田中利幸(歴史研究)
一面的で虚飾に満ちた戦後50年と80年の「慰霊の旅」
天皇徳仁と皇后雅子は2025年4月7日の硫黄島訪問を皮切りに、6月4〜5日には長女の愛子を伴って沖縄へ、6月19〜20日には広島に、さらに9月12〜14日には再び愛子を連れて長崎への、「戦争犠牲者に寄り添う」と称する「戦後80年の慰霊の旅」を続行中である。実際にはこの「慰霊の旅」は、徳仁の両親である明仁と美智子(現在の上皇と上皇后)が「戦後50年の慰霊の旅」として1994年から95年にかけて訪問した硫黄島、長崎、広島、沖縄という訪問地を、順番は異なっているが、大枠ではそのままなぞる変わり映えのしない旅である。
あらためて言うまでもないが、これらの場所は15年戦争という長期にわたるアジア太平洋戦争の末期1945年の2月から8月にかけて大量の死傷者を出した場所であった。硫黄島戦では日本軍2万2千人の死者と米軍7千人の死者を出し、沖縄戦では住民9万4千人、(沖縄出身者を含む)日本軍が同じく約9万4千人、その上に米軍側が1万3千人近い、合計20万人もの死者を出した。米軍による広島・長崎の原爆無差別大量殺戮では1945年末までに合計21万人が死亡、そのうち朝鮮人は4万人余りであった(数は少ないが被爆者の中には数十名の台湾人もいた)。
「戦後50年の慰霊の旅」でも今回の「戦後80年の慰霊の旅」でも、天皇・皇后による慰霊の対象はもっぱら日本人の戦争被害者であって、実質的には敵軍将兵や外国人市民はもちろん、戦時中は「国籍が日本」であった朝鮮人や台湾人の死亡者ですら国家追悼行事の対象には含まれない。
そのほかに、今回、これまでになかった訪問先として、7月8日、天皇夫婦がモンゴル訪問中に訪れた首都ウランバートル郊外に設置されている「日本人死亡者慰霊碑」が加わった。この慰霊碑は、戦後旧ソ連シベリアに抑留された日本人捕虜のうち1万4千人がモンゴルに移送されたが、そのうち重労働や伝染病で亡くなった1700人ほどを追悼する慰霊碑である。ここでも慰霊の対象は、あくまでも日本人である。
明仁・美智子たちは天皇・皇后在位中の2005〜16年の間に3回の海外への「慰霊の旅」を行った。訪問先は サイパン、パラオ、ペリリュー島、フィリッピンであったが、これらの場所でも、慰霊の対象はあくまでも日本軍将兵と日本人市民であって、敵軍将兵や地元住民、それに強制労働目的や軍属としてこれらの地域に送り込まれた朝鮮人や台湾人は、天皇・皇后の「国民への慈愛あふれる寄り添い」の対象からは排除されている。
フイリッピンでの米軍との激しい戦闘は、レイテ島、ルソン島、フィリッピン中央部・南部の全土にわたって1944年10月から45年8月15日まで続き、日本軍側は34万人近い死亡者を、米軍側は14万人の大量の死亡者を出した。しかし、この戦闘で最も多くの被害者が出たのはフィリッピン住民で、その死亡者数は約100万人といわれている。中でも、マニラ市街地では、日米両軍の間に挟まれて逃れることができなくなった市民が、日本軍には虐殺され米軍には無差別砲撃によって殺戮されて、10万人を超える死者を出した。
明仁は、2016年1月26日のフィリッピンへの「慰霊の旅」出発に当たっての公式メッセージの中で、このあまりにも多いフィリッピン人死亡者数に触れないわけにはゆかず、以下のような文章を読み上げた。「フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たしていきたいと思っています。旅の終わりには、ルソン島東部のカリラヤの地で、フィリピン各地で戦没した私どもの同胞の霊を弔う碑に詣でます。この度の訪問が、両国の相互理解と友好関係の更なる増進に資するよう深く願っております。」
ところが驚くべきことには、これだけ多くの住民殺害に対する「謝罪」は、日本国と日本国民統合の象徴である天皇明仁のメッセージの中には一言もない。「日本人同胞の慰霊」が目的で私は行くとだけ述べて、破廉恥にも自国の責任を完全に無視しながら、「両国の相互理解と友好関係の更なる増進」を願うという極めて身勝手な言葉で「お言葉」を締めくくっている。ここには、無数の「無辜のフィリピン市民犠牲者」が舐めた艱苦に、一人の人間として倫理的想像力を働かせてみようという想いすら天皇には欠けていることが分かる。
