「昭和100年」が喧伝される不穏な時代に

北村小夜

「昭和100年」「戦後80年」といわれると、これは全く私の一生なわけです。1925年の11月21日に生まれましたから。だから「『戦後80年』『昭和100年』を語れ」と言われると、「そうか、自分の一生をさらけ出せばいいのか」と思ったり、一時間も話す時間をいただいているので、100年間の鬱憤ばらしをしてもいいのかなと思ってもいます。

そこで話すことをずっと並べてみたわけですが、たくさん腹の立つことがありまして、一つや二つではとても収まらないんですね。どれを出しても皆さんの共感を得るものばっかりだろうと思うんですけど、それもつまんない、と思いながら、何を話したら通じるのかなと思っています。

「日の丸」「君が代」そして「教育勅語」が

100年の中で起こってきたことで、一番腹のたつ、けしからんと考えていることを思い出しますと、それはやっぱり「日の丸」「君が代」です。わたくしが生まれてから敗戦までの間、熱心に戦争してきたわけですけど、「旗」と「歌」に騙されて、私は軍国少女になりました。「旗」は「日の丸」です。「歌」は「君が代」です。戦争が終わって、これらはなくなったはずなのに、今、日本中の学校では、「日の丸」も「君が代」も、生き生きと、生きています。この100年の間で何が腹が立つかと言ったら、やっぱり、どうしてこういうことになったのか、ということです。私たちがこんなしんどい思いをしたことを、どうして平気でまたさせようというのか、っていうのが不思議でならないわけです。皆さんがそれを解決してくださるのかなと思っていますけれど(笑)。

「日の丸」「君が代」が学校の中にあることと、もう一つ不思議なことは、学校の教育の中身を見てみますと、ここのところ。道徳教育が盛んに行われていますが、その道徳教育の徳目をずっと見ると、そっくりこれは、教育勅語なんですね。表向きには、戦後に、参議院でも衆議院でも教育勅語をないことにしたわけですけれど、実際には、教育勅語は厳然として教育の現場にある、っていうことを考えておきたいと思うんです。

「日の丸」を黒く染めた風呂敷

戦争終わったときに、終わってすぐにみんなが、「平和、平和」と言い出したわけでもない。戦争でカバンも焼けました。カバンのない子は、「日の丸」を黒く染めた風呂敷に学用品を包んで持って学校に行きました。戦争が終わったときには、どこのうちにも布はほとんどありませんでした。さらしを一反買うのはとても大変でした。だけど、どこのうちにも「日の丸」はあったと思います。そのうちにあるたった一枚の布を、「旗」として使わなければなんに使うかっていうと、米袋にしたうちもありましょうし、そのまま使った方もありましょうが、多くの人が黒く染めて、風呂敷に使いましたね。わたくしの近くの子供もそうでした。黒い風呂敷を持って学校に行ったその子は、学用品を取り出したあと、恥ずかしそうにその風呂敷を机の中にしまったんです。

その時期は、そういうことをしなきゃいけなかったと思うんですけど、あなたのうちは黒く染めたけど、どうして染めたの? なんで染めなければいけなかったの? と問うこと。日本が戦争に負けたということはどういうことだっていうのは、そこでしっかり確認しておかなければいけなかったと思うんです。ともかく布(「日の丸」)があるから風呂敷にして使った。だけど、その「日の丸」が犯し続けた戦争犯罪を問うということはなかった、と思うんです。この「日の丸」一枚の処理の仕方についてもそうですけれど、負けた時にきちんと負けたことを確認しなかった。そのことの結果が、今、平気で「日の丸」が学校に翻るもとになっているんじゃないかと思います。

ですから、「戦後はやり直さなきゃいけない」と思うのです。ただ、私自身は、やり直す余裕がありませんから、それはみなさんにお任せするわけです、どうぞ、よろしくお願いします(笑)。

天皇の効き目

今日せっかくこうやってみなさん集まってらっしゃるので、どうしても聞いておきたいことがあるんです。

「日の丸」がうろうろしたり、教育勅語がそこにある。それと、やはりウロウロしてる日本国の象徴と言われる人がどうも目障りでしょうがないですね。目障りでしょうがないだけではなくて、妙な作用を起こしてますね。「朝日新聞」の記事によると、天皇が沖縄に行った時に、たまたまそれを迎えることになった人が、悩んだわけです。天皇が来る、どうやって迎えるかを考えた。その人は、こいつが戦争の最高責任者なんだ、とずっと思いながら迎えるわけです。ところが迎えて、天皇が彼の話を聞いてうなずいたとたんに、恨んでいた思いがすうっと抜けた、と言うんです。本当に抜けますかね。抜けるような気がするとしたら、大変な犯罪を犯してることになるわけですね。他人の心までも操作してしまうのだから。ひょっとしたらそういう目にあってる人、たくさんいるんじゃないでしょうかね。

