No.2000-3
南京大虐殺の幸存者の目撃証言
彭 善栄さん
南京国際安全区(1918年生れ、当時19歳、男性)

 日本兵による中国兵の捜索と女性の強姦

 私は中国人で彭と申します。今年、満82 歳です。日本軍が中国で虐殺をした事を証言する為に今日ここに参りました。昔自分が被害に遭った事、見た事をお話しします。日本軍が南京に進軍して南京を支配し始めた最初の日に日本兵は私の家のドアをノックして入って来ました。日本兵はドアを開けると女がいるかどうか聞いてきました。いないと答えると、日本兵は私を「お前は中国兵か」と言ってきました。私は中国兵ではないと答えましたが、それなら証拠を見せろと日本兵から言われました。日本兵は私の目の前に銃剣を立てて調べました。私はズボンを脱がされてゲートルを巻いた跡があるかどうかチェックされました。中国兵であるかどうかチェックされたのです。もし兵士だったらゲートルを巻いた跡があるからです。私が中国兵でない事が分かると私を調べた日本兵は私の足を銃剣で刺しました。血がいっぱい流れ、止まりませんでした。隣の人が傷口にタバコの葉っぱを付けてくれて血を止めました。その時、家にいた自分の妻とか、妹など女の人は全員、安全区にあった金陵女子大学に避難していました。でも一人だけ女の人が残りました。その人は義理の兄の同僚の奥さんでした。その奥さんは5歳位の子供がいたので金陵女子大学に避難しなかったのです。次の日、やって来た日本兵は私を外に追い出して彼女を強姦しました。日本軍が去った後、その同僚の奥さんは私の前で泣き続けました。泣き付かれた私は「今は仕方がない、誰も貴方を馬鹿にしないから」と励ましました。

 日本軍による連行 虐殺か?苦力か?

 その後も日本軍はやって来てあっちこっちで人を捕まえました。捕まえた人を日本兵は大体撃ち殺しました。5日目に日本兵は私を捕まえに来ました。そろそろ殺されると思ったので、その時私は凄く緊張しました。その当時捕まえられた人は二ヵ所に分けて連れて行かれました。北の方に連れて行かれた人は全部殺されました。東の方に連れて行かれた人はそこで働かせる人達です。私は東の方に行きましたので、多分殺されないと思い、少しほっとしました。全部で20人も捕まえられて東の方へ連れて行かれました。私達が行った場所は南京のコウカートウと言う所でした。そこに連れて行かれて働かされました。コウカートウに行く途中で日本軍は二人を撃ち殺しました。コウカートウに着いた後は仕事を分担させられました。私と他の三人はご飯作りの仕事をさせられました。それまで私はご飯を作った事がないのでご飯が上手く出来なくて半生ご飯を作ってしまいました。日本軍はめちゃくちゃに私達を殴りました。他の三人はもっと酷く殴られました。私の方はまだ軽い方でしたが、今のこの傷はその時の殴られた痕です。その当時は電灯がありませんから、夜になると真っ暗になります。暗くなってみんなと相談しました。みんなどうせ死ぬんだったら逃げよう、上手く逃げられれば生き延びられる、だから逃げようと。そして逃げる事に決めました。

 脱出後、再び捕らえられる

 その夜、みんな逃げ出してキンインメングトイグと言う所に行きました。そこには老夫婦が住んでいました。老夫婦は一時他の所に避難していて、また戻って来たばかりのようでした。私達18人は老夫婦に跪き助けてくれと頼みました。その老夫婦の家は相当空いている部屋があって、その部屋の中には藁がたくさん置いてありました。そこに老夫婦は入れてくれました。私達はその部屋に入って寝ました。私達はその部屋に入って寝ました。私達は藁の上で寝ていたのですが、途中寒くて寒くて仕方がありません。どうしてそうなのか、暖かいはずなのにどうしてそんなに寒いかと思って、一緒に逃げたジャオミンズという人が手で下を探ってみると死体がありました。その死体はみんな普通の庶民の死体でした。庶民の死体だと分かったのは、綿入りの着物を着ていたからです。その頃、普通の庶民は綿入りの着物を着ていましたので、農民の死体だという事が判りました。その事を老夫婦に教えてあげると、老夫婦も帰ったばかりで農民の死体がある事は全然知らなかったようです。ここも危ないと思って皆で出ようとしました。シャオツウという人が先に外に出たところ、外には日本軍の部隊がいました。日本軍は銃を立てて私達を殺そうとしていたのです。シャオツウは逃げる事を諦めました。部屋の中に隠れていた私達もみんな外に出て行きました。私達は苦力としてみんな一緒に日本軍部隊の方に連れて行かされました。日本軍はケイメイジと言う所に駐屯しました。そこまで私達は物を磨いたり、人力車を押したり、荷物を運んだりしながら歩きました。そこに着いた後、一緒に荷物を運んだ同僚は自分の家に帰ろうとしたところ、日本軍は銃で撃ち殺してしまいました。この人は南京の自分の家に着いたから心配する妻の元に帰ろうとしたのです。

