日本ナショナリズム研究 1

「日本ナショナリズム研究会」が伊藤晃さんを中心に2025年6月からスタートしました。この「日本ナショナリズム研究」シリーズでは、研究会での伊藤さんの報告記録を随時掲載していく予定です。どうぞ、お楽しみに。

日本ナショナリズム研究会:第1期
明治初年(幕末を含む)——19世紀後半:「万邦に対峙する」の国家目標 1

第1回 「万邦に対峙する」観念の江戸期における準備

伊藤晃

1.序論

伊藤です。今日はおいでくださいましてありがとうございます。

私もちょっと年を取りまして、これまで考えてきたこと、いろんな問題について皆さんとお話をする機会があればなどと、いろいろ考えます。それで2〜3年前、労働運動史の研究会をやりまして、そちらの方面では考えていることをだいたい話しました。今回は、これも青年時代から考えつづけている問題なんですが、日本のナショナリズムというのは一体どういうものなのか、いま我々はこれをどんなふうに克服したらいいのかという問題について、私の考えてきたことをお話をして、皆さんと議論を交わしたいと考えています。このような趣旨でこの研究会を提案させていただきました。ですから、この会はわたくしが最初に話をして、それについて皆さんに議論していただくという、そういう形をとらせていただきたいと思います。これは大変僭越で恐縮ですが、年に免じてご了承くだされば幸いです。

レジュメを用意しています。だいたい2回分です。それから資料は3種類ほどで次回用ですが、天皇に関する資料でありまして今日はこれを使いません。今回は共通の参考資料として松浦玲編『日本の名著30 佐久間象山・横井小楠』を上げておりますので、お配りする資料はありません。

(1)「万邦に対峙する」
まず最初にわたくしがこの話をするにあたって、頭においていることを何点か申し上げておきたい。

第一に、明治の初年にしょっちゅう使われていた「万邦に対峙する」という言葉があります。これは万国に対立するとか、いろいろ表現はありますが、要するに幕末の列強からの圧力に対して、単なる抵抗、あるいは独立を超えて、日本が列強に対抗するということ、弱肉強食の世界支配体制の中で、弱者の立場で抵抗することを超えて、食う方の立場、つまり列強の一員として支配体制の方に加わることで、独立を守る。その意味で対抗するということです。当然ある国々を自分が食う対象と見ることになります。

こういう野望を持ったのは東アジア・アジアで日本だけであります。なんでこういうふうなものが日本だけに生まれてくるのかということが私の長年の問題でありました。日本のこの意志は今日まで残っております。今、つぶれかけておりますけれどもG7というものがありまして、これは日本の首相などに言わせますと、「自由と民主主義の価値観を共有するグループ」なんだそうですね。そういうグループに加わって、その一員となっているというのは、明治以来の考え方の継続であると私は思います。そういうことで今日までつながる問題である。この「万邦に対峙する」というのは、この話の最後まで繋がってくる問題であるとお考えください。

(2)ナショナリズムイデオロギーの生成
それから2番目の問題として、「万邦に対峙する」ためにはそのためのよりどころ・心構え、そういったものが必要になるわけですね。ただ黙って仲間に入れてくれと言ったってそうはいきません。明治の日本はやっぱり後進国ですから、そこに入っていくためには、それなりの力を示すと同時にある種の心構えが必要であり、その心構えがだんだんと国民を捉えていき、明治のさまざまなナショナリズム思想というものもまずそこに生まれてくる。そうふうに考える必要があるだろうと思います。この問題を第2に考えたい。国民的な自意識ですとか、自己主張であるとか、あるいは対外意識——これは排外主義を含みますね、それらでどのように国民をまとめていこうとしたのかという問題。こういった問題を扱うことになります。そしてこの場合、私たちが注意しなければならないのは、そういうナショナリズムを単にイデオロギー暴露という形、こういう悪い思想があった、悪い人がいたとか、そういう形ではなく、なぜこういう思想を国民が受け入れるようになったのか、なぜこれが存在しえたのかと、こういう形で私としては考えてみたいと、思っています。

(3)ナショナリズムの推進主導力
それからもう一つ、こういうナショナリズムのイデオロギーがたくさんありますけれども、そのナショナリズムの主動力はあくまでも、日本の国家であったということ。国家が主動力である。それは忘れてはならないのであって、今日でも同じであると思う。ですから、国の政策方針などがナショナリズム全体をリードするというのは、昔も今日も同じことであります。その場合、私たちが注意しなければならないのは、国家の政策方針であるから、単に反動的なものだというふうな、そういう捉え方をするだけではだめだということです。