戦争が終わって昭和天皇が国内巡幸をしますね。それを迎えになった方もここにいらっしゃるかもしれませんが、私自身は、たまたま福岡県の久留米市におりました。久留米市には、ブリヂストンタイヤがあります。そのブリヂストンタイヤが会社を挙げて天皇を歓迎していました。労働組合は争議中で最後まで闘うと言っていましたが、天皇の巡行間際になって争議をやめました。私はその時のことをたわいのない歌に読んだのです。「御巡幸 争議解決御巡幸 筑紫の民は血を熱くして」。私はその時はもうはっきりと天皇制に疑問を持っていましたので、「筑紫の民のお調子もんがこんなことで騒いでる」と、ふざけて詠んだつもりだった。ところが。労働組合が争議をやめたことを高く評価した人たちは、そうは思わないで、天皇を歓迎してる歌だと、仲間のちょっとした機関紙にその歌を乗せた。私はそれでとても恥ずかしい思いをしたんです。歓迎してるのではなくて、「なんだこのお調子者たちが、こんなことで」というつもりで詠んだ歌なので。それぐらい、天皇っていうのは効き目があるもんだなと思ったわけです。

日本は戦争に負けて、二度と戦争をしないと決めて、平和を目指すということをちょこちょこっとやり始めたと思っていたら、朝鮮戦争が始まるは、冷戦の時代に入るわで、どんどん私たちは揉みくちゃにされる。そうこうしているうちに、日本は、お金持ちになり、軍備が整っている国になってしまった。どうしようもない、どうしようもない、どうしようもない、って言われながら、ここに座ってるわけです。

教師の「聖職」意識--勤評闘争と「給特法」

私は戦後になって教師をやっていまして、最初の大きな闘いというのは、教師の労働にかかわる最初の大きな闘いは、勤評闘争です。勤評闘争(「勤評」)はご存知かもしれませんけど、愛媛県が財政難をどう克服するかっていう時に、まず考えついたのが、教師の給料を安くすることだったわけですね。教師の人数を減らして--出来の悪いヤツや気に食わない教員を辞めさせて、教員を減らせば財政が良くなると。それは途端に四国四県に波及しました。四国四県みんなこぞって勤評をやり始めるわけですね。これに対して本当に死を決して抗議した仲間も何人もいました。だけど、勤評はどんどん進んで行った。そのときのことを思い出すと、なぜ教師の勤評だけが目標だったのか。教師の組合である日教組にしてみれば、教師の首を守ることに懸命でした。私たちは教師でしたから、子どもの親に、盛んに勤務評定が、どんなにくだらないものか、そのために学校はどんなに害するか、ひいては子どもがどんなに被害を受けるか、というようなことを熱心に語りました。ビラも作って配りました。当時はまだ謄写版が盛んな頃で、いつも真っ黒になりながらやっていました。

今思うと、その時どうしてほかの労働組合と手を取り合わなかったのか。教師の労働は別なんだぞ、そうした意識があったように思います。そこに何か教師の思い上がりがあった。反対に子どもの親から見れば、「教師だから」「学校の先生だから」といって一目置くような思いがあったのではないか。そうした思いがずっと今も教師の働き方にあるのではないか。

『朝日新聞』の記事を資料として配りました。「給特法(教員給与特措法)」の改正に関する記事ですが、衆議院を通過したようですが、具体的なところはまだ進んでいないようです。この給特法は、要するに、学校の教師は超過勤務をしたとしても好きでやってんだから認めてやればいい、ってことで(残業代を出す代わりに基本給を)4%上乗せしたわけです。(それが成立した1971年当時)私自身は教祖の組合員でしたけど、それをありがたいとも、いやだとも、なんとも思わず、「そういうことがあるのかな」、ぐらいに思っていました。72年の1月から実施されたわけですけれども、私が勤めていました学校の1月の始業式の日に、いつも赤い自転車で何かの掛け金なんかを徴収に来る郵政労働者が、「今日から俺たちと学校の先生は身分が違うんだってさー」って怒鳴るんです。いつもその人は学校の用務員室に座り込んで、用事が済むまでいっぷくしながら、いろいろな無駄話をしている人なんです。その彼が、その日は、玄関に入るや否や、誰に言うのでもなく大きな声でそう言った。私が思うには、彼は連帯したかった、連帯を求めていたと思うんです。私はその頃はまだきちんとした労働者意識を持っていませんでしたので、何のことかその時分はわからなかったんです。今思えば、彼は彼なりに連帯を求めていたんだろうと思うんです。だけど全くそのことに気がつかず、(教員だけに上乗せされた)4%をずっともらい続けてきたわけです。

