野毛一起
宮内庁インスタについて
4月1日から宮内庁はインスタグラムを採用し、そこで皇室情報(映像を主としたもの)を頻繁に流すようになりました。「若い世代がもっと親しみをもてるように」ということですが、かつては「菊のカーテン」と皮肉られた皇室の秘密主義を考えると、大きな転換のように見えます。フォロワーは4月21日に100万を超え、5月初めには120万、そして5月末には140万という増え方をしています。一部では「大人気のインスタ」と言われています。しかし最初の1か月で120万、次の1か月では+20万という数字をどう読むかの問題があります。というのは、イギリス王室のインスタは現在1300万を超える(国際的)フォロワーを持っています。それと比べるとこの数字が「見劣りする」のは明らかです。
今後も宮内庁は、より多くのフォロワーを獲得できるようにと、インスタに登場する皇族や話題を選択し、巧みに編集することでしょう。しかし他方で、永田町では「安定的な皇位継承」をめぐる議論の最中であり、宮内庁インスタがどういう方向でどの皇族を押し出してくるのか、今は実験的な状況にあるといえます。さらにイギリス王室のインスタに見られるように、フォロワーの反応には「両刃の剣」の性質があります。人気の皇族は憧憬の的であると同時に、その秘密をもっと知りたい欲望に晒されるのです。ですから、それへの対処も考えていることでしょう。
宮内庁インスタは多くの要素を内包しており、考えるべき問題も多いようです。しかし、始まったばかりの不安定なものを今すぐ扱うのは、私には荷が重すぎるようです。近いうちに取り上げてみたいと思っていますが、その前に整理しておかねばならぬことがいくつかあります。
皇室という表象
皇室をめぐる「表象」は、どのようにして作り出されるのでしょうか。かつての皇室情報といえば、新聞などで天皇や皇族の写真と「おことば」の一部や「敬語使いまくり」の記事があり、そしてテレビニュースでの映像とコメントが主流でした。皇室を紹介するテレビ番組もありました。テレビには厳しいコードがあって、天皇の「生の声」や食事の場面などは報道されませんでした。だけども同時に、スキャンダルめいた情報を提供する週刊誌などもありました。そのニーズは昔からあったのです。そういうマスメディアの構成は、今も基本的にあります。
しかし最近はかなり変わってきて、メディアの報道姿勢は「皇室の魅力を押し出し、親しみを感じさせる」方向に変化してきました。つまり「神秘を湛えた高貴な存在」から「親しみを感じられるセレブ」への移行です。
それに加えて、ネットニュースやSNSを介しての「生撮り写真」やコメントが大っぴらに出まわるようになりました。皇室側からすれば、そこで何がどのように表象されるかがほとんど予測できず、制限することも難しいという課題を負っています。
こういう状況のなかで始まったのが先の宮内庁インスタであり、これは皇室側から発信された「公式の表象」といえます。「公式の表象」が必要になったのは、今日さまざまな表象がさまざまに飛び交い、焦点が定まらぬままに拡散しているからです。この状況では「規制をかける」こともままならぬわけで、そうなると皇室情報の「焦点化」をはかり、情報の中心から周縁、公式情報からガセネタまでの配置をある程度明確にする必要がある。宮内庁のホームページやインスタの情報は、そのための物差しとして機能するわけです。
ところで問題は、これら皇室に関わる「表象」とは何か、その表象群がそれぞれどのような作用をもたらしているのかということなのです。とはいえ、ここで表象群を一括して論じることはできません。さらに皇室の表象は、皇室のメンバー自身から発せられたものなのか、皇室の言動を捉えた者が起こした表現なのかによって意図や作用が異なってきます。天皇が発する言葉ですら必ずしも天皇自身が考えたものではなく、宮内庁などの関係者が一定の意図をもって作成したものを語っている時もあります。
天皇は自分の言葉で意見を言ってはならないというのが、少なくとも現憲法下での「象徴」の立場なのですから、天皇の言葉は「天皇として表象されたもの」から引き出された言葉になるはず。つまり本来は「表象されたもの」から生じる二次的「表象」なのです。
