反靖国〜その過去・現在・未来〜(29)

土方美雄

中曽根首相による「靖国公式参拝」への道 その1

私は、昨年の一月に、沖縄で取材中、転倒して、利き腕の左手を、複雑骨折した。救急車で、那覇市立病院(だったか)に搬送され、骨がグチャグチャで、かなりひどい状態なので、すぐに緊急手術の必要があるといわれたが、東京での所用もあるので、それは絶対に無理・・とゴネまくって、折れた腕をギプスで固めて、翌日、東京へ戻った。その後、いくつかの病院をたらい回しされ、ようやく、手術が出来たが、1年たっても、骨折した個所がつかず、今年の1月に、再手術となった。

それは、足か、腰の骨を切り取って、それを骨折個所に移植する手術だと聞かされ、すごく気分が悪くなったが、それ以外に方法はない上に、しかも、その難手術を出来る医師そのものが、数少ないので、たまたま、W病院のS先生が手が空いている1月が、ラストチャンス…みたいなことをいわれて、1月に、泣く泣く、再手術となった。

手術は、無事、成功したが、果たして、移植した骨が、つくかどうかは、また、別の話である。しかも、その左手にはギプスの変わりの、装具を装着したままで、利き腕ではない右手では箸を持つことも出来ず、パソコンで原稿を書くのには、約2倍の時間がかかる。

ということで、以上が、連載原稿の入稿が遅れた言い訳である。長々と、どうも、ゴメンナサイ。

戸村政博、野毛一起、土方美雄『検証 国家儀礼 1945~1990』(作品者、1990年)

前述した、鈴木首相による、1982年8月15日の、公私の区別をいわないというスタイルでの、事実上の「公式参拝」を、さらにもう一歩、前に進めたのは、同年11月に、首相に就任した、中曽根康弘であった。

以下は、戸村・野毛・土方共著の『検証国家儀礼』(作品社)からの、戸村政博さんの書いた文章の、引用である。なお、『検証国家儀礼』からの引用を、中心にしているのは、同書がもう、入手困難だからである。

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さすがに、「公私」についての、このような論議がいつまでも続けられるわけではない。事柄には熟する時があり、その時を歴史の中で実現する人物がいる。「戦後政治の総決算」をかかげて登場した中曽根康弘がその人物であった。靖国は「総決算」されるべき重要な柱の一つであった。

嗚呼戦に打ち破れ/敵の軍隊進駐す/平和民主の名の下に/占領憲法強制し/祖国の解体計りたり/時は終戦6カ月

1956年、中曽根氏が自民党憲法調査会の理事をしていたころ作った「憲法改正・民族独立の歌」の第1節である。それは、政治家中曽根の悲願ともいうべきものであった。隠忍30年、今やその時が回ってきたのである。

1938年7月、首相は自民党に対し、靖国公式参拝「合憲」の根拠づけを指示した。この指示自体が一方的であるということは、もはや論議の外であった。首相の蛮勇が発揮され、驀進が始まった。自民党政調会内閣部会靖国小委員会は、小委員長に奥野誠亮元法相を選び検討に入った。

まず、13人の学識経験者の講演と質疑応答を中心に、9月28日から10月19日まで、6回の委員会が開かれた。これに基づいて、同年11月14日、「靖国神社問題小委員会見解」(「見解」)と「詳説」が作成され、翌84年4月13日、自民党総務会で正式に決定された。「見解」の冒頭には、靖国神社公式参拝についての憲法判断を得るため、学識経験者の意見を徴し、「その結果、次の結論を得た」と明記されている。しかし、入手した講演会の速記録を徴すれば、13人の講演者中、実に5人までが靖国神社公式参拝「合憲」論に対して、反対あるいは同調しない立場の人々であった。しかも、その中2人は、政府の法制局関係者であった。その1、2の例を紹介しよう。

公式参拝は、私は相当問題だろうというふうな気がします。……これを「宗教にあらず」と断言することは、なかなか難しい。……疑いがあるにしても、それも相当疑問の強いほうの疑いであるということをいわなきゃいけないのじゃないかなと、いう気がしております。(林修三・元内閣法制局長)

公式参拝につきましては、地鎮祭と同列に論ずることができませんことは、あえて言うまでもないことであろうかと存じます。……法制局といたしましては、政府統一見解と同様、違憲ではないかとの疑いをなお否定できないと考えている次第でございます。(前田正道・内閣法制局第一部長)

これらの意見は、「見解」の中で全く無視され、まるで全員一致で「公式参拝合憲」を唱えたかのような印象を与える。これは、明らかに偽りであり、一方的な「作文」である。それは中曽根首相の強引な「合憲」検討指示にマッチしているともいえよう。

とりあえず、ここまでとし、以下は次号。

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