(教員には)その後いろいろな問題が起こってきます。最近では、部活なんかという、本当の教員の仕事かどうか分からないようなものを巡って、いろいろな騒動が起こってますよね。財務省と文科省が争っていますが、その中身は、「どっちが安上がりか」ということなんです。文科省の言い方、財務省の言い方も、「安上がりで教員を働かせることができるか」っていうことになってます。本当に肝心な話は出てきていません。これに関する限りはできていないですね。

一つは、教師を特別扱いにするという問題は出てこない。はじめから労働問題として考えておかなきゃいけないことなんだろうなと今になって思うわけです。今からでもいいんと思うんです。出直したらいい。職種によるそういう問題ってのは、おそらく教員以外にもたくさんあるだろうと思っています、私が知らないだけで。でも、その労働の本質みたいなところと、その調整をしなきゃいけないところというのは、もっときちんと分けて、整理していいだろうと思っています。

「給特法」が問題になったっていうことについて言えば、労働に上下があるっていうんでしょうかね。自分が教師やってたのにとても言える言葉じゃないですけど、先生の仕事は少し神聖なものだと思われているのではないでしょうか。「先生が言うんだから本当だよ」って、そんなことないですね(笑)。それが一番間違ってたわけだけど、やっぱり「先生が言うからそうしよう」っていうことは、日本社会の中にはあったと思うし、今もあるかもしれませんね。「神聖の人だから、過重な労働であっても4%で我慢するだろう、我慢しなきゃ教師じゃないよ」っていう。ところがそれは、外側からの押し付けではなくて、ひょっとしたら教師自身にもあったと思うんです。「教師だから我慢しよう」って。

私自身にもあります。長年教師をやってるといろいろあるわけです。初めの頃は、まだ子どもがやっと疎開から帰ってきたという時期で、何をやっても、子どもにも親にも喜ばれる時期でした。学校が楽しい。でも少し時間が経つと、「あーもう学校に行くのが嫌」という時期もありました。それは、命をかけていかなきゃいけない、という状態の時期もあったのです。中には防弾チョッキを抱えてくる教師もいました。実際にそんなバカな奴が居たんです、いい先生でしたけど。そういういろいろなことがあるんです。だけど、そうありながら、非常に苦労の多い時に、もうこれは私の手に負えないかなと思った時でも、「教師なんだから」、「たまたま選ばれてこの子の担任になったんだから」と思い、「ここは頑張ってみよう」と、余計な頑張りをしたことがたくさんあります。そういうものが、教師の労働を特別な神聖なものというようなことにして、4%で我慢させることを受け入れてきたのでないでしょうか。もちろん我慢しない人もいたわけですが。

そういう労働の中身みたいなものについて、どう考えていくのかっていうのは、これももう私では間に合わないと思いますので、皆さんで考えていただきたいと思うんです。

現在に生きる「教育勅語」

1930年(昭和5年)に文部省図書局が「教育に関する勅語の全文通釈」を公表しています(資料1)。今、靖国神社に行くと、教育勅語にはこんなことが書いてあるんだってことで現代訳を配っていますが、おそらく何の意味もないこと--親孝行しろ、兄弟仲良くしろということしか書いてありません。だけど、本当に書いてあることはこういうことだっていうことは、この「全文通釈」でわかると思うんです。

ここ「全文通釈」の冒頭に「朕がおもうに、我がご祖先の方々が国をはじめになったことは、極めて広遠であり、徳をお立てになったことは、極めて深く厚くあわせられ」とあります。そして「国中のすべての者が皆心を一つにして代々美風を作り上げてきた」と書いてあります。「朕がおもうに」と書いてありますが、誰が本気で聞いてますかね。誰も本気で聞いていないんじゃないでしょうか。もしかしたら本気で聞いてる人がいるから、今も守られてるのかもしれませんけどね(笑)。その先の「神勅」のところに、傍線を引いています。この線は私が引いたんで、原文にはありません。

「万一危急の大事が起こったならば、大義にもとづいて勇気をふるい、一心を捧げて皇室国家のためにつくせ」と書いてあって、その後に「こうして神勅のままに天地と共に……」とあるのですが、今、「神勅」ってなんのことかわかりますか。辞書には何てのってますかね。「神様のお告げ」ですか? でもそこらへんにいる神様じゃないですね、この神様は。

