池内文平
*いわずもがなの【注】…「昭和」とかの〈元号〉にカッコ(「○○」)を付けるのは、ぼくらの「常識」ではあるけど、本文でそれをやると(おそらく)煩雑極ると思われるので、省略します——が、文脈によってはそのままカッコを付けることもあります。すいません。
〈1〉
ドキュメンタリー映画『山谷 やられたらやりかえせ』における「昭和」の刻印は明白である。映画の中ごろ以降の「越冬闘争」のシーンの直前に「初詣」の情景が挟まれていて、そこに「祝 昭和六十年」の看板が映されているからだ。今年が「昭和100年」とするとその40年前、1985年。その前年とその翌年、つまり昭和59年に佐藤満夫が、昭和61年に山岡強一が右翼ヤクザに殺されている。そのヤクザは昭和58年に「皇誠会」として山谷に登場した。山谷で展開されている闘争を潰すために「天皇に忠誠を誓った使徒」を名乗ったわけだ。

佐藤満夫監督
その「使命」の一環としてこの映画を発進させた監督(佐藤)と完結させた監督(山岡)を、刃物と銃弾で虐殺した。
昭和58年、1983年。そろそろ天皇の生命が危ないと言われ(裕仁:ヒロヒト=1901年4月29日生まれ)、天皇が死ぬ日を「Xデー」と名付けて、翌84年に「反天皇制運動連絡会」が結成され反天皇制運動が本格的に始まる。当時の首相であった中曾根康弘は、高齢の天皇(ヒロヒト)がやばいと思ったのかどうか、昭和60年8月15日に首相としては戦後初の靖国神社公式参拝を強行した。当日の靖国神社の光景は、右翼ヤクザの集団と現職軍人(自衛隊)、そして「憲兵」の腕章を巻いた兵隊服の男の参拝のシーンとして、この映画に記録されている。
〈2〉

