平井玄(文筆家)
不屈の大衆文化主義者
二度目と三度目の肝臓がん手術の間だったと思う。ということは2019年かな。このころはほぼ1年半おきに入院して開腹とリハビリの毎日である。8月15日の靖國神社に限りなくにじり寄るデモの最中だ。右翼の罵声が耳を突き刺す中、糖尿病の天野さんとわたしは先頭の街宣車の中にいた。まあ情けないです。
「玄ちゃん、これを見ろよ」と彼は言う。
え? この取り込み中になに??
お互い若いころのように声が出ない。口汚い怒号に消されて、聞き取れなかった。
「裕次郎の写真集だよ。さっき神保町で手に入れたんだぜ」見ると、足の長い石原裕次郎の全身像が見開きページに映っている。
中年右翼が走ってデモの中に突入してきた。それを警察は黙って見ている。右翼は殴りかかるふりをして、デモの人たちの体に微妙に触れない。怒鳴りながらボードやビラを奪う。報道らしきカメラが近よると、これを警官がちょこちょこと抑える。デモは混乱していた。これが「いつも」なのが8月15日のつくられた「異常」である。
「襲撃した」「警備した」のならそれぞれの側で加点。というルールのゲームである。「かかってこい!」「警察に守られてんのか!」という叫び声に反応しないのが、こちらのルール。とはいえ、戦死者たちを祀る荘厳な杜で大騒ぎする「はしたない者たち」を参拝者たちに見せるという、たちの悪いゲームだ。怒る人も当然いる。デモは戦火へ誘う血の社を真夏の都心でむき出しにする。これはゲームではない。歴史である。
乱闘服たちは街宣車のボンネットや窓をガンガン叩く。この車内で、銀座通りの裕次郎はポーズを決めていた。
てめーら売国奴野郎!とかいう罵りをガラス越しに聞き流しながら、「この写真なんか、いいだろ」と天野さんはつぶやくのである。
なに言ってんだ、このオヤジさんは。
糖尿病で足裏の痛がゆい彼を、内臓が傷だらけのこちらが呆れて見ている。それでも画像に眼が行ってしまうのだ。そのうちに「不屈の大衆文化主義者」という言葉がこみ上げてきたのである。
含羞の映画が新しい
襲撃する右翼の主力もじつは40~60代だが、もう興奮している。年に一度だけアメリカへの屈服を忘れられる七生報国のステージだからだろう。ルールの逸脱もゲームのうちと、勢いで車のガラスを割りかねないのである。このシーンを反芻しながら読んだのがこの本である。
文中には25本を超える映画が取り上げられている。1本を除いて邦画ばかり。政治テーマを絡める武骨な語り口はいつも通りなのだが、とにかく映画が観たくなる。シネマの喜びに満ちているのだ。ところが、そのうちわたしが観ているのは9本しかない。ほぼ毎日ネットフリックスを観るようになったのはこの何年かなのだ。とても包括的には語れないが、言いたいことの核心は、1963年に石原裕次郎が主演した日活映画『太陽への脱出』(舛田利男監督)にあると感じた。本書ではこの作品だけが2回も語られ、さらに4月27日の出版トークでも上映されたものである。
舞台はしだいに激しくなるベトナム戦争初期のタイ、アメリカがトンキン湾事件をしかける1年半前のバンコクだ。三菱とおぼしき企業が秘かに生産する武器を現地で密売する日本人が主人公の裕次郎である。いつもサングラスで素顔を隠す男は中国系を偽ってナイトクラブを経営している。1964年の海外渡航解禁より前なのを意識しよう。このクラブの雰囲気がいかにも歌に唄われたアルジェのカスバだ。その妖しさがいい。バンコクは各種の勢力が渦巻くカオスだ。ケバケバしくも裏ぶれた半植民地の夜である。
企業によって死んだことにされた男は南北ベトナムどちらにも機関銃を売る。ところが、その非情の裏には自罰の陰りが差していた。敗戦後まだ18年、戦時下にはまだ少年で徴兵されなかった者にも「死の商人」に対する嫌悪感が渦巻いている。濃いサングラスがそれを隠していた。映画の冒頭に武器輸出を問う衆議院特別委員会のシーンがぶつけられるのは、この鬱屈が監督のものだというメッセージである。
殿山泰司が怪演する元日本兵の狡猾な女衒。この男に縛られてメイドとして邸に送り込まれ、密告を強要される戦争孤児のベトナム人女性を演じる若き岩崎加根子。主人公は夜の関係を持たない。同じく名前を消された相棒を密輸組織に殺され、彼は武器商売を捨てる決意をして追われる立場になる。
ベトナム戦争の前に、1940年から45年まで日本軍占領の5年間がある。メイドは18年前、敗戦のどさくさで日本兵に拾われて食い物にされたのである。主人公への押さえられない愛から共に逃げる。お決まりのヘテロ愛的従属ではある。だが、岩崎が演じる表情は決して人形ではない。その横顔は観る者に主体を感じさせるのだ。彼女が南北いずれの側でもなく戦争孤児だったというのは、初演から60年が過ぎた今でも新鮮である。ベトナムの闘いがいちおうの終結を見てから50年。ガザを爆撃するドローンを輸出して稼ぐ企業を知れば、戦争が繁栄を支えてきた歴史は隠しようもないだろう。春を売らされてアジアを彷徨う孤独な女と日本国家に棄てられた男の逃避行なのである。泣かせるではないか。
だからこの映画の半分以上はたしかに石原裕次郎だが、残る半分近くは岩崎加根子のものというのがわたしの見方である。これは「大衆・戦後・映画」というキーワードに男以外の性がどう関わるのか?という、この本への問いである。
裕次郎は二人いる?
