No.2009-1
証言者   楊 翆英さん
      
   1925年生れ、当時12歳、女性、南京(許府巷、大方巷)

「父親、叔父、祖父そして1歳の弟が殺された・・・」

 日本の友人のみなさん、こんにちは。私は南京から来ました。名前を楊翆英と申します。私は今年数え85歳です。満では84歳ですが。今日では日本と中国が仲良くなり、そのお陰でこのように日本に来て、日本の友人の皆さんの前で1937年当時私達の家族を襲った悲劇についてお話しできる機会恵まれました。
 実は、1937年の8月頃からすでに日本軍は南京に対して空爆を行っていました。昼夜を問わず、非常に激しい空襲でした。そして12月13日、南京に日本軍が入城し大虐殺が始まりました。正にその日に私の家族4人が日本兵に殺されました。
 その日、日本兵が私の家にやって来ました。日本兵は長い銃を持っていました。その先には剣がささっていました。日本兵は入って来るなり、私の父親をその銃剣で突き刺しました。そしてそれを引き抜いて、また突き刺しました。その時私は満1歳になる弟を抱いていました。その赤ちゃんを、弟をですが、日本兵に見せて「助けて欲しい」と言いました。こんな小さい子供のいる父親に対して、日本兵も同情して殺さないのではないかというように私は思ったわけです。だからそういうようにしました。しかし日本兵は想像以上に残酷でした。私の抱いていた1歳の弟をつかんで地面に叩きつけました。そして軍靴で頭を踏みつぶしました。私は跪いて「どうぞ助けて下さい。お父さんを殺さないでください」と必死に懇願しました。「お父さんはただの百姓だ。何も悪いことをしていない」と必死に頼みました。けれども日本兵は私のほっぺたに思い切りビンタを食らわせました。それで私の鼓膜が破れ、耳が聞こえなくなりました。
 当時私達は許府巷という所に住んでいましたが、日本兵が入ってくるということで大方巷という所の難民区に入りました。そこで、私の父親、叔父、祖父そして1歳の弟が殺されたのです。こうした目に遭ったのは私達だけではありませんでした。たくさんの人達が同じように殺されました。殺されたのは皆、貧しい人達ばかりでした。 それでたくさんの死体が周りにありました。日本兵はトラックにその死体を積み上げ、大方巷のすぐ近くにある魚を養殖するための大きな池にどんどん投げ込んでいきました。池は死体の山になっていました。水はもう真っ赤に染まっていました。
 当時、私の母親は妊娠していました。父親が殺された5日後に赤ちゃんを産み落としました。しかしその時にはもう食べるものが無い状態でしたので、その子は間もなく餓死しました。

 父親もそして叔父も祖父も大体が農民です。野菜を作ってそれを街に売りに出て、幾ばくかのお金に換えて家族は暮らしていく、そういう貧しい農民でした。私達の元々の畑は許府巷にあったわけなんですが、大方巷の難民区に移った後は、食べるものはもちろんありませんでした。そして父親、叔父という畑を耕している人が殺されてしまったために食べるものも、もちろんお金もありませんでした。
 母親は産んだ子はすぐに死んでしまい、夫は殺され、叔父や祖父も殺され、そうしたなかで、毎日のように泣いて、泣き暮らしました。そしてついに両目とも見えなくなってしまいました。

 家に残されたのは、当時12歳の長女の私でした。生活のすべてが私にかかります。食べるものがない、それを12歳の私にはどうすることもできませんでした。道端で野草を摘んで、それを洗って小さく刻む、そして養殖池の中にタニシがたくさんいるんですが、そのタニシを拾ってきて、身をもぐ。それも小さく切って一緒に入れてお粥のようにします。それを当時残っていた家族4人で食べながら生きながらえました。
 こうした状況は私達の家族だけではありません。たくさんの人達が同じように食べ物がない状況が続きました。当時南京は中国の首都でした。国民党・蒋介石の軍隊は早々と日本軍が入る入前から首都を四川省の重慶に移しました。それに伴って兵士は元より役人も一緒に四川省に移りました。そして比較的お金のある、或いは何らかの方法のある人達はすべて南京から出て行ってしまいました。当時南京に残っていたのは私達のような貧しい人達ばかりでした。
 このような状況を見かねて一人のアメリカ人、正確な名前は知りません、私達は華さんと呼んでいました。その華さんという人が難民経営をやりました。当時南京は首都であったために各国の大使館がありました。先ほど言いました私達難民が華さんと呼んでいたその方はアメリカ大使館の人だったと思います。その人が難民の状況に見かねて食糧の配給を始めたわけです。非常に大きな鍋でいつもお粥を炊いて難民に配給するようになりました。私達難民はそこに行ってまず登録しました。家族の何人が殺され、そして今残っているのは何人かという申告をしました。そして残った人達の人数に合せてカードのようなものが配られます。そのカードを元に一人につきお椀1杯のお粥が支給されました。毎日午前1回、午後1回の合計2回お粥が支給されます。こうしたお粥の配給は約1ヶ月続きました。

