ネパールの権威主義的国王は19年前に追放されたが、今、多くの人々が君主制の復活を望んでいる

ネパール・カトマンズ(AP通信)
CNNワールド 2025年3月9日
https://edition.cnn.com/2025/03/09/asia/nepal-monarchy-protests-hnl-intl/index.html

要約・翻訳:編集部

数千人の支持者が日曜日(2025年3月9日)、首都カトマンズでネパールの前国王を出迎え、廃止された王制を復活させ、ヒンドゥー教を国教として復活させるよう要求した。

推定1万人のギャネンドラ・シャー(前国王)支持者がこの日、ネパール西部の旅行から戻ってきた前国王を出迎えるために、カトマンズのトリブバン国際空港の正面入り口に押し寄せた。シュプレヒコールは「王のために王宮を明け渡せ。王様、戻ってきてください。国を救ってください。愛する王よ、万歳。我々は王政を望む」である。空港利用客は徒歩で空港に出入りせざるを得なくなり、数百人の機動隊がデモ隊が空港に入るのを阻止したが、暴力沙汰は起こらなかった。

ネパールでは、2006年の大規模な街頭抗議行動によって国王ギャネンドラが権威主義的な支配の放棄に追い込まれた。その2年後、議会は王制廃止を決議し、ギャネンドラは王宮を去り、一般市民として生活している。

ところが現在、多くのネパール人は共和制に不満を募らせている。共和制は政治的安定をもたらすことができず、経済が低迷し汚職が蔓延しているというのだ。2008年に王制が廃止されて以来、ネパールは13もの政権を経験している。集会参加者たちは、国のさらなる悪化を食い止めるため、政治体制の変更を望んでいるという。

「私たちは国王を全面的に支持し、国王のもとに結集し、国王を王座に復帰させるために、ここにいるのです」とティル・バハドゥール・バンダリ(72)は語った。

数千人の中には、50歳の大工クルラジ・シュレスタもいた。彼は2006年の国王に対する抗議デモに参加したが、現在は考えを改め、王制を支持している。「国に起きている最悪のことは、大規模な汚職であり、権力を握っている政治家はみな、国のために何もしていない」とシュレスタは言う。「私は王制を廃止するデモに参加し、王制廃止によって国がよくなると思っていたが、それは間違いだった」。

ギャネンドラは王制復活を求める動きについて何も発言していない。前国王への支持は高まっているものの、ギャネンドラがすぐに政権に復帰できる可能性は低い。彼は、兄と家族が王宮で虐殺された後、2002年に国王となり、行政権も政治権も持たない憲法上の国家元首であったが、2005年に政府と議会を解散させ、政治家やジャーナリストを投獄し、通信を遮断して非常事態を宣言し、軍隊を使って絶対的な権力を掌握したのである。

参考:ネパール王制の歴史(編集部)
インドとチベットの境のネパール谷には非常に古くから比較的安定した王朝が成立していた。1786年マラ王朝が倒れグルカ王朝が成立、これが最後の王朝の始祖であるが、1846年、ラナ体制が確立した。これは、主権者は国王であるが、国権の行使はラナ家の世襲的帝相のみが行使するというものである。以後1951年インドに支援されたクーデタによってラナ家が屈服し、議会制民主主義が導入される。この日本の幕藩体制にきわめて類似したラナ体制はつづいた。
1960年、再度のクーデタによって、国王は国会を解散し、親政を再開し、パンチャットという村落会議を基礎とし、国王を中心とする一種のつみ上げ方式による民主主義をめざす新憲法を1962年制定した。
政治制度としては、国王が主権者であり、立法、行政、司法のすべての権限を行使する。立法機関としてはパンチャットが置かれるが、国王が最終決定権を持っていた。執行権も国王にあり助言機関としての内閣の任命権を絶対的に有していいた。司法に対しても、国王は裁判官の任命権、判決の変更権まで持っており、ほとんど絶対的な権限を持っていた。
1980年、パンチャット制の是非を問う国民投票がおこなわれ、この制度が支持されて政党制の導入は退けられたが、89年の国家パンチェット選挙では君主制批判派が大量に当選した。
1990年代から2000年代初頭にかけて発生したネパール内戦(ネパール政府軍とネパール共産党毛沢東主義派による。2006年に終結)の結果、2008年に王制を廃止、2015年9月公布の憲法により、7州による連邦制国家となった。
2020年に正式国名を「ネパール連邦民主共和国」から「ネパール」に変更している。
王制に関連した重要事件は、2001年6月に起きた「王族殺害事件」である。王宮内で、国王、王妃、王の娘、次男、王の二人の姉などを含む9人が殺害され、犯行を行ったとされる王太子(皇太子)がその場で自殺している。王太子が王妃らによって結婚を反対されたことによる犯行とされているが真相は明らかになっていない。この事件を受けて最後の王となるギャネンドラ(王太子の弟)が即位する。王族が集まる中で彼(と彼の息子)は現場にいなかった。また、犯人とされた王太子は人気があったがギャネンドラの評判はよくなかったとも言われている。
ギャネンドラは即位後は、先王の立憲君主制を否定して、議会を停止、内閣の人選を自ら行うなど専制君主として振る舞い、それが王制の廃止につながった。
――浜林・土井・佐々木編『世界の君主制』(大月書店、1990年)およびウキペディアを参照した。

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