桜井大子(控訴人・訴訟の会事務局)
2月28日、即位・大嘗祭違憲訴訟控訴審の判決が出た。14時開廷、裁判長が登場して着席し判決を言い渡して退席。1分もかからなかったように思う。判決文はA4用紙に4枚。なんとも酷い対応である。裁判の詳細については本サイトにも詳しい記事があるので省略するが、2018年12月の提訴から紆余曲折を繰り返し、6年以上闘ってきた裁判である。弁護団は訴状から始まる書面の数々、裁判所や原告との打ち合わせ等々に忙しく動いた。事務局も会議や調査、報告などに奔走した。原告・支援者の方々は当日には平日昼間の法廷に駆けつけられた。それらの結果がこの1分足らずの判決言い渡しとA4の判決文4枚で片付けられてしまった。
この判決に込められた意思は、原告に対し徹頭徹尾、天皇制については文句を言わせないという態度で挑むことであったのだろう。それだけはよく理解できた。それは、靖国の首相参拝に対する違憲訴訟や合祀取消裁判も同様である。靖国神社の祀る自由・信教の自由を述べても、祀られることを拒否する自由は認めない、首相参拝による原告の不利益を真摯に考えないどころか、このことに触れるな、文句言うなという姿勢だ。そういった裁判所の姿勢は、慰安婦は存在しなかった、強制連行・強制労働はなかったという政府側の主張と強権的な措置、教科書からの記述の抹殺、記念碑等の強権的な撤去等々にも酷似している。
虚しい結果の裁判闘争にはうんざりしつつも、それを通してこの国の意思や姿勢がよく見えてくる。そんなことは裁判をやらなくてもわかっていることではあるが、司法までもがそうであるということを、いやというほど悟らされるのだ。
国によって行われた天皇の即位・大嘗祭に関する諸儀式は、憲法が規定する政教分離原則に反し、憲法が保障する主権在民原則、思想・信教の自由やそれに基づく表現の自由を踏み躙るものであるということを証明するために、6年以上もかけて説得力のある書面が提出され、法廷でも原告・控訴人やその代理人である弁護団から陳述がなされてきた。少なくとも、違憲であると訴えているのであるから、こちらの訴えに逐一憲法判断するべきであろう。訴えに対するそういった真摯な対応はまったくない。
判決文による「当裁判所の判断」の結論は、以下のとおり。
被控訴人において本件諸儀式等を挙行してこれに国費を支出し、本件国民式典の後援等をすることが、控訴人らの宗教的感情や思想とは相容れないものであり、また、それによって社会の中でこれに同調する意識が醸成されることに対して控訴人らが内心に葛藤を生ずることがあったとしても、そのこと自体は控訴人らの内心に対する不当な圧迫ないし干渉というにはあまりにも間接的なものであり、そのことをとらえて控訴人らに損害賠償の対象となりうるような法的利益の侵害があったとはいえない。
以上によれば、原判決は相当であり、本件控訴は理由がないからいずれも棄却することとして、主文のとおり判決する。
原告・控訴人の訴えを「控訴人らが内心に葛藤を生ずることがあったとしても、そのこと自体は控訴人らの内心に対する不当な圧迫ないし干渉というにはあまりにも間接的なもの」と片付け、国によるさまざまな違憲行為を「法的利益の侵害」にはならないという。おかしな理屈である。この訴訟は違憲を問うているのに、そこにはまったく触れない。「損害賠償なんかどうでもいいのだ!憲法判断を!」と言いたくなるが、しかしこの裁判は損害賠償として位置づいている。裁判制度自体がおかしすぎるとしか思えない。この国に憲法裁判という概念もシステムも存在していないことの問題なのだろう。
法廷後、報告集会と記者会見。報告集会では小倉利丸さんによる講演と弁護団からの判決の説明を聞いた。講演は、私は残念ながら後半しか聞くことができず、報告は諦める。
訴訟の会は当日、抗議文を発表し上告を決めた。