伊藤晃
一
著者子安宣邦氏は、天皇制の安定的な持続が自分たちの社会の安定的統合的持続を保障するという考え(子安氏のことばでは絶対的保守主義)がこんにちの日本人にあると言う。この天皇主義を持つ戦後の「天皇的日本」を批判する、これが本書出版の動機である。この著者は年来、何がどのように言い出され、語り出されたか、という「言説の批判的分析」を方法として日本思想史を研究してきた人、本書の大テーマは、著者によれば一種の「天皇語」を語り出すことで戦後にまでわたって日本社会に天皇意識を刻みつける働きをした、本居宣長の思想である。
私より8歳年上、90歳を越える子安氏は、「天皇語」を無理矢理ねじこまれた戦前戦中世代の最後に位置する。戦後その「天皇語」の大きな源流が宣長の「異様」な語りにあることを知った著者がそこに研究テーマを見出していくいきさつが、本書序言からうかがわれる。著者の動機はもっともだ。
ところが本書を読んでの私の感想は、この動機に立つ目的、「天皇的日本」の批判が果たされているだろうか、ということなのだ。
「言説」は重要だ。そして宣長的言説は本書にもいくつか引用されている現代天皇主義者の論に尾を引いているであろう。けれども私には、これらの論がいま国民多数の天皇への好意、天皇制支持の核になっているとはどうも思えない。原理主義的天皇論は、先年明仁天皇の退位希望声明のさいにも多く聞かれたが、むしろ国民の明仁天皇への好意は別のよりどころをもっていたのではあるまいか。もちろん原理主義天皇論が天皇制の重要なイデオロギー的堡塁であることはたしかで、私たちもそれへの批判に力を注ぐが、それで国民一般の天皇制支持を崩せるとも思えない。だから私は、著者の宣長的言説への批判に学ぶところは大きいが、それが現代国民社会のイデオロギー批判としてどの程度の部分を占めるのかと言う問いをも発したいと思う。
二
著者は戦後天皇が象徴天皇なのだという。憲法にもそうあるのだから当然の言い方ではあるが、まずこのことから。
著者自身はどういうことをさして象徴天皇というのだろう。天皇を働き方で権力的(親政的)とそうでないものにわけ、前者でないものを象徴的天皇と言っているようにも見える。本書で大きく扱われているのは宣長と津田左右吉だが、著者はその両者とも象徴天皇論者だと見るらしい。しかしこの二人は、たしかに権力的天皇論者ではないが、ずいぶん違った天皇論を持っているではないか。
象徴というとき、あるものがあるものを象徴するという関係があるわけだ。戦後天皇の場合、憲法に「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって……」と言うとおり、日本国と統合体としての国民が象徴されるものであって、二者ともに異議もないようだから、たしかにここに象徴関係があるとして、さて問題は、この関係がなぜ、またどのようにして生じ、存続しているか、ということだ。子安氏はこの点を論じないのだ。宣長によって「語り出され」て現在に至る天皇は論じられているが、国家と国民、ことに国民がなぜそれを受け入れ、それに満足しているのか。戦前のことなら、強制に理由を求めることも相当できようし、戦後にも天皇側からの働きかけがなくはないが、それで説明が尽されるか。もちろん子安氏が国民を考慮の外に置いているのではなく、すでにふれたように天皇制の存在を自分たちの社会の存在の保障と考える国民について言っている。だが、国民はなぜそのようであるのか。
ところで、憲法上天皇は日本国家と国民統合と、この二者の象徴である。二つの象徴関係があるわけだが、この二つの関係の関係はなんだろうか。国民意識と国家意識はかなり重なっているだろう。われわれはみな日本という国に属し、よりどころとし、それによってまとまった一つの力である、国によってわれわれはなにものかになり(アイデンティティを得)、それに誇りをもつ、国の発展・衰微はわれわれの発展・衰微である等々。国民意識の方が国に導かれていると言えようが、いずれにせよ天皇が二者にまたがって象徴するのはさして不自然ではない。しかし厳密に言えば国と国民意識は別のことなのだから、国が国民意識を導いていく過程、二者が重なってくる過程、そのなかで天皇が二者にまたがった象徴になる過程も、私としては問題として立てて見たいところだ。
三
