No.2005-1

被害の証言;「目の前で母が殺され、私も銃弾を浴びた」
陳 秀華さん
南京市湯山区(1928年生れ、当時10歳、女性)

 申し訳ないと思うのは、68年前に起こったことをどれだけお話しできるか心許ないことです。日本兵が私の村に入って来た時、私の父親は鶏にえさをやっていました。父親は目が不自由だったので、日本兵が近づいて来たというのが分からなかったのです。日本兵がその鶏を奪って行こうとしたので父親は抗議をしました。すると日本兵は父親のほっぺたに何度もびんたを喰らわせました。父親はその場に倒れました。私や母親はその場面を見て、日本兵の姿が非常に恐ろしくて逃げようと思いました。私と母親、それから7、8人の村のおばさん達と逃げました。父親は目が不自由だったので連れて行くわけにはいきませんでした。父親は家に戻りました。
 私達はどこに逃げていいかわからないし、日本兵がどこにいるかわからないので、無計画に逃げていきました。そして村からそれほど遠くない高庄の葛家辺という村に行きました。その時にはもう夜になっていましたので私達は地面のくぼみに一つにかたまって寝ました。非常に寒い時期だったので翌朝体に霜がついてとても寒かったです。翌日は朝早く起きてまた歩き始めました。私たちの中の一人の親戚がいるということで、現在の石地村に向って逃げていきました。
 そこに着く頃、遠くの方から銃声が一発聞こえました。すると私たちと一緒にいたおばさんが一人バタッと倒れたのです。私たちは日本兵がすぐ近くに来たことがわかって、必死に逃げました。すぐ目の前に1メートル半程の土手があったので、みんなは越えて逃げようとしました。日本兵がすぐ後まで来ていました。しかし母親はその土手を越えられませんでした。それは母親が私を背負っていたのと纏足(てんそく)だったからです。纏足というのは当時の中国農村の一部で足を小さくして行動を不自由にする風習で、私の母親はまさに纏足だったのです。
 その時日本兵がすぐ後ろまで来ていて、至近距離で一発発射しました。弾は母親に背負われた私の左手をかすって母親の左手に当たり、母親の指は吹き飛んでしまいました。そして、母親の後ろから二発目が発射されました。その弾が私のお尻を貫通して母親の首の後ろに当たりました。大きな穴があいて大量の血がたくさん流れました。中国農村で豚を殺した時に血がたくさん出るのですが、その情景はまさにその時のようで、血があふれるように出てきました。母親は即死しました。私は自分が撃たれた血と母親の首から吹き出す血とで血みどろになってしまいました。痛さもありました。恐怖もありました。そこで私の意識がなくなり、あとの記憶があまりありません。気を失ったところをその後、おばさんの一人が村に連れて行って家に戻してくれました。
 それからまた私は目の不自由な父親と暮らし始めました。村はすでに焼き払われていました。私の家も完全に焼き払われていました。家具も焼かれていましたし、服も焼かれていました。何もない状態で非常に寒い時期でした。私は当時傷ついていましたが、父親と二人で干し草の中に潜り込んで身体を寄せ合って寒さをしのぎながら時を過ごしました。お尻を撃たれたので傷が化膿して50日くらいほとんど歩くことができませんでした。その傷にその後もずっと悩ませられました。私と目の悪い父親はほとんど飲まず食わずで隠れているという状態でした。私たちが死ななかったのはほんとうに奇跡的でした。
 その後も日本兵が村に来ていましたので、私たちは外に出ることもできず、ずっと隠れたままでした。ほんとうにひもじく、寒い時を長く過ごしました。いつまでも草の中に潜っていることもできませんので、村の中央に公共の便所があるわけですけれども、その穴の中の糞便を取り除いて、草を敷いてその穴の中に入って日本兵から身を隠していました。当時村には何人かは逃げることができずにいましたが、ほとんど無人の状態でした。私の上の兄は当時17歳で日本兵に捕まってしまいました。兄は日本軍の兵舎で力仕事をさせられていました。幸いにも殺されず1ヶ月と少したった頃、私たちの所に戻ってくることができました。私たちは兄とお互いの境遇について話しました。兄は日本軍の兵舎に連れて行かれてひどい目にあったが、よく働いたということで戻ることができたと言いました。私たちは私たちの話をしました。すると兄は「お母さんの姿が見えない。お母さんはどこだ。」と言うので、母が殺された一部始終を話しました。すると兄は地面を転がるようにして大泣きに泣いていました。戻ってきて三日三晩泣き続けていました。その時には生活が貧しくてすでに嫁いでいた姉と手伝いに行かされていた2番目の兄も戻ってきていました。そして母親が殺されたということでやはり大泣きに泣いていました。
 私たちの村ではたくさんの人が死んでいます。避難していた村人たちもかなりの時間がたって、ひとりふたりと戻ってきました。そして殺された身内の死体を収容し始めました。そして母親の死体がまだ放置されたままだったので、兄も村の人たちに助けられて母親の死体の回収に行きました。母親は撃たれたときのまま体を丸めるようにしてその場におりました。後で分かったことですが、もう一人のおばさんもその近くで撃ち殺されていました。
 私たちの母親は単に、私たち兄弟にとってのやさしい母親であるだけでなく、目の不自由な父親に代る大黒柱という非常に重要な位置にありました。だから、その後も非常に苦しい生活を強いられました。生活が成り立たないということで、私が13歳の時に(中国では数え齢で計算するので、12歳かもしれませんが)、嫁に行きました。嫁にいくというと非常にきれいですが、童養?(トンヤンシー)といいまして、中国の農村ではでは言ってみれば労働力として売られていくのです。私は13歳で労働力として売られていって、その後もずっと苦しい生活が続きました。
 日本兵によって母は殺され、私たち家族は無茶苦茶にされました。私自身も苦しい生活を続けざるを得ない、そういう状態に陥ったのです。
(ここで通訳した墨面氏から「感情が高ぶると調子が悪くなるので、まだ証言することがあるかも知れないが、これで終わりにしたい」との発言があり、ここで打ち切られた。)

●同行した通訳の墨面(モーメン)氏の補足説明;
 証言者である陳 秀華さんの証言を補足して、次のように語っている。
 「実はこのおばあちゃん(陳 秀華さん)は日本に来る飛行機の中でずっと泣き通しだったんです。一緒に付いて来た戴さんも非常に困っておりました。日本に来るということ、日本と聞いただけで、そういう状態ななんです。今日で日本に来て1週間くらいになるんですけど、ほとんど笑いません。ずーっとそういう固い表情です。今日で7回目の証言になりますが、神戸と金沢2箇所では、話し始めてすぐに興奮して話せなくなりまして、証言を途中でやめて、補足という形で私が話をするという事態になりました。」

<出 典>
●「南京大虐殺から68年 2005年東京・横浜集会」報告集、“今生存者が語る南京大虐殺―くり返すな戦争への道”、ノーモア南京の会

<補足事項>
●被害者の居所、湯山区は南京市街の東方、句容から麒麟門へ通じるルートの途中にある。したがって、ここを攻めた部隊は第16師団(京都)の第20連隊(福知山)あたりと思われる。