「戦後80年慰霊の旅」という象徴天皇制の政治(下)

池田五律(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)


 ”慰霊の旅”のは神道天皇教祭祀だ!

1)“慰霊の旅”は宗教行為
アキヒトが始め、ナルヒトが継承した“慰霊の旅”は、“祈りの旅”とも称する宗教行為である。礼拝、花を供える供花も宗教行為だ。“慰霊の旅”に際してとは限らないが、天皇はしばしば歌を詠む。琉歌も詠む技も身に着けている。鎮魂歌という言葉があるが、この歌を詠む行為も、「鎮魂」の意味を込めた「慰霊」ととらえることができる(山本健吉『古典と現代文学』新潮文庫、1965年参照)。歌詠みは、言霊で邪気を払う「神咒」にも通じる。

2)私的行為でも国事行為でもない公的行為
“慰霊の旅”は、憲法第6条・7条が定める天皇の「国事行為」ではない。「国事行為」は、国会召集などであり、「内閣の助言と承認」を要する。天皇の「私的行為」には「内閣の助言と承認」は適用されない。「宮中祭祀」が、それに当たる。

“慰霊の旅(祈りの旅)”は、国民体育大会の開会式への「臨席」などと同じく「公的行為」と称されている。だが、「公的行為」自体、その法的根拠は怪しい。憲法に基づけば「国事行為」しかできないはずだ。ところが、アキヒトは、この「公的行為」を植樹祭だ、海つくり大会だと、拡大した。その挙句に「公務が忙しくシンドイ」と言い出し、シンドイなら「公的行為」をやめればいいものを、生前退位を可能にする特措法を創らせ上皇となるという我儘勝手をやった。

3)私的行為「宮中祭祀」は神道天皇教祭祀
「私的行為」として許されている天皇の宗教行為は「宮中祭祀」に限られる。「宮中祭祀」は、宮中三殿他で行われる。元始祭(年始に当たって皇位の大本と由来とを祝し、国家国民の繁栄を三殿で祈る)、先帝祭(ヒロヒト死去当日に皇霊殿で行われる)、春季皇霊祭・秋季皇霊祭(皇霊殿で行われる先祖祭)、春季神殿祭・秋季神殿祭(神殿で行われる神恩感謝の祭典)、神武天皇祭(記紀神話上の初代天皇の死去の日の祭典)、神嘗祭(賢所に新穀を供える神恩感謝の祭典)、新嘗祭(神嘉殿で新穀を皇祖などの神々に供え、神恩に感謝した後、天皇自らが新穀を食す祭典)などが、天皇が「親祭」する大祭とされている。これを見ただけでも、「宮中祭祀」が神道天皇教の祭祀であることは明らかだ。

この「親祭」は、1887年に宮中三殿が成立した際、「神祇官復活を求める勢力は祭祀を宮中へと秘め隠し、国民との関係を遮断するものと批判」する勢力に対して、祭政一致であると考えたい人はそう考えることができる仕掛けとして位置づけられたものだ(『天皇と宗教』(講談社、2011年)第二部・第一章参照)。

「宮中祭祀」には、「天皇が皇祖皇霊を筆頭とした神と人間を媒介し、神を祭ることによって国の繁栄や平和が実現する」という観念が体現されていると言われる(萱野覚明『神道の逆襲』(講談社新書、2001年)参照)。これが神道天皇教の教義だ。

4)「私的行為」の「公的」領域への溢れ出し
「宮中祭祀」を天皇はどう認識しているのだろうか。自己了解としては、「天皇家」という「公的な家の祭祀」で「国の繁栄」などを祈っているのだから「公共的」な側面があると認識しているのではないだろうか。

それにしても自分勝手は公私混同だが、“慰霊の旅”での“祈り”は、「宮中」という閉ざされた空間でなく、「公的空間」において、他の参列者だけでなく、メディアを通して衆人に見せることを前提に行われる。

その点で言えば、“慰霊の旅”は、「私的行為」の「公的行為」化、即ち“出開帳”によって私的な神道天皇教を「公的空間」に溢れ出させ、「公的宗教」化することを狙っていると言えよう。

5)鎮魂供養型慰霊=戦後型日米安保型慰霊
ところで、“慰霊の旅”の“慰霊”は、どのような論理に基づいているのだろうか。

葬儀会社が解説している一般的な定義では、“慰霊”は、「『慰める』と『霊』という言葉の組み合わせからわかるように、この世を去った人の霊を慰める、つまり故人の冥福を祈る」ものである。厳密には、「亡くなった人が生きていたときのことを思い返し、悲しむという行為」である「追悼」とは異なる(葬儀会社クリアンのホームページより)。

“慰霊”と同じような意味で用いられる言葉として“鎮魂(ちんこん)”がある。“慰霊”と“鎮魂”に関して、川村邦光『弔いの文化史』(中公新書、2015年)は、以下のように述べている。

