天皇制ミソジニーと皇位継承問題

桜井大子

なんとしても女が嫌、か

ここ1年ほど天皇制のミソジニーについて考えることが多くなった。発端は、皇位継承問題の現在にある。

昨年4月、政府がその年の初めに打ち出した「安定的皇位継承」とはほど遠い「皇族数確保策」案を自民党が容認、政府レベルの議論が始まった。この政府案にはかなり驚いた。このサイトでもすでに触れているので詳細はそちらに譲るとして、ここでは必要な箇所のみ以下に引用することにする。

政府案①女性皇族の結婚後も皇族身分保持する、②旧宮家の男系男子が養子として皇族復帰する
*有識者報告には③として、「皇統に属する男系男子を法律により直接皇族とする」がある。

「自民党が受け入れたのは、旧宮家出身の男系男子を養子縁組で皇族に復帰させる案も合わせて盛り込まれたことに加え、将来の女系天皇誕生に歯止めを掛けるからだ。21年の政府有識者会議の報告書では、結婚した女性皇族の夫と子に皇族の身分を与えない案を示した。これを保守派は評価する」(『毎日新聞』2024/04/20)

自民党保守派は「女性が結婚後も皇族の身分を保持する」案に対して、「将来的には女系天皇の誕生につながりかねない」という懸念を表明していたが、「夫と子に皇族身分を与えない」の一文で容認に至ったというわけだ。
『皇族数確保策』は新たな身分差別をつくりだす」2024年5月
*参考「世論無視の議会と「女性・女系天皇」支持率90パーセント社会」2024年7月

マジか!? この期に及んでこれか!? と驚き呆れ果てた。

皇位継承問題におけるバトルは、天皇制支持派 vs 反天皇制ではなく、「リベラル」と呼ばれる現実主義:女性・女系天皇容認派 vs 伝統主義:男系・男子主義派だ。天皇制支持派内のバトルである。世論は、この政府案で議論が始まろうとしていた昨年の『共同通信』調査(2024年4月27日)によれば、90%が女性天皇に賛成、84%が女系天皇に賛成という(「賛成」「どちらかというと賛成」を合わせた数字)。世論も含め、どう考えても天皇制にとっては「リベラル」派の方が理にかなっている。

しかし、政府が出してきた案は、有識者会議の報告をそのままなぞったもので、徹底的に女性・女系天皇への道を閉ざすものであった。現在もそこにこだわり続けている。90%以上の人が天皇制を支持しているのに、天皇制は悠仁で終わりだな、と思ったものだ。しかし待てよ、旧宮家男系男子の養子縁組で本当に持ち堪えるつもりなのか? それでどれだけの「安定的継承」を望めると考えているのだろうか、けっこうそれでいけたりするのか? 等々、どうでもいいことをあれこれ考え始め、行き着いた結論は、なんとしても女が嫌なんだな、ということだった。

戦後の「皇室典範」の「男系男子」規定は、大日本帝国憲法時からそのまま引き継いでいる。大日本帝国憲法下における民法では、戸籍制度、家制度、家父長制が規定されていたが、戦後民法では少なくとも家制度も家父長制も否定されている。天皇一族に対してのみそれを法的に残しているというのが実態だ。

では、「伝統主義」と呼ばれる人々は法的なところで男系・男子にこだわっているのか。いや、その法律を変えたくないというのだから、そのこだわりの根拠は法的なものではないはずだ。実際、彼らは「皇統」「伝統・文化」を守るという立場から男系・男子主義を主張している。彼らの「伝統・文化」なのだ。個人の大事な伝統文化にとやかく言うことはしないが、これは国の制度なのだから、考えないわけにはいかない。というわけで、天皇制に根強くある「女嫌い」・ミソジニーを考えた方が良さそうだと思ったのだった。

天皇制ミソジニーと女人禁制

ミソジニーは世界中に転がっているし、それに基づくのか、どのように関係しているのか、とにかくさまざまな形の女性への差別も恐ろしく続いている。日本の場合、天皇制のミソジニーと無関係ではなく、その影響は日本の「伝統・文化」「常識」「道徳」といったところで整理されている側面が強いと考えるべきだろう。そうであれば、と日本社会の女性差別の根源と言われる天皇制のミソジニーは、いわゆるミソジニーや女性差別との関連を考えるためにも「天皇制ミソジニー」と言葉化した方がわかりやすいように思うので、そのように呼ぶことにしている。

天皇家には「禊(みそぎ)」という習慣(儀式)がある。それは神道儀式などの前に女性に課せられた「身を清める」ためのもので、女性は「穢れている」という観念に支配された儀式といえる。それは女性の生理と関係していると、おそらく誰もが考えるだろう。そしてそれは、天皇家だけではなく、日本社会に、いや世界的にも珍しい話ではなかった。生理中の女性を隔離する「隔離小屋」などの存在はよく知られている話だ。

私の推測も含め、女性の生理・隔離・女人禁制等については以下のように考えている。

女性忌避には、女性の身体の「神秘」や定期的に流す血への「死」を連想させる「畏れ」からくるものに違いないと私は勝手に思ったりしているが、それも女性の身体の変化や生理への科学的な知識がなかった遠い昔々の観念に支配され続けている結果であろう。そして忌避、あるいは隔離することの継続によって、さらに忌避感は高まり、忌避観念だけがいつまでも残っているのではないか。