やはりですね、国民がともかく前に進んで行く、その前へ進むことを国が先導した。先に立って指導したのが国家だ、われわれが対抗するテーマがそこに生まれている。そういうふうに考えなければいけないので、そういう意味では「進歩」なのですね。国家の方向は、いつも前を向いている。国家の政策であるから反動的であると悪口を言えばすむというふうに簡単にはいかないということであります。

(4)人民意識の潜在的思考とナショナリズム
次にもう一つ。ただそういうものでありますけれども、こういう国家の政策が、人民の間に昔からあったもの、潜在的なもの、これを表面化させて、あるいは意識化させ自覚化させて、それがナショナリズム・イデオロギーになってくるという場合が少なくありません。このことも一つ注意しておきたいと思います。大体みんなの間にあったような常識、これが国家によって自覚化されさせられるというふうなケースがかなりあるということです。合理的、民主主義的であると我々自身が思っているような意識でもそういうことがあります。そういったものが、どういうふうな形で国家によって引き出されてナショナリズムになっていくかということには油断がならないものがあると私は考えます。ですから、我々人民側の普通の民主主義的意識というものの解剖をいつも怠ってはならないので、その観点をわたくしは忘れてはならないと考えております。

また、そういうさまざまイデオロギーを考える場合に、普通の人間の立場として、私たちはものを考える必要があるだろうと思う。だいたいナショナリズムのイデオロギーというのを考える場合に、私たちにとっては、こんなものは別に縁もないものであって、批判の必要もないものであると思われていることが多いだろうと思う。だけれども、これからお話をする、取り上げるさまざまなイデオロギーは、だいたい国民の多くが信じていることですね。ですから、こんなものは私たちにとってはどうでもいいことだというような、あるいは、一般のあの連中はこうだけれどもというような、高踏的といいますか、高いところから臨むような、そういう態度は取りたくない。わたくしたちだって、さまざまな問題を自分自身批判しながら今の立場まで到達してるわけですから、人々の自己批判過程というものをやはり大事にする必要があるのであろうと思います。

典型的な例を一つだけあげますと、いま排外主義が非常に盛んですね。実はこれは戦後の民主主義の中に一貫して存在していた傾向じゃないだろうかと、私はそう思っている。戦後の民主主義の中には、朝鮮人に対する社会的排除、これは一貫していましたね。そういうものが今、自覚化あるいは意識化されて、排外主義の大波となっているというふうなことであって、これを批判しようと思ったら、戦後民主主義の私たち自身のイデオロギーの中身まで、我々は踏み込んで考える必要があるわけであります。

このようなことを考えながら、これからのお話をしていきたいと思うのです。

2.江戸時代における近代日本ナショナリズムの準備思想

本論に入りますが、今日お話しするのは、江戸時代において、近代日本ナショナリズムがどういうふうに準備されてくるであろうかという、そういうことに関する問題であります。まず最初に申しました「万邦に対峙する」という思想がなぜ日本に生まれたかということ。外圧に対する単純な攘夷反発に止まらずに、世界を支配する強国の一部に自分たちも加わりたいというイデオロギーがただちに現れてくるのはどういうことだろうか?という問題であります。

レジュメの最初に、これは実証することは難しいですが、そういうことも考えなければならないだろうなということ、昔から考えていることをちょっと書いておきました。

(1)国家的「倭寇」の記憶
16世紀から17世紀にかけて、スペインやポルトガル、少し遅れてオランダ、イギリス、そういった国々による、世界的な欧州化、グローバリゼーションの大波が訪れました。これが東アジア、東南アジア、そういう地域に一つの波立ちをもたらします。このグローバリゼーションというのは、ウォーラーステインという人がおりまして、第一波から第三波まであると言っていますね。第一波は今お話しました。第二波が19世紀のイギリス中心、20世紀のアメリカ中心。ところがその第二波、第三波のグローバリゼーションにおいて、いつでも日本はそれに便乗といいますか、乗っかりまして、はなはだこすからくやってきたわけであります。

そういったことから、第一波の時にも、そういう問題を考える余地はないのだろうかとちょっと考えたのです。それは、グローバリゼーションというものが起こる時に、当時の日本は大変主体的に対応しているということです。ご承知のとおり、この波の中で日本は東南アジア方面に大規模に進出しまして、日本人街をあちこち作ってるわけであります。それから南蛮貿易というのも、当時、世界的な意味をもって日本は活動しているのですね。当時、東南アジアの貿易というのはポルトガルの中継貿易が中心になってますね。ポルトガルのアジアにおける貿易は中国から生糸を日本に持ち込んで、その日本から銀を持ち出すという、これが東アジアにおける貿易の中心です。この日本の銀が大変重要です。これはちょっと大げさかもしれないが、当時、世界中の銀産額の1/3を日本が占めていたなんていう説を立てる人もいるくらいです。当時は新大陸の銀がありますから、そんなに日本が多かったということないだろうと思いますけれども、しかし、アジアのポルトガル貿易は、日本の銀が運転資金とならなければ不可能だった。当時、アジアにおける日本の位置は、そう軽いものではなかった。

