野毛一起
明仁前天皇の短歌
2012年の歌会始で披露されたものですが、明仁前天皇のこんな歌があります。
津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる
前年5月、東日本大震災の「見舞い」のため、皇后とともに岩手県を訪れた天皇が、ヘリコプターから津波の被害に遭った地域を視察した。宮内庁の説明によると、この歌はそのことに因んだものとあります。
さらに翌年2013年の歌会始では、
万座毛に昔をしのび巡り行けば彼方恩納岳さやに立ちたり
という歌が披露されました。これについても、前年11月に沖縄で開催された「全国豊かな海づくり大会」に出席し、併せて「恩納村」に立ち寄った天皇が「18世紀の琉球王朝の時代に思いをいたされて」詠んだものと説明されています。
ほかにも明仁前天皇の歌は、「植樹祭」「国民体育大会」、被災地見舞やその関連行事、障害者、子どもの施設訪問、外国訪問などにちなんだものがほとんど。それらが歌会始で恭しく披露されるのです。以下、ランダムに選び、年代順に上げてみます。
いにしへの人も守り来し日の本の森の栄えを共に願はむ (1991年)
山荒れし戦の後の年々に苗木植ゑこし人のしのばる (1996年)
うち続く田は豊かなる緑にて実る稲穂の姿うれしき (1997年)
園児らとたいさんぼくを植ゑにけり地震ゆりし島の春ふかみつつ (2002年)
トロンハイムの運河を行けば家々の窓より人ら笑みて手を振る (2006年)
炬火台に火は燃え盛り彼方なる林は秋の色を帯び初む (2008年)
慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり (2014年)
贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に (2019年)
これらはいわゆる天皇の「お出かけ」を素材にし、またそれに関連のある歌ですが、ほかにも地方に出かけてゆく天皇がみずからの思いを描いた歌もあります。
我が国の旅重ねきて思ふかな年経る毎に町はととのふ (2003年)
人々の幸願ひつつ国の内めぐりきたりて十五年経つ (2004年)
こうした歌からは、各地への「お出かけ」によって、みずからが天皇であることとその役割を確認する/させる積極的な姿勢がうかがえます。さらには、不当に政治処理がなされ、対応がろくにできていない問題についても、天皇は言葉ひとつで「戸締り(後始末)」をするのです。
地震や津波によってすべてを失い、いまなお心身ともに傷だらけの人たちのところに出かけていき、かつて津波に襲われた地域だが今は「海は青く静まる」と歌って、事を鎮める。アメリカに軍事基地として売り渡され、「返還」後も基地化をやめることなく、さまざまな「格差」のなかに放り込んでいる沖縄の人々に対して、「彼方恩納岳さやに立ちたり」と歌って、琉球王朝のかつての栄華を持ち出してごまかす。このように天皇の「祝詞」(のりと)による「戸締り」が、これらの短歌には見られる。これは妥当な読み方だと考えます。
「歌の主体」「詠み手の主体」「受け手の主体」について
これらの歌に接して、わたしが次に感じ取ることは「歌の主体」との違和です。「歌の主体」とは歌の言葉を導いている(行為)主体のことですが、何をどこからどのように見て聞いているのか、歌にはそのなかの行為の「仮主体」が設定されている。それによって当該の歌固有の「場」と「時間」がもたらされるというものです。ですから上に掲げた明仁の短歌では、歌の言葉のなかで見たり聞いたり知覚している「私」が「歌の主体」を構成し、その場や時間が形成されています。
けれども、これらの短歌について言えば、そこで描かれた事物が何を指しているかは認知できるものの、その意味を受け取るとなると怒りに通じる違和しか生じない。私にとっては、まったくありえない「場」と「時間」が広がっているだけで、そこからは「よいもの」が何も生じてこないのです。だから、わたしにとって、これは歌ではない。
ところで、歌には「詠み手」としての主体もまた刻まれています。短歌では歌の前に作者の「署名」があり、場合によっては詞書(ことばがき)も記されています。それが「詠み手の主体」を解くカギです。明仁の短歌では「御製」(天皇の詩歌)であるという「署名」や宮内庁が短歌の後に添えた「説明」がそれにあたります。こうして「詠み手の主体」が「歌の主体」の根っこに分かちがたく横たわっている。そのうえややこしいことに、その歌を聞く側つまり「歌の受け手」(読者)の主体もまたある。こうしてそれら少なくとも三層をなす主体群が「歌」の言葉を媒介にして、それらを包摂する「空間域」を構築するのです。「歌を受け取る」とはそういう空間が構築されることであり、それによってはじめて「歌」は成立するのです(この問題はややこしいので、必要に応じて、後で展開します)。
