池田五律(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)
I 皇室総がかり“慰霊の旅”
天皇ナルヒト・皇后マサコが「戦後80年 慰霊(祈り)の旅」を行っている。見てきたわけではないから真偽はわかんらないが、上皇アキヒト・上皇后ミチコが、沖縄・慰霊の日に際して、仙洞御所で黙とうしたと報じられている(2025・6・23)。秋篠宮家もフル稼働だ。「東京大空襲から79年 慰霊法要に秋篠宮参列(2024年3月10日)」、「悠仁 終戦後の歴史など伝える「舞鶴引揚記念館」を訪問(2025年2月12日)」、「秋篠一家、被爆80年企画展「ヒロシマ1945」in東京都写真美術館見学(2025年7月11日)」といった具合だ。フミヒト・キコは、7月23日にインターハイ出席のために広島訪問した際にも、原爆慰霊碑に供花している。“皇室総がり“で“慰霊の旅”は展開されているのだ。
II アキヒト“慰霊の旅”の出発点(1994年)・硫黄島
“慰霊の旅”を始めたのは、アキヒトだ。その出発点となったのは、1994年の硫黄島への“慰霊の旅”である。
硫黄島民は太平洋戦争末期に強制疎開させられ、未だ帰還できていない。那須に入植するなどして戦後も苦しい生活を送った人も多い。徴用され硫黄島での激戦の中で戦死傷した島民もいる(戦死者82名)。
現在は海上自衛隊硫黄島航空基地隊」と「航空自衛隊硫黄島基地隊」しかいなく、日米合同演習などに使用されている。硫黄島は、今も住民を追い出した軍事要塞のままなのだ。
硫黄島には、三つの慰霊碑がある。
硫黄島戦没者の碑(天山慰霊碑)1971年、政府建立、日本兵士の慰霊碑
硫黄島島民平和祈念墓地公園1990年、小笠原村建立、徴用され戦死した島民の慰霊碑
鎮魂の丘1983年、東京都建立 日米両軍兵士及び徴用されて戦死した島民の慰霊碑
鎮魂の丘の慰霊碑の由来文には、こうある。
この島を舞台に日米両国は激しい死闘を演じた。死守を誓った日本軍二万余、島民数十名、おおむね空しく、上陸を決行した米軍の戦死者七千を加えて、計三万が戦いに果て、島は巨大な墳墓と化した。・・・東京都知事鈴木俊一は、彼等の無韻の慟哭を心に聞き、その慰撫鎮魂と明日への平和祈念のため、この地に建碑のことを発願した。
III 日米合同慰霊祭 in 硫黄島・鎮魂の丘(3月29日) 日米安保型慰霊
1)石破・ヘグセス参列の日米合同慰霊祭
鎮魂の丘では、日米合同慰霊祭が行われている。今年は、「戦後80年」ということで、石破首相、ヘグセス米国防長官も参列した。石破首相は、慰霊祭で、以下のように述べた。
祖国を思い、家族や大切な人々を案じつつこの地で亡くなった方々を思うとき悲痛の思いが込み上げてくる。歴史に真摯に向き合いながら悲痛な戦争体験を世代を超えて語り継いでいく努力を続けていかねばならない。/かつて戦火を交えた日米は和解を果たして関係を深め、信頼し合える同盟国となり、インド太平洋地域の平和と繁栄の礎となっている。平和への誓いを新たにし、日米同盟を新たな高みに引き上げていく
ヘグセスも、「同盟への信念・信頼、平和誓う」発言をした。そして翌30日の記者会見では、「在日米軍の新司令部、地域の危機で初動指揮へ」向けて「自衛隊と緊密に連携」することを表明。石破首相とも面会して、南西諸島における日米のプレゼンス強化で一致した。
2)アメリカの公共の記憶と日米共同作戦に向けた精神統一
アメリカは、どういう論理でこの日米合同慰霊祭を位置づけているのだろうか。『鎮魂と祝祭のアメリカ』(ジョン・ボドナー著、野村達朗ら訳、青木書店、1997年)に以下のような一節がある。
