No.2005-2

被害の証言;「村の広場で起きた集団虐殺を、私はこの目で見た」
陳 広順さん
南京市湯山区(1924年生れ、当時14歳、男性)

 皆さん、私は南京市湯山セイコウコウ(巷?)というところの村の住民です。今年82歳です。1937年当時は14歳でした。私は今日、68年前、私の村で私の家族に起こったことをお話したいと思います。私はその大虐殺の生存者です。
 1938年の旧暦の1月9日のことです。私たちの村は突然日本兵に包囲されてしまいました。私たちは当然それに気付かず、私たちの家では朝早く朝食の用意、芋を蒸かしておりました。そして3番目の兄が、芋ができたということで、その近くに住む親戚がいるんですけども、その親戚を呼びに、食事ができたということを知らせに家を出ました。村全体は30何人かの日本兵に包囲されていたわけですけれども、そのうちの日本刀を下げた一人の将校、それに4人の兵士、合せて5人が村の中に入って来て、村の中を巡回したわけです。その時に、食事ができたと親戚を呼びに行った3番目の兄が運悪く日本兵に出会います。その場で銃で撃ち殺されました。この兄が撃たれた銃声で初めて村人は日本軍がやって来たということに気が付くわけです。そして、湯山は村の裏が山になっているんですけれども、一斉に裏山に向って全員が逃げ込みました。しかし、村は包囲されておりますので、全員が逃げ切れるわけはなく、そのうち23人が捕まってしまいました。村に連れ戻されたその23人は、村の中に両側が壁になっている南北に路地のようになっている所があるんですが、その中に閉じ込められます。南北の端に日本兵が見張りに立つと、つまり完全に囲われた中に入れられるわけです。
 その前のことなんですが、5人の日本兵士が村に入って来たとき、これも私の遠い親戚なんですけれども、別の村から嫁が来ておりました。目の見えない女性でした。その女性は2歳半になる娘、子供を背負っていたんですけれども、その人が通りかかったところを日本兵に見つかってしまいました。そして日本兵が、その女性が背負っている子供を地べたに放り投げて、その女性をある小屋に連れ込んでいきました。その女性は強姦された後、日本兵にどこかに連行されていきます。あとで、わかったことですけども、この女性と子供も、捕まった23人の村人と共に、囲われた中に閉じ込められました。
 先ほど言いましたが、4人の兵士と一人の将校は、私が一人残る家の中に入ってきました。私の家に入り込んだ、合せて5人の日本兵は、4人の兵士が私に銃口を向けていました。私はもちろん日本語はわかりませんけれども、その将校らしき人が何か一言二言、言いますと、その4人の兵士は私に向けていた銃を初めて下しました。その将校は私の頭を小突いて、手で仕草をして、芋をかごの中に入れろと命令しました。私は芋をかごの中にせっせと移し換えていったわけです。その時、私の家では2羽の鶏を飼っていたわけですけども、侵入者の物音に驚いて鳴き声をあげてしまい、発見されてしまいました。将校は、手による仕草ですけども、2羽を足で縛って、鶏を肩に載せて、手にはその芋を入れたかごを持つと、一緒に来い、ついて来るようにと命じました。そして日本の将校について行った所がさきほどの23名の村民が閉じ込められている所でした。そして、その時初めて先ほどの盲目の女性もその中にいるということがわかったわけです。
 その将校はそこに着くと、まず私に芋をひとつ食わせました。それは中に毒が入っていないか、ということを恐れたためだと思います。そして私にその鶏をちゃんと見張っておれ、逃がすなと命じました。私は非常に怖かったので、必死にその4羽の鶏をきつく握って、逃がさないように、万一でも逃がすと殺されてしまうというふうに思ったわけです。そして、私に指示したあと将校は、23人の村人を振り向いて、さきほどの女性と子供が入りましたので、25人になりますけれども、村人達をそのすぐ近くの小学校の校庭に連れて行きました。私のすぐ前の、そうですね、20メートルもないすぐ前の校庭に連れて行ってしまったわけです。私は鶏を必死に握りしめていたわけですけれども、目は25人のところに釘付けになっていました。日本兵は20数人の村人を地面に跪かせました。機関銃が村人たちに向けられていました。もちろん日本語はわかりませんけれども、日本の将校が、一言二言命令したようです。そうすると機関銃が発射されました。その村人に向って機関銃が撃たれたわけです。その一部始終がまさに私の目の前で起こりました。日本兵は機関銃で撃ち殺しただけではありません。それでも気が収まらないのか、人数が多いので死体は重なっておりますけれども、その一番上の者を銃剣で止めを刺していきます。刺し終えるとそれをよけて次の者を刺していきます。こうして全員の止めを刺すという残忍なやり方で殺しました。この虐殺のなかで唯一、一人だけが生き残っています。この生き残った人は幸いにも背が低かったのと、非常に臆病な人だったので、機関銃がなった瞬間に前のめりに倒れてしまったのです。それで機関銃の弾は当たりませんでした。その後一人ひとり銃剣で串刺しにされるんですけれど、この人も実は首を刺されました。しかし、幸いに致命傷にならずに、後ほど、自分のシャツを割いて傷口に当てて、幸い生き残ることができました。この方は、十数年前まで生きていたんですけど、亡くなってしまいました。