現在、鎮魂という言葉は狭く限定されて用いられていると思われる。死者の霊、それも戦死者や原爆死者。災害・事故死者など、大規模かつ集団的な異常死を遂げたとされる者の霊、またその思い残したとされる思念をなだめ慰めることとみなされ、慰霊と同じような意味合いで用いられているようである。端的には、戦前・戦中において戦死者を顕彰する石碑には「忠魂碑」とおしなべて刻まれていたが、敗戦後二〇数年して、新しく建てられたそれには「鎮魂」と刻まれるようになった。/今日見られる、鎮魂に対する心性の根底には、非業の死を遂げた者の霊魂がなんらかの怨みや邪念をいだいて、災いを及ぼすような祟りをなすという思いは、もはや希薄であろう。それでも、現世での残念・無念の思念や執心、つまり残念余執を抱いたままであり、それを鎮めなければ、死者の霊は浮かばれないという思いはあるだろう。こうした古代以来の怨霊信仰、または無縁霊・無縁仏、成仏できない霊への施餓鬼供養の習俗によって培われた心性が底流していよう。それはおそらく、敗戦後、とりわけ1970年代以降に生じた鎮魂の新たなる様相なのである。

「敗戦後二〇数年して、新しく建てられたそれには『鎮魂』と刻まれるようになった」とあるように、“鎮魂(ちんこん)型慰霊”は、“戦後型慰霊”と言ってもいいだろう。

川村は「御霊(ごりょう)信仰」を底流の一つにあげている。それは、朝廷に逆らって怨みを抱いて死んだ者の怨霊を慰撫し、祟り神を守護神に転換させるものだ。菅原道真を天神様として祀るのは、その典型だ。だが、“鎮魂”には、それとは異なるルーツがある。

「御霊(みたま)信仰」に基づく「たましずめ」である。その「霊(たま)」とは、「善悪にかかわりなく」、「霊威・脅威を持つタマ」であり、特に「霊威・威力」を持つタマが「カミ」であって、それを祀るのが神道だ(伊藤聰『神道とは何か』中公新書、2025年増補版参照)。

「慰霊の旅」に即せば、戦没者の「霊」を、「悪い影響を及ぼす霊魂」、即ち祟りをなす「荒魂(アラミタマ)」でなく温和な親しむべき神霊である「和魂(ニギミタマ)」になるよう「慰霊」するということになる。

「タマ(カミ)」は、人身に限らない。恩恵をもたらすと共に天変地異を引き起こす自然も、動植物も、道具などの人工的工作物も「タマ」になる。さらに仏教の“供養”とも結びつく。それを典型的に示す藤原清衡「中尊寺建立供養願文」の現代語訳を紹介しておく(川村邦光『弔いの文化史』(前掲))。

梵鐘の鳴り響く音は、遠く果てしなく限りがない。仏・菩薩の慈悲と救いは、すべての者に平等に施される。戦没でやむなく命を断たれた敵味方は、古来よりおびただしい。人が命を殺生した、鳥獣魚介も無数である。その精霊はすべて他界に去り、朽ち果てた骨は塵となる。鐘の音が大地を揺るがすたびに、故なくして命を奪われた、生き物の霊魂を浄土へと導かれんことを祈る。

「祈り」の対象は、敵味方、さらには生き物にまで及ぶ。こうした鎮魂供養型慰霊では、事実関係を踏まえた責任を明確にした謝罪と補償に基づく「和解」という考えは成り立ちようがない。敵-味方という関係そのものが無化されてしまう。アメリカ側は、そうした論理で日本が硫黄島で行われている合同慰霊祭に臨んでいるとは考えていないだろう。だが、敵も味方も「慰霊」するという点で、日米合同慰霊祭とも適合的だ。つまり、鎮魂供養型慰霊は、日米合作で創出された象徴天皇制同様に相応しい“慰霊”ということだ。

6)鎮魂(たましずめ)による天皇パワーアップと被害者利用
この鎮魂(たましずめ)は、天皇の私的な「宮中祭祀」でも重要な位置を占めている。それについて、ホームメート用語辞典の神社・寺院用語辞典は、以下のように解説している。

鎮魂(たましずめ)
神道においては修行方法のひとつ。自らに活力を与えて神の気を招くことで自身の霊魂を充実させ、もともと備えているはずの霊性や霊能を蘇らせたり、悪い影響を及ぼす霊魂を払いのけたりすると言った意味を持つ。神道でも重要とされる祓いの本義を、静かに行なうこととも考えられる。この意味で天皇の鎮魂を行なう鎮魂祭が、宮中行事としても新嘗祭の前日に行なわれている。

何んと、「自らに活力を与えて神の気を招くことで自身の霊魂を充実させ」るというのだから、天皇自身のパワーアップのために「祈り」を行っていることになるのだ。

ここでの天皇は、現人神ではない。「祭祀を行い祈ること」を「最重要な務め」とする祭祀王である。“慰霊の旅”では、私的な自己了解として「祭司王」として振る舞うだけでなく、「公共空間」で「祭司王」として振る舞う。それは、一種の「親祭」である。先に、「親祭」は、祭政一致であると考えたい人はそう考えることができる仕掛けとして位置づけられたものだと記した(前掲『天皇と宗教』参照)。“慰霊の旅”の“旅”が、「知ろしめし・聞し召し」する現代版の「国見」を通して国を「食(お)す」者(統治者)であることを示すものだということも、前回の「上」で指摘した。それらを踏まえると、“慰霊の旅”は、象徴天皇の祭祀王という側面を誇示し、「日本国家は、象徴天皇制を戴く象徴天皇制国家である」との現代版“国体明徴”を行い、自らのパワーアップを図るものだと言えよう。