 この華さん(通訳補足:おそらくミニー・ヴォートリンのことだと思う)は大勢の人達が殺され、或いは難民になった、或いはその惨状を目の当たりにした人です。外国人として南京大虐殺を実体験した正にその人だと私は思います。この1ヶ月の配給が終わった後、また食べ物がなくなってしまいました。だからまた以前と同じように野草を積み、タニシを拾って、それを食べながら辛うじて生き永らえてきました。
 このように食うや食わずの生活を続けて16歳になった時、日本人が南京で経営していた工場に勤めに出ました。そこではいわゆる給料というものは支給されませんでした。その代わりに1日につき半斤、つまり250グラムの米と、同じく半斤の干し芋のそれだけが支給されました。
 その工場は、当時「南京被服工場」と言っていました。布団や服を作る工場でした。この工場は実は今も南京に残っています。もちろん経営も名前も変わりましたが今もまだあります。そこでは100人以上の20歳以上の若い女性達が働いていました。大きな工場でいくつかのブロックに分かれていました。私は縫製専門の場所で働いていました。それ以外にも裁断をする所、ボタン付けをする所、洗いをする所、梱包をする所等いくつかのブロックがありました。
 当時、朝の7時から夜の7時までの労働でした。途中で昼食の時間が入りました。工場では昼食は支給されません。工場では単に大きな鍋でお湯を沸かしていました。私達は銘々家から簡単な食べ物を持って行って、昼になるとその食べ物を湯でふやかして食べるという状態でした。
 工場での仕事は非常にきついものでした。働いている者同士が話をすると、日本人の監督が跳んできて「馬鹿野郎!」と怒鳴りながら殴りました。他にも、トイレに行く時も先ず手を挙げて報告する、そして許可を得て初めてトイレに行けるという状態でした。
 私達の縫製の工程には2人の日本人監督がいました。この2人の監督は二交代でした。今週は午前の班と午後の班とで早番遅番、次の週はその逆というように順番制です。私達は朝の7時から夜の7時までぶっ通しでした。そして私達が仕事を終えると、日本人の女性が私達の身体をチェックしました。ボディチェックですけれど、何か工場から持ち出していないか、盗んでいないか厳重にチェックしていました。
 私はその工場で1945年8月15日に日本が敗戦するまでずっと働いていました。日本が敗戦した15日のその翌日にそこで働いていた人達は一堂に集められました。そしてそれまで働いた分の米と芋を支給されました。それで翌日からはもう会社には出ませんでした。これまで私が話したことは、一つ残らず事実です。私の目で見、そして自分自身が体験したことです。これは過去のことかも知れません。しかし私はこうした過去のこと、歴史というものを決して忘れてはならないというように思っています。
 今回私は日本に来て、どこかは分かりませんが、やはり証言した時、その後に、ある日本人が来て私にこう聞きました。「あなたは日本人を恨んでいますか」と。私は少し驚きました。家族4人が殺されて日本人を恨まないわけがない。恨んで当然だと。心の底から恨んでいます。しかし同時に言えることは、私が恨んでいるのは、私の家族を殺したあの日本人達です。決して今の日本人達ではありません。先ほど言いましたが、これは過去のことです。歴史も知れません。しかし、このことは決して忘れてはなりません。こうした歴史の事実が両国の友好に悪い影響を与えるとは私は決して思っていません。
 最後に皆さんにお願いがあります。是非ともきょう私が話した内容を皆さんのまわりの人達に話して下さい。そして子供たちはさらにがんばって勉強し、大人もがんばって仕事をして、自分達の家族を或いは自分達の社会をよりよくしてください。そしてその基礎のもとに日本と中国が平和でさらに友好を深めていく、そういうことを私は心から願っているわけです。私の話はこれで終わりたいと思います。
                                    以 上
<出 典>
●南京大虐殺から72ヵ年、証言を聞く2009年東京集会報告集、 「旅順大虐殺から南京へ」
 2009年12月13日、社会文化会館 編集・発行:ノーモア南京の会、2010年5月22日発行