このグローバリゼーションの中で、たとえば新大陸では、中南米のインカ帝国ですとか、先住民帝国が全部壊滅させられますね。インドにおいてもポルトガルはあちこちに拠点を作りまして、内陸までは進出できないけれども、食いかじりを始めている。ところが中国、当時の明という国には、当時のヨーロッパ強国といえども具体的に手が出せなかったんですよ。マカオにちょっとした拠点を作ってますけれども、まあ、明というのは手つかずの国であったと考えていいのです。

ところが、明王朝は初めから難題を抱えておりますね。北方・南方から異民族がしょっちゅう攻め込んできて富を奪っていくという、「北虜南倭の禍」というのがありました。その「南倭」というのは日本のことであって、いわゆる「倭寇」ですね。海賊です。そういったものが明を脅かしているということが昔からありました。

その倭がヨーロッパ各国が手を付けることができなかった明に対して、当時いわば国家的な「倭寇」を試みた、これが豊臣秀吉だったのじゃないかと、私はちょっと考えるのです。秀吉の朝鮮出兵、これは明に攻めこんで行くことを最終目的にしたものであったことはご存知でしょう。それは朝鮮でもうすでに失敗してしまって駄目だったんですけれども、これは昔の日本人が非常に喜んで豊臣秀吉の「朝鮮征伐」ということで話題にしたものであります。

ヨーロッパ諸国が手を付けられなかった明に対して、日本が国家的な形で手をつけようとしたというこの記憶です。失敗したけども、明という国をそういう対象として見たという記憶。これはその後、江戸時代にまで残るのではないだろうか。中国という国、あるいは出兵して、さんざんに日本が負けるわけですけれども、実際に荒らして回った朝鮮を、そういった国としてイメージするということが、江戸時代に残って来やしないかというふうに、私は思う。

歴史的な記憶というのは、時代を通じて伏流になったり表に出てきたり、いろいろするもんですから、これもそういう風に考える必要があるのではないだろうか。これはわたくし以前から考えていることなのです。

ですから、やがて外圧が加わってくる時に、日本がアジアに対してある種の侵略的な発想を最初から持ったというのは、一つにはそういう歴史的な事情もありはしないか。これは一つの仮説でありますから、私はいま実証することはできません。ただ、そういう考え方を私が持ってるということを話しておきます。

(2)江戸時代における世界の情報
それから「万邦対峙」という思想が出てくるについて、第2に注意しておかなければならないことがあります。これは実証できることです。江戸時代の日本は鎖国しておりますが、この間、日本人一般としては海外に対して無知であるけれども、武士・知識層は決して海外世界への関心がなくなったわけではなく、また、その知識も多少はあったということであります。鎖国してますけど、長崎を通じていろんな本が入りますね。西洋の洋書が直接入ってくるのはだいぶ後ですけれども、最初から、漢訳の西洋科学書なんてのは、随分入っているんです。天文学ですとか、洋学的な知識が日本の中に出てくるのは、そういうものを通じてであります。

江戸時代は最初からそういうところあるのです。それから世界地理、世界諸国事情、世界歴史、そういったものに対する出版活動というのが、案外江戸時代に盛んです。開港百年を記念したある本がありましてね、私が子供の頃で1953年頃の本ですけれども、これを見ますと、江戸時代のそういう出版活動が全部わかる限り列挙してあります。件数は450件あります。ただ、この450件というのは、当時の本というのは和本ですから厚ぼったい本はできません。だから外国の本を翻訳する時も分冊しますから、その分冊を全部件数として含みます。いまふうの450冊ということじゃありません。それでもこういう種類の本がずいぶんありまして、その中の一冊に、例えば『解体新書』なんかもあったわけですね。

これは単なる西洋に対する知的関心というふうにとどまらない。それはやがてロシア、イギリスが日本の周辺に現れるときに明らかに示されることになります。ロシア、イギリスが現れたとき、これに対する日本側の反応には非常に目立ったものがあります。もちろん、当然、恐怖があるし、それから閉じこもりの意識、単純な拒否ですね、つまり攘夷的な意識、そういったものがもちろん強い。これは主流である。主流でありますけれども、こちらからも海外に出かけて行こうじゃないかという、これが大事なところですが、そういう考えが早くから出てくるということです。

