志水博子
はじめに:植民地主義の象徴
東京のど真中に広大な緑で覆われた皇居がある。その一角にある吹上御苑には天皇・皇后の住居である御所や、昭和天皇の住居だった吹上大宮御所等がある。その吹上御苑に、日露戦争最大の激戦地であった旅順から当時の日本海軍が持ち帰り戦利品として天皇に献上した「鴻臚井の碑」が今もあるというから驚きだ。まさに植民地主義が現在も継続してあることの象徴のようなものではないか。
中国文化財返還運動
「中国文化財返還運動を進める会」は、日本が中国から略奪した文化財を〈元の場所に返還する〉ことを目指し、2021年12月に発足した市民グループである。現在までに3冊のブックレットを発行されている。今回はそれらのブックレットについて、最初の2冊は概略を示し、主に最新刊の『〈帝国大学〉の学知を問う』を紹介したい。そして私たちが植民地主義から脱却するためには何ができるか、また何をなすべきかについて考える手掛かりとしたい。
ブックレット1『中国文化財の返還 私たちの責務』(2022.8.1)
中国文化財返還運動の経過とその意義、そして当面の目標が記載されている。近代植民地宗主国が「権力の象徴」として植民地から文化財を収奪あるいは戦争の戦利品として略奪したこと。そして、それらがいまなお日本にあることについて認識し、かつて植民地を支配したことによってもたらされた特権を享受している日本に暮らす者として、あるべき〈もの〉をあるべき〈場〉に戻す。そのことを通して私たちも植民地主義を乗り越える思考を持つことができるのかもしれない。
会の当面の返還運動の対象は、日清戦争の際に日本軍が遼寧省海城市三学寺から略奪した、現在は靖国神社と山縣有朋記念館にある「石獅子(狛犬)」と、日露戦争の際に遼寧省旅順の黄金山麓から略奪し、現在は皇居吹上御苑にある「鴻臚井碑」とする。
ブックレット2『世界史の中の文化財返還、未決の植民地主義を超えるために』(2024.5.20)
2022年に開催された「中国からの略奪文化財返還を求める!!4.22大集会」の内容がまとめられている。
「文化財返還の世界の現状」(森本和男)では、欧米の動向と返還される中国側の状況、日本の課題がまとめられている。ヨーロッパ旧宗主国は、植民地支配や虐殺の悲惨な歴史的事実を認識して和解や対話を経て謝罪や賠償を進めている。すなわち脱植民地化の一環として文化財返還も実行されているが、日本ではこのような脱植民地化の動きは希薄で、戦争や植民地で奪ってきた文化財についてもほとんど議論されていないとある。
「帝国日本の生成過程と文化財収奪」(纐纈厚)では、脱植民地化という課題について、日清・日露戦争で日本は植民地国家になり、それと同時に日本の近代化は始まった。侵略思想は唐突に出てきたものではなく幕末からすでにあった。近代化の暴力性は植民地化の中にねじ込まれ、文化抹殺と文化略奪が繰り返される。脱植民地化は現在も進められていない。植民地主義を克服するには、文化財返還が必要だと説く。
「『戦利品』と言う考え方」(五十嵐彰)では、「戦利品」という考え方は文化財に限らず、そもそも土地とそこに暮らす人々を我がものとする「植民地」というあり方自体が「戦利品」そのものなのである、という。
ブックレット3『〈帝国大学〉の学知を問う』(2024.12.13)
会として、従来要求してきた文化財に加えて、新たに東京大学総合研究博物館が所有している渤海国の文物の返還、同大学東洋文化研究所の玄関にある石獅子の由来等を明らかにさせる活動を開始したとある。そして、2024年7月27日に開催された集会で講演されたお二方の発言内容をもとに書き下ろしの論考が掲載されている。
1 中国の文化財返還の現状と課題(吉田邦彦)
特に東大・東洋文化研究所玄関前の石獅子について問われているのは、「長年《東洋文化》のあり方を研究してきた、最高学府の研究者のこの問題への態度」である。
件の石獅子は、東大・東文研の玄関にシンボルのように置かれている。さて、その入手経路は、と問うと、「正当取引」「適正取引」と東文研側は答える。では、それはそもそもどこにあったのか、石獅子に関する詳細が書かれた内部文書があることがわかり公表を求めているが、いまだ公表はされていない。