「慰霊の旅」の特質性
こうして明仁、徳仁の二世代夫婦にわたる「慰霊の旅」を見てみると、以下の2つの特徴があることが分かる。
(1) 慰霊の対象が日本人だけであり、天皇・皇后が戦争の被害者や遺族者の代表らとの会見で呼びかける言葉は、「たいへんでしたね」、「ご苦労されたのですね」、「つらい思いをされましたね」「これからも頑張ってください」といった類いの、ごく月並みのなんの変哲も無いものにしか過ぎない。これらの言葉からは、被害者の「痛み」を自分の「痛み」として内面化してみようという個人的情感が少しも伝わってこない。ところが、メディアは常にこれらを「被害者の心に寄り添う」、「慈愛あふれるお言葉」と褒めあげる。戦争被害者や遺族のほうもまた、お決まりの「とてもおやさしいお言葉をかけていただき、感激しました」といった具合の天皇・皇后賛美を繰り返す。
徳仁も、天皇家における「悲惨な戦争の記憶の継承」のために、今回初めて「慰霊の旅」に同行させた愛子について談話でコメントし、「初めて訪れた愛子も、苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史を深く心に刻んでいました」と述べた。しかし、いったいどのような歴史的背景から、何のために、誰によって沖縄が戦場にされたのか、その究極的責任は誰にあるのかを学ばずに、日本人被害者がどれほど酷い艱難辛苦を舐めたのかだけに耳を傾けるだけの極めて浅薄な「お勉強」を天皇家が何世代続けたとしても、そこから具体的な平和構築の展望が果たして少しでも見えてくるのか。同じことが、原爆無差別大量虐殺についても言える。いったい、どのような歴史的背景からアジア・太平洋戦争の最終段階で米国がこのような凄まじい「人道に対する罪」を犯すに至ったのか、なぜ米国はその責任をいつまでたっても認めないのか、またそこまで戦争を悪化させてしまった日本の責任は誰にあるのか ——それらを問うことなく、日本国と日本国民統合の象徴である天皇が「(朝鮮人・台湾人を排除して)日本人被害者だけを慰霊」することの意味はいったい何なのか。「記憶の継承」にとって最も根本的なこれらの問いが、「慰霊の旅」をする天皇夫婦だけではなく、彼らの「慰霊の訪問」を大歓迎する市民の側にもスッポリと抜け落ちているのである。
(2) すでに指摘したように、天皇・皇后の「国民への慈愛あふれる寄り添い」は、極めて形式的なものにせよ、日本人の戦争被害者にのみ向けられる。日本軍の残虐な加害行為の犠牲となった中国人をはじめとする多くのアジア太平洋地域の住民と連合軍捕虜、それに当時の植民地であった朝鮮・台湾から「日本人」として動員させられ、日本人と同じように残虐な戦争犯罪の加害者とも被害者ともなることを強いられた朝鮮人・台湾人たちには、天皇・皇后の「慈愛」が注がれることはないのである。よって、各訪問地で天皇夫婦が直接会談する戦争被害者や遺族に、在日朝鮮人・台湾人が含まれることは全くない。
したがって、天皇夫妻の旅は、結局、日本人の「戦争被害者意識」を常に強化する働きをしているが、日本軍戦犯行為の犠牲者である外国人とその遺族の「痛み」に思いを走らせるという作用には全く繋がらない。すなわち、日本人の「加害者意識」の欠落を糺し、戦争被害を加害と被害の複合的観点から見ることによって、戦争の実相と国家責任の重大さを深く認識できるような思考を日本人が養うことができるような方向には、「慰霊の旅」は全く繋がっていないのである。こうして、「日本国、日本人は戦争被害者でこそあれ加害者などではない」という国家価値観が作り上げられ、それが今も国民の間で広く強固に共有されている。そればかりではなく、非日本人の戦争被害者、とりわけ日本軍の残虐行為の被害者には目を向けないという排他性が、日本人の他民族差別と狭隘な愛国心という価値観を引き続き産み出す、隠された原因ともなっているのである。
