外交文書公開に際して、改めて「天皇訪中反対の論拠」

昨年(2023年)12月20日に、外務省が、外交文書17冊、6500ページ超を一般公開(機密指定解除)した。30年前の1991~92年の宮沢内閣時代のものが中心で、その中に、天皇明仁の中国訪問(1992年)に関連する文書が含まれている。

『朝日新聞』(21日、朝刊2面)は、「1992年10月に実現する初の天皇訪中に向け、日本政府が中国政府の再三の招請に応じひそかに日程の打診に至った経緯が、外務省が20日に公開した外交記録でわかった。国交正常化20周年の同年、未来志向の日中関係へと弾みをつけようと外務省が推進した。/(略)/91年12月の17日に外務省の小和田恒事務次官ら幹部が協議。谷野作太郎アジア局長が「国交正常化20周年はチャンス。強く請われての訪問」と述べ、中村順一儀典長が「92年秋」と提案し、その方向で進めることを確認した。/12月27日には小和田氏が加藤紘一官房長官に説明。「国内は(陛下が)訪中され新しい日中関係の意義づけをしていただくべきというのが大勢」「国際的には(89年の天安門事件で)厳しかった中国に対する論調が、日本も努力して中国を孤立させるべきでないというコンセンサスになった」とし、天皇訪中が「非常に問題になることはないであろう」と語った。/(略)/一方、渡辺氏は「これが早々公になると右翼から大きな反発が生じる恐れ」があるとし、外部への説明は、銭氏が国交正常化20周年の「本年秋」の天皇訪中を求め、渡辺氏が「真剣に検討していく」と述べたことにしたいと提案。銭氏は応じ、実際そう発表された。/中国政府は2月末、日程案への同意を橋本恕(ひろし)駐中国大使に伝え「具体的な行事を相談したい」と要請。だが、この頃に中国が尖閣諸島を領土と明記する領海法を定めるなどの動きが出て、自民党内で反対論が強まった。/宮沢内閣は反対派を説得しつつ中国に自制を求める対応に追われた。4月には首相が「1月の外相訪中のとき十分相談を受けたとは思っていない」ともらすなど、8月下旬に天皇訪中を閣議決定するまで揺れ続けた」と報道している。

他の全国紙(ブロック紙)もこの公開文書に関する記事を掲載している。

見出だけ紹介すると、いずれも12月20日の朝刊で、『産経新聞』「天皇訪中 中国、脅しと哀願」(1面)「中国、権力基盤強化にじむ」(5面)、『日本経済新聞』「天皇訪中 細心の準備」(9面)、『毎日新聞』「史上初の天皇訪中外交文書 「お言葉」焦点化 政府回避」(2面)「天皇訪中へ 尖閣沈静化密命」(9面)、『読売新聞』「外務省、天皇訪中を優先 中国「尖閣は自国領」 問題化避ける」(2面)、『東京新聞』「宮沢首相、天皇訪中へ密命」(2面)「中国 自衛隊PKO容認」(7面)などである。

新聞報道からは、公開された外交文書では、右派の反対の声が大きい中で、外務省を中心に宮沢内閣が、苦労して訪中を実現させた様子が見て取れるようだ。しかし、当然のことながら、右派・リベラル派の主張からは出てこない、天皇の訪中の問題性については、今回の外交文書を報道したマスメディア(大手新聞)は、どこも触れてはいない。

そこで本サイトでは、1992年の訪中発表(8月24日)後に制作され、訪中(10月)前の9月に刊行された、天皇の訪中反対のパンフレットから、天皇訪中に反対する(した)理由を再確認することにしたい。

以下に収録するのは、『天皇訪中に反対する――戦後補償、国連外交』(『反天皇制運動連絡会パンフレット』no. 10, 1992/9/15)所収の天野恵一著「天皇訪中反対の論拠」である。

(編集部)