当時の時代背景であるが、あからさまに文化財略奪の指示が出ていたのは、日清戦争、北清事変(義和団の乱)くらいで、1899年ハーグ陸戦条約、1907年ハーグ陸戦協定により略奪の禁止等の規定がされたが、その後も植民地での文化保護と謳いながら、実質的略奪ないし略奪的取引が続けられていた。
どうすべきか。1970年文化財所有権の違法な搬出入・譲渡に関するユネスコ合意等の実体法に照らし合わせて考えるならば、先住民族に関する遺骨返還の実践が、世界的潮流として示しているように、文化財返還も、植民地主義の思想からの脱却と共に、文化財への本来の文化的アイデンティティの意識の高まりと共に、遺骨同様の文化芸術の返還も、同様に進められるべきであり、本来の文化財帰属先に返還されるべきとするのが21世紀のあるべき姿である、と説く。
2 東京大学総合研究博物館が所蔵する東亜考古学発掘資料(五十嵐彰)
東京帝国大学と京都帝国大学の考古学者たちを主要なメンバーとして組織された東亜考古学会は1933・1934年に中華人民共和国黒竜江省に所在する古代・渤海国の上京龍泉府とされる遺跡を発掘した。そして、その出土資料は現在、東京大学総合研究博物館が所蔵している。そういった戦時期あるいは植民地期に政府や個人が朝鮮半島・中国大陸等で入手した資料については、その入手方法の公平性を検討するとともに、戦後における所蔵機関・個人の当該資料に関する取扱いについても同じく公正性の観点から検討し、今後のあるべき在り方について提言することを目的としたい。そのためには、検討対象となる資料が、どのような時代状況において、何のために、どのようにして入手されたのかと言う点についてできるだけ明らかにされることが必要である、と。
とすれば、東京大学の展示解説文にも疑義を感じる。また植民地における購入の意味についても理解が及んでいないとも思う。当時の調査の目的も「満州国建国」を正当化するために、古代の渤海国と日本の交流を明らかにするためのものであったことがわかる。
ところが、戦時期の「中国大陸、朝鮮半島における調査」に関する評価として「光と影のモザイクを描く作業」とする見方がある。こうした見解に対して、かつて「自らを正当化する『植民地近代化論』と同質のもの」と評した。「戦時期に植民地本国の考古学者が植民地で発掘したことについて、良い点(光)という評価はあくまで植民地帝国側の視点で被植民地側の視点ではないことを踏まえる必要があろう」と説く。
そして、こう結論づける。戦時に植民地・占領地で発掘調査がなされて日本にもたらされた出土資料は、不当に入手した資料である。不当な時代に入手された不当な文化財を現在もなお所有している組織は、不当に文化財を所有している不当な組織であることを無意識に、ある場合には意識的に表明していることになる。
いま私たちに問われているのは歴史に対する深い考え方、将来を見据えた、ポジティブな見方である。不当な時代に入手された不当な文化財を保持し続ける不当な状態を解消して〈もの〉本来の在り方を取り戻すために、奪った側と奪われた側の共同作業が求められている、と説く。
なお、他に資料として「国立大学法人東京大学・同総合研究所博物館・同東洋文化研究所に対する申入書」と「宮内庁に対する申し入れ書」も収録されている。
おわりに:いまなお続く〈帝国大学〉の学知
ブックレットのタイトルにあるように、帝国大学の「学知」なるものが日本の帝国主義的近代、侵略・植民地主義の歴史を支えてきたことをいまなお克服できずにいるならば、それはすなわち東大自身が保有し続ける収奪文化財等の返還要求に対して真摯に向き合おうとしないことを指すが、「帝国大学」をいまも継承し続けると宣言しているに等しい。学知なるものが何なのか、改めて考えたい。
また、これまで博物館や美術館で略奪した文化財が展示されているのを見ても、正直なところ何とも思わなかった。しかし、「中国文化財返還運動を進める会」ブックレットを通して、それらがどこからどのように来て、いまも、ここにあることの意味を問うていきたい。そしてそれが私たちの脱植民地主義につながるのではないだろうか。
*ブックレット購入希望の方は以下の問い合わせ先まで:
中国文化財返還運動を進める会
Mail:info@ichinoselaw.com
郵便振替:00120-7-636180(中国文化財返還運動を進める会)