このパワーアップにおいて、利用されているのは被害者だ。そして被害者の遺家族などや被害を語り継ごうとする人々である。天皇は、その「亡くなった人が生きていたときのことを思い返し、悲しむという行為」である「追悼」の思いにつけ込む。天皇は、加害への謝罪はしない。ただ聞き流し、「大変でしたね。御苦労なさいましたね」と紋切り型の労いの言葉を繰り返すだけだ。だが、トラウマワークと銘打ったワークショップの参加者を感極まって泣かせる心理劇かのような光景が出現する。閉ざしていた「思い」を吐き出す機会が与えることで、被害者が感激し、涙し、果てには「ありがたい」などと加害継承者の天皇に感謝さえする転倒を引き出す。「謝って欲しい」と思っていると、「謝っている」かのように聞こえてもしまうといった力学も働く。「お立場上、ハッキリとはおっしゃれないが、その思いは伝わった」といった同情すら抱かされかねない。「いろいろ聞いてもらった」患者の満足を得る熟達の心理カウンセラーは加害者ではない。しかし天皇は、加害者でありながら被害者のケアをする心理カウンセラーを演じ被害者の満足を得る。まさに“マッド・サイコロジスト”の所業だ。

7)靖国型慰霊との違い
この所業は、「悪い奴は他にいる」ということで可能になる。現在的に言えば、被害者とその遺家族、被害を語り継ごうとする人々の声を聞こうともしない社会ということになりかねない。社会には差別をする者も多いが天皇は「一視同仁」という天皇像にも通じている。

戦争に関して、「最も悪い奴」はA級戦犯だ。天皇が靖国に参拝できない最大の理由は、A級戦犯の合祀である。戦前戦中も含めヒロヒトが「平和天皇」であったかのように描き、それの継承者であるとアキヒトもナルヒトも称しているが、それは戦争責任をひとえにA級戦犯に押しつけることで成り立つ話だ。A級戦犯を合祀する靖国で天皇が“慰霊”をすることは、それを破綻させてしまう。

“靖国型慰霊”は“人身顕彰型英霊慰霊”だ。戦後鎮魂供養型慰霊(日米安保型慰霊)と異なり、敵も味方も祈りの対象にするわけにはいかない。およそ日米合同慰霊祭には不適合だ。日米安保には、戦後鎮魂供養型慰霊がよく似合う。“慰霊の旅”の「慰霊」は、その戦後型慰霊である。だから、靖国側からは反発が出る。例えば、『週刊ポスト』2018年10月12・19日号で、当時の小堀邦夫宮司(同年10月退任)が以下のように、“慰霊の旅”への反発を語っている。

陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても。違う? そういうことを真剣に議論し、結論をもち、発表をすることが重要やと言ってるの。はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?

7)全国戦没者追悼式に見られる「曖昧化」
戦没者追悼式は、その名は、「追悼」式である。初めて行われたのは1952年であった。その際の当時の吉田首相の式辞は、「戦没者を『国に殉じ』『平和の礎』になったと意味付け、それが『民主日本の成長発展』につながっていくとした」(『遺族と戦後』岩波新書、1995年)。この式辞は、戦没者を「国に殉じた者」とすることで、「日本人」の自尊心を満たそうとしている。前号に掲載された「上」でアメリカにおける南北戦争後の敗者である南部の戦没者の自尊心を満たす「公的記憶」の創造について触れたが、講和・日米安保・独立の過程で、このような「日本人」の自尊心を満たす「公的記憶」が、アメリカにも黙認・容認され、公然化されたとも言えよう。

これによって、戦没者は加害から「免罪」された。むしろ「平和の礎」になったと積極的価値を与えられた。かつてPKO反対闘争の際に、平井啓之さんが集会で「東洋平和のためならば」という歌を紹介されたことがあった。戦後は侵略戦争であることが明らかになった戦争は、戦争当時は「東洋平和のため」の戦争と位置づけられていたのだ。だとすれば、「平和の礎」とは、「平和のため」に戦死した人々が「平和」を築いたという意味になる。

大前栗生は、こう述べている(「戦争の身体」:『文藝』2025年秋号「特集 戦争、物語る傷跡」所収)。

自らの死がこれからの日本を作っていくはずだと観念して死んでいった人たち。彼らの死に対して、八〇年もあとの時代を生きている私たちは無駄死にさせてしまったと悔いるべきで、犠牲の上に今の平和があるなんて言うことは、まさに彼らをそう思わせて死なせてしまったのと同じ論理に立つことだ。

厳密には、「亡くなった人が生きていたときのことを思い返し、悲しむという行為」である「追悼」であれば、大前が言う「無駄死にさせてしまった」という「悔い」にもつながるかもしれない。だが、吉田の式辞には、戦没者が祟りをなす「荒魂」でなく「民主日本の成長発展」をもたらす「和魂」(ニギミタマ)になるよう「慰霊」する発想がにじみ出ている。