南部人は文学や教育や公的記念行事において「失われた大義」と呼ばれる一連の記憶をつくりあげるために、1880年代までに膨大な労力を注ぎこみはじめたのである。この解釈によれば、南北戦争で南軍兵士は勇敢に戦い、ただ数の点でのみ北軍に敗れたとされる。南部人は、崇高な大義を抱いて戦ったのであって、何ら恥じる理由はない。実際、ロバート・E・リーなどの指導者は、戦後には抵抗の継続ではなく、南北間の和解を説き、国民国家にとっての愛国者とみなされたのである。/‥‥このように南部を免罪し、成長しつつある国民経済に再び組み込むためには、戦没者への嘆きや悲しみを中心とした記念行事に力点を置くのではなく、むしろそれとは反対に、あくまで南部人としての自尊心を保ちつつも、再統合を促進するような記憶の育成が求められたのである。
ここで言う「南部」とは南北戦争で敗北したアメリカ南部のことだ。この「南部」を「日本」に置き換えてみよう。日本兵は「崇高な大義」を信じて勇敢に戦ったのだから恥じる必要はなく、戦後、日米の「和解」を説いた指導者は愛国者であり、一方、アメリカは日本を免罪し、アメリカを中心とした世界秩序に組み込んだというわけだ。ただし、「再統合」、即ち日米の「和解」の促進に反するような「記憶」は認めない。
この場合の「大義」とは何だろう。「愛国」ならアメリカもOKだ。しかし、「東洋平和」、「東亜新秩序」であれば、アメリカは受け入れないのではないか。そうではない。それらを英米中心の世界秩序に対する「現状打破」を目指す「違法な侵略戦争」を正当化するために使用し、その誤った戦争に導いた一部の指導者、即ちA級戦犯が悪いのだ。だから、A級戦犯をも肯定する「記憶」は、「和解」に反するので認めない。しかし、米英と共に「東洋平和」のための「東亜新秩序」を築くのであればよい。今日的に言えば、「インド太平洋地域の平和と繁栄」ならばOKということである。
もう一カ所、紹介しよう。
アイゼンハワーは、〔グラントとリーを讃える〕記念式典へのメッセージのなかで、この式典は南北戦争で示された「英雄主義と自己犠牲」を讃える機会をすべての市民に提供するものだと主張した。これらの資質が、「長年にわたって育まれ、発展してきた国家の精神的統一」を維持するうえで必要だとアイゼンハワーは示唆したのであった」
硫黄島での日米合同慰霊祭は、日米両兵士を「英雄主義と自己犠牲」で戦った者として讃え合うことで両国の「和解」を演出し、「インド太平洋地域の平和と繁栄」のための日米共同作戦で日米両兵士に「英雄主義と自己犠牲」を発揮させる「精神統一」に向けたイデオロギー装置というわけだ。
4)日米安保型慰霊と靖國
こうした「慰霊」は、A級戦犯を合祀した“靖國型慰霊”とは一線を画した日米共同作戦に向けた“日米安保型慰霊”と言えよう。
ナショナリズムという観点では「反米ナショナリズム」否定される。それとは異なる「自尊心」を持たせるナショナリズムが求められる。練馬での学習会の際、この“日米安保型慰霊”の話をしたところ、参加者が“「大リーグで活躍する大谷翔平」型ナショナリズム”につながるという指摘をした。言い得て妙である。
だが、“アメリカ軍主導の共同作戦で活躍する自衛隊”という「自尊心」を掻き立てられただけで、殺し殺される修羅場に
IV ナルヒトの硫黄島慰霊の旅(4月7日)
1)慰霊から慰問へ
ナルヒト天皇は、日米合同慰霊祭の十日程の後の4月7日に、運用を自衛隊が担い、乗務員も自衛隊員である政府専用機で、自衛隊しかいない硫黄島を訪問し、海自航空基地では自衛隊員に迎えられた。これは“慰霊”でなく“慰問”ではないか。
2)天皇の権威とその強化
小笠原村の渋谷正昭村長、池田望村議会議長、東京都福祉局の高崎秀之局長、伊原和人厚生労働事務次官らも出迎えた。基地内で、小池百合子知事、小笠原村の渋谷村長らから硫黄島の概要について説明を受けた。自治体首長、自治体議会議長、自治体幹部職員が出迎えや説明のために何処へでも赴くことが“当たり前化”しているのだ。それ自体が天皇の権威を示し、さらにそれを“当たり前化”することになる。
3)念のいった“慰霊”が生み出す加害者に被害者が感謝する転倒
元島民二世らも、天山慰霊碑、鎮魂の丘の二か所で、ナルヒト・マサコを出迎えた。その二か所に加え、黄島島民平和祈念墓地公園でもナルヒト・マサコは「拝礼」を行った。日本兵、徴用者の“慰霊”は、天皇固有の対内的役割ということだ。