私たちはふつう、国民というものを近代のものと考える。日本国家はそれ以前からあるから、天皇との関係も先立ってあるだろう。子安氏が本書でいくらかの頁数をとって紹介している津田左右吉の象徴天皇論がまず国家との象徴関係に関するものであることはもっともなことだ(ついでに。津田左右吉の使う「国民」なる語が概念上あいまいなことは子安氏の言うとおり。ただ津田の「国民」は主導する勢力の違いで時代的に区別されている。「平民」(人民一般)に主導性が移っていく国民が、われわれの言う国民い当たる。この平民は津田によればかつては天皇との直接の関係がない。そこである時代まで平民には天皇への崇拝心も敵対心もないことになる)。そして著者は宣長の天皇論においても、津田の天皇論検討の糸口になりそうなところを引用している。
それは、宣長が天皇と江戸時代の権力当事者(将軍)とのあいだに「よさす」(「委任する」という意味の動詞、その連用形を名詞化すれば「よさし」)関係を言っているところだ(104頁)。この「よさし」は天皇の国家へのかかわり方として、以前から広く言われていることなのだ。ただし「よさし」関係からただちに象徴関係が生ずるものではない。中間項が必要だ。津田の言うところからそれを窺ってみよう。
津田左右吉は戦後天皇主義者の先頭集団(和辻哲郎・金森徳次郎・石井良助ら多数)の一人として象徴天皇制を謳歌し、それを歴史的に論拠づけようとした。本書にも引用されているが、その引用の中心点はやはり天皇が権力的存在でなかったことだ。そのゆえに天皇は永く存続したという。ここから天皇は国家永続性の象徴になったというのだが、ここで問題は、権力を持たない天皇がなぜ存続しなければならないのか、である。本書が引用したところからもう少し踏み込んでみなければならない。
津田たちが大体一致している(その限りで私たちにも一応理解できる)日本国家史の枠組みのようなものがある。
日本という国は、その歴史をさかのぼれるかぎり、専制国家というより諸豪族の連合として存続したと言った方がよいだろう。はじめから、どういうものがいつ創ったかという創設行為のぼやけた国である。しかしなにかの創設過程はあったはずで、その政治(そして多分祭祀)の中心にあったであろうある一族が、伝統的宗教的権威を認められて、天皇と称されることになる首長の地位を引きついでいるが、これは諸豪族の共同首長であるにすぎない。この国はある段階で中国風に体制を整える(律令国家)が、本質は変わらない。
権力者はしばしば交替するが、それは新権力者による新国家創設ではなく、右の伝統国家の中での統治権の移動であるにすぎない。それが支配集団諸勢力の妥協として起きる。新興グループと旧指導グループとの融合・取り込み関係、伝統国家への入り込み(源頼朝の征夷大将軍への就任など)。つまり権力交替はたてまえ上続いている国家の統治権をつぎつぎに受け渡していくことなのだ。これはおそらく、つぎつぎに出てくる新しい社会・政治勢力が、伝統的国家を破砕して自分の国家を創設するまでに成熟することなく、結局権力をねらうだれもが既存の国から旧統治者を追い出し、この国家を引き受けて統治する形になるのであろう。
この古めかしさに古めかしい形式が伴う。統治権受け渡しはこの国の首長、天皇による委任(「よさし」)としてなされるのである。権力争奪戦は「よさし」を受けるための争いであり、「よさし」がだれに落ちたかで、支配集団の分派すべてが新権力者の正統性を認め、服従する(この国家内で和解する)ことになる。ゴタゴタはあっても結局はそうなる。この繰り返しとしての「日本国家史」。
これはつぎつぎの権力者が天皇を相持ちしてつぎつぎに受け渡していくということなのである。国の統治権をねらうすべてのものの眼が天皇に集中する。ここでは天皇は決して権力闘争の一方の当事者であってはならない。つまり天皇は支配集団の統合更新の要として働いているのであり、権力闘争による国家崩壊を防ぐ装置である。権力者たちは天皇奉戴の意志表明で、たがいに、国家を相持ちする意志が相互絶滅的闘争の和解に応ずる意志を感じあう。
こうして日本国家はいつもなるようになって永続していく。天皇も永続していく。津田左右吉はここにおいて、天皇を国家の統一性・永続性の象徴と言ったのだ。
さて、ここまで来ると、天皇をいただくこの伝統国家(面倒だからこれから「この国」と呼ぶことにする)は、ある観念的な働きをすることにならないであろうか。だれにとっても存在するのが自然な「この国」は、あたかも生命あるものの如くに権力争奪者たちを操る。戦前天皇機関説問題に関連して、美濃部達吉の「国家法人説」というドイツ由来の学説が知られたが、いま見てきた「この国」はいわば「法人化」しているのだ。なにか人が国家を規定するのでなく、国家が人を当然の如く規定しているように見える。