全国戦没者追悼式は、1963年以降毎年開催されるようになった。1974年までは式壇の中央に白木の柱の中央には白木の「全国戦没者追悼之標」と記された標柱が建てられていた。だが、1975年から「全国戦没者之霊」に書き換えられた。追悼式なのに「霊」だ。「慰霊」の色合いが濃くなったのである。だが、1982年、政府は8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と閣議決定した。

「追悼」と「慰霊」が混在している。だが、そうしたことを厳密に気にする人は極少数だろう。“鎮魂供養型慰霊”と“英霊顕彰型慰霊”の差異にしても、コアな親「靖國」勢力と反靖国の立場に立つ人以外は、それほど意識していないのではあるまいか。死者に対して供花し礼拝することに、特に意識してその宗教的意味を問う人は極少数で、なぜするのかと問われれば、「礼儀」だとか、せいぜい「非宗教の習俗」だとか答える程度であろう。

こうした民衆意識を前提に、「追悼」と「慰霊」、そして二つの「慰霊」を「曖昧化」させて全国戦没者追悼式は成り立っている。「核を保有しているか、していないかを明言しないことが抑止力となる」という「曖昧化戦略」というものがあるが、わざと「追悼」「鎮魂供養型慰霊」「英霊顕彰型慰霊」の差異を曖昧化しているかのようだ。

8)千鳥ヶ淵墓苑
“靖国英霊顕彰型慰霊”に反発する人たちの中には、8月15日に千鳥ヶ淵戦没者墓苑に献花に赴く人も少なくない。だが、「終戦の日」の15日、歴代首相が「参拝」している。石破首相も、「全国戦没者追悼式」に出席するのに先立ち、東京 千代田区の千鳥ヶ淵戦没者墓苑を訪れ、花束をささげて戦争で亡くなった人たちの霊を慰め」た(NHKニュース2025年8月15日)。

千鳥ヶ淵墓苑のホームページには、こうある。

千鳥ケ淵戦没者墓苑は、昭和34年(1959年)国によって建設され、戦没者のご遺骨を埋葬してある墓苑です。先の大東亜戦争では、広範な地域で苛烈な戦闘が展開されました。この戦争に際し、海外の戦場において、多くの方々が戦没されました。戦後、戦友等によりご遺骨が日本に持ち帰られ、又昭和28年より海外の遺骨収集が開始されました。この墓苑は日本に持ち帰られたご遺骨において、お名前のわからかない戦没者のご遺骨が納骨室に納めてある「無名戦没者の墓」であるとともに、この墓苑は先の大戦で亡くなられた全戦没者の慰霊追悼のための聖苑であります。現在、370,989柱(令和7年7月末現在)のご遺骨がこの墓苑に奉安されております。(ご遺骨は軍人・軍属・一般邦人を含む)

「大東亜戦争」の戦没者慰霊装置なのだ。慰霊対象が皇軍兵士だけでないというのが「靖國」との違いであるが、“慰霊対象を広くした靖国”と言っても過言ではない。

天皇・皇族との関係も深い。宮内庁管理用地を使用して建設され、1958年7月着工、1959年3月28日竣工。この日、ヒロヒト天皇、ナガコ皇后が「臨席」し、「厳粛盛大な拝礼式が戦没者墓苑で執り行われ」た(千鳥ヶ淵墓苑ホームページ)。同ホームページは、2024年5月27日に行われた「千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式」に関して、「秋篠宮皇嗣同妃両殿下の御臨席のもと新たに301柱を納骨、累計37万700柱を奉安」と記し、「墓苑六角堂内の墓前には天皇皇后両陛下下賜の大花籠が左右に2基飾られ、遺族184名並びに、内閣総理大臣及び衆議院議長をはじめ、関係各省大臣、参議院厚生労働委員長、国会議員、各政党代表、駐日関係各国大使、関係団体代表、遺骨帰還事業協力者等の来賓218名の計402名が参列した」と報じている。

「霊」を「柱」と数えることだけとっても神道祭祀施設であり、天皇・皇族が「慰霊」を行う「祭祀場」なのだ。

9)天皇制のヌエ的性格
全国戦没者追悼式も、千鳥ヶ淵墓苑も、“慰霊の旅”も、「靖國」とは異なり「非宗教的」であるとか、「戦争賛美」とつながらないとか、肯定的に評価できるような代物ではない。だが、「リベラル」と称する・称される人も、全国戦没者追悼式には関心を払わず、千鳥ヶ淵墓苑に対してはむしろ好意的ではなかろうか。“慰霊の旅”に至っては、肯定的に評価といった者が少なくない。「安倍嫌い・アキヒト大好き」の自覚なき天皇主義者も多々見られた。いや、自覚的象徴天皇主義者と言うべきか。彼らは、「平和主義憲法護憲」の立場に立つ者だと自己了解し、神権天皇制でなければよいと、象徴天皇制を「平和」と結びつける。

“慰霊の旅”が象徴天皇主義者を組織する機能を果たすのは、「追悼」と「慰霊」、そして二つの「慰霊」の差異の「曖昧さ」が「そう見たい人にはそう見える」効果をもたらすからであろう。とうことは、「宮中祭祀」の「親祭」が「祭政一致」と「見たい人にはそう見える」ように、親「靖國」派には“英霊顕彰慰霊”に見えるということだ。だから、日本会議等が、ナルヒト“慰霊の旅”の訪問先で「天皇奉迎奉祝提灯行列」を組織するのだ。