ちなみに、硫黄島島民平和祈念墓地公園慰霊は、ナルヒトが初だ。アキヒトは訪れていない。徴用されて戦没した人々も“慰霊”する念の入れようだ。ただし、アキヒトは、2005年に那須千振開拓地に“慰霊の旅”を行っている。いずれナルヒトも、同開拓地も訪れるかもしれない(注:ナルヒトは8月26日に那須御用邸で入植元島民と面会した)。ここまで念を入れて“慰霊”をするのはどうしてなのか。
硫黄島での戦没者遺族らでつくる「硫黄島協会」会長の寺本鉄朗さん(80)は、ナルヒトから「だいぶ苦労したんですね」との言葉を掛けられたといい、記者団の取材に「ここまで来ていただいただけでもありがたい」と語ったと報じられている。「硫黄島遺族会」事務局長代理の志村高子さん(63)は「皇室で慰霊の気持ちを受け継いでくださっていることに改めて感謝したい」と話したとも言う(時事通信4月8日)。
被害者が加害者を出迎え、加害者に対する感謝の念を抱かせる。この転倒を生み出すことが念の入った“慰霊の旅”の目的なのだ。この役割は、沖縄、広島、長崎、モンゴル、全てに当てはまる。国体護持のために戦争を続けなければ、沖縄戦も原爆投下もシベリア抑留もなかったのだが、その加害を無化してしまうのだ。
4)アキヒトの遺志を継ぐ「平和天皇・ナルヒト」の演出
硫黄島帰島促進協議会会長で徴用された伯父2人を亡くした麻生憲司さん(61)は語る。
陛下も私も戦争を知らない世代、戦後の世代です。陛下が戦争という過去の歴史を残していかなければいけない、そういう思いでおられるわけですから、陛下が(硫黄島に)行かれることに関して非常にいいことだと思うし、上皇さまのお気持ちをつないでいるんだなと、よくわかりましたね(日テレニュース、4月8日)
ナルヒトは、硫黄島訪問で、アキヒトの遺志を継ぐ「平和天皇」であることも演出したのだ。
V ナルヒト沖縄慰霊の旅(6月4日~5日)
1)アキヒトの意思を継ぎ象徴天皇制国家への沖縄(再)統合を組織化・可視化する
次いでナルヒト・マサコは6月4日から5日、沖縄を訪問した。日程は、以下。
6月4日 国立沖縄戦没者墓苑、平和の礎、沖縄県平和祈念資料館
・宿泊先のホテル隣の公園で行われた提灯奉迎に集まった約5千人 「お出まし」 一緒に提灯を振る
・日本会議などによる実行委員会方式。連絡先は沖縄神社
6月5日 小桜の塔、対馬丸記念館
国営沖縄記念公園首里城地区 沖縄国際海洋博覧会50周年記念事業の企画展観覧
ちなみに、沖縄海洋博の名誉総裁は皇太子アキヒトだった。その際の訪沖で、ひめゆりの塔で抗議の火炎瓶投擲された。その夜、「この地に長く心を寄せ続けていく」と談話で決意表明をした。
この日程からも分かるように、アキヒトの意思を継ぎ象徴天皇制国家への沖縄(再)統合を組織化・可視化するのが沖縄への“慰霊の旅”の目的だったと言えよう。
2)現代版の国見
なお、玉城デニー知事は二日間、天皇に随行した。行く先々で交通規制が敷かれ、それだけでも迷惑至極なのだが、玉城知事は「80年の節目で平和に対する深い思いを一層共有していただけたと思う」と意義を語った(沖縄タイムス6月6日)。知事の随行は“慰霊の旅”の“旅”とは現代版の国見であることを物語っている。さしずめ、案内する都道府県知事は国造ということか。
3)愛子売り出し
玉城知事は、「愛子さまが両陛下の強い意向で初めて沖縄を訪れ、同年代の沖縄戦の語り部らと懇談したことに触れ「若い世代で語り合う中で紡ぐ、平和への道のりを確かなものにしていただきたい」と期待感を示した」とも報じられている(同前)。
今回の“慰霊の旅”の特徴は、この“愛子売り出し”だ。
その巧妙な仕掛けで重要な役割を果たしたのが豆記者である。NHKは以下のように報じている(6月4日)。