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天皇訪中反対の論拠

天野恵一

■「右派」反対論への批判

天皇アキヒトの中国訪問をめぐって、自民党内部の「右派」勢力をも含む、かなり多くの「右派」の反対運動が持続的に展開されるという事態が発生した。

彼等の主張の中心は、今の状況での天皇の訪中は、すぐれて政治的なものであり、天皇が現実の政治にまきこまれてしまう、このような天皇の政治利用は、象徴天皇制という、戦後の憲法の理念に違反する。

これが一点。もう一つは、天皇に「謝罪のお言葉」をはかせることになる、予想される「謝罪外交」に反対という点である。

私たちも、もちろん天皇の訪中に反対であり、今後さらに訪中反対の声を大衆化する闘いをつくりだそうとしているわけであるが、ここで、私たちなりの反対の論拠を、とりあえずまず「右派勢力」の主張の批判というかたちで明らかにしていきたい。

彼等は、政治的権能を持たない、まったく儀礼的存在である象徴天皇という戦後憲法の理念を批判し、天皇のはっきりとした元首化(政治権能の主体として天皇を位置づけ、その権能を戦前のようなかたちではないとはいえ、天皇個人が自由に政治的なふるまいが可能になるように強化すること)を主張し続けてきていたはずである。しかし、天皇の代替り以降、かなり明白になってきたわけであるが、神道の儀礼を天皇制国家の儀礼として「復活」させ、憲法の政教分離の原則をふみにじることには熱心であった彼等は、他方では、象徴天皇の非政治性の原則をいいつのり、天皇のアジアへの外交に賛成しない(「護憲右翼」)という態度を強めだし、今度の訪中問題では「天皇の政治利用反対」というスローガンで反対運動まで開始しだしたわけである。

社会党、共産党などの戦後革新勢力が、自民党にそして右翼勢力に投げつけてきたスローガンを、そのまま「右派勢力」がかつぎだすといった奇妙な状況になっているわけである。

彼等が歴史的にとってきた態度とまったく反対の態度を、その転換の理由を具体的に明らかにすることもなく、まったくあたりまえのごとく取っていること。そして象徴天皇制の(「非政治性の」)原則(憲法上の)を強調しながら、自分たちが、もう一つの原則(「非宗教性」)をふみにじる運動を続けていることについても、まったく口をぬぐっている点。こうしたことから、私たちは、彼等が反対のための口実に象徴天皇の非政治性という戦後憲法の理念をかつぎだしているにすぎないと判断するしかない。象徴天皇の非政治性というタテマエの理念を、政治的に利用・・しているにすぎないのである。彼等の右派勢力に都合のよいと判断できる皇室の政治活動だったら、積極的に天皇が動くことに賛成するであろうことはミエミエなのだ(だいたい大々的に実施することを右派勢力が要求した、「大喪の礼」や「即位の礼」だって、大きな外交・・――外国のトップが日本におしかけてきた――だったはずである)。

御都合主義。彼等の論理には、これしかない。まったく思想的誠実さなどは、これっぽっちもないのである。

誤解なきようにいっておくが、私たちは、決して象徴天皇制(憲法理念)を正当なものと考えているわけではないのだから、彼等が、その理念を本気で守ろうとせずに、御都合主義的に利用していることは許せないと論じているわけではないのだ(もちろんその御都合主義体質にはあきれかえっているわけであるが)。

本質的に「非政治的」で「中立」な象徴天皇を政治的に利用することは許されないとする、戦後革新派の論理(憲法の論理)自体を、私たちは批判し続けてきた。一個の人間の身体がまるごと「国家の象徴」であり、「国民統合の象徴」であるような人間(天皇)が「非政治的」であるわけがないのだ。高度に政治的な存在を「非政治」的存在とタテマエ的に宣言する憲法理念の自己矛盾、これこそが問題なのである。

「非政治」というベールをかぶせて国家の政治儀礼を貫徹する「政治装置」である象徴天皇制自体を否定的に考えるべきであると私たちは主張し続けてきたのだ。

天皇の「非宗教性」についても同様である。だいたい「神道」の世界で「現人神」である世襲の天皇を象徴とする国家が、非宗教的でありえるわけがないのだ。タテマエの政教分離の理念を裏切る実態をかかえこんでいる憲法。こうした自己矛盾したありようがトータルに批判されるべきである。