それ自体が天皇制のヌエ的性格の表れと言ってもいい。

10)日本型市民宗教=公共宗教=神道天皇教
今後の展開は、そうなるのだろうか。小林正弥は、アメリカの宗教社会学者であるロバート・テラーが提唱した「市民宗教」という概念に注目する。小林の言葉を借りれば、テラーは「アメリカ政治の根底には『公共的な宗教的次元が実は流れている』」とし、その「信仰、象徴、儀式」を「アメリカの市民宗教」と呼んだ。それは、特定の宗教と結びついてはいないが、「神の意思を地上で実現するという超越的目標を政治に与えている」(小林正弥『神社と政治』角川新書、2016年)。

次いで、小林は「ワシントンら建国の父は、『神』に触れてもキリスト教には言及しない。『聖なるものについての信念、象徴、儀式』ではあるが、宗派的でもキリスト教的でもない。・・・奴隷制度についての南北戦争でリンカーンによって『死、犠牲、再生』というテーマが加えられ」た、と言う(また、南北戦争だ!)。

遡れば、「市民宗教」はルソーの概念だ。それは国教が抑圧をもたらすことを批判して主張されたものであり、「市民として最低限の考え方」で、ルソーは「それなくして良き市民たりえない」と考えたと言う。これを踏まえて小林は、日本版の「市民宗教」、「まつりごと=奉仕事」という「神道精神」を生かした「公共的市民宗教」を提唱する。曰はく・・・。

国民主権と象徴天皇制のもとで伊勢神宮や天皇祭祀が「公」ではなく「公共」のものとして確立し、人々と政治家に精神的な規範(模範)が形成されれば、すぐれて宗教的理念が政治に反映し、公共的天皇の公共的な祈りを模範として、人々が公共的美徳に基づく民主政治が実現するかもしれないからである。/要は、天皇の公共的な祈りを模範として、人々が公共的に祈り公共的美徳を持って奉仕し、公共的精神に溢れた献身的な政治家を選出することによって、公共的な善を実現すればよいのである。祭政一致を天皇だけに求めれば、政教分離に抵触するから難しい。けれども個々人において、政治家において「祭政一致」を実現することは可能だ。自らは神道的な宗教心を持ち、神々を祭り人々と世界のための公共的な祈りを行いつつ、政治活動を通じて奉仕を行えばいいのである。・・・「世のため人のため」に公共的な祈願を行って奉仕の精神を培い・・・奉仕的精神で主権者として政治的ないし公共的活動を行えばいいのである。

こうした構想は、“国家神道” でなく、“社会神道”構想とも言えるが。それは神道精神で社会を覆うことを通して実質的な神道中心の国体の樹立を目論むものだ。その形成の鍵になる「公共的な祈願」は祭祀だ。その代表例は皇室による祭祀である。それを小林は、「超宗教的な「公的・公共的市民祭祀」」と位置づける。“慰霊(祈り)の旅”の「祈り」は、この構想を先取りしているかのようだ。

 天皇・自衛隊・靖國

1) 天皇も自衛隊も「他人の不幸が大好きさ」
東日本大震災を、自衛隊は「災害救援に活躍する組織」として最大限利用した。本務は防衛出動・治安出動であり、災害派遣は余技でしかない。それを糊塗した大規模な宣撫工作だったとも言えよう。20代半ばの若者の話では、当時、物心ついたくらいの世代には、天皇への “フワッとした好感度” が高いと言う。「被災地訪問」の姿を通して形成されたものだそうだ。忙しい中で訪問を受け入れること自体が被災地には大きな負担となっている。被災地訪問の度に重警備体制が敷かれ、ホームレスが避難所から排除されるなどしてもいる。それらは隠蔽され、「被災者を慰め労わる」存在というイメージが天皇・皇族の「被災者慰労」のパフォーマンスとそのメディアを通した拡散によって浸透しているのだ。50歳前後の知人の言葉を借りれば、自衛隊も天皇も「ヒトの不幸が大好きさ」(BOØWYのヒット曲の題名)ということになる。戦没者 “慰霊” も、同じ構造だ。

2) 自衛隊に近づく天皇
天皇は、政府専用機なる自衛隊機を使い、自衛隊しかいない硫黄島を訪問(慰問)するなど自衛隊との結びつきを強めている。最近は、能登などへの被災地訪問でも自衛隊機を使う。自衛隊幹部を叙勲し、園遊会に呼び、内奏も受けている。天皇は自衛隊に近づいている。