日本も海外で開拓植民、そういう活動をしようじゃないかという、そういう提案が案外たくさんあります。その目指すところは広いんですよ。もちろん蝦夷地が多い。当時は蝦夷まだ海外といってもいいでしょう。ところが蝦夷地を超えて、千島樺太からかカムチャッカまで、カムチャッカを超えてアラスカまで、アラスカは当時ロシア領だから繋がっていてそこまで行く。それから朝鮮、満州、沿海州、そこら辺が、開拓植民の提案の対象地域として出てくるんです。江戸時代の後半の時期にです。南方については、台湾からフィリピン、東南アジア、あるいはジャワ、南洋諸島とそういったものがずっと広く現れてきます。

レジュメに名前を挙げておきましたけれども、本多利明ですとか、佐藤信淵は有名な人たちですけれども、これ以外にもたくさんいるのですよ。それから洋学者といわれる、我々が普通に文化的な関心で名前を知っている、例えばさっき言いました『解体新書」を出したグループのリーダーで前野良沢がいますね。この人も蝦夷地に対する、あるいはロシアに対する本を書いてます。そういう洋学というもの自体が、そういう関心を裏に持っていたということでありました。これらは外圧に対する対抗的な対応である。そういうものがすぐに現れてくる。なぜそうなるのであろうか。これがやっぱり考えておかなければならない問題であろうと私は思うのです。

(3)政治的・社会的動揺
早くから西洋への関心に政治的、軍事的な目が働いていたわけでありますし、内面に対抗的な警戒心が潜在していたということもわかると思います。ちょうど本多利明や佐藤信淵などが現れてくるそういう時期に、イギリスやロシアが、周辺をうろうろし始めるわけですね。折から江戸時代の体制は一つの緩みが出できておりました。ちょうど寛政の改革から天保の改革の時期です。改革があるということは、社会体制がガタガタになりつつあるということですね。1837年に大塩の乱というもあります。これらは一つの危機です。

そういう危機と外からの脅威、そういった二重の危機があって武士支配集団を刺激したと言えるのであります。幕府についてもそれは言えない事はないですが、やはり武士の間にあった知識層としての意識、こういったものを刺激したというのは大きいだろうと私は思います。

幕府の方にも対応はあるけれども、一面ではこういう意識が生まれてくるのに対して、むしろ反動的に押さえつける。やっぱり幕府に対する批判の契機を持ってますからね。それはたとえば渡辺崋山・高野長英などが処罰された『蛮社の獄』。これは1839年ですけれども、これに現れたりします。ただ、この長英の書いたものなどは、みなさんがお読みになるとたわいないものですよ。イギリスの船が日本の漂流民を送り届けてくるんですね。こいつを追っ払った。それに対して、そんな軽率なことしてはダメじゃないかということをほんの小さな文章に書いたのが、崋山や長英が引っかかった理由なんです。書いたものは大したことないんですけれども、一面で言えば、ロシアやイギリスが周辺に現れたというのはそう軽く見ちゃいけない問題だという意識が幕府にも強くあらわれたということ。これも見ておく必要がある。『蛮社の獄』は1839年ですけれども、すぐにニュースが伝わってくるのがアヘン戦争です。

アヘン戦争は1840年に始まりますね。そして中国は完敗するわけですが、西洋というのは実に強いんだと。そういった強い西洋が日本の周辺をウロウロしてるんだという実感が、武士知識層の間に広がっていくきっかけになる。これはたしかなことです。そして、西洋への関心、潜在していた軍事的・政治的認識が、決定的にそういう方向に移行して行くのがこのアヘン戦争であります。

外への脅威に対して日本は対抗しなければならない。そのためには欧米の持っている強さというものを日本も持たなければならないという意識にすぐに移行して行きます。中国にもこの意識はもちろんあるのだけれども、一部に止まるんですね。日本の場合には武士知識層に相当広くこれが拡がったというところで違いがあります。日本が小さいということはありますね。中国は大きいですから、そう簡単に全体に動くもんじゃないんです。日本の場合は素早いのです。それで、欧米文明の受け入れは当然であると言うふうに、意識がだんだんと移っていく。

これは開国論が出てくる一つの前提になりますね。ここで日本での世界認識の推移に対して影響を与えた本、レジュメに中国人の本を一冊上げておきました。これはぜひ記憶にとどめておいただきたいと思います。非常に重要な本です。魏源という人の『海国図志』という本です。アヘン戦争の時に林則徐というのがいますが、魏源はあれの友人です。林則徐はアヘン戦争のいわばきっかけを作りまして失敗するもんですから、左遷され、流されます。いわば流刑ですね。その時、彼が集めた大量の資料全部を、魏源に譲って行くんです。魏源はその資料を基にして世界地理書を書くんですね。これが『海国図志』という本です。これが日本に輸入されます。さっき申しました『世界地理書』の中に、『海国図志』の分冊がたくさん入っております。これは当時の日本の指導的な人々に随分広く読まれた本なんです。私たちたちの知ってる名前でも、吉田松陰、橋本左内、あるいは西郷隆盛。ちょっと年上では横井小楠、勝海舟と、こういう人たちが読んでいるのは確実な本で、ここからかなり多くの示唆を得ているのであります。