ところが明仁天皇時代から、天皇は自分の言葉や意見を「おことば」に盛り込み、それを公的に発するようになりました。つまり「表象されたもの」が「表象それ自体」に介入し、「表象」の中身について意見を言うようになった。このことをたとえていうなら、展示されたシンボルがおのずと語り出して「これはこうである」などと解説するようなものです。こんな奇妙な光景が象徴天皇制では平然と生じている。そもそも「象徴」などという精神的産物を物質的存在が演じきることじたい無理がある。ですから当の本人が「象徴」の意味もろくに考えぬまま演じる「象徴天皇」は、どう考えても論理的に破綻した想像であるといえます。そして明らかな破綻の上に破綻を重ねることが可能な「表象権力」を有するのです。
天皇の言葉
そこで次に、皇室の表象が「表象権力」を持つことを明らかにするために、天皇自身が発した言葉をいくつが取り上げてみましょう。
宮内庁によると、天皇の言葉には扱いの区分けがあります。まず1つには公式行事での発言や挨拶、2つめはテレビインタビューによる発言、3つめはビデオ映像を用いて自ら発言する「ご感想」、4つめは「講演」です。5つめは被災訪問地や皇居の園遊会などでする短い「お声掛け」。
1から3までは区別なしで「おことば」と呼ばれています。5の一部もそう呼ばれることがあります。国事行為の場だけではなく「公務」とよばれる法的に未既定の場での発言や私的な感想も、すべて天皇の「おことば」として扱われているのです。そして「一般人」と交わす言葉は「お声掛け」であって「言葉」ではないというのはじつに奇妙です。しかも「お声掛け」は、主体が超越的に天皇側にあり、声を掛けるも掛けないも天皇次第。つまり面と向かって互いが交わす会話ではなく、天皇が一方的に投げかける「お情け」であるという意味です。天皇から「お声掛けを頂く」という表現が如実にそのことを示しています。つまり天皇には「会話的言葉」は存在しないということなのです。
もちろん皇居内で妻や子など家族と交わす会話はあるでしょう。ですから会話の仕方は知っているし、会話もできるはず。しかしそのような会話的方法を、天皇としては用いないことになっているのです。いまなお天皇は「人間」ではない。ですから「会話」を一切用いない天皇の言葉は、皇居内の家族プライバシーの保護のためではないのです。
そうではなく、ここには天皇の言葉とは何であるかを示すもの、そしてその言葉のありようの証左があるのです。そうしてその「言葉」を受け取った人々が、時として「お優しい」「思いやりのある方」「励まされた」と涙ながらに語るわけです。そうであるなら「会話」ですらない天皇の言葉が「会話的に」機能し、人々の情動に作用するのはなぜか。天皇の言葉がもつそのような「力」の出所が問題なのです。
言葉のはたらき・その1--「詔勅」
その問題を考えていくうえで、言葉の区分について別な視点から考える必要があります。その区分けの仕方はこうです。
①宣言および宣告としての言葉
②相手の主体を呼び起こさせる言葉
③情報伝達のための言葉
①は、裁判官の宣告をイメージするとわかりやすいと思います。法令などの言語もそうです。境界を明確にしながら、言葉によって事柄を規定・構成する行為です。これは社会システムを基礎づける言葉です。ですから確固たる境界を持ち、特定の社会やその成員を脅かす諸力を排除し統制する。いってみれば「それはそうである」という「社会的事実」を構成する装置です。私は「空間化のための言葉」と呼んでいます。この言葉は法的・政治的権力を帯びています。
ところで、この言葉を天皇が用いた時には、かつて「詔勅」と呼ばれたものになります。これは近代天皇制では国の中心に置かれた天皇の言葉ですが、敗戦後に「改編」された象徴天皇制では、このような言葉は社会システムから削除されたはずでした。
ところが、敗戦占領下の1946年1月1日の新聞で発表された天皇裕仁の「人間宣言」は新体制では認められないはずの天皇の言葉——まさに「勅語」として公示されました。「戦後民主主義」とともにある「新たな天皇制」の出発点と言われることもありますが、それは間違っています。なぜならその「人間宣言」はここに至ってなお名称も形式も天皇の「勅語」として宣告されたからです。それは「新しい天皇位」が何であるかを示しながら、巧みに天皇への「敬愛」を説き、天皇の下での国民像を示しています。自分は神話的な「現御神」ではなく、国民と結ばれ敬愛されるべき「天皇」であるという超越的な「宣告」。連合国最高司令官マッカーサーのもと(「沖縄譲渡」の密約をしながら)、象徴天皇制はこの「勅語」からスタートしたのです。
然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