3) 天皇に近づく自衛隊
自衛隊も天皇に近づいている。「国家防衛戦略・防衛力の中核である自衛隊員の能力を発揮するための基盤強化・1人的基盤の強化」は、栄典の拡充を打ち出している。同2「衛生機能の変革」は、戦死傷者が沢山出ることを想定したものだ。栄典拡充も、それと連動していると言えよう。その先には、現代版の金鵄勲章が待っている。石破政権で設置された「自衛官の処遇・勤務環境の改善及び新たな生涯設計の確立に関する関係閣僚会議」は、「自衛官に対する叙勲等の栄典は、長年にわたり任務に精励した功績をたたえ、誇りと名誉、国民からの尊敬を得るうえでも重要であり、令和7年度中にこれまで生存者叙勲の受章機会のなかった者へも範囲を拡大」するとした。既に、2024年度771名だった危険業務者叙勲自衛官は、2025年度には993名に増えている(対象は尉官・佐官級)。

自衛隊は礼遇の向上も求めている。国賓を招いた際の宮中晩餐会などでの席次を上げたいとも思っている。戦前の皇室儀制令では、第1大勲位、第2内閣総理大臣、第3枢密院議員、第4元勲、第5元帥、国務大臣、区内大臣、内大臣、第6朝鮮総督、第7内閣総理大臣又は枢密院議長たる前官の礼遇を賜った者、第8国務大臣、宮内大臣または内大臣たる前官の礼遇を賜った者、第9枢密院副議長、第10陸軍大将、海軍大将、枢密院顧問官、第11親任官、第12貴族院議長、衆議院議長だった。現在は、第1大勲位、第2内閣総理大臣、第3衆議院議長、参議院議長、第4最高裁判所長官、第5国務大臣、第6衆議院副議長、参議院副議長、最高裁判所判事、会計監査院長、宮内庁長官、第7特命全権大使、検事総長、第8侍従長、第9認証官、国家公委員。自衛隊幹部は上位に入っていない。そこで、統合幕僚長、陸幕長、海幕長、空幕長(いずれも戦前の大将に相当)を認証官とすることが取り沙汰されている。

自衛隊は、天皇に対して栄誉礼を捧げる。儀仗部隊がと列し、捧げ銃をするのだ。ただし、外国国賓の儀じょう隊の巡閲の際には天皇は同行しない。閲兵行為は “天皇の軍隊” に近づくものだからだ。これに対して、保守系議員からは疑義が呈されている。

いずれにしても、自衛隊の最高指揮者は内閣総理大臣だが、最高権威は天皇なのだ。

4)靖国に近づく自衛隊
自衛隊は、旧軍の親睦団体と一体化し、靖國に近づいている。

2024年4月、元海将・大塚海夫が靖国神社宮司に就任した。自衛隊OB初の靖国神社宮司である。戦時中は、宮司は陸軍大将で、戦後は旧華族や神社関係者だった。大塚は、防衛省情報本部長などを歴任し、2019年に退官。ジプチ大使を務めた後、靖国神社宮司になった。

2025年1月8日、旧「陸軍始め」の日に陸自幹部が靖国神社を集団参拝した。肩書は「陸修偕行社交換会」。2024年4月に偕行社と陸修会が合体して生まれた団体だ。陸修会は陸自幹部OB会。偕行社は、旧陸軍将校の現役親睦団体として1877年に発足し、旧陸軍将校の親睦会として1957年に復活し、00年代から陸自OBを取り込むようになった。現在、陸修偕行社の会員2530人の6割を陸自幹部OBが占める(『毎日新聞』2025/6/16)。初代理事長は火箱芳文元陸幕長。

火箱は、「戦死者が出てから始める話ではない」「我々の精神的なよりどころは靖国神社だ」と述べている(『毎日新聞』2025/6/4))。

5)日米安保型慰霊と自衛隊の靖国接近
自衛隊の靖国接近は、硫黄島での日米合同慰霊祭に象徴される“日米安保型慰霊”と矛盾するのではないかとも思われる。しかし、顕教としては “戦後鎮魂型=日米安保型慰霊” だが、自衛隊OBの「私的」行為、いわば “密教”として “靖国型慰霊” の拡大が図られていくと思われる。密教ならアメリカも容認するということだ。ちなみに、靖国神社には敵味方も軍人・民間人の区別もなく全世界の戦没者を祀る「鎮魂社」が本殿の左横にある(創建1963年)。「鎮魂」を媒介に靖国と“日米安保型慰霊”が通じる回路もある。

6) 天皇と靖国
天皇は、A級戦犯が合祀されている靖国には参拝できない。だが、退陣したが、石破首相は、「天皇が参拝できる環境を作る」と語っていた(『産経新聞』2025/6/10)。そこまでは踏み込まなかったが、歴史見解では、「前の統帥権を検証」も語っていた。その内容は、「自衛隊と立法府、司法の関与についても指摘を加え、防衛省の『制服組』(自衛官)の国会答弁が慣例として認められない現状や、自衛官の罪を自衛隊自らが裁く特別な審判機関の不在などにも言及するとみられる」と報じられていた(前掲『産経新聞』)。

自衛隊国軍化改憲にまで至らずとも、自衛隊明記改憲、あるいは実質的なそれによって自衛隊を「公共的存在化」する動き、自衛隊OBの私的行為の名で靖国参拝を拡大する動き、神道天皇教の「市民宗教」化、そして天皇が靖国に参拝できる環境づくり・・・。それらの矛盾も含む複雑な相互作用がどのように推移していくのか。注視していかなければならない。

