天皇の招爆責任について

                         西岡由紀夫

天皇主権の大日本帝国憲法では、天皇大権として規定される立法大権・議会開閉大権、官制・任官大権・軍事大権・外交大権・戒厳令宣告大権・恩赦大権、栄転授与大権、祭祀大権等があり、国家はこれらの大権に基づき、天皇の行政、天皇の司法として運営され、天皇の軍隊によって支えられた。

日本陸海軍は、広島を拠点に、日清戦争(1894-95)、台湾の植民地化以後、北清事変(1900-01)、日露戦争(1904-1905)、韓国併合(1910)、第一次世界大戦(青島出兵)、シベリア出兵(1918-22)、柳条湖事件(偽「満州事変」、1931.9.18)、盧溝橋事件(1937.7.7)以後、南京大虐殺(1937.12.13)、日中全面戦争、マレー半島・真珠湾攻撃(1941.12.8)によるアジア太平洋戦争へ1945年8月(日本の降伏文書調印9.2、沖縄9.7)まで、約半世紀は、戦争に次ぐ戦争の状況であった。

天皇裕仁は、1945年2月7日~26日にかけて7名(平沼・広田・若槻・岡田・近衛・東条の元首相)牧野伸顕(元内大臣)に戦争について意見を求めた。ほとんど全員が戦争継続を主張した。

2月14日、近衛文麿は木戸とともに御文庫で「上奏文」を提出した。
戦争終結について、

天皇「もう一度、戦果を挙げてからでないと中々話は難しい」

近衛「そういう時期が御座いましょうか、之も近き将来ならざるべからず。1年先では役に立つまいと思います」

天皇「この戦いは頑張れば勝てると信ずるが、それまで国民がこれに堪えうるや否や、それが心配である」と応えている。

2月15日、最高戦争指導会議では情報機関担当者が日ソ中立条約破棄、ソ連参戦を警告した。

2月16日、重光外相、同様の警告を天皇に内奏した。ヤルタ(米英ソの大局的一致)は断言したが、天皇はとりあわなかった。

2月26日、東条元首相参内し、ソ連の参戦は「五分五分」と述べるが、天皇は変わらなかった。

3月10日「東京大空襲」B29が334機、首都の4割消失、10万人の焼死者。

3月18日「天皇視察」、「焼け跡を掘り返す罹災者のうつろな顔、恨めしそうな顔、お辞儀もせず御車を見送る」「虚脱」した民衆の表情、「菊の御紋を付けた赤塗りの自動車」

3月26日 米軍最初の上陸地「慶良間列島」

4月1日  米軍、沖縄島の読谷・嘉手納・北谷の海岸線に上陸

近衛文麿が天皇に終戦を提言した45年2月の時点で(マリアナ諸島を失って戦争の帰趨は決していたし、さらにレイテ、ルソンなどに米軍が上陸しフィリピンも失うことが確実になっていた時点で)終戦を決断していれば沖縄戦を避けられた可能性があった。そうすれば当然、原爆投下やソ連参戦も避けることができた。天皇が8月に終戦の「聖断」を下したのは国体護持=天皇制維持にこだわった、あまりにも「遅すぎた聖断」であった。(林博史『沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか』集英社新書、303頁)

米軍日本本土に16万800トンにのぼる爆弾・焼夷弾を投下したが、そのうちの90パーセント以上が太平洋戦争の最後の5カ月間にB29によって投下された。その結果、北は北海道の釧路から南は沖縄の那覇まで、全国100あまりの都市を含む393市町村の人々が爆撃の犠牲者となった。その推定死傷者は102万人、その半数以上の56万人が死亡者と言われている(地上戦で亡くなった沖縄県民の数はこれに含まれない)。死傷者の7割近くが女性と子どもたちであるとも言われている。太平洋戦争における軍人・軍属・民間人すべてを含む日本人戦没者の総数は310万人と推定されている。これら戦没者の実に18パーセントが無差別爆撃による犠牲者であった。
(田中利幸『空の戦争史』講談社現代新書、237-8頁)

「招爆責任」ということばは、文字通り「被爆を招いた責任」ということである。

岩松繁俊『戦争責任と核廃絶』(三一書房、1998年)特に第8章、177頁以下) から引用する。

・アメリカ人の復讐心を起こさせ、原爆投下を招いた日本側の戦争犯罪は厳然と存在するのである。われわれはそれを『日本の招爆責任』とよぶことができる(178頁)