わたくしはこの本の実物を見たことがありません。だけど、コピーですけど、一部だけ持ってます。その部分は一番大事なところで、総論部分です。「籌海篇」というんですけども、海に対するはかりという意味ですね。その海防論、どうやって外寇を防ぐべきかという、そういう議論の部分です。非常におもしろい。そこに、その後有名になった言葉が出てきます。それは、みなさんご存知の方が多いと思うけれども、「夷を以て夷を制す」です。「夷を以て夷を攻む」ともいいます。外国の力でもって外国を圧倒する、ということですね。これは昔から中国にあった思想で、北方にたくさんいる異民族が攻めてくるんです。そうすると、中国の王朝は互いに異民族同士を喧嘩させてつぶすという策をとることが多かったんですね。一つの「夷」をもって、別の「夷」をつぶすという、これが「夷を以て夷を制す」です。

ところが『海国図志』には、もう一つありまして、戦争の時にはそれでよろしいと。だけど平時においても考えなきゃならないことがある。それは「夷の長技を師として以て夷を制す」と言うことです。つまり、私たちは、西洋の「長技」・西洋の優れている点を学んで、その学んだものを以って外国に対抗しなきゃならないと、そういうことです。

この考え方は日本にも非常に大きな影響を与えたと私は思います。中国の「夷」を先生にする、「夷」からまず学ぶ、西洋文明を受け入れると言う考え方。それを日本が引き継いだ一つの中継役になったのがこの本なんですね。

そして魏源は「中体西用」という言葉を使っている。これは、中国という主体が西洋の文化を用いるんだ、ということです。主体があってこれを用いるんだと。これは当時の日本人には分かりやすかった。というのは、平安時代からこういう考え方は日本にある。平安時代に「和魂漢才」という言葉があったことをご存知でしょうか。明治以降は「和魂洋才」といいますね。あれはあの平安時代の「和魂漢才」の作り替えです。

中国文化を学んで、それを日本的に使いこなす術を、当時「大和魂」と言いました。これは、その後使われる「大和魂」とは意味が違うんですね。「大和魂」とは日本的な才覚のことです。日本的な知恵の働かせたかた、主体性、そういったものを「大和魂」、「和魂」と言ったのですね。「漢才」は中国文化のことです。そういう言葉が平安時代にありました。

それを作り変えたのが「和魂洋才」であって、西洋文化というものを、これを学んで、これを日本人が主体的に使いこなせばいいんだという、そういう考え方ですね。このように、昔からある考え方ですから「中体西用」も分かりやすかったと思う。こういうわけで、この魏源の本はある影響力を持って当時の日本の知識層に受け入れられていた。これを一つ記憶しておいていただきたいと思います。

(4)外圧への対抗策に関する議論
ここまできますと、この知識層の中に、単なる知的な提案ということじゃなくて、なんとかこれを国の政策として進めるようにしたいと言う考え方が出てくるのは当然です。ですから、そこに幕政改革という発想が当然生まれてきますし、幕政改革でいろんな対立が起きてくる、その対立の中から幕府打倒と言うような考え方まで、2〜30年の間で発展していくことになるんですね。

その発展している間に現れたいくつかの思想を見ていきますと、その後の日本のナショナリズム思想の原点になったような発想はいくつか見られることがわかると思います。それを上げてみたいと思います。この頃にはたくさんの人がいるのですけど、ここでは教科書に出て来るような人たち・グループを5つほど例を上げておきます。

イ)水戸学
まず第一に水戸学というもの。水戸黄門さんというのがいて、彼が日本全国を回って歩いてたというのは嘘ですけれども、あれが出てくる理由はあります。人民の生活を安定させる、つまり、君主たるもの義務であるという、中国の儒教の仁の思想をもってるもんですから、それを日本においても実現しなきゃならん、儒教の総本山となるというふうに水戸黄門さんは考えているので、それであんなふうなエピソードや話も出てくることになるんです。

水戸は儒教の総本山だと思ってますけれども、儒教には「尊王賤覇」(そんのうせんぱ)という考え方があります。「賤覇」は覇を賤むです。「覇」というのは権力や暴力を用いて抑圧的に人を支配することでありまして、仁をもって、徳を持って支配するのが王道、ということであります。

徳川幕府は「覇道」ですね。武力が背景になってるわけですから。だけども、それが王道としての資格持っているんだと、そのことを水戸は言いたい。幕府・将軍が、日本の伝統として、天皇から委任を受けるという形式をとってますね。それで征夷大将軍になってるわけです。それで、天皇の委任を受けているんだ、天皇の意思が背後にあるんだということで、徳川幕府にも王道というものが通用するんだと。これが水戸学の一つの理屈なんですね。