私の子安氏への批判の大きな論点は、氏の言う象徴天皇の無規定性であった。いったい何が象徴されているのか。それと象徴するもの、天皇との象徴関係はどんなものか。また象徴されるのは日本国家とその国民だが、天皇はなぜこの二者にまたがって象徴であることができるのか(これは日本国家と国民との歴史的関係ということだが)。
批判のためには、こちらの考えがなければならないから、いま、二者のうち国家の方について、いささか述べてきた。つぎに国民だが、これは当然、天皇との深い関係が生まれる明治以降の話になる。
四
明治維新において、「この国」はそっくり継承された。明治維新指導集団(のちの明治国家権力集団)が自らの正統性を託した「尊皇」論に、またやがて天皇の名の下に分裂していた旧支配集団を吸収・再統合した過程にそれが示されている。
ただしそこに19世紀という時代の要求を充填した。欧米列強の「外圧」に対する道を、これら列強の力に同化して、自らが列強の一員となり、世界支配に加わることに求めたのである。当時のことば、「万邦に対峙する」はこの国家目標をよく示している。
天皇も近代国家権力創設に動員された。前代までの非権力的な立場から一転して権力集団の一員に加えられたが、その権限を見ると前代までの働きもまた継承されていることがわかる。天皇は国家意志の決定・執行に関する裁可権を持たされたが、発意するというより、権力集団の意志が統一に達したときそれを裁可するのである。しかし肝腎なのは、いったんこの裁可が下ったとき、だれもがそれに背かないことになっている。みながそれに従うこと、すなわちみなで到達した統一意志に背かないこと、をたがいに信頼しあえるわけである(心底はわからないにしても)。いわば相互信頼の保障人としての天皇。権力集団統一の要の位置にある天皇。憲法上の天皇主権は、天皇自身もその一員である権力集団が真の主権者として必要な統一を保つために働く。その「よさし」が支配集団の結集更新を促した天皇の歴史的役割の再現である。天皇は近代国家になった「この国」において引き続きその統一性の象徴である。
ところで欧米列強にならって近代国家になることの重要な一面は、国民国家になるということだ。人民を、自分もその構成者であることを意識するような国民にする。この課題を権力集団は、人民の国家意識を伝統的国家を意識させることで解決した。明治維新は近代世界に直面しての伝統的「この国」の大動揺、その歴史的批判の好機であり、それは「この国」の外にあった人民勢力の仕事であったはずだ。しかし人民が立ち遅れているうちに「この国」は再建された(支配集団再統一)。新権力は人民を「解放」し、欽定憲法によって彼らに、ある国民像に立つ権利・義務を与えた。前代から引き継がれた上なる権威への屈従も生きて、新国民には、国家への随所での不満はあっても、はじめから眼の前にある国家という存在の当然さへの疑問が生じない。またしても権力者が入れ替わっただけで存続する「この国」。国民国家は人民をも「この国」に入り込ませる大変革だが、その人民に、自分たちの手がかからずにあたりまえにそこにある国と意識させることができたのだ。
ここにも天皇の重要な出番があった。天皇の意志はだれにも偏らない「一視同仁」である。人民を国民の地位まで高めることは、人民が自ら意志するまでもなく、天皇において当たり前のことだから実現したまでだ、ということになろう。憲法が採用した立憲制、欧米のふるさとでは人民的意志と王政との妥協であり、裏に人民の主体性がちらつく対立の場であった立憲制も、日本では、天皇が国民にとって当然とすることの実現を諸国家機関に「よさす」場となろう。天皇は統一と和解の「この国」に人民を引き込む。天皇は国民にとっても、その統合の象徴になっていく。
宣長の天皇論は、じつはここで国家体制にとって利用価値があったのではあるまいか。宣長が国の始源に神および神とともに生きる人びとを置いたとき、この自然に立つ国への人為による歪曲を退けたのである。彼の「漢意」批判は人為の拒絶ということだ。古代日本人の「心ばえ」(心のあり方)に立つ彼の天皇論は、そのものとして明治の権力者たちに時空を超えて訴える力はないであろう。しかし人民に与えるべき国家論としてはある意味を持つだろう。人民の方にも合理的思考はあるから、子安の言う「異様」な天皇語は学校・軍隊をはじめとする多くの場で人民の心にねじ込まれねばならなかったのだが、そのねじ込みは相当の成果をあげ、「この国」の自然な当たり前さを人びとが素直に納得する一助にはなったのであろう。
