No.2008-1

被害の証言;「私はただただ泣くしかありませんでした」

       証言者   黄 恵珍さん
      
1922年生れ、当時15歳、女性、南京・難民区(上海路)

 その当時のことを皆さんにお話ししたいと思います。
 
 当時父は南京の老虎橋にある監獄の管理者として仕事をしていましたので、父は私たちも南京へ来るように言いました。私が数えで16歳のとき、母と兄と私の3人で山東省から南京へやって来ました。そして4人で孝陵衛に住みました。
 私たちが南京へ来て2ヶ月ほどすると、日本の飛行機が毎日のように南京へ来て爆弾を落とすようになりました。怖いですから、安全なところへ行こうと思い上海路の陰陽営という難民区へ移りました。綿入れを着ていたので、冬のことです。私はその眼で見たことをそのまま話しています。私は学校へも行ってないし文化(知識)もありません。私は1922年生まれで今85歳です。
 上海路近くの陰陽営からは日本軍が城外で三日三晩放火している火の手が見えました。その当時、城門は全て閉じられていました。城外のあちこちで煙と火が出ているのが見えたのです。3日ぐらいすると、日本軍は上海路の南側から城内へ入って来ました。
 みんな「日本鬼子が来た!日本鬼子が来た!」と言っていました。みんな日本人を見たことがなかったので、日本人がどんな姿かを見ようと、草房(藁葺きの家)から出て来ました。その時、草房には13世帯が住んでいました。私も父と母と兄の4人で見に出ました。同じ難民区に住んでいた80歳位のお婆さんとそのお嫁さんの50歳位の小母さんも一緒に見ていました。日本兵が革靴を履いているのが分かりました。初めて見た日本兵は4、5人でした。
 日本兵が来ると「チョンヤンビン(中央兵)、チョンヤンビン(中央兵)」と中国語で言いました。当時28歳の兄は日本兵に手の平と帽子を見られました。先程一緒に日本兵を見ていた50歳近くの知らない小母さんが手を掴まれて連れて行かれ、強姦されました。その部屋はすぐ近くだったので窓からその様子がみんなに見えていました。
 私たち家族4人は怖くて立っていました。しばらくすると日本兵は出てきて、私も同じように手を掴まれて部屋の中に連れて行かれました。日本兵は何も話さず、部屋に入るとすぐ私は押し倒されて強姦されました。父と母はなすすべもなく外に立っていました。恐ろしさの余り母の顎は外れ、大便も小便も流していました。日本兵が部屋から出て行くと私は泣くしかありませんでした。ただただ泣いていました。
 その日、同じ日本兵は難民区に住む13世帯から、私の兄も含めて13人の若い男性を銃で脅して金陵大学へ連れて行きました。兄が連れて行かれ、私も母もとても辛くて、泣くしかありませんでした。その日の夜、兄は必死に裏の壁を乗り越えて家まで戻って来ました。
 それからは日本兵がやってくる度に兄は隠れました。藁葺きの建物と建物の間に藁を積んで、外側だけ被せてその間に身を隠しました。父は毎日老虎橋に通勤していました。日本兵が遠くから来るのが見えると、みんな「日本鬼子が来た!」と叫ぶので、私たちはすぐに隠れました。私もベッドの下に黒い大きな空箱を置いてその奥に身を隠しました。
 兄と一緒に日本兵に連れて行かれた残りの12人は誰一人戻っては来ませんでした。後で聞いた話によると、下関へ連れて行かれて全員殺されたそうです。
 毎日こういう状態で安全ではないので、父の頼みで父の同僚の妻である36歳になる小母さんが私をアメリカ大使館へ連れて行ってくれました。小母さんがここはアメリカ大使館だと言っていました。それは上海路の近くにありました。大使館は二階建てで、私は一階の床に自分のスペースを作って眠りました。
 大使館にはアメリカ人の女性が一人いました。昼間は玄関のところをアメリカ人お男性が守っていたので日本兵は簡単には入れませんでした。しかし夜になると日本兵は裏の塀を乗り越えて入って来ました。懐中電灯で照らしながら「花姑娘(ファークーニャン)、花姑娘」と呼んで探しに来ました。そこは割と広い部屋でした。真ん中が通路になっていて、両脇にみんな寝ていました。ベッドがなかったので多くの若い女性は床に寝ていました。その中から日本兵は皮膚が白くて綺麗な女性を4、5人捕まえて駆け足で出て行きました。どこに連れて行かれたのか分かりませんし、その後戻って来た人は一人もいません。私の知る限り、日本兵が来たのはこの1回です。私は怖くて動けずじっとしていたので、日本兵が何人いたのかは分かりません。数人来たのだと思います。夜のことなのでアメリカ大使館側はこのことを知らなかったと思います。
 日本兵に捕まらないために私は顔を黒くしていました。鍋の下の炭を取って顔に塗ったのです。当時若い女性はみなそうしていたので、私も真似しました。それから私はわざと腰に古い綿入れを巻きつけていました。私の髪は南京へ来てから学校へ行くために短く切りました。山東省にいた頃は学校へ行ってなかったので髪は長かったのです。山東省ではお嫁に行けるように纏足もしていましたが南京へ来ると外しました。
 アメリカ大使館では毎朝早くから行列を作って、広い運動場で大きな鍋で作られたお粥を貰いました。1日1回のお粥はお金も必要ありませんでした。みんなは、アメリカ人が提供してくれているのだと言っていました。華小姐(ヴォ―トリン)というアメリカの女性の名前を聞いたことがあります。
 ある日、女の人が意識不明で蟹のように口から泡を出して、地下室へ運ばれたのを見ました。何があったのか詳しい話しは知りません。
 小母さんが外は前よりも安全になったからもう出てもいいと言ったので、私はこの大使館を出て、上海路の陰陽営へ帰りました。大使館には2ヶ月ちょっと住んでいたことになります。
(※.証言者の黄さんは米国大使館と思っているが、話の状況から、金陵女学院だと思われる)