ですが、明仁前天皇の短歌は、わたしからすれば「歌の主体」が「受け手」からはまったく乖離していて、ほとんど何も見えないし聞こえてもこない。ですから歌の言葉を受け取ることができず、宣告や強引な誘導としてわたしの行く手を遮るのです。ですから、はなはだしい不快感と違和に襲われ、とてもその言葉を受け取る気にはならない。なぜなのか。そのことについて以下説明します。
「政治利用」ではなく、政治的主体として振舞う天皇、そしてその歌は「国見歌」のようだ
歌会始で披露された「御製」にこういうのがあります。
外国の旅より帰る日の本の空赤くして富士の峯立つ (1993年)
歌会始で詠まれた天皇皇族の短歌に、宮内庁のホームページで説明書きが添えられているのは2004年以降です。ですから、この1993年に詠まれた「外国の……」の歌の状況を「詠み手」側の言い分から知ることはできません。けれども、天皇の短歌であるという署名と詠まれた年月日によって、ある程度推察できます。
「外国の旅より帰る」とあるのは、1993年以前になされた外国訪問のことですが、それについては直近の外国訪問を考えるのが妥当でしょう。つまり1992年10月23日から28日までの天皇「訪中」です。この年は中国以外には外国訪問はありませんでした。明仁天皇が即位(1989年)してのち、最初に出かけたのがタイ・マレーシア・インドネシア(1991年)で、それに続いて2度目がこの中国への訪問です。だけどもこの天皇訪中はすんなりとはいきませんでした。さまざまな批判や反対の動きがあり、政府内部でも意見対立があって、すったもんだの挙句、やっと実現した「珍劇」でした。
それらのことから、この短歌でいう「外国」(とつくに)とは中国のことであり、「訪中」を終え、帰りの特別機の中から「日の本の空赤くして富士の峯立つ」景色を見ている、と読み取るのが妥当でしょう。実際はどうであれ、あえて詞書も説明もないわけですから、1993年の歌会始で披露された時には、「外国」というのは「中国」のことだと受け取られることが前提になっていると思われます。
1992年の天皇訪中は、「日中国交正常化20周年」を記念して、という名目ですが、「天安門事件」で国際的な顰蹙を買った中国側が天皇訪問を要請した、と言われています。国際社会での孤立を避けるべく、日本=天皇に力を借りようとしたというわけです。日本側も、中国外交を通して国際政治の場でその力をアピールできると、かなり乗り気でした。しかし、これをめぐってはさまざまな反応や批判が吹き出しました。というのは天皇訪中に際しては、これまでの中国と日本の関係を振り返り、日本がかつて中国を侵略し植民地化を進めたこと、それにより夥しい犠牲者を出したことの「戦争(犯罪)責任」と「補償問題」に踏み込まねばならないからです。しかもそのころ再浮上した「尖閣諸島」への中国の介入と挑発行為を棚上げしたうえで、侵略戦争への「謝罪」を天皇の「お言葉」に盛り込むことに関して、当時の日本政府は意見調整に奔走したのです。
そんな状況で何より奇異だったのは、いつもは天皇を担ぎ出す右派勢力が「天皇の政治利用をするな」とか「屈辱外交だ」と騒ぎ立てたことでした。さらに政権与党内でも対立があり、なかなか収拾がつかないため、当時首相であった宮沢喜一はビビリまくりでした。反天皇制運動側からの批判も強かった。天皇があたかも国家元首のように振る舞うこと、そして「お言葉」ひとつで、天皇あるいは天皇制国家の戦争責任を清算しようとすることの許しがたい不当性を突いたのです。
それでも「歴史上はじめて」という触れ込みで、日本天皇による訪中は強行されました。そして楊尚昆国家主席主催の晩餐会で、明仁天皇は次の文言を含む「お言葉」を宣べたのでした--「わが国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と。
最近になって、この天皇訪中のごり押しには裏工作があったことが明らかになりました。昨年末に公開された外務省の公開文書によって、この一連のやりとりの背後に当時外務省の最高ポストにいた小和田恒(現・皇后雅子の父)がいたこと、そして小和田を中心に外務官僚がいろいろと裏工作をしていたことが分かったのです。(詳しくは本サイトの「外交文書公開に際して、改めて『天皇訪中反対の論拠』」を参照してください)
そのことを考えても、天皇はただ「利用された」のではないのがわかります。少なくとも自分の意志を反映させる人脈はあったのですから、それなりの意図を持って「訪中」に臨んだことは容易に推測できます。