いかめしい表記のせいだけでなく、その内容ときたら人間の言葉でもなんでもない。超越的な位置にいる天皇からの一方的な言葉です。この「勅語」によって、天皇は「神話的存在」であることを否定し、新しい概念の天皇であることが言い渡された。しかもその内容は(ここでは全文は引用していませんが)、明治天皇の「五か条の御誓文」を理想に掲げ、「朕と国民」との関係を以前の天皇のありようのまま示している。
新憲法施行後の1947年の第一回国会の開会式でも天皇裕仁の言葉は「勅語」と呼ばれていました。「本日、第一回國会の開会式に臨み、全國民を代表する諸君と一堂に会することは、わたくしの深く喜びとするところである」から始まる天皇の言葉は、「朕」が「わたくし」に代わったものの、言葉の形態は名目ともに「勅語」でした(1952年12月の第15回国会までこの「勅語」は続いた)。
こうして象徴天皇制は「勅語」によって始まったわけであり、「天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」という「人間宣言」は、天皇が言い渡す「国家と国民の境界」すなわち天皇への「敬愛」によって「紐帯」化された国民と国家、その「空間化」の宣告でした。そのうえで「これからは天皇は神のようにふるまうことをしない。国民の敬愛によって結ばれる天皇が、国民を見守り、国民と共にある。この私が中心に居てあげるから、国民は戦争の被害(天皇の犯罪性や責任には触れないで)や艱難を乗り越え、新日本建設に励みなさい」といわんばかりの「言い渡し」でした。これが象徴天皇制の出発点だったのです。
さらにそれから70年経った2016年8月に、今度は天皇明仁がビデオインタビュー(私的な意見表明)で「退位」を表明した。「象徴としてのお務めについての言葉」と呼ばれていますが、これは天皇位を息子(皇太子)と交代するための「言い渡し」であり「勅語」のように機能しました。なぜなら社会システムの根幹理念である法を改編し、制度を変えるべく政治権力を作動させたからです。「それはそうである」と天皇が発言したならば、それは単に情報を伝える言葉ではなく、新たに規定された事実を構成する行為となる、そのための権力を発動させることができる。そのことを示したのが、この天皇明仁の言葉だったのです。
ところで「おことば」では、空間域だけではなく時間の境界や規定も宣告されることになります。これもまた「宣告」の言葉で生じる事態です。時間の「戸締り」さえ可能になる。過去の時間が無くなったり改竄可能になる。この「宣告」によって、たとえばオリンピックなどの特別な行事や国家行事その他の「祭儀」の空間では、異なる時間が流れ出すあるいは停止するのです(これについては新海誠のアニメ映画『すずめの戸締まり』が参考になる。厄災をもたらす邪神を追い返すため唱えられる「祝詞(宣告)」そして「閾〔いき〕を示す扉(空間域と時間域の設定)」)。こうして「宣告」による空間化は成し遂げられる。
このように機能する天皇の「おことば」は、象徴天皇としての「表象権力」を隠し持っています。
言葉のはたらき・その2--象徴天皇制的「主体」が立ち上がること
②に区分された言葉は、他者からの呼びかけとしての言葉です。本来この言葉にはさまざまな課題と可能性が秘められています。フランスの哲学者アルチュセールは、他者からの呼びかけによって「主体」が立ち上がることを哲学的テーマにしましたが、まさにそれに関連して「他者からの呼びかけ」としての言葉は重要な働きをします。
「主体」とは確固として自己の内部にあるのではなく、常に外部からの「呼びかけ」によって構成され破壊され再構成される。つまり「仮現的」なものだと考えています。私はこの破壊と再構成が繰り返されることを「空間化の破れ」あるいは「空間的干渉」と呼んでいます。そして「破れ」なしでは仮現的「主体」は生じないということと併せて、「破れ」は自己の外部化の大きな契機になると考えています。言葉はそのような「主体」の構成と破壊に関わっている。言葉だけに限定しませんが。言葉もその契機のひとつになりうる。
ところがそれが天皇の言葉であったなら、大きく事情が異なってくる。天皇の言葉は前もって規定された領域や行動の閾を持っています。つまり天皇の言葉は「他者」のそれではなく、はじめから最後まで「天皇の言葉」で完結する疑似空間を構成し、その中でのみ作用するものです。放たれた言葉やその意味が、すぐさま「天皇によって語られたことの意味」に凌駕されて生じるといってもいい。こうして天皇の言葉は「天皇を象徴とする国民のアイデンティ」と「受け手の主体」とを結び付けていく。そして、そこではじめてその意味が立ち上がるよう作用するのです。この意味の立ち上がりが「主体」を構成する。それはまさしく天皇の言葉の下での「主体」です。これは「主体」を脅かし呼び起こす本来の「他者」の声ではありません。天皇制という祭儀空間の中での「他者の声」であり、その中での「自己主体」のあらわれなのです。