 母の話では、私が大使館にいる間に日本兵が一度来たそうです。池で何かを洗っていた女の人がトラックに投げ込まれ、連れ去られたのを母は庭から見ていました。そして池の奥は林だったのですが、何人かの中国人が木に縛られて日本兵に突き殺されて死んだそうです。日本兵が去ってもその死体は何の処理をすることもないままでしたが、後で鼓楼病院の卍字会の人が死体収集に来て、紐を切って死体をトラックに乗せて行き、上海路の小さな山に埋葬したそうです。上海路のところに井戸があったのですが、そこでも人が一人殺されたと聞きました。
 数えで18歳の時に私は北方育ちの主人と結婚しました。しかし私が処女でないことが主人に分かると、「真面目な女じゃない!悪い女だ!」と相手にされなくなりました。北方人の主人の母も同じ態度で、いつもきつい眼で私を叱りました。
 夜になって二人きりになると、私は主人に革製の太いベルトで殴られました。部屋のドアをぴったりと閉めて何度も殴られました。「悪い女だ。臭い!臭い!死ね!」と言われました。でも私は何も言うことができません。そのうち殴り合いの喧嘩になってきました。鉄や細い鉛の水道管で殴られたこともあります。今でも額に痕が残っています。辛かったことは誰にも分かりません。殴られたことは死んでも忘れられません。
 私はずっと暗く辛い生活をしてきました。主人に抵抗もできないし強姦されたことを話すこともできません。主人に殴られていることすらも他人には話せません。面子があるからです。
 私には三人の息子と二人の娘がいます。普通なら何かあったときに一番に話す相手は娘でしょう。しかしこの5人の子供たちの誰にも話していません。どうして話すことができるでしょうか。恥ずかしくて言えるものではありません。面子があります。ですからこれまで誰にも話すことなく居ました。他の出来事は子供たちに話をしています。しかしこのように強姦されたという話をしたのは紀念館の女性の方と貴方がただけ、この2回だけです。
 今日は紀念館のほうから誰か一人家族と一緒に来るように言われて、孫息子を連れて来ました。本当は孫を連れてくることは好ましくありません。もう13歳です。ですから孫と別の部屋でお話ししているのです。1937年に日本軍は南京城に入りました。そして30万人の中国人が殺されました。主人は26年前に高血圧で亡くなりました。私は、本当はずっと話したくありませんでした。ずっと一人で我慢してきたのです。でももう80歳になりますし、我慢していてもしようがないと思うようになりました。現在の日本の状況とは関係ありません。私はただ、こんなに大きな被害に遭ったことや主人に殴られたことを、他では話せないので紀念館だけには話しておきたかったのです。
                                   通訳 墨面
<出 典>
●南京大虐殺から71年―2008年東京証言集会“証言を聞き 映像で確認する 南京大虐殺”2008年12月14日、総評会館。
 「南京大虐殺71年 2008年東京集会」報告集 発 行:2009年12月1日 編 集:ノーモア南京の会