No.2001-2

南京大虐殺の生存者の証言
朱 秀英さん
南京国際安全区(1928年生れ、建業路、当時9歳、女性)

 皆さん、こんにちは。私は朱秀英と申します。皆さんがお持ちのパンフレットでは苗字が朱ではなく「陶」となっていますが、私はこのたび来日して記者会見をした際に本名宣言をしました。私は本名を朱秀英と申します。
 私は1928年11月生れで、今年満73歳になります。当時私たちは、南京の建業路と言うところに住んでいました。家は大変貧しかったのですが、そこでは父方の祖母と両親二人の兄との6人家族で住んでいました。1937年日本軍が南京にやって来たとき私は9歳でした。
 当時、先ほども申し上げましたように私の家は大変貧しい暮らしをしていました。布を踏むような手伝いや、後に甘酒(酒かす)を売る仕事をやっていました。日本兵が南京を占領する前、金持ちはほとんどが南京を去ってしまいました。私たちのような金のない貧しい人間だけが地方や他へ逃げ延びることも出来ず、そこに居るしかなかったのです。いよいよ日本軍がわが南京へやって来ました。当時私はまだ9歳という幼い年齢でしたが、彼らがやって来る、日本の鬼畜生がやって来ると思うと、とても怖くて家から出られませんでした。私は他の皆がしたように家の中でじっと隠れていました。
                     
 日本兵が大勢南京へやって来ました。隠れていた私の耳にも近所の人たちが「キャー」と言いながら殺されていく、その声が聞こえました。本当に大勢の人が亡くなって行きました。私は「お母さん、お母さん、いったい何処にいるの?」と、叫んでいました。当時私は、母方の祖母の家に身を寄せていました。みんな大人たちは外に出ず、部屋の中にいましたが、私は、もう逆に怖くて部屋の外に出て、自分の母親の姿を追いました。 私を始め皆がすでに大パニックに陥っていましたが、日本兵はずかずかと各家の中に上がり込んで行きました。彼等は、若い娘をおそらく探していたのではないでしょうか。見つからないと、周りの皆に当たり散らしていたような感じでした。私は、うっかり日本兵に見つかってしまったのですが、その時、傍に頭の髪の毛が真っ白になったお婆さんがいて、そのお婆さんがとっさに自分の孫だと言ったら、日本兵はその時はあきらめて私を放っておきました。2偕屋の建物の中の下にも上にも、至る所に日本兵が湧いて出たようにあふれていました。私には彼らが何を言っているのか分かりませんでしたが、彼らは明らかに獲物を求めて私たちの街を荒らしていました。
           
 隠れていた人たちも余りにも長く日本兵が居座っておりだんだんじっとしているのが難しくなってきた頃です。ある年配の男性が日本兵たちをうまくだまして連れて行くから、その間に皆は他に身を隠せ、というようなことを言ってくれました。結局この人は戻ってくることはありませんでしたが、この老人のおかげで多くの人たちがその場から身を隠すことができました。私たちは、下にいたものはそのまま裸足で出て、上にいたものは2偕から飛び降りるようにその場から逃げていきました。日本兵を連れて裏の方から出て行った老人ですが、最後まで行方が分からず、すでに亡くなっていたのでしょうが、この人が私たちを日本兵から救ってくれたのです。
 こうやっていったんは逃げ延びた私たちですが、このままそこに留まっていては死を待つばかりだと、皆で相談して難民区に逃げることにしました。その難民区に行くのにも容易なことではありませんでした。当時私は9歳という幼子だったのですが、その後どうなるかは分からずとも、今その場で自分達がどのような局面にあっているかということはおぼろげながらも分かっていたつもりです。私たちは日本兵に強姦されない為にも、特に女性は身をやつして難民区まで避難することにしました。
 私の二人の叔母は、かまどの灰を顔に塗りたくって本来の肌の色を隠し、着ている服もあちこち袖とか胸の辺りを破いて、いかにも乞食であるかに見せかけるために裏返しにしたり、袖をまくったりしてわざとボロボロの姿をして街に出ました。頭の方にも手ぬぐいやタオルや布団のようなものを防空頭巾のように巻きつけて私たちは街へ出ました。ですが、街には日本兵がすでにあちこちにたくさん散在していたり、列を作って並んでいたりして、私たちは中国人の屍の上を踏みながら難民区まで歩いていくことになったのです。こうして私たちは乞食に身をやつして、仲間の死体を踏みながら何とか難民区まで行きました。難民区に行くまで私たちは恐怖と惨めさの中にどっぷり浸かっていました。足元には、仲間の死体がごろごろしていました。そして私の母ですが、母は難民区には行っていませんでした。
                     