 帰宅してからも女性の強姦は続いていた

 その後、私達は家に帰りました。殺された同僚の奥さんは、自分の夫は日本軍に捕まえられてもう死んだと思っていました。その家には野菜も米も食べ物は何もありませんでした。死んだ同僚の奥さんは途方に暮れていました。奥さんには私が明日城外に食べ物を探しに行く事で安心してもらいました。次の日、私は食べ物を探しに行く途中、また4,5人の日本兵に遭いました。日本兵は何処に女がいるかと聞いてきました。私が分からないと答えると、日本兵はすぐ銃を出して脅迫し私を何処かに連れて行くと言いました。私はしようがなくて何処かの辺鄙な所に連れて行きました。出来るだけ人がいない所を選んで連れて行ったのですが、やっぱり2人の女に会いました。この2人の女のうち1人は多分50代、もう1人は30代で2人とも頭を布で包んで顔も全部炭で黒く塗っていました。日本軍はその布を取って顔の炭を拭きました。どっちの方が若いのかすぐ分かりました。その四人の日本兵は若い女の人を強姦しました。日本兵はその現場を見ておくように私達に命じました。その場を離れる事が出来ない私の心は凄く辛かったです。暗くなって日本軍は別な所に行ったのでその後、私達はまた一緒に他の所に行きました。食べ物を探す事も出来ずに私達は帰りました。その後、また食べ物を探しにお城の東の門の方に行きました。他の食べ物はなかったのですが、漬け豆腐を見つけました。それを持って帰る途中で、また日本軍が女の人を強姦するところを見つけました。その女の人に対する暴力は酷かったみたいです。その場で立ち上がる事が出来ませんでした。何かしようと思っても私達には何も出来ませんでした。日本軍から帰れと言われて仕方がなくて帰りました。その女の人は死んだのかどうかは分かりませんでした。漬け豆腐は持って帰ってみんなで食べたのです。

 妻の死

 今まで(それまで?)私の妻は金陵女子大学に避難していました。妻は私の事を非常に心配していました。妻は大学に避難していても毎日人が殺されるとか、毎日誰かが強姦されたとか、そういう話しを聞いていたために凄く心配していました。妻は私がまだ生きているか確かめる為に家に戻って来ました。だからその日、妻は金陵女子大学には戻りませんでした。その時兄弟が多く集まったので、妻は家に泊まっていました。しかし、その日も1人の日本兵がやって来ました。その日本兵は私の妻を強姦しようとしました。妻は服を脱がされたのですが、大声で叫びました。そのため妻は日本兵に強く殴られました。その時、私の兄弟が駆けつけましたので、日本兵は強姦できませんでしたが、妻は強い衝撃を受け、その後病気で亡くなりました(嗚咽して言葉が途切れる)。私は死ななかったんですが、私の妻が死んだ。そういう惨い事件で凄くショックを受けて、それが元で後に病気になって死んだのです。どうも有り難う。                  以 上
 <逐次通訳>
   何 立新
   周 涛(南京市対外交流協会 副秘書長)

<出 典>
●『ノーモア南京 2000年東京集会』報告集 私たちの責任、
 編集・発行:「ノーモア南京 2000年東京集会」実行委員会、2001年12月1日 発行

<補足事項>
●この受難者については、松岡 環著「南京戦 切りさかれた受難者の魂」(社会評論社) にも面接調査の記録が掲載されている。