人の皆さんこんばんは。私は1937年日本の軍国主義者が金山衛に奇襲上陸した後の罪行について、私は証言したいと思います。その時私は直接被害に遭い、また被害にあった遺族でもあります。瀋永良と申します。今年で72歳です。

10・3惨案(10月3日金山衛で71人の村民が殺された事件)
 日本軍国主義者が金山衛の民衆に対して行 った罪行の数々を私たちは、その末裔として、それを永遠に忘れる事が出来ません。1937年11月5日、旧暦では10月3日になります。その早朝です。その日は濃い霧が立ち込めていました。日本軍はこの霧にまぎれて、突然、金山衛を奇襲上陸しました。
 日本軍が上陸して金山衛は血で洗われました。飛行機が大量の爆弾を落としてきました。そして、地上では鬼どもが機関銃を照射(?)していました。爆弾の下は大きな穴となって残りました。
 12時頃です。金山衛が陥落しました。そして、日本軍の先発部隊が北から侵入しました。そして、それに続いて後続部隊も続々と上陸し、その後、3日或いは4日間にわたって金山衛の無辜の民に対して殺し尽くし、奪い尽くす、の三光作戦を実施しました。まさに、身に寸鉄も帯びない金山衛の民衆は次々と殺されていったのです。これが後に10.3惨案(10.3虐殺事件)といわれるものです。死体がいたる所に放置され、そして村内にある幾つかの沼も血で染まりました。
 10月3日、上陸した日本軍は金山衛稜(?)の南門から突入してきました。そして、南門とシパイという2つの村に入ります。そこにある家に鬼どもは火を放ち、全てを焼き尽くしました。そして、その家の中から逃げ出して来る村民を片橋から撃ち殺してしまったのです。この数日間の虐殺で家屋の94軒が焼かれ、そして71人が殺されてしまいました。

 家族の11人が殺された?-父、弟、祖父母、2人の叔父夫婦、娘・・次々と家族が その中に私の家族がいました。祖父を中心に直系の3代にわたって19人がそこに住み、非直系の数人も合せると非常に大きな大家族でありました。その中で直系の9人が殺されてしまい、非直系の2人も殺されました。つまり合計11人がその時に殺されたのです。その時生き残った叔母の一人がその時の状況を、こう話してくれました。日本の鬼どもは南の門から入って来た。南の門のすぐ近くに我が家がありました。そこまで日本軍は人を見れば殺すと言う状態でした。私の家は南門のすぐ近くにあったために鬼どもは真っ先に私の家に入ってきました。私の祖父を見つけて家の中から引きずり出しました。その時、織物していた祖母は祖父が引きずり出されるのを振り返ってみた瞬間に日本軍によって撃ち殺されたのです。そして連れ出された祖父も、後ほど城の麓で殺されてしまいました。それ以外に当時、沼の麓に隠れていた上の叔父の夫婦2人、下の叔父の夫婦2人とその娘1人、計5人が、日本軍に見つかってしまい、その場で殺され、その沼の中に投げ込まれました。
 母親は、その時のことをこう話してくれました。母親は現在92歳です。旧暦の10月3日村では秋の収穫をしている時でした。その日の早朝、母親は畑仕事をしていました。突然、飛行機の爆音が聞こえてきました。そして、機関銃の音が聞こえてきました。村人は日本軍がやって来たと叫びました。母親は急いで村の中に戻って行きました。家に戻ると祖父と祖母が「どうも日本軍が来たようだ、お前たちは早く逃げなさい、家は私たち(祖父と祖母)が守るから」と言ってくれました。そして、私達は2人を残して、父親が私たち兄弟、当時私は5歳、弟はまだ3ヶ月でしたけれども、連れて北門の方から逃げ出したのです。しかし、逃げ出してもいたる所に日本兵がおりました。私達は畑の隅に隠れながら、逃げ隠れをずっとしながら逃げました。夜になると近くの家々に泊めてもらいました。
そうした逃げ惑う生活を1か月続けました。逃げ惑う生活を続けていたのですが、畑の稲を収穫していないことが非常に気がりになって母親と父親はやむなく家に戻る事にしました。しかし、家に戻っても祖父と祖母の姿が見えません。それどころか私たちの大家族の家は既に日本兵に占拠されていました。私達は住む所もなく、やむなく近くの親戚の家を頼って、そこに住まわせてもらったのです。
 その時に、ある近所のひとが、「あなた方の祖父と祖母、そして上の叔父の夫婦、下の叔父の夫婦、その娘が日本兵に殺され、他の村人たちと一緒に殺されて近くの沼の中に放り込まれた」、という話をしてくれました。この話を聞いて私の母と父、村人たちが一緒に投げ込まれた沼に死体を捜しに行きました。しかし結局祖父を見つける事しかできませんでした。祖父の死体も既に腐乱が進んでいて着ている服でどうにか判別したと言う状況でした。そして、私達は近所の人たちに僅かなお金を借りて死体を埋葬しました。私達はその後生活の為に塩の闇販売をしながら生計を立てるしかありませんでした。しかし翌年の3月18日に日本の鬼どもがまたここにやってきたんです。
 両親は私だけを叔母の家に預けて逃げました。母親は家に囲った唯一の牛を連れ、父親が背負子に下の弟を乗せて逃げました。東門から出てまもなく、先を歩いていた母親が振り返ると父親の姿がありませんでした。暫く探したのですが父親と3ヶ月の弟の姿が見当たりません。夕方になって姪の一人が走って来て次のような状況を話しました。それは、後ろから付いて来た父親が畑を通った時に日本兵に見つかってしまい、そしていきなり撃ち殺されてしまった。そして、その反動で背負っていた弟も押しつぶされて死んでしまったというのです。お母さんはびっくりして道を取って返して、もときた道を戻っていきました。そして暫く歩いて田んぼの中に父親と幼い弟の遺体を見つけました。母親は近所の人たちから幾ばくかのお金を借りて、薄い板切れを買って棺桶を作り、父親と弟の遺体を安置しました。非常に大きな大家族、非常に円満な幸せな家庭でありました。それが日本の強盗どもに滅茶苦茶にされてしまったんです。最後に残ったのは私と夫をなくした母親の2人だけになってしまいました。

 刻み付けられた恨みは忘れられない
 その後の生活は苦労の連続でした。悲惨を極めました。私達は遠い親戚を頼って生きるしかありませんでした。(ここでテープを反転させる)この悲惨さは語り尽くせるものではありません。母親は、「私たちの家庭をメチャメチャにした張本人は日本の軍隊なんだ」と、「お前はこの事を絶対に忘れてはならない」と、「お前の父親とお前の親戚を殺したのは、あの日本兵だ。この事を絶対に忘れるな、子供たちに絶対に伝えるんだ」と何時も言っておりました。日本兵が行なった残虐極まりない行為を私たち被害者は絶対に忘れる事はありません。その恨みと言うものは骨の髄まで刻み付けられています。私達は必ずこうした恨みと言うものを子供たち、孫たちに伝えていきます。
 しかし私達は同じように日本の人たちとの友好を望んでいます。それは、二度と再び侵略戦争を起こさない、こうした悲劇を繰り返さないためです。日本の友人のみなさん、共に平和の為に、戦争を起こさせない為に手を携えて行きたいと思います。有り難う御座いました。

<出 典>
●南京大虐殺から67年、被害者の証言を聴く2004年東京集会、 「大虐殺への道−上海から南京へ−(報告集)」
 2004年12月11日、亀戸文化センター 編集・発行:ノーモア南京の会、2005年7月10日発行