宿泊先の那覇市内のホテルに到着し、夏休みに記者の仕事を体験する「豆記者」としてかつて東京に派遣された大学生や高校生などの出迎えを受ける。「豆記者」は、沖縄の本土復帰前の1962年に、沖縄と本土の小中学生の交流を目的として始まり、「昭和」の時代は上皇夫妻が、「平成」の時代は天皇皇后が、それぞれ皇太子夫妻として交流。4日夜出迎えた8人の中には、2016年に赤坂御用地に招かれ現天皇・皇后や当時中学生だった愛子とバレーボールをした学生もいた。このうち、大学生の金城若葉さん(22)は、「覚えていてくれたことがすごくうれしかったです。愛子さまは今もバレーボールがお好きで、『またしたいですね』と話されていたことが印象に残っています。沖縄のことを思って豆記者との交流を長年続けてくれていることをありがたく思うとともに、私たちも皇室のことを知りたいし、沖縄のことを伝えたいです」。
愛子売り出しは、「平和天皇」継承という演出と共に展開されている。毎日新聞(6月5日)は、以下のように報じている。
侍従を通じ、「沖縄戦で亡くなられた方々や戦争によって苦難の道を歩まざるをえなかった方々に思いを寄せ、平和の尊さを心に刻み、平和への願いを新たにしていきたい」との感想を公表。「愛子も、苦難の道を歩んできた人々の歴史を深く心に刻んでいました」と明かす。
VI ナルヒト広島慰霊の旅(6月19日~20日)
1)奉迎の公式行事化
同じく6月、ナルヒト・マサコは広島への“慰霊の旅”を行った(19日~20日)。日程は以下。
19日に特別機で広島空港に到着したあと、午後、広島市の平和公園を訪ね、原爆慰霊碑に花を供えて犠牲者の慰霊。公園内に3年前に新たに設けられた被爆遺構の展示施設を視察したあと、原爆資料館でリニューアルされた展示を見て被爆者などと懇談。翌日は、市内の原爆養護ホームを訪問して被爆者と懇談するほか、これに先立って、11年前の集中豪雨による土砂災害で大きな被害を受けた安佐南区を訪ね、土石流に備えて整備された砂防えん堤や豪雨災害伝承館の展示を見るなどして、復興状況について説明を受けた。
19日夜には、「奉迎提灯行列」が行われた。主催は奉迎広島県委員会。委員会の副会長は「日本会議広島」の会長、委員会の連絡先住所や電話番号は日本会議広島事務局と同じ。沖縄でも「奉迎提灯行列」が行われたが、広島が異様だったのは、名誉会長を清水英彦・広島県知事、会長を池田晃治・広島県商工会議所連合会会長が務め、後援:広島県、広島市、広島市教育委員会が後援したことである。広島での「奉迎」は、<“草の根右翼”による「奉迎」>から<“官製”の「奉迎」>へと「奉迎」が公式行事化される画期として後世に語り継がれるかもしれない。象徴天皇は象徴天皇制国家の最高権威なのだから、その「奉迎」は「公的」なものであり、その「公的行事」に参加するのが“当たり前”であって、それに「不平不満を言う輩は反社」ということになりかねない。それは「不逞の輩」の排除と表裏一体である。
そうしたことが引き起こす問題を端的に示す事態も起きた。不手際を認めて撤回したが、不必要であるのに、広島県と広島市が天皇皇后を「授業でお出迎え」する児童の名簿提出を小学校に求めたのだ。このことは、「お出迎え」する者の「名簿提出」は“当たり前”という象徴天皇に対する権威主義的服従が浸透しているかを物語っている。
2)愛子天皇しかない⁉
ナルヒト・マサコは、広島にも愛子を帯同した。
神道学者で皇室研究者の高森明勅は、「天皇皇后両陛下の広島訪問ではっきりした」と言う(PRESIDENT Online、6月29日)。その持ち上げ方はすごい。
敬宮殿下は戦後70年にあたる平成27年(2015年)、当時は中学2年生でいらっしゃったが、すでに広島に目を向けておられた。夏休みの宿題で戦争に関する新聞記事を集められた時に、広島への原爆投下からわずか4日目に、人手不足のために路面電車の運転を任されていた女子学生たちによって、早くも運行が再開された記事も採集されていたのだ。/このことについては、上皇后陛下が同年のお誕生日に際しての文書回答の中で、次のように述べておられた。/「若い人たちが過去の戦争の悲惨さを知ることは大切ですが、私は愛子が、悲しみの現場に、小さくとも人々の心を希望に向ける何らかの動きがあったという記事に心を留めたことを、嬉しく思いました」/これも、将来の「国民統合の象徴」たるべき方にふさわしい心の持ち方だろう。/さらに、戦没者を追悼するために、毎年、「沖縄県慰霊の日」の6月23日、「広島原爆投下の日」の8月6日など“4つの日”(他は長崎原爆投下の日の8月9日、終戦記念日の8月15日)に、天皇皇后両陛下とともに黙禱を続けておられる事実が発表されているのは、令和の皇室では上皇上皇后両陛下を除くと、敬宮殿下だけだ。