サングラスを外し武器商人の顔を捨てた男は、思い人の命を犠牲にしても帰国する。巨大企業が手を染める兵器輸出の事実を明るみに出そうとする。ところが記事は大新聞社への金と政治の圧力で握りつぶされてしまう。戦前に治安維持法で投獄された宇野重吉がデスクを演じるのが重厚でリアルだが、そこまでなら苦い定番である。
著者がとくに強調したいのは、これからである。
ついに兵器工場に突入した主人公はライフルを手にする。そこで製造される武器を破壊するためだ。ところが実際に撃ったのは突入に際して威嚇の一発だけ。放送室を占拠して「皆さんの作っている武器は東南アジア、中近東の戦乱の地に流されて使われています」とアピールし、いまからこの工場を爆破するからただちに逃げてください--と何度もアナウンスするのである。さらに「誰もいませんか」と確かめながらラインの間を武器庫に進む。そして軍事産業の闇組織による一斉射撃で命を落とすのである。
このラストシーンを著者はこう語っている。
「この心優しい身ぶりの直後、死体となった男は、殺した男たちにその顔を蹴り上げられる、その時やっとサングラスは男の顔からはずれるのだ。この〈命の重さという自己倫理〉を「死の商人」という恥辱を背負って生ききった〈テロリスト〉の死体のわきに転がった大きなサングラスに、夜明けの太陽の大きく写しだされるシーンのアップで、このドラマは終わっていく」(本書125p)
「武器は使えるが、あえて使わない」という機微に触れた『死なないための暴力論』の森元斎に見せたくなる映画だ。この武器輸出を隠すサングラスを自ら外そうとする意志。死の商人に支えられた社会には耐えられないという日常の感覚。これこそ「個々人の自己決定権の尊重」という「戦後」という時代が残したものだ、と著者はいう。さらにこうした思考法を定着させたのは「運動」だけではないと続ける。
その力になったものは、「50年代末から60年初頭に向かってピークとなった「娯楽の王様」といわれ、量産され続けた大衆映画であったこと、特にまともに批評の対象とされることはなかった日活アクション映画を軸とするその流れであった」(あとがき252p)
こうした「戦後精神」を表すアイコンが初期の石原裕次郎だと、天野さんは言いたいのである。休日出勤の警察官たちに守られた愛国の徒が襲う車内で、なにくわぬ顔でスターの写真集を見せるという、宍戸錠みたいなことをするのはそのためだったのか。
さてしかし。1952年生まれ4歳下のわたしが、裕次郎と聞いて真っ先に浮かべるのはTVドラマの『太陽にほえろ』である。日本テレビ系列で1972年7月に始まり86年11月まで続いたシリーズだ。その主役の七曲署捜査第一係長、藤堂警部が石原裕次郎である。つまり連合赤軍の粛清とあさま山荘事件のころには、テレビの中で裕次郎は大都会警備の第一線にいる。サングラスが似合いすぎて、含羞なんてどこかに吹き飛んでいる。植木等で育った者には「裕次郎なんて知らないよ」という気分である。
戦後スピリット
石原裕次郎をめぐる天野さんとわたしの、このイメージの違いはなんだろう?
石原兄弟ともども「戦後」の下腹が出てくるのだ。連合赤軍からバブルの始まりまでが『太陽にほえろ』の時期である。戦後のスピリットはどうなったのか? そういう経済構造の変化を大衆映画に観ることもできるだろうと、伝えておきたい。
それでも。
数年前に高校生でともにデモに繰り出した仲間たちが病院に見舞いに来た。その病棟の談話室でこんな話をしたことがある。
「オレタチはやっぱり戦後の子どもなんだよ」
「そうだよ。親から戦地や空襲焼け跡のつらい話を聞いて育ったんだ」
「だから、みんなでベトナム反戦デモに行ったんじゃないか。そこが始まりだよ」
仲間たちの多くは音楽からなにかを吸い取って動いてきた。「戦後精神」を育てたのは大衆映画だけじゃない。大衆音楽でもある。この本は、なんだかブレイディみかこが強調するブリテンの1945年スピリットみたいだ。これについてはケン・ローチ監督のドキュメンタリー映画『The Spirit of 45』を観よう。イギリスにも「戦後精神」はあった。
最後に小野沢稔彦さんのちょっといい言葉を伝えておきたい。
---裕次郎は慶應時代にサルトルを読んでいたらしいよ。