さらに新国家が短期間のうちに実際にアジア地域の強国に成長して、その飛躍は、国民に自分たちの将来の希望を預けられるとの信頼を強めた。「この国」の、ことに軍隊の先頭に立つ天皇への支持は強まる。こうして躍進する国の象徴、天皇は、「この国」でともに生きていると感ずる国民に対する象徴性をさらに強める。津田左右吉は早くも1916年に、「象徴」なることばを使いながら、天皇・国民関係を語っている。
尊皇心はいふまでも無く我が国民が皇室を皇室として仰いだ時から厳として存在してゐる。けれども其の尊皇心を愛国心と一致させ、又たそれを国民の実生活と緊密に結びつけ、国民的活動の中心として又た国民的精神の生ける象徴として、限りなき敬愛の情を皇室に拝げてゐるといふ現代の我々の尊皇心は、やはり愛国心の発達と同様、現代の国民生活によって大に養はれたのではあるまいか。(「文学に現はれたる我国民思想の研究」第1巻序文)
津田左右吉の考えは戦前自由主義者にほぼ共通していた、と言ってよかろう。彼らは「この国」から権力的専制性を取り去り、国民に正当な位置を占めさせることを求めて、20世紀に入るころ大きな流れとなった。このとき彼らは天皇を権力的存在としては無化させたいと考えた。
ところが彼らにはもう一つ共通点がある。人民一般への警戒心である。ヨーロッパでもフランス革命以来自由主義は人民(デモス)を衆愚として嫌悪した。衆愚は無思慮・無秩序なもの、日本でもこれが自主的な共同性に向かうことは危険と感じられた。自由主義者には田中耕太郎のような右派から、美濃部達吉・津田左右吉・田辺元あたりが中央、20世紀民主主義にまで視野の及ぶ左派、吉野作造ら、という拡がりがあるが、その吉野にも、普通選挙を強く求めながら、議会制民主主義における人民の仕事を、良識をもって代表を選出すること、その代表を監視すること、にせばめる考えがある。
つまり現存の専制権力国家と衆愚専制国家の危険との間に自由主義国家を置くのだが、そこには当然天皇が存在するべきものであったのだ。天皇の下で国民が和解する「この国」なのである。吉野作造は「我国の国体が君主の大義を明かにして居るが故に、立憲政治の根底的精神は民主的形態を取ることなくして発現し得る」と言った(「所謂天皇親政説其他を評す」)。彼らは自由主義者であるにもかかわらず、ではなく、自由主義者であるが故に天皇を求めるのである。人民(デモス)の人間的創設行為による民主主義の代わりに、対立・分裂の契機が天皇のもとで融け、全国民が一致・和解して民衆の利益・福祉を本位とする国になる。「この国」の伝統的思考が彼ら自由主義者においてよみがえる。
五
1945年の敗戦は、天皇のよって象徴される「この国」を克服するチャンスを与えた。その主体は国民(正しくは人民、デモス)自身でなければならない。国民が大日本帝国憲法破棄運動に起つなら、それは「この国」の破棄運動、天皇に象徴される国民が自己変革して新国家を創設する運動になったかもしれない。しかしそういうことは起こらなかった。
現実には、米占領軍と日本支配集団が共同して保全した「この国」(戦前国家の骨格は保存され、その支配集団も、組みかえられ、軍人部分を失いながらも生き延びた)が米国原案による新憲法の創設課程実務者になった。形式上でも、新憲法は旧憲法の改正として生まれた。国民は受動的に「この国」の主権者となり、権利・義務を得た。「この国」の象徴、天皇を奉戴してきた自己を批判するでもなく、改めて天皇を自分たちの象徴として認めた。国民主権の現実の意味は、国家意志の決定・執行が統一性を確保する上での保障人である(議会の議決はたてまえ上最高・最終の決定である。なお戦前国家ではこの保障人が天皇であった)ということなのだが、これはまた別の機会に。また国民のなかに憲法上の地位を「この国」の批判者たることに生かそうとする意志、政治と社会に自らの民主主義的「人為」を刻印しようとする意志もわずかながら存在したことは、本ジャーナル4月1日付で寄稿した「国民が支える象徴天皇制」でいくらかふれたので参照されたい。この憲法そのものは20世紀憲法として質のよいものなのだ。だから問題はこの憲法をどう解釈し、どういう形態に実現するか、の対抗にある。
それはともかくとして、つまり敗戦は戦前自由主義者の夢を実現させたといってもよいのだ。「この国」から専制権力が除去され、デモスは自己抑制する。権力集団とデモスとの和解(ケンカはしょっちゅうあるが)。「この国」が歴史的に到達した究極の姿。この戦後民主主義国家・国民を天皇が象徴する。津田たちの満足とそれを誤解した岩波書店との滑稽劇。