「神勅」とは、「豊葦原千五稲秋(とよあしはらちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国はこれ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり 爾(なんじ)皇孫就きて治(し)らせ 宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと当(まさ)に天壌(あめつき)の窮(きわ)まりなかるべし」で、これが国の基になる言葉であると強調しているわけです。

じっと見てると、教育勅語には充分にそのことが現れているわけです。この私の説明でわかりにくいかもしれませんけど、そのことが、今、教科化された道徳の基本となる徳目をずらっとそこ(資料2)に並べておきましたが、これが全く教育勅語の基準を引き継いだものであるってことは、しんどいかもしれませんが、お分かりいただけると思うんです。よく「神勅」を読んでらっしゃる人にはすごいスムーズに通じるかもしれませんけど、「神勅が何か?」みたいな世間で暮らしたことのない人にはちょっと遠いように見えますけれど、お分かりいただけるんじゃないかと思うんです。

この辺が強調されて、今、学校の教室の中にあるっていうことを私たちは考えておかなきゃいけないだろう。今、世の中はどうなっているか。物が高いとか問題は色々あるけれど、一番私が心配するのは、学校の中でこういうことが起こってる、それもかなり先走って行われてるっていうことについてです。こうしたことをどうするかを考えていただきたい。

そのことに比べれば、なんとまあ、文科省と財務省のやりとりなんかたわいないものです。どうすればお金が安く済むかっていうことだけしか考えてない。もうちょっと教育の問題は別に考えなければいけないだろうと思います。

私の受けてきた、「『旗』と『歌』による愛国心」というのはどっかにやっぱり残っているんだろうと思うんです。きちんと払拭できていない。今改めてその愛国心を払拭しなければいけないと思っている時期に、こうして学校の中では平気にそれが生きて守られている。今日の課題は、たぶん、そことの闘いだろうと思うんです。その問題を考えたときに、どうしても、今起こってること、今、現に教師の中にある問題について、単に「給特法」の問題としては考えられないと思うんです。

教育勅語が「現に今生きている」というふうに言いましたけれど、教育勅語が作られた時のことも考えておかなきゃいけないだろうと思うんです。明治時代に学校ができて、憲法もできて、西洋風の学び方も政治の仕方も整ってくるわけですけど、そうした整ってきた中で教育をどう考えるか。考えついた一つは、西洋風の、西洋と言っても一括りはできないと思うんですけど、人間の倫理みたいなもの、基本的に人間として備えるべきもの、そうしたものは、西洋の場合はかなりの部分で、宗教(教会)に依拠されていたように思います。

日本の場合はどうだったでしょうか。かなり前までは仏教がそうした役割を担っていたと思うんですけど、廃仏毀釈みたいなものが色々あって、そこら辺が整理され、仏教そのものが出直しの時期でもあったと思うんですけれど、そうした宗教の力のあまりない時に、西洋の学び方を学んだ人達は、どちらかというと、個人の良心を国が決めるわけにはいかない、と立てるわけです。読み書きそろばんをしっかり勉強することで、自然とその人の倫理も身につくんだ、というような考え方だった。だから特別に、先にこうあらねばならないってことは、示してはいなかった。

そこに明治天皇の側近の元田永孚が出てきて、「教育の本」を立てなくてはいけない、と言う。そこでかなり激しく論争が続いたようですが、結果的に儒教的な彼らが勝って、日本の学問の前には、基本的な理念として「神勅」を置くということが決まってしまうわけですね。それがいまだに続いている。それを何とかして復帰させようと狙う(願う)人たちがいて、教育勅語そのものの復活はできないまでも、中身の復活が、もうそこに現れてきてるような気がします。当分その事態に達する自覚と闘いは覚悟しなければいけないだろうと思っています。このことを特に話したかったわけです。

私が教師になったときから、始めにまずクラス(学級)を作って、クラスごとに軍隊と同じような組織でもって、国民を育てていく形をとっていたわけです。これは諸外国を見てもないスタイルですよね。どこの国の学校に行ってもクラスがあったとしても、それはただ受付みたいな場所であって、実態としてそれが機能するってことはほとんどないと思うんです。日本の場合には、学級担任になったら、クラスの子の家庭の事情も含めて何から何まで知って面倒をみることが、良いこととして、慣習として、持ち続けられてきてるわけです。そのことと今日の関係を振り返ってみると、日本の教育っていうのはできた時とあんまり変わってないんですね。