3)「3代にわたって引き継がれた広島への思い」の継承者=愛子
以上の文章の中見出しは、「愛子さまこそ次代の「思い」の継承者」。その「思い」とは、「3代にわたって引き継がれた広島への思い」だ。その初代はヒロヒト。高森は、ヒロヒトが1947年12月5日から8日にかけて、広島市・呉市・三原市・尾道市・福山市をめぐった「戦後巡幸」の際の広島訪問(7日)に行われた「奉迎」の模様を前掲と同じ論考で描いている。「昭和天皇を広島で数万人が奉迎」との中見出しがついた文章は以下だ。
元護国神社前の広場に設けられた奉迎場の後方には、無惨にも廃墟になった元広島県産業奨励館(原爆ドーム)が見える。その前におびただしい数の人々が詰めかけていた。当時の「読売新聞」では5万人、「中国新聞」では7万人が集まったと報じられていた。驚くほどの人数だった。/ここで昭和天皇は、マイクを通して次のように呼びかけておられた。/「熱心な歓迎を嬉しく思う。広島市民の復興の努力のあとをみて満足に思う。皆の受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない」/この場に集まった人々は、「君が代」の斉唱で昭和天皇をお迎えし、おことばの後には「万歳」を繰り返した。
ここに立ち現れたヒロヒトは、現人神でも大元帥でもない。戦災、広島に即せば原爆に被爆した人々に「同情」し、「世界の平和」に「貢献」することを呼びかける「平和天皇」を演じている。一方、被害者である人々が、加害者を「奉迎」し、加害者に感謝している。この転倒の仕掛けが既に「戦後巡幸」で作られていたのだ。そして、「戦後巡幸」を通して、「人間宣言」の言う「相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ」た「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯」を再創造されていった。それがヒロヒト、アキヒト、ナルヒト三代、そして愛子へと「継承」されていくというわけだ。
4)“昭和100年”賛美と日米安保型(象徴)天皇制
ヒロヒトも「平和天皇」だとしたら、その即位以降の“昭和100年”も賛美の対象になる。この歴史認識は、戦争責任はA級戦犯に負わせ、天皇ヒロヒトの戦争責任を免罪することで成り立つ。A級戦犯処罰・天皇免罪を通して、占領統治に役立つ天皇制が日米合作で創り出された。それが象徴天皇制である。それは冷戦に対応した日米安保とも整合する。硫黄島での日米合同慰霊祭が日米安保型慰霊であるだけでなく、象徴天皇制自体が日米安保型天皇制だということだ。
VII 長崎訪問(9月) 国民文化祭に際して
1)国民文化祭、国民体育大会と連動させる手法
長崎には国民文化祭に合せて9月に訪問することになっているので、本稿執筆段階では実際の日程は分からない。アキヒトは、2014年10月11日~10月12日に、「第69回国民体育大会臨場」と合せて長崎への“慰霊の旅”を行っている。その日程は、以下であった。
10月11日(土)
挨拶・歓談 長崎県知事,県議会議長,県警察本部長 長崎県営野球場(長崎市)
長崎県知事より県勢概要聴取(長崎県営野球場(長崎市))
供花(平和公園(長崎市))
訪問(恵の丘長崎原爆ホーム(長崎市))
提灯奉迎に応える(諫早観光ホテル道具屋(諫早市))
10月12日(日)
視察(諫早市美術・歴史館(諫早市))
昼食会主催(文部科学大臣,国民体育大会会長始め大会関係者)(諫早市役所)
観覧(式典前演技),臨席(第69回国民体育大会総合開会式)