敗戦国ナショナリズムの象徴としての天皇
日本国と日本国民統合の象徴としての天皇の「慰霊の旅」が果たしている以上のような政治的機能から「象徴」の意味をいま一度再考してみるならば、この天皇の「象徴性」には「戦争被害国日本と戦争被害者日本国民の統合の象徴」という重要な特質が含まれていることが分かる。しかも、この「象徴」には実は「日本国と日本人ほど悲惨極まりない戦争の被害(特に原爆を忘れるな!)を被った国家・国民はない」という「日本人特殊論意識」——いわば「敗戦国ナショナリズム」と称することができる—— 隠された「ナショナリズム」が無意識のうちに国民の中に植えつけられてきているのである。実は日本政府の常套セリフ「唯一の核被害国」の裏にも、同じようにこの「敗戦国ナショナリズム」が隠されているのである。こうして、国民の間に「私たちはみな戦争被害者だ」という国家幻想=「幻想の共同性」をもたせる働きを、天皇の「象徴性」は強力に果たし続けている。ナショナリズムは通常は戦勝国が誇示するものであるが、敗戦国もまた、このような複雑に歪曲した形で政治的に狡猾に利用することを、私たちは忘れてはならない。
そのような「敗戦国ナショナリズム」=国家幻想の価値観を共有することが国民の知らないうちに強制されていくという、「国家価値規範強制機能」が天皇の「象徴権威」にはあるのである。天皇夫婦のこうした「慰霊の旅」のパターンと「象徴権威」の機能は、そのまま上皇夫婦から天皇夫婦にも受け継がれてきている。「天皇の象徴活動」は、このように、実際には極めて政治的な意味を強く且つ深く内在させているものなのである。それは戦前・戦中の天皇制「国体構成要素」の1つである天皇の「象徴権威」を巧妙に活用する国民支配機能、すなわち被支配者に「支配」を「支配」とは感じさせない国民支配機能であり、権力支配者側にとっては極めて都合の良い政治機能なのである。天皇の政治性を全く否定したかのように映る8条からなる憲法第1章は、実はこのように、国民の社会政治意識支配という面で、並々ならぬ影響力を深く内在させているのである。
再度述べておくが、「慰霊の旅」を報道する日本のメディアは、天皇家一族の「慈悲深さ」をこぞって絶賛し続ける。同時にほとんどの日本国民が、そうした報道をなんの疑問も感ぜず全面的に受け入れ、天皇夫婦を深く尊敬し、二人の慈愛活動をいたくありがたがる。「このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」と毎年繰り返される天皇の言葉を真に実践し、「戦争の尊い犠牲」という一種の美辞で呼ばれる被害者にさせられた人間のことを記憶に留め、同じような歴史をくり返さないようにするために絶対不可欠なことは、日本人は「なぜゆえに、このような悲しい歴史を歩まなければならなかったのか」、「そのような悲しい歴史を作り出した責任は誰にあるのか」という問いである。ところが、天皇の「ありがたいお言葉」には、「悲しい歴史」を作り出した「原因」と「責任」に関する言及は、どの「慰霊の旅」でも、また例年の「終戦の日」の「戦没者追悼式」での「お言葉」でも、常に完全に抜け落ちている。最も重大な責任者であった上皇の父親であり天皇の祖父である、裕仁の責任をうやむやにしたままの「慰霊の旅」は、結局は裕仁の責任を曖昧にすることで、国家の責任をも曖昧にする。つまり、換言すれば、天皇夫婦の「慰霊の旅」は、本人たちの意識にかかわらず、裕仁と日本政府の「無責任」を隠蔽する政治的パフォーマンスなのであるが、この本質を指摘するメディア報道は文字通り皆無である。それどころか、日本国家には戦争責任があるという明確な意見を持っている進歩的知識人と呼ばれる者たちの中にさえ、こと天皇の「慰霊の旅」については、この本質を見落とし、天皇・皇后尊敬の念を表明する人間が少なくない(例えば、半藤一利や保坂正康)。
「慰霊の旅」と並んで進む天皇神格化