「右派勢力」は結局のところ、天皇の政治的な利用一般にではなく、今回の訪中のような活用に反対しているだけなのである。すなわち天皇の「謝罪外交」に反対だから、「政治利用」反対などといってみせているだけなのだ。

あの台湾・朝鮮・中国そして東南アジアへと拡大していった、日本の植民地支配・侵略戦争の歴史を、まるごと肯定的に考えて、謝罪の必要なしと考えている人間も、「右翼勢力」には少なくない。またあれは「悪かった」しかし、もうすんだことであり、代替りした「クリーン」(戦争とは個人的には関係のない)天皇がいまさら「謝罪」する必要はあるまいという人も多い。さらにこっちも悪かったとしても、あんな独裁的で人権無視の中国に謝罪などいまさらよいではないかという主張もあるようだ。

私たちは、アジアへの侵略(植民地支配)の責任をまともに取らずに来た、戦後の歴史をこそ問いなおすべきだと考えている。日本は、日本をアジアにおける「反共の砦」とすべく、策動したアメリカの「極東戦略」の内ぶところにもぐりこみ、サンフランシスコ条約・日米安保体制下、じつにたくみにまともに「戦後補償」することをスリぬけ、経済侵略の呼び水としての「賠償」を投げだしてみせることで、それをすませたような顔をして今日にまでにいたっている。

あれだけの侵略と植民地支配の歴史を持つ日本政府(企業)は、どれだけの被害をあたえたか、まともに調べようともしなかった。いや調べることをせず資料を隠して、調査を妨害するようなことしかしてこなかったのである。補償すべき相手を国籍条項によって切りすて、戦後も一貫して知らんぷりしてきたのである。

この戦後責任を取らない姿勢は、あの侵略・植民地支配の最高責任者(制度)天皇ヒロヒト(天皇制)が戦後に延命したことに象徴されている。

今、戦後補償をめぐっては直接の被害者を中心に様々な闘いが噴出しだしている。具体的な被害を正確に調査し、まともに謝罪し補償しろという要求は、きわめてまっとうな要求である。

私たちは、日本が戦争責任・戦後責任をスリぬけてきていることを象徴するアキヒト天皇の訪中という外交は、日本政府が今になってもまともな謝罪・補償をせずに、その問題をさらにいいかげんにスリぬけてしまおうという儀式だから反対なのだ。

「謝罪・補償」外交に反対と「右派勢力」はいう。しかし、皇室外交は、まともな謝罪と補償のスリぬけのための外交なのである。戦争・戦後責任をさらにアイマイにしてしまおうという天皇訪中。私たちは、これに断固反対の声をあげていかなければならないのだ。

■宮沢政府(マスコミ主流)の推進論批判

PKO(関連)法案が成立すると、宮沢首相は、すぐ天皇訪中実現のアドバルーンをさらに大々的にあげてみせた。

宮沢らは「右派勢力」をおさえこむ政治的動きをさらに活発にしだしたのである。『朝日新聞』などのマスコミ主流は、この動きを全面的にバックアップしてみせた。

PKO活動をスムーズに展開するためにも、アジアの人々との関係をチャンとしなければいけない、天皇の中国への「謝罪のお言葉」、そして韓国の軍隊慰安婦などへの「補償」はそれなりに必要だという論調がそこに組織された。

天皇による「謝罪」、それなりの「補償」によって、「クリーン」な「国際貢献」する「平和国家日本」というイメージをアジアの人々に認識してもらうことは大切である。そのためにも天皇訪中は必要だ、こういう論理である。

しかし「国連平和・・協力」が日本の自衛隊(軍隊)の海外派兵(戦闘・・〈争〉への参加)を意味することに示されるように、その謝罪は謝罪ではなく、補償は、まともな補償ではないのだ。

