・6月4〜5日(2025)、天皇徳仁は皇后雅子と娘の愛子とともに、沖縄への「慰霊・追悼」に出かけた。訪問が決まったその日から、天皇および天皇制国家と沖縄に関する歴史や天皇たちの沖縄への「思い」について、報道ラッシュが続いた。それらは、天皇制と国にとって都合のよい情報ばかりで、都合の悪いことにはダンマリを決め込んでいた。
・首都圏の反天皇制運動の実行委は天皇たちが出発する前日の6月3日、東京駅から皇居に向かう「行幸通り」と呼ばれる大きな通りで、抗議のスタンディング行った。雨が降りしきるなか、メディアが語らない天皇の沖縄慰霊の旅の問題について訴えられた4人の発言を紹介します。
・以下は、発言者のお一人である中村利也さんのスピーチを、ご本人に文章にしていただいたものです。
沖縄の人々の自己決定権行使を支持し、ヤマトの責任を果たしていこう
中村利也
今日の昼間、辺野古新基地を造らせないオール沖縄会議主催の「辺野古新基地建設に反対する院内集会」に参加してきました。沖縄からは、大宜味村議会議員の吉浜覚さんや糸満島ぐるみ会議の大城規子さんなどが出席。「軟弱地盤改良」のためとして大浦湾に打ち込まれている砂杭の材料となる海砂採取によって海岸が激しく侵食されている実態、7万1千本の砂杭を「つまようじ」で可視化した模型などが紹介されました。住民の大半が反対しているにも関わらず、構造的沖縄差別の下で日本政府によって強引に米軍基地が建設されている沖縄に、まさに今、天皇が行こうとしています。
3代の天皇はあたかも「沖縄戦で多くの犠牲を生んだ沖縄の人々に思いを寄せている」かのように盛んに報道されますが、果たしてそうでしょうか?これまで、1度でも、沖縄に戦争の犠牲を強いたことを反省し、謝罪したことがあるでしょうか?
天皇は節目節目で沖縄に関し「おことば」を発してきました。
「思はざる 病となりぬ沖縄を たづねて果さむ つとめありしを」(1987年病に倒れ沖縄訪問が中止になった際に昭和天皇が読んだうた)
「払われた多くの尊い犠牲は一時(とき)の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人々々、深い内省のうちにあってこの地に心を寄せ続けていくことを置いて考えられません」(1975年「ひめゆりの塔」を訪問し、火炎びんで攻撃された後で当時の明仁皇太子の「おことば」)
「先の大戦で悲惨な地上戦の舞台となり、戦後も約27年間にわたり日本国の施政下から外れた沖縄は、日米両国の友好と信頼に基づき、50年前の今日、本土への復帰を果たしました。大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は「ぬちどぅたから」(命こそ宝)の思いを深められたと伺っていますが、その後も苦難の道を歩んできた沖縄の人々の歴史に思いを致しつつ、この式典に臨むことに深い感慨を覚えます。(2022年5月、沖縄復帰50周年記念式典での現天皇の「おことば」)
ここに私たちは何を読み取れるでしょうか。美辞麗句を連ねていますが、沖縄戦での犠牲を他人事のようにとらえ、自らの責任を放棄した空虚な「ことば」の羅列ではないでしょうか。
昭和天皇は戦前から戦後にかけて2回沖縄を切り捨てました。
1回目は、天皇の決断によって沖縄戦を回避することができたのにそれをしなかったこと、いわゆる「遅れた聖断」です。2回目は、日本を「共産主義の脅威」から守ってもらう見返りに沖縄をアメリカに売り渡したこと、軍事占領の継続を求めたこと、でした。これは歴史的な事実です。
しかし、昭和天皇をはじめ、3代の天皇はこの点についてこれまで一切反省し、沖縄の人々に謝罪したことがないばかりか、何度も発せられた「おことば」の中で触れることすらしてきませんでした。
この点が何よりも批判され、追及されなければならないと思います。またそれを許してきた「本土」=ヤマトの人間として自らの責任、天皇と沖縄の関係に関わる際の課題の原点だと考えます。
琉球弧への自衛隊基地の増設、強化、軍事要塞化が進む中で、2回の沖縄切り捨てを反省しないまま天皇が訪問することは、「再び沖縄を戦場にしようとする」現在の動きを容認し、あるいはそうした動きから人々の目を逸らし、露払いをする役割を持っています。断じて認める訳にはいきません。強く抗議し反対していきましょう。そして、沖縄の未来は沖縄の人々自身が決めるという自己決定権の行使を支持し、その実現を阻害しているあらゆる試みに反対していくヤマトの責任を果たしていきましょう。