山岡強一監督
せっかく「上映委」に原稿の依頼が来たのだから、なるべくこの映画の展開に沿って話を進めていこう。『山谷 やられたらやりかえせ』は、冒頭にも記したように、1984年12月に佐藤監督が撮りはじめ、翌85年の12月(佐藤監督の一周忌)に完成した。つまり、撮影は概ね1985年、昭和60年ということになる。映画のはじめの山谷の紹介部分は端折って、まずは、林歳徳さんのインタビューシーンから。
〈ナレーション〉……「林歳徳さんは、1918年、台湾で生まれた。19歳の時、軍属として強制徴用され、上海に動員された。だが、南京大虐殺をはじめとする日本軍の数々の蛮行を目撃、底知れぬ怒りを感じ、反戦脱走を敢行した。その後、日本に渡り、敗戦を迎えた。」
1918年といえば、台湾は日本の植民地支配下にあったときだ。年号でいえば大正7年。——「反/昭和100年」というこの「対抗言論」の枠からは少し外れるけれど、「敗戦80年」のほうに移行すれば、その敗戦した戦いの「初戦」は、最近よく言われているように、やはり明治27年、1894年の日清戦争だったといってもいいと思う。朝鮮のいわゆる東学の農民反乱(甲午農民戦争)に介入し出兵した日本は、清と朝鮮支配の主導権をめぐって争い、開戦した。その戦争が1945年、昭和20年の日本の「敗戦」にいたる(対外)植民地主義戦争の始まりだと思う。1894年からだから1945年まで50年間余り、日本はずっと戦争していたわけだ。
その間に、もちろん天皇の代替わりによって元号の名称は明治→大正→昭和と代わったけれど、天皇制は世襲として継承されて、憲法によって軍隊の統帥権(最高指揮権)は、じじい→おやじ→朕(ちん)に、家業のひとつの属性として代々受け継がれていった。
(日清戦争に話を戻すと)清は戦争に敗北し、1895年の下関条約で朝鮮への宗属関係を放棄して、台湾を日本に割譲、賠償金を支払った。清朝が支払ったこの賠償金は八幡製鉄所の設立に使われて、「鉄は国家なり」と言われたように、日本の侵略戦争はこれを機にますます本格化していく。林歳徳さんはこの歴史の中で植民地にされた台湾で「日本人」として生まれ、徴用されて侵略戦争に加担させられていったのだ。——19歳の時というから、昭和12年か。その年の7月7日、盧溝橋で日本軍が暗躍して「日中戦争」に入っていく。
林さんは映画の中で、敗戦直後の「新橋事件」のことを述べている。これはヤミ市での台湾人とヤクザとの戦いで、ヤクザは銃で武装して台湾人たちを叩き出そうとした。敗戦の翌年、昭和21年のことだ。ヤクザの背後には警察の意向があり、占領軍のMPもそれを黙認していた。「これが新日本帝国の誕生の本質だよ」と、林歳徳さんは喝破している。前年まで「帝国臣民」として軍隊・軍属に徴兵・徴用し、あるいは「労務者」として強制連行するなど、戦争のサイクルに組み入れてきた台湾人、朝鮮人を、翌年には「第三国人」と蔑称してニホン社会から排除しようとしてきたのだ。新橋事件などのヤミ市での出来事は、民間の者たちの間で起こった単なる「抗争」ではない。
その翌年、昭和22年5月2日に最後の勅令の「外国人登録令」が公布施行されたのだ。「台湾人および朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」と一方的に定められた。翌日の5月3日には新「日本国憲法」が施行されるわけだから、それを見越しての、どさくさ紛れの史上最後の勅令だ。こうして「天子の命令」によって、「日本臣民」はいきなり「第三国人」として排除され、その後の差別そのものの「外国人政策」は展開されていく。ドナルド・トランプの見境のない「大統領命令」に呆れている場合ではないのだ。
〈3〉
映画では、先の靖国神社の情景の後に日雇全協(全国日雇労働組合協議会)のデモのシーンが挟まれ、全国の主な寄せ場が紹介されていく。横浜・寿町/5500人、名古屋・笹島/500人、大阪・釜ヶ崎/20000人、博多・築港/300人。当時の労働者の数だ。これに山谷/8000人が加わる。もちろんこれは寄せ場に職を求める労働者の数で、船本洲治が「流動的下層労働者」と名づけたように、日雇い労働者は全国を流動し、寄せ場ばかりでなく直行、駅手配、飯場とさまざまな様態で存在している。

労働者(映画『山谷 やられたらやりかえせ』より)
この労働者たちは何者か? 山岡強一はこれらの流動的労働者は「…いわゆる産業資本主義段階の〈現役労働者と産業予備軍〉といった、交代可能な、あるいは出入りを望み得る」者たちではもはやなく、高度化した産業社会が「自らつくり出す景気の波動による吸収と反撥の安全弁であり、低賃金で使い捨てのきく過剰労働者群」として「差別支配下に組み敷いた」存在であると分析している。

路上団交(『山谷 やられたらやりかえせ』より)
つまり具体的にいうと、エネルギー政策転換によって職を奪われた炭鉱夫、総合農政によって離農と出稼ぎを強いられた農民、若年層、あるいは合理化による馘首、倒産によって失業した者たちが「渡り鳥のような労働者群としてつくり出され」て、あるものは寄せ場、飯場へと、あるいは季節=絶望工場などへと、全国に流民として流れ、散在化していったのである。いずれも無権利、未組織の社会の底辺である。これが1960年代、敗戦して15年以降の下層労働者の典型的な姿だ。