 私たちの課題

1) 植民地戦争に対する戦争・戦後責任を問う
天皇も防衛省・自衛隊幹部も、英米と戦争したことは「反省」している。石破の戦没者追悼式の「反省」も、何をどう反省しているのか、不明確だ。「歴代首相の見解を継承する」としており、「子どもや孫の世代には戦争責任を継承させない」、即ち「解決済」だという安倍談話も引き継ぐことを意味する。

振り返れば、太平洋戦争のみが例外で、英米の黙認・容認・支援を受けて対アジア侵略をしていったのが、近代日本国家の基本形だ。それは、1870年代における台湾出兵、琉球・アイヌモシリの領内化からしてそうである。日朝・日清戦争、義和団討伐の多国籍軍出兵、日露戦争・・・。それらを「栄光の歴史」ととらえる司馬遼史観には、東アジアへの侵略・植民地化への観点が欠落している。台湾、朝鮮での植民地戦争、そしてシベリア出兵も、英米との協調の下で行ってきた。近代日本国家の植民地戦争責任とそれを回避し続けてきた戦後責任を問う視座を確立せねばならない。

2)「大リーグで活躍する大谷翔平」型ナショナリズムとの対峙
現在、東アジア冷戦体制の延長上に、米英と協調した戦争態勢への回帰が鮮明になってきている。そこでは、アメリカが設定した舞台で対中最前線を担う自衛隊が英雄主義と自己犠牲を発揮することが想定されている。それと対応するナショナリズムは、「大リークで活躍する大谷翔平型ナショナリズム」とでも言えよう。それとどう対峙するのか。これも大きな課題だ。

3)戦死傷するリスクを高める軍拡に反対を!
予算・権限・利権の拡大につながる防衛省・自衛隊幹部は「喜んで!」と、対中最前線を積極的に担おうとしている。軍民共用製品・技術に商機を見出す産業界は日米共同軍産複合体化へ踏み込み、ゼネコンは軍事施設の要塞化や軍民共用インフラ利権に群がる軍事土建資本主義の傾向を強めている。「公的存在である自衛隊への協力は当然」で、「非協力は「反社」」とみなされかねない「自衛隊明記改憲の実質化」が空気のように広がり、自衛官募集業務、重要土地等調査規制法など、地方自治体が “国の言いなり機関化” も進んでいる。それを後押ししているのは、中国脅威論など不安と恐怖を煽る情報戦・認知戦だ。そうした中で、自衛隊幹部OB、多分現役も、靖国に接近している。戦死傷するリスクを負うには、「大リークで活躍する大谷翔平型ナショナリズム」では不十分と言うことだろう。戦死傷するリスクを高める軍拡に反対することと“慰霊” 批判の両者を併せて取り組む必要がある。

4)皇室外交・トランプ&天皇会談に反対しよう!
石破は退陣したが、石破が要請したトランプの来日は消えてはいない。戦争責任を “清算” し「平和天皇」の「継承」を図る天皇と戦争の火種を世界にまき散らすトランプの二人が握手して日米共同戦争態勢を可視化する両者の会談などが行われよう。その晩餐会の席次で自衛隊幹部が上位の位置を占めることは、今はない。国賓トランプを栄誉礼で迎えても、天皇は巡閲に同行しない。だが、自衛隊にとっての最高権威者である天皇の見守る中で国賓の巡閲を受けることは “栄誉” である。

トランプ&天皇会談が行われれば、モンゴル訪問を受けた対中包囲網形成皇室外交ともなる。そもそも国賓との会談や晩餐会自体、天皇を内外に「元首」として振る舞う姿を見せる仕掛けである。来日した国賓に対するものも含めて、皇室外交に反対する取り組みが必要だ。

5)女系天皇にもNOを!
トランプ来日・天皇会談などの皇室外交も、沖縄、広島への帯同を通した愛子売り出の場になろう。それを通してヒロヒトも含む「平和天皇」化の「継承」をアピールするだろう。モンゴルへの “慰霊の旅” で顕著に見られたマサコ売り出しの場にもなろう。「流石、元外交官の雅子様。皇室外交でご活躍」なんていう賛美報道が目に浮かぶ。「大リーグで活躍する大谷翔平」になぞれば、「米大統領も雅子妃を称賛!」といったところか。そういった報道は、「グローバル化時代」における天皇制の価値をアピールすることにもつながる。

皇后・内親王と “女性活躍” に焦点を当てた称揚が行われるかもしれないという点にも注意が必要だ。その延長に女系天皇論も浮上するかもしれない。それは「リベラル」なんぞではない。「神功皇后伝説」は侵略正当化の重要なアイテムだった。皇后はじめ女性皇族は、戦傷者や戦死者の遺家族などへの軍事援護で「慈愛としての天皇制」を担ってきた。女性ならば戦争と無縁とは言えない。現にマサコや愛子は、“戦没者慰霊”という形で戦争に関与している。「男系天皇も女系天皇もいらない!」という対抗軸を明確化する必要がある。