 その虐殺を終えて、大勢の日本兵と将校は私の方に歩いて来ました。その時私は本当に怖くて、怖くて当然私も殺される、刺し殺される、銃で撃たれると思いました。腰を抜かして立ち上がることもできませんでした。今日、偶然にも、隣の部屋で写真展が開催されるのを見ました[注1]。何枚かの写真を見まして、本当に当時の恐怖またこみ上げてきました。その60数年前の情景がまた脳裏に浮かんで、怖い思いを今、持っております。
 先ほど言った、機関銃の音が鳴ったときのことですが、これも私の遠い親戚にあたる人ですけども、中国の農村では同姓の一族があり、陳の一族なんですけれど、その一人がどういうわけかいきなり家から飛び出して裏山の方に逃げようとしたんです。それもすぐに日本兵に撃ち殺されて、日本兵が近づいて同じように銃剣で何度も刺して殺して
しまいました。その時、私はその日本の将校に殺されると思ったんですけれど、その将校は私の頭を小突いて、手で行けという仕草をしました[注2]。私は立ち上がろうとしたんですけれど、腰が抜けて立ち上がることができず、そのままうずくまったままになりました。そして、日本兵がその場を離れ始めたときに私はようやく立ち上がって、山の方に歩いていって、避難して行ったのです。私はまだ子供でしたので、あまりに残忍な光景を見た後で、山に籠もって泣いているだけでした。兄は殺され、親戚の二人が殺されよく知っている村の人がたくさん目の前で殺されたんです。その時、私は何も感じないほどに、ただ泣くだけでした。私が大きな声で泣いているので、すでに山の中に避難している村人たち、もぞろぞろ私の周りに集まってきました。そして、私は目の前で起こった惨劇を皆さんに話したわけです。当然自分の身内、兄弟を殺された人たちもその中にたくさんいるわけです。その周りの村人たちも自分たちの親、子、親戚が殺されたことを知って一斉に泣き始めました。
 村人十何人が虐殺の現場に行って、死体を仮に埋めました、当時野生動物や野犬とかがたくさん出ましたので、かじられてはいかんということで、穴を掘ってとりあえず軽く埋めました。日本軍がいつ来るかわからないので、落ち着いて掘ることもできず、臨時に草や土をかぶせるという程度の埋葬の仕方でした。その後、村は日本兵に焼き払われるわけですけど、その残った材木とかそういうので、死体の上を覆うようにして、仮の埋葬ということにしました。改めて、正式に埋葬したのは先ほどいいました、4月の初めのことです。その時は仮に埋葬したところは、穴の中から水が湧いてきておりまして、死体は水に浸った状態でした。そして、死体はふやけて、膨張して、ひとつひとつ持ち上げることもできませんでした。腐乱してすぐに崩れてしまうようなものです。それをスコップのようなもので何人かが死体を水から上げて、そして先ほどの同じような焼け残った材木で簡単な棺桶を作って、その中に入れて改めて埋葬したわけです。
 みなさん、この時に殺された人たちには妻もおりました。そして、子供もおります。残された家族は幼い子供を連れて、いろんな家で食べ物をもらいながら、かろうじて生き残っていきました。中国もそうですし、日本もそうです。どこの国の人も幸せに暮らす権利があります。しかし、68年前、日本兵は私たちの村に来て何の罪もない農民達を虐殺し、その家庭を破壊してしまいました。私個人について言うならば、私の家は村では比較的豊かな家でした。農業以外に副業でお酒を造っていたためです。けれども、六軒の家が輪のようになった私の家は、完全に焼き払われてしまいました。そして家畜として牛が1頭、豚が8頭、ロバが2頭いたんですけども、それもすべて奪われてしまいました。
 どうか皆さん、機会があれば南京に来て私の村に寄って下さい。当時、造られたお墓の墓標は今も残っております。話したいことはたくさんあるのですが、先ほど隣の部屋で本当に衝撃を受けてしまいました。新たな記憶がたくさん湧いてきました。これ以上話すのはなかなかつらいので、私の話はここで終わりたいと思います。みなさん、本当に有難う御座居ました。
[注1] 隣の会場で、今村守之氏が撮影した写真の一部をパネル展示していた。その中に、日本軍が上海の郊外で、中国人捕虜を虐殺した現場の写真が数枚あったのを、陳さんが見たことを言っている(編集者)。
[注2] 陳さんは、日本人将校が日本語で「帰る、帰る」と言った、と述べている(通訳者)。

