2008年・「上海・蘇州・無錫・南京への旅」は10月31日から11月4日まで、上海から蘇州、無錫を通って南京を訪ねる旅を行いました。
 無錫では、錫山区東亭街道春雷社区で許巷惨案慰霊碑、紀念館を訪問し、生存者の許泉初さん、許玄祖さんのお二人からお話しを聞くことができました。 

錫山区東亭街道春雷社区 許巷惨案

許泉初さん
 当時私は11歳でした。日本軍が陰暦の10月22日(太陽暦11月24日)に来て、中国軍と1日激しい戦闘を行いました。夕方4時頃日本軍は私たちの村に侵入してきました。先鋒隊が各家をノックして人を広場まで連れ出しました。日本軍は村の入口の許舜先で、そこにいた家族と避難した人々40人を皆殺しました。私の家は12人で避難してきた人を含めて3人の15名でしたが、そのうちの11名が殺されました。
 日本軍は私の家に入ると祖父を銃剣で刺し殺し、私の25歳と18歳の2人の兄、28歳のいとこ、隣の許耀定、銭阿狗、許紀祥の6人を広場に連れて行きました。許耀定と銭阿狗の2人は家まで逃げてきましたが、残りの4人は広場で殺されました。
 父は様子を見ようとして外に出たところを日本軍に見つかり、広場まで連れて行かれました。父は日本軍によって頭の後ろ半分を切られて死にました。いとこも頭の後ろ半分を切られて死にました。上の兄は、頭の左半分を切られ、耳も切り落とされて死にました。18歳の兄は腰を銃剣で刺されて死にました。
 私の家族で生き残っているのは、母と兄の嫁と私の3人だけです。
 こうしてこの村では、63世帯のうち57世帯は誰かが殺されました。この村の人97人と避難してきた人を含めて223人が殺されたのです。90歳の年寄りから子供までが殺され、強姦され、あちこちに死体の山ができ血が河のように流れました。棺桶を用意することもできないので穴を掘って葬りました。

許玄祖さん
 当時私は数えの3歳(やっと20ヶ月)でした。
 以下は祖父から聞いた話です。私の父母はもともと上海で働いていたのですが、日本軍の爆撃が始まってからこちらに避難していました。日本軍が入ってきた時、父と母と祖父は家に隠れていましたが、日本軍が戸を蹴飛ばすのでおじいさんが戸を開けに行きました。開けるやいなや日本軍は銃床で祖父を殴ってきたので、祖父は外に逃げ、桑畑に逃げ込みました。日本軍は家の中に入って、玄関で父を撃ち殺しました。母は銃声を聞いたので、私を抱いて外に出ましたが、日本軍に見つかり刺されました。ちょうど私は乳を飲んでいるところだったので、銃剣で母が胸を刺された時、私も口元をいっしょに刺されました。母は亡くなりましたが、私は2人の血で血まみれになって母のそばで一晩過ごしました。夜明けに外に逃げた祖父が瀕死の私を見つけて、血を拭いて着替えをさせてくれましたが、長いこと血の中にいたので目も炎症を起こしてしまいました。両親が亡くなり、祖父も動けないという状況のなかで1週間痛んだあと片方の目が何も見えなくなりました。幸いにもその後おじさんが育ててくれました。