さて、結論に移ろう。
子安氏は、津田らの世代を引き継いだ戦後世代天皇主義者、故坂本多可雄の論を引いて慨嘆している。しかし坂本の言うところは、いま述べてきた過程、戦後国民と戦後天皇との象徴関係の「事実」を、もっともらしいことばで装飾しながら述べ、この国民からとかく浮き上る戦後民主主義派知識人を嘲笑しているにすぎない。むしろ私は、この坂本に対する子安氏の批判がはなはだ頼りないことが気になる。日本国憲法制定は「革命に等しい歴史上の断絶」(いわゆる「八月革命説」に近い)で、この憲法は「憲法制定権力を有していた国民の意思に基づき」その国民を代表する議会で決議された(某学者の説の援用、読点は伊藤)など、まるで事実から離れている。だいたい革命的に過去と断絶した国民がなぜ天皇をかつぐことになるのだ? こうした議論は、子安氏の歴史的規定性を欠いた戦後天皇論と、どちらが原因でどちらが結果であろうか。
坂本のような論を克服して象徴天皇制をなくそうというのなら、その天皇がよりどころとする国家と国民における「事実」、天皇を象徴たらしめているものを現実に克服すること、国民自体がその主体としてふるまうほかはない。歴史家が力を注ぐ天皇の方の「事実」の研究は、この力と結合して意義を高めるだろう。
国民の多数が、私たちがまとまるには別に天皇に「内在」してもらうには及ばない、まとまった姿を天皇に表現してもらう必要はない。全部自分たち自身で間に合わせる、天皇が私たちの象徴でなければならないという憲法上のしばりも解いてあげるから、あなた方はどうぞあなた方の自由な世界へ御退出下さい、と声をそろえられるか。その方向に一歩進むために私たちにはいま何が必要か。「この国」の「あるのがあたりまえ」性に私たちの別の「あたりまえ性」、私たちの自立的な共同性を対置するにはどうしたらよいか。私はこれをみなで議論してみたいと思う。この議論はできるだろう。子安氏は、戦後国民が自分たちにとっての天皇の必要という「絶対的保守主義」思考に骨がらみになっている、と見ているようでもあるが、私はこれには賛成しない。
付記
宣長の天皇論形成の重要契機となった反中国思想(漢意への敵意)につき、本書はいく人かの学者の説を引いて論ずるところがあり、そこに小中華意識の存在が指摘されている。東アジアでの日本中心主義、覇権主義ということで、子安氏はこれを現代日本の思想状況と重ねて考えているようで、これは重要問題だから別の機会に論じたいと思う。
ただこのさい一つ言いたいのは、宣長の反中国を中国文明世界の範囲で考えるのは少し視野がせまくはないかということだ。
本文で少しふれたことだが、幕末の日本は欧米列強の「外圧」に対して「万邦に対峙する」という、抽象的だが地球大の早熟的帝国主義をいわば国是とする。これは中国や朝鮮には生まれなかった野望だ。同じ圧力を受けながらなぜ日本にだけこんなものが生まれたか。そこに日本独自の因子が潜在していなかったか。
日本は19世紀-20世紀、欧米世界によるグローバリゼーションに際して中国への侵入の尖兵役、やがて主役を演じる国であるが、16世紀-17世紀、スペイン・ポルトガル・オランダなどによる初期グローバリゼーションが東・東南アジアを波立たせたときに、すでに、この激浪の中で冒険国家になろうとした経験がある(豊臣秀吉の明帝国を遠望した朝鮮侵略。このときの秀吉の動機を国内的要因だけで考えるのは不十分かと思う)。これは失敗して、かえってその後鎖国に至るが、かつてグローバリゼーションに自身参入して、まだ列強が領土的には手をふれ得なかった中国に野望を持ち、そういう眼で中国を見た経験と記憶は、簡単に無に帰すものであろうか。やがて18世紀からのグローバリゼーションの新段階において、鎖国中の内向き志向、攘夷の中にたちまち「万邦に対峙する」野望が目を覚ますのだ。江戸時代にたしかに存在していた朝鮮への体面意識や琉球への侮蔑、あるいは反中国思想は、日本型中華意識に立つ日本の小天下という視野で考えるより、やがて本物の帝国主義に転化するべき芽と見るべきだと思う。
宣長も18世紀後半の人である。このころ騒がしくなってきた日本北辺の情勢など、宣長の排外主義的思想形成の環境として一顧の価値くらいはありそうに思う。子安氏は現代日本の排外主義に関して、少なくとも本書ではもっぱら反中国という範囲で語る。これに反朝鮮を加えてもなお視野はせますぎる。これが宣長研究に影響しているのか、このことは私にはちょっとわからない。
だがいずれにせよこの問題は私も勉強不足、疑問を述べるに止める。だからこの部分は付論とした。