とはいえ推測の域を出ないことを前提にして、天皇の短歌を解釈することはできません。ですから、ここでは短歌自体に語らせることにします。
再び先の短歌を引用しましょう。
外国の旅より帰る日の本の空赤くして富士の峯立つ (1993年)
この歌を見て直観的にこう思いませんか。「何だ、これは!」と。かつての戦時下で「日本の精神と情緒」を描いて見せた日本浪漫派だって、ここまで浮薄な表現を用いなかった。
このような短歌に遭遇すると「それが歌といえるのか」という気持ちになります。「外国訪問の旅を終えて帰ってくると、赤い夕日に映える富士の峰が立つのが見えてきた」と言い、併せてその風景を「これこそ日の本の空、日本の富士の山なのだ」と詠んでみせる。「夕日に染まる空と富士山を見て感動した」という、じつに素朴な情感であっても、しかし、天皇が詠んだということで、そちら(天皇)の方向に言葉が引っ張られていく。こうしてその歌の言葉から「詠み手」である天皇の「主体」が浮かび上がってくるのです。「歌の主体」は「詠み手の主体」(ここでは天皇であること)に塗りつぶされてしまう。だからこそわたしは「これが歌といえるのか」と言わざるをえないのです。
この短歌にはさらにもうひとつのイメージが重ねられています。「赤い(夕)日」の表象がその契機になっています。空や富士山ばかりではなくあたり一面(見渡すかぎりの国土)を染める赤くて丸い太陽、つまり「日の丸」のイメージです。そして、もしこの歌が中国訪問の帰りに詠まれたとするならば、この歌からは、訪ねたばかりの中国に対し、後ろ姿で「日の丸」と「フジヤマ日本」を突き付ける天皇の姿が浮かんできます。
「わが国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と宣べたのは、結局、何だったのか。中国に対して天皇が謝罪するのは「天皇の政治利用」であり「屈辱外交」だと右派勢力が「憂慮」するまでもなく、明仁天皇はもとより「謝罪」するつもりはなかったことがわかります。そもそも政府の作成した天皇の「お言葉」で「私の深く悲しみとするところ」と言ったところで、これは謝罪などではない。逆に、天皇が心を痛め「悲しみとする」ことを伝えることで、相手に「察しろ/忖度せよ」と要求する「言語行為」なのです。そんな天皇制固有の言語行為で事を片付けようとしたのです。けれども、そんなもので何がどう伝わり理解されるというのか。
このように、この歌には、外国に対してまで天皇制の言葉と文法によって行為する「天皇という強い主体」が窺えます。この「言葉まわし」が「ソフト」を装う明仁天皇制の特徴と言えるでしょう。
天皇の歌における「言語行為」
そもそも、なにゆえ天皇はこんな短歌を詠むのか。それに関連して思い起こす歌があります。
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山
登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ
海原は かまめ立ち立つ うまし国そ 秋津島 大和の国は
これは万葉集巻1の二番歌、舒明天皇の「国見歌」です。舒明天皇(641年没)は豪族蘇我氏の力を排除し、中国・唐の律令制度を取り入れて、天皇への集権化を図ろうとしました。その遺志は子の中大兄皇子(後の天智天皇)に引き継がれ「大化の改新」へと至る。そういう時代の天皇です。
「国見」というのは、天皇などがその支配地を高所から眺める象徴的な行為で、それには土着権力との服属関係が確認されるなどの儀式がともなっていたと思われます。そのような儀式の折りに天皇の「国見歌」が披露されたのでしょう。さらにまた天皇の言葉の力によって、その地に豊穣がもたらされるといった祝詞のような意味合いもあったかもしれません。「国見歌」は、万葉集だけではなく記紀神話にいくつも登場します。この歌では大和地方を中心に支配する「おおきみ」舒明天皇が、香具山に登り「国見」をして詠んだという設定がされています。
香具山に登って「国原」(支配地側)を見れば、民らの豊かな暮らしぶりが眺望できる。そして他方を見れば、カモメが群れ飛ぶ豊かな海。まさに「うまし国、秋津島たる大和の国であることよ」と讃えているのです(国見歌には一定の型があるようですが)。しかし香具山は奈良盆地にある低い山ですから、そこから海が見えるはずがない。ですが、それが見えてしまうのは天皇の国見歌だからです。つまり、天皇が国見歌として詠んだという「詠み手の主体」が、ありきたりで陳腐で虚構ですらある歌の言葉を凌駕してしまう。そういうことなのです。実際この歌の言葉にはさしたる面白味もなく、天皇が詠んだとする国見歌でなければ意味が取れないし、つまらない歌です。披露するほどのものではない。