暴動(『山谷 やられたらやりかえせ』より)
映画の中では、その支配の現実のありさま——寄せ場での、文字通りの〈棄民〉の実態として、アオカン(野宿)する者たち、少年たちに殺された「浮浪者」、精神病院に送り込まれた者、暴力飯場の実態、そして病院をたらい回しにされて死んだ者、玉姫公園で「野たれ死に」した者たちの姿が映し出されている。
〈4〉
その〈棄民〉された者たちの出自の地はどうか?——映画の場面は一気に九州・筑豊にとぶ。閉山した炭鉱の巨大なコンクリートの廃墟。ボタ山。風にゆれるコスモスの花。朽ちた炭住の壁に貼られた古新聞の日付けは1962年(昭和37年)だ。昭和35年、1960年ころから筑豊・三池などの九州の炭鉱の閉山が相次いでいく。生産点そのものが消滅し、失業した労働者は流民労働者になっていったが、そもそもその土地、その現場、国家の政策によって消し去られた炭鉱とはどのようなものか?
〈ナレーション〉……「日本の産業を支えたのは筑豊であり、その筑豊を支えたのは、全国から流れてきた労働者、被差別部落民、そして、強制連行された朝鮮人であった。なかでも、もっとも過酷な運命を背負わされたのは、朝鮮人と被差別部落民であった。」
日清戦争後に建設された八幡製鉄所(昭和9年から日本製鉄)を支えたのは筑豊の石炭だ。映画では戸畑の「労働下宿」と豊州炭鉱の朝鮮人鉱夫の寮跡、「鮮人」と書かれた貝島炭鉱の謝恩碑が映される。労働下宿は八幡製鉄所の建設時に、出稼ぎ労働者を収容する飯場(千人小屋)として生まれ、その後は製鉄所の労務政策によって完成、管理された。いまから80年前の「敗戦」からさらに50年も前に「流民労働者」はすでにここにいた。
朝鮮人鉱夫の寮は、いうまでもなく、強制連行された「労務者」たちの収容所だ。日本国家は侵略戦争を遂行するために、国家計画として朝鮮人男性を動員した。日本人男性を兵士として戦場に送ったために、その戦争を支える後方の労働力が不足し、当の植民地化した朝鮮から男性を拉致して、「労務者」として戦争継続のサイクルに組み込んだわけだ。むろん、使い捨て自由、つまり、命を奪うのも自由な労働力として。
強制連行は、昭和13年に「国家総動員法」が施行され、労務動員計画が策定されて、1939年、昭和14年から実行に移されたが、朴慶植の記述によると「1937年7月 日本帝国主義の本格的な中国侵略開始(日中戦争)後は既に「大陸兵站基地」に化した朝鮮でより活潑に、より苛酷に食料資源、地下資源の略奪、軍需産業の拡大が進められるとともに、さらにまた朝鮮人労働力の戦争政策への大々的な動員が計画された」(『朝鮮人強制連行の記録』)としている。侵略戦争の実態はこのように進行していったのだ。——ちなみに朴慶植さんは、動員されたのは「労働者」ではなくて「労働力」と正確に記している。
戦場では、下級兵士たちは戦略・戦術によって配置され、計画的に命が使い捨てられる。それと同じように「労務者」たちは、労働力として国家権力によって動員され、配置されて、計画的に使い捨てられていった。映画に登場する、流民化し社会の底辺にいる労働者たちは、偶然そこに入り込んだわけではない。山岡強一が指摘したように、資本の生産活動の中で生み出され、いつでも自由に使い、いつでも自由に捨てられる「生産の安全弁」として、支配構造の最も下部に配置されている労働力なのだ。
〈5〉
……と、「昭和100年」の視点から40年前にできた映画を(少しながら)辿ってみた。ドキュメンタリー映画はみんなそうだけど、二次元の映像のなかに何重もの地層が重なって奥行きを広げていく。『山谷 やられたらやりかえせ』の場合は、それは《昭和の時間帯》といってもいいだろう。しかもそれは、単なる時代の記憶ではなくて、「労務者」という肉体の中に織り重なっている生きた記憶だ。それを文字にして表せば、「黙って野たれ死ぬな!」ということになる。
*映画『山谷 やられたらやりかえせ』は不定期でミニトーク付きの上映会が開催されています(同映画上映委員会主催)。開催については、案内が届き次第本サイトインフォメーションでもご案内します。時々ご確認ください。(編集部)