6)様々な “靖国”と自衛隊国軍化改憲への警戒を!
女性であれ、男性であれ、天皇は、当面、“日米安保型”でもある“慰霊の旅”でも行われた “戦後鎮魂型慰霊”の線を崩すことはないだろう。天皇が靖国神社に参拝することは、靖国神社からA級戦犯を分祀することなしには難しい。だが、石破が語ったように「天皇が参拝できる環境の整備」、その究極に念頭におかれているA級戦犯分祀も、全くあり得ないと断ずることはできない。先に述べたように敵味方なく祀る「鎮魂社」は、既に存在する。とはいえ、靖国参拝のハードルは高い。それよりも可能性が高いのは、千鳥ヶ淵の利活用かもしれない。自衛官の「待遇改善」の線で言えば、防衛省内の自衛隊員殉職者慰霊碑の利活用が浮上する可能性がある。国民主権の象徴天皇制国家の天皇の “慰霊” の場として、最も「相応しい」かもしれない。ただし、「国民主権の象徴天皇制国家の国軍」に自衛隊がならなければ、天皇の「参列」は難しいだろう。少なくとも自衛隊明記改憲が条件となろう。靖国神社以外の慰霊施設の利活用も含む「靖国問題」と自衛隊明記改憲・国軍化改憲を一体不可分の問題と捉え批判していく運動の論理と実践を創り出していかなければならない。

7)公共宗教化への警戒を!
靖国も含む「公共宗教」化にも警戒を払う必要がある。

先に引用した小林は、「『民の公共』としての神社本庁による公共的奉納」は、「ある意味では明治国家が地方レベルについて考えた「民祭」「人民の共祭」が国民規模で実現した」ものとも言えると言う。さらに、「この考え方を発展させれば、祭祀に関して公共的組織を発展させて、神社の祭祀だけではなく皇室祭祀も本格的に支援することも考えられよう」と語る。

その公共的組織は、公益法人かNPOなどとしている。靖国神社については「公的施設」でなく、「公共施設」とするのが望ましいと言う。そして、「公共的な存在にするために重要なことは、神社界だけではなく、一般市民も加わることである」とし、「仏教やキリスト教などの他の宗教や政治的・社会的団体が参加することが望ましい」と語る。続いて、「政教分離により国家や自治体は直接には関われないが、政治の担い手である政党が与野党問わずに協力していれば公共的組織になり、その組織により支援される祭祀は『公共的祭祀』となる」と述べる。

“慰霊の旅” は「私的祭祀行為」の「公共空間」への巧妙な進出策・浸透策だ。その “祈り” は小林の言う「まつりごと=奉仕事」としての神道精神を体現したものとも言える。そして「奉迎提灯業例」に見られる「草の根からの協力」とそれに応える天皇。殊に日本会議剥き出しでなく、幅広い協力・後援を組織した広島のそれは、小林の提唱する「公共的組織」の先駆とは言えまいか。

その正体は、言葉を言い換えた「翼賛組織」に外ならない。差別・排外主義、歴史修正主義も力を増している。国会に議席を獲得し、「日本は、天皇のしらす君民一体の国家である」という規定を第一条に置く改憲案を公表する政党まで出現した。翼賛組織作りと一体となった「公共宗教」化・「公共祭祀」化との対峙は、これからますます重要性を帯びることにあろう。

8)反戦の論理の徹底を!
最後に戦没者に向き合う立場を考える上で示唆に富む一文を紹介しておきたい。赤澤史朗「戦後日本における戦没者の『慰霊』と追悼」(『立命館大学人文科学研究所紀要』82号)である。

靖国神社型の「慰霊」追悼に対立する性格の、公的な「慰霊」追悼を創り上げる動きと位置づけられるのが、1949年の『きけわだつみのこえ』の刊行や1952年に建立された広島の原爆死没者慰霊碑と、その前で行われる平和記念式典であったといえよう。特に後者のそれは、戦後補償の第三の立場、即ち戦闘員・非戦闘員を問わない、すべての日本の戦災被害者への国家補償を要求する立場に照応するものだった。/この両者が、政府や日本遺族会の立場と異なっているのは、過去の戦争と軍国主義に対する否定的な姿勢を示しているからである。従ってその「慰霊」追悼の対象は、その誤った戦争と軍国主義の犠牲者という位置づけになる。ただしその戦争と軍国主義否定の立場は、反戦というより非戦の立場といえよう。ここで反戦というのが、何らかの政治的イデオロギーに基づいて過去の日本の戦争を侵略戦争と捉え、それを批判する考え方であるのに対し、非戦の立場には侵略戦争という認識はない。しかしそこには、戦争の暴力的な姿に対する否定の意識があり、軍国主義とその国家に対する否定と反撥があった。これに対し、反戦論的な立場からの「慰霊」追悼事業は、治安維持法の犠牲者や強制連行の中国人・朝鮮人犠牲者などを対象に独自に実施されることはあったが、その担い手は少数者集団に止まり、概して非戦の立場での「慰霊」追悼の流れと合流する傾向にあった。

*上記論文は、今年(2025年)8月11日に開催された集会「『戦後80年』『昭和100年』を問う」(於:南部労政会館、主催:国家・天皇による「慰霊・追悼」を許すな! 8.15反「靖国」行動)での講演をもとに文章にまとめていただいたものです。講演の後半(下)にあたります。前半(上)も合わせてお読みください。

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