この水戸の尊王論の思想には、「夷」=外国はいやしめなきゃならんという考えが、儒教の当然の考え方として出てきます。中国人から見て日本人は「夷」であるが、日本人からすると日本を脅かす外国人は「夷」なわけですね。ですから、水戸は尊王論の一つの源泉になると同時に、「攘夷論」の源泉にもなるのです。やって来た夷は打ち払えということです。

水戸学の議論が、幕末の政治運動の一つのイデオロギー的な源泉をなしたということは、みなさんご承知の通りであります。このように、水戸学が幕末に置いて非常に強く一つのイデオロギーを押し出した。これはやはり、外国からの圧力を感じ取っての対応であります。そういう中で、儒教というものが作り出している日本の国の正しい姿をもって外国を打ち払うんだというんですね。

日本は正しい姿を持ってるんだから、外国に負けるわけがないではないか。こういう考えの源泉に水戸がなってるということですが、この点は、これから話をする何人かの人に全部共通しています。この正しい思想を自分たちは持ってるんだ。さらにその正しい思想で、私たちは精神を緊張させなきゃならん。みんなが統一した精神を持たなきゃならないと。これが水戸学の非常に大きな考え方でありました。この日本の国は、天皇が儒教の精神を体現している。その正しさに対して、お前たちは確信を持て。みんなで一致してその考え方に立とうではないかと。こういうことを強く言ったのが水戸学ですね。

会沢正志斎なんて人の本を読みますと、そういうのが非常に強く出てきまして、なかなか面白いです。ああ、なるほど日本のナショナリズムとはこんなもんだなあと言うことを非常に強く感じさせますね。

それから水戸学の一つの中心点として、つぎのことを覚えていてください。

武士は水戸学で精神がきちんとうち立てられて大丈夫だろう。だけど、一般庶民は危ないぜ、と言っているのです。愚民思想ですね。一般庶民は愚民・愚かな連中だから、外国人がやってきてうまいこと言うと、みんな騙されるはずだと。そこのところは警戒しろと、やっぱりこの会沢正志斎の本に非常に強調されている。

その愚民思想というのは、明治の初年までずっと存在したものであって、福沢諭吉なんかにもそれは非常に強いです。これは、日本のナショナリズムの一つの特徴なんですよ。このところはみなさん記憶していただきたいと思う。武士中間層っていいますか、武士知識層、これが主体であって、愚民というのは油断のならないものだと、こういう考え方ですから、庶民まで含めてナショナリズムに巻き込んでいこうというところまでは、まだちょっと時間がかかります。まあ、明治中ごろからというふうに考えてもいいだろう。明治の初年、当時イデオロギー的にちょっと目立つ人にほとんどすべて共通して、この愚民思想を大変強く持っていた。

ただ、会沢正志斎などの水戸学は、まだベリーが来航する前です。ペリーが来航してからあとは、またちょっと様子が変わります。そこからの後の例として、4人ほど名前を上げておきました。この『日本の名著30 佐久間象山・横井小楠』を共通のテキストとして、できたら読んでおいてくださいというふうにしていましたが、今からお話しすることはだいたいここに書いてありますが、まず佐久間象山からいきましょう。

ロ)佐久間象山
佐久間象山は、もともとの出発点は儒学で、儒学の塾を開いたぐらいの人です。信州松代の出身で、ちょっとした変わり者なんですけれども、儒学者です。だけども、西洋の大勢をペリー来航の前後に知るに及んで、西洋の強さや、日本や中国にはない問題がどうも西洋にはあると、やっぱり学ばなければと、洋学を始めるんです。40歳を過ぎてからです。当時の日本の軍事と言いますと、海軍中心です。夷狄はみんな海がくるわけですからね。だから、当然、軍事中心から入っていきます。

知識の必要性から夷情を知る。夷の状況を知る。そういう必要に目覚めて洋学に入っていった。佐久間象山は開国論のいわば先駆けになってきます。これは夷の文明を受け入れて強くなろうってんだから、当然海国せざるを得ないですね。そんなこともあり、松代藩では色々と酷い目にあったりします。

それはともかく、この人の考え方にも、さっき水戸学のところでいった問題が出てきます。西洋の文明を受け入れるのは当然だ、やらなければならない。だけども、それを受け入れるにあたっては、我々の主体性を確立する必要があると。その主体性のよりどころになるのは何であろうかということです。これは皆さんご承知でしょう。「東洋の道徳・西洋の芸」という言葉で「芸」というのはアートのことです。アートは、英語でも技術と芸術を兼ねてますね。日本の芸っていうのも技術を含む。だから、「西洋の物質文明」と「東洋の精神文明」と、そういう意味です。それを両立させて日本の力を強めるんだと、こういうことなんですね。やっぱり「中体西洋」の思想がここにも働いているということがわかると思います。