「敗戦国ナショナリズム」の象徴として天皇の今回の「戦後80年の慰霊の旅」では、30年前の「慰霊の旅」より一層、天皇の「神格化」を急速に高める傾向が強まっている。沖縄でも広島でも5千人ほどの市民が、天皇夫婦と愛子が宿泊するホテルに近い広場に集まり、提灯と日の丸小旗を宿泊先のホテルの一室から見下ろす天皇一家に向かって掲げて振り、「天皇陛下万歳」を三唱し、これに応えて天皇一家も提灯を振るという「提灯奉迎」が行われた。長崎でも同じような「提灯奉迎」が9月12日に予定されている。まさに戦時中の北京、上海、南京などの攻略のたびに、さらには真珠湾攻撃の際にも、皇居に向けてだけではなく日本全国各地で大々的に行われた「陥落祝い 提灯行列」を想起させる。広島での「提灯奉迎」を主宰したのは「天皇陛下奉迎広島委員会」で、その名誉会長:湯崎英彦(広島県知事)、会長:池田晃治(広島県商工会議所連合会会頭)、後援:広島県・広島市・広島県教育委員会・広島市教育委員会となっている。しかし実質的には極右政治団体「日本会議(広島)」が企画し、提灯や小旗も無料で配布し、小学生200名には記念品も配布したようである。
また5月9日、広島市秘書課は、天皇・皇后の訪問にあたって社会科で天皇の地位について学習する機会があることを踏まえて、「御視察の様子を間近で見ることで、学習内容に対する理解等を深めるきっかけになる」という詭弁としか思えない説明で、平和公園近隣の市立本川小学校、中島小学校の校長宛てに「お出迎えを行うに当たり、次世代を担う若い世代にその役割をお願いしたい」と、6年生の児童の参加を求めた。さらに5月16日、広島市は広島県からの指示を受け、「警備目的で宮内庁と共有するため」という理由で、両校に児童の名簿の提出を要請した。しかし、保護者からは個人情報の使用目的が不明確だという疑問が寄せられ、市民団体からも児童に「お出迎え」に参加させること自体が「思想・良心の自由に配慮していない」という批判の声があがった。そのため、6月9日の記者会見で、松井一実市長は名簿提出について問われると「(県から)不要だと返事がきたので扱いを変えた」と説明し、「撤回」という表現は避けて「不要になった」ということでこの問題を決着させた。
その松井市長は2012年から毎年、市職員向けの研修で「教育勅語」の一部を「民主主義的な言葉が並んでいる」、「先輩が作り上げたもので良いものはしっかりと受け止め、後輩につなぐことが重要」などと主張して、紹介していたことが2023年になって初めて報道され、多くの市民からの批判がいまもよせられている。にもかかわらず、その後も市長は毎年の研修で「教育勅語」を研修資料として使い続けている。
国民道徳の基本と教育の根本理念を明示する目的で1890年に発布された「教育勅語」には、12の「徳目」が入れられており、その中には親孝行、夫婦相和、朋友相信、博愛など儒教主義道徳教育が提唱した徳目も使われている。しかし問題は、「教育勅語」ではこれらの徳目が、天皇を神聖なる父と仰ぎその父に絶対的服従を誓う臣民を赤子とみなす「家父長制家族国家」という天皇制イデオロギーの正当化のために、明瞭には見えない形で利用されているということである。そのことは、12の徳目の中では、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ)」が最重要視されていることから明らかである。つまり「天皇のためにはいつでも一命を捧げよ」が、最も重要な徳目なのである。
かくして、この「教育勅語」が全国の学校で徹底して教え込まれることで、「神話的国体観」や「神聖君主絶対服従」の思想が全国民の思考の中に浸透させられていった。その無知と傲慢の結果が、朝鮮人・中国人をはじめとする多くのアジア民族の蔑視に繋がり、ひいては朝鮮・台湾植民地化、満州支配、中国への侵略戦争、そして最終的には壮絶な太平洋戦争へと突入し、自国民を焼夷弾・原爆無差別大量殺戮の大悲劇へと追いやり、国内外のアジア太平洋全域で数千万人という膨大な数の多民族の人命を失わせた。この厳然たる歴史経緯を忘れて、「教育勅語には民主主義的な言葉が並んでいる」などという愚鈍な発言を恥ずかしくもなく発することのできる人間が、いまや自称「平和文化都市」を名乗る広島市の市長を務めているのである。
