No.2004-2

被害の証言;上海宝山区における侵略の証言

       証言者   王 雲〔女弟〕(1文字)さん
      
        1934年生れ、当時3歳、女性、上海市宝山区

 日本の友人の皆さん今晩は。今回、私は本の皆さんの招請を受け日本で被害の話をする事になりましたが、話をするにあたって心が痛む思いが致します。私は余り難しい事はわかりませんが、私自身が直接見たこと、体験した事をだけをお話したいと思います。

 私の目の前で首を斬られた父親
 日本兵が来た時、私たち村人は全員逃げ出しました。私たち家族も逃げ出したが、当時父親が病床に伏していたので、そう遠くに逃げる事もできずに、結局もとの家に戻って来ました。家に帰ると日本兵がいたる所で家を焼いているという話しを聞いたので、やむなく、私たちは近くに掘った防空壕の中に隠れる事にしました。しかし、見つかってしまい、家族6人が日本兵に引き出されました。父親だけが家の前の空き地に跪かされました。私たち5人は傍の粗末な草小屋押し込められました。父親と私たちの距離はほんの目の前です。私たちのすぐ目の前で父親は日本兵から裸にされ一刀の下に首を切り落とされてしまったのです。私たちの目の前で起こりました。当時私はまだ3歳でした。私たちは唖然としました。私は涙が込み上げてきて泣こうとした時、母親が急に私の口を塞ぎ、泣いてはいけない、泣けばそれを聞きつけた日本兵が怒って、この草屋毎私たち5人を焼き殺してしまう、絶対に泣いてはいけないと言いました。私はすぐ目の前で首を切られた父親を見ながら、泣く事もできずに一部始終を見ざるを得なかったのです。しかも、日本兵は父親の遺体を傍の沼の中に放り込みました。日本の皆さん、私の父親は純朴なただの農民です。その父親が何故こんな酷い目にあったのか私にはわかりません。
 暫くして日本兵が立ち去りました。私たちはその沼に行って父親の遺体を引きずり出しました。そして母親が靴の底を縫う大きな針と糸で父親の首と切り離された胴体を一針一針縫い始めました。当時私は3歳でした。お姉さん、お兄さんは10歳、13歳、16歳でした。私たちは首を縫う母親の周りで、その光景をずっと見ていました。
 縫い終わるか終わらないという時に、また次の日本兵が入ってきました。母親と私たちは父親の遺体を、今まで私たちが閉じ込められていた草屋の中に隠して私たちは家のおもママ)に隠れました。結局また見つかってしまいました。私たち5人は引きずりだされ後手に縛られて家の前に跪くように立ち膝で放置されたのです。日本兵が屋根の上に座って私たちを監視していました。その日は非常に暑い日でした。私たちはそこに24時間丸々跪かされました。私は当時3歳です。私も両手を後ろに縛られて跪かされました。勿論食べるものもなければ飲むものもありません。小便も垂れ流しの状態でした。

 勿論、こうした惨劇というものは私の家族だけに振りかかったものではありません。遠い親戚ですが、父親の兄弟の嫁は妊娠していてお腹が非常に大きかったのですが、この人も日本兵によって強姦されております。
 私の家のすぐ傍に小川が流れています。その向い側にも小さな村があります。非常に近い距離です。大きな声を出すと聞こえる位の距離です。その村でも日本軍が来た時皆逃げました。しかし、家には家を守るためたくさんの老人が残っていました。やって来た日本兵は老人たちを全員村の広場に集め、一斉に機関銃で撃ち殺しました。その光景も私はこの目で見ております。何の罪もない私たち中国の民衆や百姓に日本兵はこんなにも酷い事をしました。私たちはそれを絶対に忘れる事はできません。

 日本軍の蛮行は子々孫々まで語り継ぐ
 私は12月4日に(大阪で)証言した時、右翼の街宣車が「南京大虐殺は嘘だ、中国人が作ったデマだ」、と騒いでいるのを見ました。どうしてこんな事が言えるのだろうと思いました。私の目の前で私の父親が首を切らて殺され私自身も24時間も跪かされました。それをどうして嘘といえるのか、非常に強い憤りを覚えました。
 母親は父親の命日になると、何時も私たち兄弟を集めて毎年毎年こう言います。「お前たちはお父さんが殺された時傍にいたんだ、そのようすを全部見たんだ、絶対に忘れるんじゃない、その事を絶対に覚えているんだ。そして、お前たちの子供に伝えて欲しい。この恨みを絶対に忘れてはならん。」としつこい程に言い続けておりました。
 私はこれまで幾つかの所で証言をしてきました。実は一つの事を言っておりません。それは、今回日本に来るにあたって日本側から証言をして欲しいと招請を受けました。しかし私は実は大変嫌でした。日本に来たくなかったし、自分の体験を本当に語りたくなかったのです。あの時の悲しみが込み上げてくるのはわかりきっているのでどうしても嫌だと思っていました。しかし、娘が「日本の人たちがあなたの話を聞いて、新たな真の友好を望んでいる。だから行った方が良いよ」と何度も言ってくれました。その為に私は日本に来て皆さんの前でお話をする事にしました。
 私は先ほども言いましたが、私の家族を含め、中国の民衆はこれほどまでに酷い目にあっています。私たち、その遺族や被害者はこの恨みを決して忘れません。この恨みを子々孫々にわたって必ず伝えていきます。しかし同時に私は日本の人たちとの友好を是非願ってます。それは今後こうした悲劇、こうした戦争を二度と起こしてはならないと思うからです。日本の人たちと手を携えて侵略を繰り返さないために頑張って行きたいと思います。しかし、日本の友人の皆さんには是非知って頂きたい。真の友好のためには中国で起きた事実だけは是非知って頂きたいと思います。
 私は東京の友人の皆さんに対して心からお礼を申し上げて私の話を終りたいと思います。


(前のページの王さん兄妹の写真と上の牛小屋付近の写真は2004年9月18日、上海宝山区で撮影したもの)

<出 典>
●南京大虐殺から67年、被害者の証言を聴く2004年東京集会、 「大虐殺への道−上海から南京へ−(報告集)」
 2004年12月11日、亀戸文化センター 編集・発行:ノーモア南京の会、2005年7月10日発行