佐久間象山はペリーが来た時、その裏側まで見に行きました。そこでいろんなことがあるわけですが、後で話をする吉田松陰もそこで関係する。この時、こんなことを言います。西洋と交際するにあたって開国するのは当然だ。だけど、交際するこちらの主体性が必要である。西洋が、無道な道理に合わない不正を言ってくる時にはつきあってはならない、と言うのです。こちらは「天地の公道」に基づくんだと。天地の行動とは天地に恥じない公の道です。こちらは天地に恥じない道徳的な立場でもって望むのだから、もしもそれに西洋が応じないときは一戦を覚悟すべきであると、佐久間象山は言います。後で述べる横井小楠にもそれがあります。つまり攘夷をやって、西洋がこちらの正しさを認めた時に、初めて交際が成り立つということです。これが佐久間象山の対外的な思想ですね。佐久間象山はのちに暗殺されるのですが、こういった国内的な問題は今日は省略します。

ハ)横井小楠
次に横井小楠。この人は熊本出身でやっぱり儒学者です。儒学の立場から、人民の生活を安定させてやらなければならないということから、富国策を唱える。富国のために、実学方面の学問、単なる理屈ではなくて実際の政治に役立てなければならないということを、非常に強く言いました。この考えは熊本では孤立しますけれども、認める人がいて、越前藩の政治顧問になった。越前は幕末の雄藩の一つですね。それで全国的に名前を知られます。吉田松陰や橋本左内、西郷隆盛など、みんな横井小楠と付き合いがあって、示唆を受けていたということですね。

だいたい佐久間と考え方はよく似ております。早くから当たり前のように開国を論ずる人ですけれども、しかし天下の正義というものをこちらから外国に対して主張することを忘れてはならない、天下の正義に向こうが応じない時には、これも象山と同じことを言いますが、破約攘夷、です。ペリーとの間に条約を結んでいますけども、向こうがどうりに合わないことを言ったら破棄してしまえ、破棄して戦争になってもよいのだと、こういうことを言っております。そして向こうとの間に天地の公道に基づく一致が生まれた時に初めて交際が成り立つのだと。

ここで注意していただかなければならないことは、佐久間象山の場合も、横井小楠の場合も、破約攘夷を言いますね。これはもちろん、攘夷で事を決しろと言ってるのではないです。だけども、性根としてこういうこと忘れてはならないと。当時、天下に攘夷論者が満ちていますが、こういう人間たちを巻き込む論理を、佐久間象山も横井小楠ももっていたということです。攘夷論に対して、君たちの言ってることは正しくもあるんだと。こちらにも立場がある。その立場を我々は主張することを忘れたらならんのだと。しかし、その正しいことを主張して、外国がそれを受け入れたら付き合うんだよ。こういう論法なんですね。だから、攘夷論者を巻き込む一つの論を持っているという、そういうことに注意してください。

むしろ、横井小楠の場合には、それが進んで、西洋にも儒教に並ぶようなある道・道理はあるはずだ。こちらの道理と向こうの道理を付き合わせようじゃないか。そしてこちらの道理の正しさというものを、世界的な水準の中で明らかにしようじゃないか。こんな考え方だったことになります。「大道を四海に布く(しく)」天下に大道(儒教の仁の思想ですが)を広げる主導になれと。

一方で、国内にも道徳に裏付けられた政治、「仁」の立場に立つ富国策をいう。この考えで支配集団が一致することが海国の前提になります。
ついでにちょっと言っておきますと、参考にあげた本には「共和一致」という言葉がでてきます。共和主義の「共和」ですね。この人は共和主義だったのか?と勘違いされるといけないので、ちょっと説明しておきますと、その共和というのは、天皇の下でみんなが一致するってことなんですね。

ニ)攘夷論の政治的意義
佐久間象山や横井小楠には、外圧の現実に直面して、この対応においてある優位性を保とうとする、こちらの道理における正しさにおいて優越性を保とうとする、そういう思想がありました。対抗的な思想というふうに言っていいと思います。そこに攘夷論というものを巻き込んでいく一つの論理があるわけです。攘夷論を単純に考えてはいけないのであって、非常に単純に考える人から、いろんな水準をへて佐久間象山や横井小楠のような考えまであるわけですね。各段階があります。

ある水準までの攘夷論というのは、当時の幕末の政治状況の中で一つの大きな意味をもっていたと考えることもできます。いま説明してきましたように、外国に対しては、ある一つの緊張感を持って応じなければならないというのは、ある意味で当然のことですね。そういうものに対して一つの拠り所、一つの出発点を与えるという意味では、攘夷論は一つの意味を持っていた。