女性が月に一度「血を流す」のは(正確には出血ではない)、「死」を予感させるものではなく、「生」のための身体の仕組みであり、「生」の準備であり、「生」を促すものであることは、今では世の常識となっている。天皇一族には、忌避感や「穢れ」という観念だけが今も残っているということだろうか。私はこれはイデオロギーとして残されたものと考えた方が正しいように思う。

女性の生理に対して、少なくとも現代人はその辺りの畏れを起因とする「穢れ」観念は克服し、解放されているはずだ。そして、そういった意識を、皇室には一つの価値観・イデオロギーとして残した、といえるのではないか。

日本には「女人禁制」の領域がまだ少なからず残っている。たとえば国技と言われる相撲の土俵や2017年に世界文化遺産に登録された沖ノ島などは有名だ。ほかにも「聖地」「霊場」「祭り」など、厳しく女人禁制を敷いているところはまだ残っている。これらは宗教的なエリアや関係する行事の場にあり、女人禁制は「風習」「伝統」と語られる。

女性を締め出し男性主義的価値観に固執する一部のエリアは、「伝統」意識からか、残り続けているのだ。そこには、守りたい側の男子主義を手放したくないという欲望が根底にある。現在の皇位継承問題での伝統主義右派の立場と酷似してはいないか。

天皇家では、皇族女性の生理を職員たちも含め把握しているという。それは、「生」の準備のためなのか、「禊」のためなのか、儀式参列の可否を決める重要案件なのか、いずれにしろ気持ちの悪い話である。把握されていること自体への不愉快さにも増して、目的があって知る必要があるという「伝統」に不愉快さはつのる。

女性皇族には、生理中であろうとなかろうと入れない場もある。新天皇が即位する際に行われる数ある儀式の中で、重要な神道儀礼とされる「剣璽等承継の儀」には女性皇族は入れない。「神器」の引き継ぎで皇位が移ると信じられている文字どおりの神道儀式だが、2019年の新天皇即位の際も女性皇族は新皇后も含め立ち会えなかった。これは新聞でも報道されている。すごいものである。

そして女人禁制の最たるものが、皇位継承から排除されていることだろう。女性皇族は一様に家父長制のもと、家の所有物であり、お家相続の主、つまり次なる家長(天皇とその予備軍)をつくるために子孫を残す役割をまっとうすべき存在であるということだろう。天皇制にひそむ度し難い「女嫌い・女性蔑視」=「天皇制ミソジニー」は、天皇制が大事に抱え持つ価値観なのだ。それは長年の皇位継承問題論議で伝統主義保守派がわかりやすく見せてくれた。

天皇制ミソジニーの克服ではなく天皇制廃止を

どこかの宗教的なエリアの女人禁制はともかく、憲法と法律で規定される国の制度である天皇制の女人禁制を「伝統・文化」と片付けてしまっていいはずがない。この社会は少ながらずその影響下にあるのだから。多くの女性たちが女性天皇容認を主張するのは、その影響力を知っているからである。

とはいえ、天皇制ミソジニーの克服によって、この社会の女性差別状況になんらかの影響があるとしても、ミソジニーがなくなるわけでも、女性差別がなくなるわけでもない。天皇制とは無関係の他国にもミソジニー、女性差別が現在もあり続けているではないか。仮に天皇制がなくなっても、ミソジニーや女性差別は残ると考えるべきだろう。

また、天皇制がミソジニーを克服し、女性・女系天皇が容認されたら、そして結婚後も女性皇族が皇室にとどまることになれば、その彼女たちは「産む」責務を押し付けられるのである。彼女たちの解放もまた、世襲制の天皇制廃止によるしかないのだ。彼女たちが最高権威者の一族としての特権的な身分を捨て、解放を望むならば、女性たちの多くは賛同し、支援するに違いない。

天皇制ミソジニーは、この社会が抱え持つミソジニーやそれに影響される女性差別に棹さすことは間違いない。だから批判も必要である。しかし、日本社会に住む私たちが克服すべきことは、天皇制ミソジニーではなく、直接私たちに影響を与え続けているこの社会のミソジニーであり女性差別なのだ。そして、古臭い観念に基づく人権無視の風習やしきたりを「伝統文化」に置き換え、その体現者として窮屈に生きる皇室と、それを大事に崇めつつ政治利用する日本政府やメディア、この社会を、相対化していかなくてはならない。こんな制度がなぜ国によって維持されるのかと、多くの声によって批判にさらされる時が来なくてはならないのだ。

天皇制の問題はもちろん女性差別だけではない。天皇制は歴史的問題(侵略戦争、植民地支配等々に対する責任)を何一つ解決しないまま、最高権威者として政府の方針に沿って役割を果たし続けているという現在的問題も限りなく大きい。そういう天皇制が皇位継承問題論議の過程でミソジニーを露骨に主張しているのが現在の状況である。このような天皇制はどこをどう変えても残していい制度ではない。これからも廃止を求め続けていこうと思う。

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