・日本国の侵略犯罪・戦争犯罪の基本要因を省察していくと、究極的には天皇制軍国主義にいたる。/天皇の軍隊は「忠節を尽くす」のを本分とした。しかも「上官の命は朕の命」と心得なければならなかったので、軍部指導層の命令は絶対命令として、良心の呵責なく、国際法侵犯の行為をつづけることができた。さらに「生きて虜囚の辱めを受けず」の日本軍は、国際法を学ばす、敵国軍人の捕虜を侮蔑の対象にして人権を無視した。昭和天皇は「皇祖皇宗」から継承した「天壌無窮の神国」の「宝祚(ほうそ)隆昌(りゅうしょう)」を念じて、戦争終結のためには戦闘でのいくつかの勝利を条件とした。天皇は軍部からの偏見と欺瞞にみちた上奏を偏見・欺瞞と気づかず、戦略的状況を的確に把握できず、いたずらに戦争継続と戦争勝利に固執した。こうして沖縄の民衆は悲惨きわまりない犠牲を強いられ、さらに二個の原爆によって、朝鮮人・中国人・戦争捕虜をふくむ二都市の市民が無差別に虐殺された(179頁)。

・日本が被爆した理由は、日本の加害責任にある。日本の加害の根源的理由は日本人の天皇制優越思想と他民族への蔑視・支配の思想である。日本人はみずからの加害責任を反省し謝罪しなければ、アメリカの原爆投下責任を追及できない(224頁)。筆者は全く同感である。

さらに、田中利幸さんからご指摘をいただいた。天皇の招爆責任を議論するときに忘れてならないことは、米国側が原爆を使えるように、日本(天皇)が降伏を遅らせるよう画策したことです。天皇の「招爆責任」と、米国側が「天皇が招爆」するような形になるように画策したこと、すなわち日本側の「招爆責任」と米国側の「招爆画策責任」を同時に追求する必要があります。したがって、戦争の終結に原爆の使用が全く必要でなかったにもかかわらず、日米両国が「招爆」に責任があること、この厳然たる事実を明確に指摘する必要があります。これまで、この事実を指摘した歴史家は日本にも米国にもいません。

(裕仁は)「国体護持」、すなわち自分自身の身の安全確保と天皇制維持の保証を求めて降伏の時期をさらに遅らせたゆえに、広島・長崎での原爆無差別大量殺戮という悲劇を招いた。さらに、8月9日の後もなお「国体護持」の確約を連合国側、とりわけアメリカから得ようとポツダム宣言正式受諾を引き延ばしたゆえに、8月14日まで断続して米軍が行なった日本各地に空爆で多くの市民が犠牲となった。したがって、裕仁ならびに裕仁を最後まで支えた当時の日本軍指導者層と政府首脳部に原爆殺戮(ならびにその後の空爆殺戮)を誘引した重大な責任があったことは否定しがたい。

しなしながら、同時に、ソ連が対日戦を開始する前に原爆を必ず使用できるよう、日本の降伏を遅らせる画策をはかった米国政府、とりわけトルーマン大統領とバーンズ国務長官にも重大な「招爆画策責任」がある。もちろん彼ら2名とスティムソンをはじめ「マンハッタン計画」に関連したその他の多くの米政府ならびに軍関係者には核兵器製造・使用での無差別大量虐殺という「人道に対する罪」に対する最も重大な責任があるということは言うまでもないことである。(田中利幸『検証「戦後民主主義」』特に第二章「招爆責任。」と「招爆画策責任」の隠蔽-日米両国による原爆神話化132-33頁)

その上で、原爆が持つ強大な破壊力、殺傷力の魔力を政治的に利用する。

日米両国ともが原爆衝撃効果を政治的に利用し、あたかも原爆という恐ろしい新兵器が戦争終結をもたらす決定的役割を果たしたかのように装ったのである。その結果、米国は、「招爆画策責任」と20万人以上に上る無差別市民大量殺戮の犯罪性と責任を隠蔽し、他方、日本側は、原爆によってもたらされた戦争終結によって、本来あるべき姿である「平和の象徴的権威」としての「国体」を取り戻し、維持していくのだという詭弁を弄することで裕仁と日本政府の「招爆責任」と戦争責任を基本的にはうやむやにしてしまった。(田中利幸 同書161頁)

この認識に学び、今後とも天皇制を問い直していく。

(2025年8月31日 記)

 

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