あるいはこう言い換えることもできます。天皇の言葉や表象が持つ働きは「他者の言葉」ではなく、天皇制国家の下に回収されるべき「自己主体」の呼び起こしであると。それは「空間化」のために、あえて「破れ」が見えるようにしたうえで(たとえば「ちっぽけな自分」の目の前に「あの天皇」がいるという「主体」の緊急事態を作り出して)、それを「繕う(救済する)」行為として、天皇の言葉が作用すること。つまり、主体を破壊・再構成へと解き放つのではなく、象徴天皇制の空間化へと収斂するものだということです。
被災地へのお見舞いで発せられる天皇の言葉(「お声掛け」)は、そのような言葉のはたらきを持つように思われます。
言葉のはたらき・その3--情報が「勅語」になる時
言葉のはたらきとして情報伝達があることは、例をあげなくても理解可能と思います。ただここで確認しておきたいのは、前述①②の言葉については、受け手が示す最初の態度は諾(イエス)か否(ノー)なのですが、③の情報伝達に関してはそれが「真」か「偽」かの判断が最初の行為であるということです。この違いがあります。もちろん真と偽に関する定義は個々に異なることもあり、どの判断基準をとるかについて諾否的な要素が絡むこともありますが。
ところで天皇の言葉に見られる情報伝達機能ですが、ここでも天皇の場合は特殊な扱いになるようです。通常なら情報伝達の言葉はそれが真か偽かの判断が求められると言いまた。しかし天皇の発する言葉にある情報は、疑いもなく「すべて真」であるという前提があり、同時にそれが事実として遂行される作用を持っているようです。
たとえば、前に天皇皇后の被災地見舞のことに触れました。被災した現地に降り立ち、荒れはてた焼け跡や津波の跡地で黙祷をした後、関係者と会って「被災者の皆さんは大変な目に遭われている」などと言うだけで、特定地域に国や自治体の特別予算が組まれ、復興事業がはじまるわけです。ですから、天皇の言葉にある情報は「真偽」の判断や検証なしで、いきなり社会事実を構成する「宣告」となりうる。天皇の言葉にのせられた情報は、実は情報としてではなく「勅語」として機能することができるということなのです。
こうして見てゆくと、天皇の言葉は①②③の言葉のはたらきのすべての分野において、表象権力を内蔵していることがわかります。天皇の言葉は、受け手に向けられた「動詞」と「時制(過去、現在、未来とその完了形)」の発現をともなっています。それは単なる言葉ではありません。「おことば」は表象権力が作用する場であり、行為する言葉なのです。
先の5月26日のことです。岡山県で開催された植樹祭で、天皇徳仁はこのような「おことば」を宣べました。「現在では『木を伐って・使って・植えて・育てる』という林業のサイクルを循環させる取組が推進されるとともに、花粉の少ない少花粉スギやヒノキへの植替えが進められるなど、森林が守り育てられていることを喜ばしく思います」。
これによって林業関係者が勢いづいて「花粉の少ないスギやヒノキへの植え替え」をし、「森林の保全」事業の推進を進めるという「社会的事実」が作動する可能性があります。そして事業への取り組みや予算拡充が全国的に進むようになれば、やはりこれは「勅語」としての機能を果たすわけです。いまなお天皇の言葉は「詔勅」性を保ったままなのです(天皇側もそれを保つために、多くが認めると思われる情報をやや遅れて発信することもある)。
どちらにせよ「おことば」は(現行法においても)許される行為ではありません。天皇が「喜ばしく思う」ことが「国民」の関心事にはならない。ましてや「国民」がそのことをなすべきとする根拠も正当性もありません。天皇が「国民」にとやかくいうことはできない。文句や批判や拒否や否定ができるのは「国民」の側だと決まっているからです。
以上のように天皇の言葉を捉えたうえで、さて問題は、この「天皇の言葉」を覆すことができるのか、あるとすればその契機はどこにあるのか、ということです。それについて論じたい。結論から言うと「天皇の言葉」を覆す契機は十分にあります。ですが、今回はすでに長い記述になったので、ここでは書ききれません。他にも取り上げたい問題(映像的表象やSNSなどの問題)もありますから、それらと併せて、続きは次回以降にしましょう。