●同行の通訳の墨面(モーメン)氏の補足説明;
 証言者である陳 広順さんの証言を補足して、次のように語っている。
 「このおじいちゃん(陳 広順さん)の証言の中で村人が殺され、親戚が殺された話がありました。問題は本人には被害はなかったのかということです。今日の証言でお気づきかも知れませんが、頭をコンと小突かれるだけで、何の被害も無かったかのようです。実は全くちがいます。当初、この方の証言を取るときに聞いたのですが、実は自分が受けた被害がたくさんあるのです。これは彼自身の尊厳に関わるような被害、性的な被害を彼自身受けています。男ですから、翻訳して欲しくない、通訳して欲しくないとおっしゃっています。その部分はもちろん翻訳しておりません。証言というものは実はもう一つの(話せない)ものが常にあるものだと、私はいろんな人の証言を通訳して思います。日本の大勢の人の前でその体験を生存者が語る重みというものを皆さんの心の中に刻んで頂きたいと思います。
 最後に、この場で話すときに(この)おじいちゃんは言いませんでしたが、別の会場では、こうした状況の中で、こういう話はしたくないんだと、と言いました。本当は話したくない、しかし、私は村人23人の恨みというものを訴えにきたんだ。私はそれを託されているんだということで、私はいやなんだけれど皆さんの前で話すんだと言われています。日本の皆さんがその思いを受け止めることができたら、彼等の苦しい証言は価値あるものだと、私は思います。有難う御座居ました。」

<出 典>
●「南京大虐殺から68年 2005年東京・横浜集会」報告集、“今生存者が語る南京大虐殺―くり返すな戦争への道”、ノーモア南京の会

<補足事項>
●証言者の居所、湯山区は南京市街の東方、句容から麒麟門へ通じるルートの途中にある。したがって、ここを攻めた部隊は第16師団(京都)の第20連隊(福知山)あたりと思われる。