宮沢らは、右派勢力の「謝罪・補償」外交反対のキャンペーンを利用し、自分たちの天皇訪中という外交の推進は、中国を突破口にした、アジアとの新しい平和的で友好的な関係をつくりだすための「謝罪・補償」外交の推進を意味するといったイメージをふりまいている。

しかし、あの植民地支配と侵略の歴史をヒロヒト天皇の「偉業」とたたえ新たに即位した天皇アキヒトの中国訪問が、日本が戦争責任・戦後責任を取ることにつながるわけがないのだ。あの侵略の最高責任制度である天皇制。その天皇による謝罪の「お言葉」などが政府・宮内庁によってどのように作文されようとも、まともな謝罪であるわけがない。天皇制が延命しているということ自体が日本が戦争責任をまともに取っていないことを表現しているのだから。

あたかも日本の元首であるごとくに外交舞台で天皇がふるまって「謝罪」の「お言葉」を吐く。こんな欺瞞的なセレモニーはないのだ。

天皇アキヒトの謝罪の方法は、ただ一つ、天皇をやめる意思を示して、中国の民衆の前に土下座するしかない。天皇をやめること、これ以外の天皇の謝罪の方法はないのだ。

補償についても、軍隊慰安婦など一部について支払う姿勢を宮沢らは示しだしているが、日本の植民地支配・侵略全体の歴史を具体的にしらべあげ、加害の実態の緻密なデーターをふまえて、トータルに補償する姿勢をまったく示していない。一部の補償で、補償もすませた「クリーン」ジャパンというイメージをこそ演出しようというずるがしこい政治意図のみがすけて見えるのである。

私たちは、こういうイメージ操作のための「補償」(皇室外交)に断固反対である。軍隊慰安婦に補償を支払うのはあたりまえのことである。しかし、補償をそのレベルで止めることを許してはならない。キチンと調査し、トータルに被害者(およびその関係者)に直接に届くように補償せよという要求をこそ、私たちは、この「謝罪・補償」外交に対置しなければならない。

・天皇アキヒトは天皇をやめて土下座して中国民衆に謝罪せよ!
・欺瞞的な「お言葉」による「謝罪外交」を許すな!
・日本の植民地支配・侵略の被害者へのトータルで具体的な補償をこそ実施せよ!

こういうスローガンが天皇訪中反対行動の中で突き出されなければならない。

最後に、天皇訪中反対運動のつくりかたについて一言。

天皇の訪中は、日本のPKO派兵を中国に承認させていくための外交でもあることは明白である。そしてアキヒト天皇のアセアン三国に次ぐ、PKO派兵承認のための中国外交は、すでにふれたように、戦後補償をアイマイにしてしまうための外交でもあるのだ。

そして、PKO派兵は、戦後賠償からODAという流れをテコにした日本の経済侵略の拡大のステップが必然的にうみだしたものである。ふくれあがってしまった海外資産(それにからまる海外長期滞在邦人)の自力ガードの必要がこの法案を浮上させたと考えるべきである。

政府のいう日本の「国際貢献」の二つの柱はPKO派兵とODAだ。

ODAを戦略的にバラまくという動きの必然的な延長線上にPKO派兵が突出してきたのだ。

また、ODAの源流は、まともな戦後補償のかわりに支払われた「賠償」であった。

私たちは、天皇訪中(皇室外交)が、PKO派兵、賠償ODA、戦後補償といった問題とからんで展開されていることを無視してはならない。

反対に、ODA批判、反派兵(反PKO)、戦後補償要求、こうした相対的に別々の課題として、すでに取りくまれている運動(テーマ)を内容的にも、運動的にも横断的につないでいくことを可能にする、天皇訪中反対の運動をこそつくりだしていかなければならないのである。

何故、アキヒト天皇の中国訪問に私たちは反対するのかという論拠は、こうした様々な問題の相互関連をより具体的に明らかにする作業を通して、より深められなければならない。

そうしたことを可能にする豊かな反対行動を全力でつくりだそう。

初出:『天皇訪中に反対する――戦後補償、国連外交』(『反天皇制運動連絡会パンフレット』no.10/ 1992.9.15)

 

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