けれども、天皇の歌とはこういうものです。「詠み手の主体」つまり天皇であることが強く押し出され、歌の言葉を祭儀的権力と情感に絡めて(時には呪術的に)乗っ取ってしまう。それによって歌の言葉は「受け手」に対して、「良い/悪い」「響く/響かない」の反応を許さず、ただイエスかノー(従うか/従わないか)を求めるものになるのです。国見歌にはそれが顕著に表われています。そして明仁天皇の短歌も、基本的にはこの「国見歌」の権能を備えています。別な言い方で表わすと、天皇短歌は古代から天皇の「言語行為」として機能しており、明仁の短歌もそれを積極的に取り入れているということです。
ところで「言語行為」という概念ですが、その提唱者であるJ・オースティンの「言語行為論」は発話の言葉が主な対象です。発せられた言葉を「事実認識的なもの」(事実に言及するもの)と「行為遂行的」(言葉が命令や拒否や依頼などの行為としてあるもの)とに大きく分けています。さらに「行為遂行的発話」を言語学的な見地から細分化し、詳細に分析しています。それによって「行為としての言葉」の仕組みを明らかにしようとしたのです。今日のチャット型のAIには、その言語分析の技術が用いられていると思われます。
ここではオースティンの「言語行為論」そのものを取り入れるつもりはありません。「発話」の問題でもありませんから。しかしそれを参考にすれば、天皇の短歌が「行為としての言葉」であり、それが社会関係に働くことで、一定の空間域で政治や権力関係を作り出し動かすことができる。そのしくみを説明できるのではと考えています。天皇の短歌を「行為としての言葉」として捉えると、明仁天皇制の「天皇としての主体」と力の作動のしくみがよくわかるのです。
このことは「全国豊かな海づくり大会」「植樹祭」「国民体育大会」や被災地の見舞やその関連行事、障害者や子どもの施設訪問、外国訪問などでの「お言葉」や、それに因んだ短歌についていえると思います。
前々回の天皇の「お言葉」の問題についても、この視点から分析しました(天皇の戸締まり(4) 皇室の表象——行為する「おことば」)。今回は短歌ですが、基本的には同様の視点から考えています。
「言語行為」の「受け手」の問題
ただし、短歌の場合には多少事情が異なります。
天皇の短歌における「行為としての言葉」を受け取る/受け取らないの反応は、「植樹祭」「国民体育大会」や被災地見舞などの政治的な社会関係や空間域でなされるものとは異なっています。それは主に文化的な空間域で(政治的に)遂行されるからです(それらを一緒くたにして「危険人物」を取り締まる、程度のよくない官憲もあるのですが)。
ですが、このような統治主体の「言語行為」を受け取らないとしたら、どうなるでしょう。天皇の短歌でいうと、それは歌の「受け手」にならないということですが、通常それじたいが問題にされることはありません。天皇が現地見舞いに来るのを断わったり反対するのとは、社会的政治的な意味合いが異なるからです。
天皇の短歌の「受け手」にならないということは、まず直截な反応として「何だ、これ?」と言うことです。その言葉の意味が取れず、言葉の持つ世界が理解できないわけですから当然でしょう。さらに「受け取り拒否」をしたいなら「なんだ! これは!」となる。
けれども、そのことを言明した場合、社会的な動きがでてきます。言明の仕方や規模によっても異なります。ですが一般的には、天皇の短歌が理解できないような無教養者と思われるかもしれません。あるいは偏狭な思想信条のゆえ「言葉のあや」や「文学性」が理解できないのだと侮蔑されるかもしれません(わたしが経験したように)。
だからこそ、ある「歌人」たちは「文学性」を唱え、また言い募り、天皇短歌にそれを見出したように装い、自らの短歌の「文学性」を高めようとする。あるいは「文化人」のなかには、「やさしさ」「おもいやり」「うつくしさ」などの情感を天皇短歌から引き出し、そのことが評価されることによって自分の「文化価値」を高めようとするわけです。こういう景観が天皇制という空間域でさまざまに形成されています。
このように天皇短歌の「行為としての言葉」は「受け手」との社会関係により異なる発現形を持つことになります。オースティンの「行為遂行的発話」でも、その言語行為が命令、依頼、拒否、要求……など多様で異なる作用と結果を生じさせることに言及しています。なかには「誤読」も生じることでしょう。
ですから天皇短歌は、「受け手」の問題抜きに扱うことはできません。そうでないとその全体が見えてきません。天皇短歌がどのような「行為」であり、どのような結果と結びつくのか。
次回は、このつづきを書きたいと思います。また別な短歌(天皇徳仁・皇后雅子の歌など)を取り上げながら、上記の「受け手」の問題を扱いたいと考えています。