さらにまた、広島市教育委員会は2023年度から、世界各地で愛読されている、戦争と核兵器の恐ろしさ、命の大切さを強力な視覚メッセージで伝える名作漫画、「はだしのゲン」を平和学習教材から削除してしまった。同時に日本各地では小学校の段階で、憲法9条を教える前に、自衛隊の「わが国の平和と安全を守る重要な防衛の役割」について、いろいろな形で教え込む手段がすでにとられるようになってきている。
このように、天皇の「象徴権威」を巧妙に活用する国民(意識)支配機能が、「敗戦国ナショナリズム」の象徴としての天皇の「慰霊の旅」と並行する形で、国民の気がつかない間にジワジワと強化され、最近はますますその速度が速まっているのが現状である。自分たちの戦争加害と被害がどのように絡み合っているのかを深く理解しながら、自他両方の戦争責任問題を追求していくという確固たる姿勢を持続していくことなしには、真の意味での平和構築は不可能である。なぜなら、平和構築とは、言うまでもなく他国との国際関係の問題である。一方的に「敗戦国ナショナリズム」にのみ依拠しながら「戦争の尊い自国の犠牲者」の「痛み」のみを強調することだけで、他国の戦争犠牲者を無視し続けることからは健全な国際関係が成り立つはずがない。
成り立たないどころか、「敗戦国ナショナリズム」は、「悲しい犠牲を再度出さないための防衛」という「防衛ナショナリズム」にいとも容易く転換させられる危険性を常に孕んでいるからである。この転換の危険性がもうすぐそこまで迫ってきていることは、現在の日本の状況——猛烈な勢いで進む自衛隊の「敵地攻撃能力」強化と憲法9条の実質的な無効化、米軍への全面的追従に基づく沖縄、岩国をはじめ日本各地の軍事要塞化など——から明らかである。
結論:戦争責任問題にとって不可欠な「惻隠の情」
孟子の教えに『四端・不忍人之心』というのがある。その教えの中で彼は、「人には皆、他人の不幸を見過ごせない〈忍びざる心〉がある。昔の聖王は、人の不幸を見過ごせない〈忍びざる心〉を持って、人の不幸を見過ごさない(思いやりのある)政治を行った。人の不幸を見過ごせない〈忍びざる心〉で、人の不幸を見過ごさない政治を行うならば、天下を治めることは、手のひらに物をのせて転がすように(たやすく)できる」と述べている。この「忍びざる心」を孟子は、「もしも今、人が急に幼児が井戸に落ちそうになっているのを見たならば、誰もがはっと驚いてかわいそうに思う心を持つだろう。そして、助けようとするだろう」と説明し、それは自然と人の心に生まれる「あわれみの心」であり、これを「惻隠の情」と彼は呼んだ。「惻隠の情(あわれみの心)」は仁の端(芽生え)でもあると孟子は説明している。
この孟子の言葉を読むたびに私は、政治家はもちろん、ごく普通の市民個々人にとっても戦争責任問題を考える場合、「惻隠の情」で被害者の「痛み」を自分の「痛み」として内面化すること、そのためには「仁の端」=「倫理的想像力を芽生えさせる」ことが必要であると考えさせられる。同時に、なぜ日本の天皇や政治家だけではなく一般市民も、自分たちの父や祖父の世代の男たちが日本軍将兵として海外で犯した残虐行為の被害者やその遺族の「痛み」に、「倫理的想像力」を働かせて、その「痛み」を自分の「痛み」として心のうちに深く強く内面化することができないのであろうか、と考えざるをえないのである。「敗戦国ナショナリズム」を崩すには、単に政治・社会・歴史などの理論的学習だけでは到底不可能であり、戦争責任問題でこの「惻隠の情」を如何に日本人の心に芽生えさせるかという、「精神文化の構築」の問題として取り組むことが必要不可欠だと私は考える。戦後80年という長い年月、日本人は「惻隠の情という精神文化の構築」をいたく蔑ろにしてきた——そしていまそのツケが我々の日常生活に回ってきつつあるとも私は考えている。これは極めて大きな問題なので長い時間をかけて議論する必要がある。
それとは別に、この80年の間、なぜゆえに日本は自国の戦争加害にこれほどまでに感知不能となってきたのか、その原因と歴史的経緯を簡単に次回の論考で辿ってみたい。