歓談(長崎県知事,県議会議長,県警察本部長)(長崎空港(大村市))
2)「食し(おし)・聞し召す」=「治める」と“天皇の警察”
“慰霊”による被害者の加害者への感謝という転倒だけでない問題点を、この例に即して指摘しておきたい。
「昼食会」や「聴取」は、古代で言えば「食し(おし)、「聞し召す」ことに当たる。両方とも「治める」という意味を持つ。即ち、「行幸」に際して会食したり、説明を受ける行為は、「統治者」であることを象徴的に示す行為だということだ。
アキヒトの“慰霊の旅”の際には、歓談対象に必ず訪問先の警察本部長が入っていた。練馬での学習会の際、参加者から「いつも警察本部長が入っているのか? 何で? ビックリした」と言われ、その意味を考えさせられた。異論もあるが、地方自治体は首長と議会の二元代表制だというのが通説だ。警察本部長は、地方の代表ではない。警備担当者だからだとしか考えられない。天皇・皇族の行く先々で、広範な交通規制を行い、野宿者や精神障害者が排除され、重警備体制が敷かれる。物理的な「治める」力は治安機関だ。それを担う警察本部長を労うというわけだ。ここに見られるのは、戦前の内務省を彷彿させる“天皇の警察”の姿だ。
VIII モンゴル訪問(6日~13日)
1)政府専用機海外派兵
ナルヒト・マサコは、7月6日~13日、モンゴルにも“慰霊の旅”を行った。ナルヒト自身は皇太子時代の2007年にも訪問しているが、天皇の訪問は、歴代天皇初となる。これも自衛隊が運営し自衛隊員が乗務する政府専用機で行き来した。その点で言えば、政府専用機海外派兵でもあった。日程は以下であった。
7月7日 チンギス・ハーン国立博物館視察、ウランバートル市上下水道公社本部視察
7月8日 歓迎式典、モンゴル出身の元横綱3人も出席 モンゴル大統領及び夫人と会見 晩餐会
日本人死亡者慰霊碑(モンゴル)で供花・黙礼 抑留死家族にも声掛け
7月9日 モンゴルコーセン技術カレッジ、ウランバートル市第149番学校、モンゴル日本病院訪問
在留邦人代表に接見
7月10日 新モンゴル学園訪問、ガンダン寺視察
7月11日 スポーツ祭典「ナーダム」開会式に出席
7月12日 ホスタイ国立公園訪問
7月13日 政府専用機で帰国
2)シベリア抑留とハルハ河戦争
シベリア抑留志望者慰霊碑は、2000年から2014年にかけて16カ所、内14カ所がロシア連邦、1カ所がウズベキスタン、1カ所がジョージア、1カ所がモンゴルに建てられている。
慰霊碑は建てても、ゴルバチョフ・ソ連大統領来日時に締結された日ソ間の協定に基づき抑留者の名簿が提出されているにもかかわらず、日本政府は抑留者に対する給与補償を行っていない。
モンゴルにはシベリア抑留者1万4千人が移送された。その背景には、1945年8月10日にモンゴルは対日宣戦布告をしているということがある。モンゴルからすれば、さらに遡る理由があった。1939年のいわゆるノモンハン事件だ。それは、モンゴルからすれば、侵略してきた日本軍
・満州国軍とそれを阻むソ連・モンゴル人民共和国軍との戦争であり、「ハルハ河戦争」と呼ばれてきた。
ナルヒトのモンゴル訪問は、こうした日本の対モンゴル戦争を「清算」する皇室外交だとも言える。
ナルヒトは、訪問後に述べた感想で「モンゴル赤十字社の方々などが慰霊碑を大切に維持管理して頂いていることを有り難く思いました」と述べている。対モンゴル戦争の責任「精算」のパフォーマンスだ。
3)元横綱・在留邦人と会う意味
天皇杯を授与している「国技」である相撲のモンゴル出身元横綱が歓迎式典に出席していることも意味深長だ。旧軍は「満蒙」の「独立」を画策した。旧モンゴル王族などの青年を日本の陸軍士官学校などに入学させ、天皇制を戴く日本文化に馴染ませ、親日的な「独立の担い手」に育てようと試みた。元横綱は、その現代版の親日モンゴル有力者とも言えなくない。そうした親日人士と天皇が親しく接すると言うことは、彼らを権威付けるとともに、天皇の権威を示すことにもなる。なお、日本への留学体験者などと会うのは、海外への「皇室外交」の常だ。
