No.2002-1

南京大虐殺の幸存者の証言
仇 秀英さん
1930年生れ、当時7歳、女性、下関在住

 私は仇秀英と申します。今年73歳です。当時私は龍頭房という所に住んでいました。私には二人の姉がいましたが、姉たちは当時、もう結婚していてかなり裕福な生活をしていました。私の義理のお兄さんは鉄道関係の仕事をしていたので、日本軍が来る前にもうすでに会社と一緒に他の所に逃げていました。私の家は避難することが出来まして、日本軍が来るということを知って、嫁いだお姉さんの家の宋家コウ(上げ土偏に更)に行って避難しました。

 お姉さんの家からはかなりの距離を歩かなければならないところに地下の防空壕があり、私たちはそこに行って避難しました。
 ある日、お父さんは頭がとっても痛いと言いました。その時、お母さんはお父さんに「あなたは頭が痛いのなら、防空壕へ行って休みなさい。私はここで非常食の焼餅を作り、後で地下の防空壕へ持って行きます。」と言いました。お兄さんはお母さんと一緒でした。お母さんは家から外に出て洗い物をしようとした時に日本兵に見つかってしまいました。日本兵は「止まれ!」と命令したので、仕様がなくお母さんとお兄さんは止まりました。日本兵はお母さんから財布を奪ってその中のお金だけを取って財布を捨ててしまいました。お母さんは財布を拾おうとしましたが、日本兵はその時お母さんの背中からいきなり発砲しました。弾がお母さんの胸を貫通していました。また、お兄さんの綿入れ服をかすめお兄さんも軽い怪我をしました。お母さんはとても苦しくて「私はもうだめです!」と必死に叫びました。
 他の日本兵はお兄さんに荷物を運ばせました。お兄さんは「ひざも怪我しているし、この肩も怪我なのでとても運べない。」と言いましたけれども、日本兵は怪我をしていない肩で荷物を運べ、と言ってお兄さんを連れて行きました。お兄さんはお母さんのことがとても心配でならないが、仕方がなくて日本兵の言うままに荷物を担いだり持ったりしました。

 お母さんは苦しくて「私はもうだめです!だめです!」と必死に叫んだので、防空壕の中にいるお父さんはその声を聞いて防空壕の外に出ようとしましたが、隣のおじさんの王さんという人がお父さんに「あなたが出て行ってもきっと殺される。」と言ったので、お父さんはついに地下の防空壕を出なかったのです。お母さんは這いずって防空壕まで来ましたが「私はもうだめです!もう死にます!」と言ったのでお父さんは「一体どうしたんだ。」と聞きました。お母さんは「(鉄砲で撃たれて)胸が苦しい。」と言ったので、お父さんは薬も何もないので水を飲ませたのですが、お母さんはやっぱり「苦しい!苦しい!」と泣き叫んでいました。その夜遅く、お兄さんは帰って来ました。

 その後、日本兵は何回も何回も私たちの地下の防空壕に来て、私たちの食糧を全部運んで行きました。何回も来ましたので、最後に来た日本兵が色々探したのですが食料はもう全部なくなっていたので怒って、入り口の所に燃えやすい物を持って来て火をつけました。防空壕の中は煙で一杯で、私たちはとても息が苦しくなって、もうすぐだめなほどでした。お父さんと王さんというおじさんが一生懸命で入口をこじ開けて、仕方がなく手で火を消そうとしました。ようやく私と私の妹は助けられました。私たちはお母さんを助けようとしましたが、しかし、お母さんはすでに息が止まっていました。当時私たちは食べ物もお金も何も持っていなかったので、和記洋行(註)は安全区だからそこは安全だろうと思ってそこへ避難しました。その朝、私たちはマントウ二つとお粥を貰うことが出来ました。

 そこへもまた日本兵が来ました。全ての人は和記洋行(安全区、後に注記あり)から追い出されました。日本兵に命令されて、私たちは長い行列を作っていました。その行列の前の方から機関銃の音が聞こえてきました。私たちの前にも後ろにもたくさんの人が並んでいましたが、お父さんは狭い路地を見つけてお兄さんに合図をして私と妹をつれてそこに逃げました。そこにはとてもボロボロの小さな部屋がありました。そこは豚を飼っている所かも知れませんが、私たちはそこに隠れました。その時だれが残したのかわかりませんが、ナツメが少しありました。私と妹はお腹がとても空いていたのでナツメをいただきました。お父さんからは、もうすぐ命がなくなる(かも知れない)という時にナツメなんか食べて、と叱られました。しかし、幼い妹と私は何も分からずに、ただお腹がすいて食べなくてはならない状況でした。
 
 あたりが静かになってもうすでに暗くなった時に私たちはまた和記洋行に戻りました。翌朝またマントウとお粥を貰いに行きました。マントウを手にしたところにまた日本兵が来ました。日本兵たちは荷物を運ばせるためにお兄さんを連れて行こうとしました。お父さんはどうしても許そうとせず「どうせ死ぬならみんな一緒に死んだ方がいい。」と言いましたけれど、日本兵はやはりお兄さんを連れて行きました。その夜お兄さんは帰りました。その翌朝また日本兵が来てお兄さんを連れて行こうとしました。この時はお父さんは「死ぬならばみんな一緒に死ぬ」と言って、今度は私と妹を連れてお兄さんと一緒に行きました。お兄さんは荷物を担いだり運んだりしました。夕方もう暗くなった時に私たちはユウ江門に行きました。?江門の所には死体がたくさんありました。歩く所もないくらいに死体が積み重なっていたのです。私たちはとても恐ろしくて、死体を踏んでその上を歩いていました。衣服とか靴の中は血だらけになってしまいました。

 次に私たちはお母さんのことを思い出しました。お母さんを埋葬しようと思って、せめて麦藁ぐらい買って、お母さんを包みたいと思ったのですが、でもお金を持っていないのでそういうこともしなかったのです。私たちは防空壕に戻りましたが、その時にはお母さん死体は鼠などに噛まれてボロボロになって運ぶことも出来ませんでした。仕方なく私たちはそのままそこの土を盛ってお母さんをそこに埋葬しました。私のお母さんは私たち5人兄妹を色々苦労して育てていましたけれど、そんなにひどい目にあって死んでしまったことは今思い出してもとても悲しくてたまらないです。
 当時、中山橋と銹球公園というところは死体が一杯でした。私は今でも毎年三月の清明節にはお母さんの墓参りをしています。銹球公園に亡くなった人を追悼するために、毎年そこにお参りに行っています。(涙で話せなくなって、中断)
 私はお母さんのことを話したくてたまらないのですけれど、今はもう何も話せません。(再び涙で中断、南京から同行された廬志遠氏が証言を止める。)
以 上

[編者註]
 和気洋行:揚子江岸に有った外国人(米国?)の経営する食肉加工工場。地図によっては和気公司となっている。
 参考:2004年フィールドワークの現地での聴き取り

<出 典>
●「忘れてはならない日本の戦争犯罪、見つめよう歴史の真実、南京大虐殺から65年、2002東京集会」報告集、2002年12月15日、社会文化会館 編集・発行:ノーモア南京の会、2003年5月1日発行

<参 考>
●この幸存者、仇秀英さんの別の機会の証言記事が“松岡 環著「南京戦 切りさかれた受難者の魂、証言者120人の証言」社会評論社、P-79”にも収録されている。