 難民区に着いてから、父はかまどの火焚き番のような仕事をやっていました。難民区にはこれ以上は入れないではないかという程多くの難民がいました。その中で比較的若い女性は金陵女子大の方へ避難していました。その頃の地名などはよく覚えていませんが大変な人数がそこで暮らしていました。あまりにも人数が多いこともあり、食糧不足のこともあって、食事もほとんど満足に摂れず、寝るにも粗末なものすらなく、地べたのようなところに私たちは休んでいました。
 そこでの私自身の暮らしですが、先ほども申し上げましたように私の家は大変貧しくて当時でも生活が大変なものでした。その上日本軍がやって来て、私たちは難民区に身を寄せるしかなかったのです。そこには、私の叔母の子が小さな赤ん坊だったのですが、私はその子の面倒を見ると言う約束で、私はいつもその子の子守をしてずっとその子に付き添って叔母からわずかばかりの食べ物を貰うという暮らしが始まりました。

 ある時、子守をしている所に日本兵がやって来ました。その日本兵は私に「この赤ちゃんの母親は何処にいる?」と言いましたが、私はそれに対して何も答えませんでした。そうすると、日本兵は周りを探したのですが、結局若い女が見当たらないとなると、当時9歳の私に襲いかかって来ました。私は必死に「お母さん!お母さん!」と叫ぶばかりでしたが、大きな日本兵にたった9歳の子供が抵抗できるわけもなく、私はその場でその日本兵に強姦されることになってしまいました。たった9歳! たった9歳で私は犯されたのです。その最中は、私は「お母さん!お母さん!」とただ泣いているだけで、どうする術もありませんでした。
 犯されたその翌日、私たちは赤ちゃんを連れて金陵女子大学に避難しました。そこにはミニー・ヴォートリンさんと言う外国の人が必死になって中国人のことをかばって、いろいろな面で世話を焼いてくれました。この人は何度も日本兵に逆らったために、中国人ではないのに何度も殴られたり、時には往復びんたのようなことまでされていましたが、決して引くことは無く最後まで私たち中国人の面倒を見てくれました。私は、妊婦が日本兵によって妊娠中であるににもかかわらず、おなかを切り裂かれた事があったのを目撃しておます。

 日本が投降してから後に私は結婚しましたが、今の夫は私の過去のことを知りません。私は9歳で日本兵に暴行されたという忌まわしい事実をもう口に出したくありません。話してももう世間では何十年も前のことを話しても、冷めた目で扱う人も少なくないためです。解放後、生活が少しずつ良くなりましたが、つらい少女時代を送り、14歳ぐらいからわずかばかりの賃金を求めて必死に働いて来ました。今はもう定年退職してやっと落ち着いた、穏やかな日々が来ましたが、日本軍によって苦しめられた形跡が消えることはずっと長い間ありません。
 皆様本日はご静聴ありがとうございました。皆さん、中日友好を子々孫々、私たちは続けて行きましょう。歴史を忘れてはなりません。ありがとうございました。

<出 典>
●「繰り返すな戦争と虐殺、南京大虐殺64ヵ年 2001東京集会」報告集、 2001年12月15日、星陵会館
 編集・発行:ノーモア南京の会、2002年12月10日

<参 考>
●この幸存者、朱秀英さんの別の機会の証言記事が“松岡 環著「南京戦 切りさかれた 受難者の魂、証言者120人の証言」社会評論社、P-142”にも収録されている。ただ、姓名が「陶秀英(仮名)」となっている。