在留邦人とも会うのも常だ。今回も、在留邦人と会っている。皇室外交には、海外在留「日本人」をも象徴天皇制国家の統合の下につなぎとめるという役割もあることも忘れてはならない。
4)海外慰霊
だが、何んと言ってもモンゴル抑留中死亡者(概数:1,700名)の“慰霊”が最も重要な行為である。
モンゴルの日本人死亡者慰霊碑は、2001年に厚生省によって建立された。厚生労働省がモンゴル赤十字社に、慰霊碑の掃除、敷地内の除草、周辺植栽の伐採、巡回などを委託している。碑文には「さきの大戦の後1945年から1947年までの間に祖国への帰還を希みながらこの大地で亡くなられた日本人の方々を偲び平和への思いをこめてこの碑を建設する」とある。建立の翌年に秋篠宮フミヒトが訪問した。ナルヒトも、皇太子時代のモンゴル訪問(2007年)の際に立ち寄っている。
今回、抑留死家族にも声掛けをした。抑留死家族の「慰霊碑を訪れて死んだ家族を偲びたい」という気持ちをダシにしてモンゴルに連れていき、被害者から加害者への感謝を引き出す転倒を創り出すパフォーマンスをやったというわけだ。
5)マサコ賛美
モンゴル訪問報道で目立つのがマサコ賛美だ。典型例として、『女性自身』(7月15日号)の「「もう一度一礼を」雅子さま モンゴルご訪問で天皇陛下に異例の“二度の拝礼”を進言されたワケ」の一節を紹介しよう。
雨の中、傘を差して供花し、一分間黙?された陛下と雅子さま。その後、小高い場所にある慰霊碑の階段を下りようとしたとき、雨脚が緩み始めた。傘を閉じると、雅子さまは陛下に、「雨がやんだようですけれども、もう一度慰霊碑に対して一礼をやりますか」と声をかけられたという。陛下は頷かれながら、「もう一度会釈しましょう」と答えられ、お二人で慰霊碑に戻り、深々と頭を下げられたのだ。前出の宮内庁関係者は、この異例ともいえる“二度の拝礼”について次のように明かした。
モンゴルに抑留された約1万4000人は、建設作業や採石、農作業などの過酷な労働を強いられました。その死亡率は12.1%と、シベリアを含めた抑留者全体の数値よりも高いとされ、厳しい寒さや飢えによって約1700人以上が亡くなっています。両陛下は彼らの苦難や無念に、できる限りお心を寄せようとされたのでしょう。“傘を差されたままでは十分ではない”と、とっさにお二人でお考えになったようにも受け取れました。慰霊を見守った抑留者の遺族らの胸を打った出来事だったと思います」/故郷から離れた地で倒れた魂を慰めた陛下と雅子さまの“雨中の祈り”——。その御心は恵みの雨のように、人々の心にも平和への願いを芽生えさせるはずだ。
同記事は、香山リカの以下のコメントも掲載している。
とくに今年は、硫黄島や沖縄、広島へのご訪問で、緊張やお疲れも続いているはずです。ただ、行事を機械的にこなすのではなく、一つ一つの意義を深く考えて臨まれるのが、雅子さまのご姿勢の特徴だと思います。/モンゴルでは陛下が単独で臨まれたご視察などもありましたが、雅子さまが陛下とご一緒に臨まれた歓迎行事や慰霊碑への拝礼などのご様子を拝見していると、ご体調も安定しているようでしたし、“完璧でなくても訪問を完遂したい”という強い意欲を感じました
6)対中包囲網形成と連動したモンゴル訪問
ところで、モンゴル訪問の働きかけが始められたのは、3年前だと言う。昨年、当時の岸田首相が初の「中央アジア+日本」対話・首脳会合(2024年8月9日~10日)の帰路にモンゴル訪問(11日)をするはずだった。それは岸田退陣で中止になったが、その準備と並行して、ナルヒト・マサコのモンゴル訪問も働きかけられたということだ。この中止となった岸田の中央アジア・モンゴル訪問は、対中包囲網形成の一環として企図されたものだった。ということは、ナルヒト・マサコのモンゴル訪問は、それを受けるものとして位置づけらていたということだ。モンゴル訪問には、“対中包囲網形成皇室外交”でもあったということも確認しておかねばならい。