No.1999-1

被害の証言;「証 言」(南京大虐殺)
李 桂英さん(仮名)
南京市・市内(1921年生れ、当時16歳、女性)

 私は李桂英と申します。私は南京の出身で1921年の生まれです。当時私は16歳でした。日本軍が入城した時は、私達は南京郊外の紐巖?という所に逃げました。私達数十人は川の中州にある小屋で暮らしていました。ある日、日本軍がやって来ました。日本軍が川沿いで「オーイ、オーイ」と叫び、我々に向って迎えに来るように要求しました。迎えると彼等は椅子に座って笑っていました。彼等が何の為に来たのかは分かりません。その時は特に怖いとも思わなかったが、彼等が1人の少女を奥に連れ込んで強姦して初めて恐怖を感じました。日本人の怖さを知り、我々は日本軍に会う度に逃げ出しました。

 当時、私達が逃げ込んだ砂洲紐巖?という所は、周りが水に囲まれていました。それから山に逃げました。山の小さな村に辿り着きましたが、村人9人の内8人が殺されていました。ある時、1人の日本兵が私の前に来て、「オーイ、オーイ」と叫びました。彼は手に日本刀を持っていました。見た感じは笑顔でありそんなに怖くはなかったのですが、その後彼はある少女に目を向けました。そして彼女を連れ出しました。その少女は18歳でした。その日本兵は少女を強姦した後、去って行きました。私達の部屋の中に入って来た少女は「もう痛くて痛くて」と泣き叫びました。私達はこの光景を見て、すぐに逃げ出しました。どこに逃げようかと皆で相談しましたが、やはり山の中に逃げた方がいいということになり、皆で山の中へ逃げました。

 そこに着いたら、逆に悲惨な光景が見られました。そこの村は2〜30軒の家が焼かれていて、私達20人位は仕方なく半分壊れている家に住みました。私達は更に2つの山を越えて逃げ続けました。そこに着いても又、悲惨な光景がありました。その村も殆どの家が焼かれて、村民達が殺されていました。そしてそこでも若い女達も逃げ出していました。ある時、日本兵がやって来ました。「若い女の子はいるか」と聞いたのですが、当時、その村で生き延びた人達は我々に「早く逃げよ、早く逃げよ」と叫んでくれました。私達は更に他の村に逃げようと思いました。しかし食べ物もなく、どこへ逃げればいいか分かりませんでした。

 私達が次に着いた所も殆どの家が焼かれて、人もいなくて家が2、3軒だけ残っていました。私達何十人かが仕方なくそこに住みました。住むと言っても2日目にはまた、日本兵がやって来ました。その時私は部屋の奥の方にいました。若い女の子達は日本兵が来たらベッドの下に隠れました。日本兵が入って来て、私はまだ小さいから当時は何も出来なかったのですけど、日本兵が私に目をつけて来た時に、老人達は私を指して「彼女はまだ子供だよ、まだ10歳だよ」と言って私を庇いました。日本兵から庇ってくれた行為は30分位続きました。その後、ベッドの下に隠れていた2人の若い女の子が発見されました。日本兵はすぐに彼女達に目を向けて、彼女達を連れ出しました。結局、彼女達は強姦されました。私は何とか無事でした。
 日本兵が去った後、私達は食事を摂りました。食事の後、また日本兵がやって来ました。今度も老人達は私のことを庇ってくれました。私を指して「まだ子供だから放してやって」と言いました。私も日本兵に対して「怖いよ、怖いよ、まだ子供だよ」と泣きながら放してくれる様に頼みました。当時、私は焼け跡の家の一番外側にいましたが、奥の方にまだ若い女の子が何人かいました。当時、私の義理の叔母さんが私を庇うために、日本兵の前に行って私のことを「まだ子供だから放してあげて」と30分位頼みました。そして日本兵は私の叔母さんに対して暴行を加えました。そして日本兵は発砲して、やっと去って行きました。私は幸いに又、逃げることが出来ました。
 又、夜になって日本兵がやって来ました。今度は2人でした。私達は壁に沿って隠れました。2人の日本兵がやって来て、当時は電気もなく、部屋の中は暗かったのですが、彼等は奥の部屋まで行きました。そこで若い女の子は強姦されてしまいました。その時、ある叔母さんが出て来ました。強姦されていた女の子はその叔母さんの姪っ子だったのです。その叔母さんは日本兵に対して「あの女の子はまだ若いから」など、色々と謝りました。私達は側で聞いても、誰も声を出すことは出来ませんでした。彼等は若い女の子を強姦した後、去って行きました。
 翌日、私達は仕方なく、また逃げ出しました。山を越えて更に奥の方に逃げようと思いました。当時は大きな道路には日本軍の将兵がいたので、私達は山道しか行けなかったのです。私達が逃げだしたら、日本軍が後ろから追いかけて来ました。その時、爆撃の跡がありまして、私達はその穴の中に隠れました。日本軍がやって来ました。その穴の中には死体ばかりがありまして、私はまた日本兵に捕まりました。私は日本兵に対して、「済みません、放して下さい、放して下さい。」と頼みました。私と一緒に捕まった女の人は20歳位でしたが、日本兵に対して「私はまだ処女です、私はまだ処女です」と言いました。それで日本兵は私に外に出て行けと言いました。私は仕方なく彼女と離れました。当時は本当に怖くて怖くて、小水も漏らした状態でした。残った女の子はその日本兵によって強姦されました。
 私達の逃亡生活はまだまだ続きました。最後に私達が辿り着いたのはお寺でした。私達はお寺の中に入って、出ることを恐れました。ある時、李さんと彭さんという人が日本兵によって、私の目の前で殺されました。当時、雨花台の近くに善徳寺というお寺がありまして、そこで多くの死亡者を埋めるために大きな穴を掘っていました。中国ではこの様な死亡者を埋める場所を万人坑と呼んでいますが、当時、雨花台の善徳寺の周辺に2,3ヶ所はありました。その万人坑の大きさですが1軒の家の大きさがありました。当時は死亡した人は万人坑の中に埋められ、日が経ち死体が腐り始めて悪臭を出していました。私の目の前で紅十次会の人達がそれらの死体を埋めるのを見ました。私はもう80歳になるのですけど、この度わざわざ日本に来たのはこういう歴史の事実を皆様に知らせたいということが唯一の目的です。            以 上

<出 典>
●「世界が問う日本の戦争責任、 戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォーラム、 ――和解と平和の21世紀をめざして―― 」(1999年12月10日〜12日・東京) 
 発行 「国際市民フォーラム報告書」編集委員会、代表 土屋公献