それからまた、武士知識層の間にある緊張感と統一性を作り出していく場合に、攘夷論は大きな役割を現に果たしていた思想であります。攘夷論は極端な面も持っておりますが、政治運動というのは、ある熱というものを伴わないと生命を持たないということがあります。幕末に幕府に対する対抗運動が一つの熱でもってなされる。そういう場合に攘夷論という思想が果たした役割は決して小さくないのです。ある思想によって一つの政治運動が熱気を持つ、こういう意味で攘夷論というものが果たした政治的意味がありますね。

この攘夷論者たちが持っているこういう政治的意味合いを捉えなければならないという、そういう意味で、佐久間象山や横井小楠も、その攘夷論に対してどうすればいいのかという論を持っていたということになるでしょう。

さて、象山と小楠、この二人の思想を考えていきますと、ここに日本のナショナリズムの基本線というふうなものが出てきたことにお気付きだろうと思います。「万邦に対峙する」という、つまり対抗するという考え方ですね。単に西洋文明が素晴らしいか受け入れる、なんてことではない。屈服とするということでもない。つまり、西洋文明に対する対応として日本が行動するということ、そのために主体性を持つということ。こういうナショナリズムの基本のようなものがここに現れてくるということであろうと思います。

ホ)勝海舟
では勝海舟にいきましょう。勝海舟も似たような考え方ですから、基本的なところは省略します。この人は幕府官僚でしたが、海軍官僚です。海軍を使って攘夷派をまとめていこうとした画策者でした。だから実際に神戸に海軍学校を作りました。そのとき集まってきた学生はだいたいな攘夷派です。典型的なのが坂本龍馬ですね。そういう連中を率いて、日本の海軍を作ろうとしたということであります。攘夷派の危機感というものを海軍への志・熱意に転化させようとした。激情を変革のエネルギーに転換させようとした。これが勝海舟の一つの役割であったという事が言えます。

それからこの人には、幕末に、日朝清三国同盟という考え方が出てくるんです。何を考えてるのか、詳しいことを彼は言っていないので中身はよくわからないのだが、人によってはこれはアジア連帯の思想だなんて言う人がいます。だけども多分、これはちょっと違いますね。そうじゃなくて、先ほど申しましたように、江戸時代に海外に押し出して行くという思想がありますね。それで、海外に出て行くという場合、頭の中で抽象的にそれを考えるときには、日本の開拓植民という形で一方的に押し出して行くという、そういう単なる思想であるほかはないけども、幕末の段階においては現実問題としてそうはいかないから、日本、朝鮮、中国、その三つを合わせて、そこで日本がヘゲモニーをとる。そういう考え方に転化していたのではないか。

ヘ)吉田松陰
次に吉田松陰です。この人はもともと伝統的な兵学者を学んだ軍事学者なんですけども、やっぱり外圧を契機に世界の大勢に目覚めることによって、西洋との対抗に転換していった、こういう人であります。ただ、影響があった小楠とはちょっと違いまして、外夷、夷狄というものに対しては、より敵意を持っています。だけども単純な敵意ではないのですね、この人の場合。だからご承知のように、彼はアメリカの船に乗ってアメリカに渡ろうとして失敗したという経歴を持っていますね。なんでアメリカに渡ろうとするかといえば当然それは夷状を知る。「夷」について知る、知らなければ対抗できない、それで俺が行こうじゃないかということになった。これは佐久間象山が煽動したんですね。それで象山も入獄することになった。

それだから単なる攘夷じゃないですね。やはり対抗的な考え方があります。この人はこんなことを言っています。イギリスやアメリカやロシアと貿易をすることになるだろう。そしたら日本は無知だから騙されることもあるだろうし、損をすることもあるだろう。しかし案ずるに及ばない。貿易で損をしたところは、アジア大陸に進出して、朝鮮や満州の土地を取ってそれで補えばいいじゃないか。貿易において失うところ土地をおいて取り返すということを言っている。この人の朝鮮、満洲奪取論は有名ですね、こういう考えを持っていた人だから単純な攘夷じゃないことが分かるでしょう。対抗的なんです、やっぱり。

あと少し付け加えますと、攘夷論が上昇して西洋への対抗意識になったとしますと、その対抗意識ははじめから攘夷思想を潜在させている、ということも言えます。これは近代になっても同じだと思う。世界に対する態度の中に攘夷的な感性が潜んでいて、時にそれが外に露出してくることに、私たちは気づくことがあります。排外主義への警戒心を私たちは忘れてはならないのだと思います。

今日はここまでにしておきます。どうも長々ありがとうございました。

2025年6月20日 於文京区民センター

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