戦後すぐでしたけど、私が関わっていた子どもの家族がオーストラリアに行って、オーストラリアの学校を見てびっくりして、お母さんが『号令のない学校:オーストラリアの教育感覚』という本を書いて大変話題になりました。みんな喜びました。学校というのは号令で動いてたわけですから、「号令のない学校」っていうので大変驚いて、それで大変売れました。

そういう意味では、私たちと一緒に勤評闘争を闘って、死を持って東京都の教育委員会に抗議をした尾崎正教という人がいました。彼は自殺抗議をし損なって、少し遅れて亡くなるんですけど、彼は死ぬ前に、『わたくし学校』という本を書いています。その本で、日本の学校は軍隊であるから、軍隊でない「わたくし学校」を作ろうということを提起しました。誰も取り上げないうちに、もう絶版になってしまった小さな本なんですけどね。時々稀に、そういうことを考える人はいたわけですけれど、大方はそういうことを考えることなしに、ずっと明治の初めから進んできてしまった。

その結果として、子どもたちを競わせることになってしまってるわけです。子どもだけではなくて教師を競わせます。勤評と同時期に学力テストが実施されます。学力テストで、子ども同士を競わせる。クラス同士を合わせる。学校同士を合わせ、先生同士を合わせる。競わせるっていうのは成果が上がるもんなんですね。

そのことがもたらしたものは今どうか。子どもの今起こっている反乱、反乱ということじゃないように思いますが。学校に来ない子どももやっぱり一つの反乱だと思うんです、私たちがかつて受けた反乱というのは、もうちょっと実力のあるものでしたけれど。実に今の子どもの反乱というのはたわいなく、情けなく思うんですけどね。そういう世の中になってるだろうと思います。だから何も教育だけでなく、やっぱり全てのものを見直す時であろうと思うんです。

で、見直すについてはやっぱり私の自分の反省としては、敗戦の時期にきちんとしなければいけなかった反省を、怠ってきた。ちゃんと負けなかった。その分、今がとても大変になっているのだろうと思うんです。

戦争絵画の公開を求める

いろんなところで、その戦争中にしたことの反省は行なわれていますけれど、例えば、竹橋あります東京近代美術館、そこには地下に153点の戦争画が保管されています。これは日本が戦争に負けた時に、「戦争のプロパガンダであった」ということで、アメリカが全国から集めて、アメリカに持って帰ってしまったものです。ただ集め方は非常にいい加減だったので、集めきれていないものもたくさんあるんですけれど。全国から153点戦争画を集めて、アメリカに持って行った。持って行って一回りしたところで、「大したことはない」と思ったのかどうか、日本に返してよこした。それも、果たして戦利品としてなのか、賠償金としてなのか、所有権はアメリカのままで、「永久貸与」という形で返してよこしたわけです。

私たちは、いく人かの人たちと企んで、その153点を公開しろっていう運動をしたんです。だけど、公開は果たしてません。ずっと続けていますが果たしていません。最近になって、若い絵描きたちの力もあって、ポツリポツリと公開されています。この夏行われている企画(「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ:2025.7.15 – 10.26」)は、今までにない20点の戦争絵画を公開しているようです。でも、153点そのものと美術館が選んだ20点というのは違います。20点は、見せやすいものを選んだのでしょう。そうすると、たぶん、「これは戦争の士気を上がらせるためじゃないよね。素直な反戦の思いがあるよね」っていう人だっているかもしれない。

本来の、アメリカがかっぱらって持って行った行動に比べたら、なんとなく心もとない感じがします。私はやはり20点じゃなくて、50点でもなくて、153点すべてを公開しろ、ということを言い続けるつもりです。そのことによって少しはわかるものもあるだろうと思います。また、公の美術館っていうもののあり方も問いたい。今の近代美術館のやり方っていうのは、やっぱり。美術館としての戦争責任を問われたくない、逃れたい、自分たちは公平であった、とでも言いたいことの表れでないかと思うのです。ついでがあったら観に行って、ついでに「全部を見せて」と言う、こういう運動をぜひ広めて欲しいと思っています。

おそらく、美術に限らず、国の姿勢として、似たようなことはたくさんあると思うんですが、それぞれのところで一つ一つ。対処していけたらな、というふうに思います。

このようなことをだらだらと言っていてもキリがないと思うんで、ここでお終いにします。

*これは、今年(2025年)8月11日に開催された集会「『戦後80年』『昭和100年』を問う」(於:南部労政会館、主催:国家・天皇による「慰霊・追悼」を許すな! 8.15反「靖国」行動)での講演の記録を編集部が文章にまとめたものです。文責は編集部にあります。

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