国民が支える象徴天皇制⎯⎯⎯⎯「内在」する天皇をどう追い出せるか

伊藤晃

1.私にとっての天皇問題

数年前、当時の明仁天皇が退位希望の声明を発しましたが、その中で彼は、自分が在位中多くの行動を通じて、「いきいきと社会に内在する」べく、つまり、「国民に内在」すべく、努力したことを誇り、その成功についての自信と、その成果を次代以降の天皇に継承してもらう希望を示したのでした。このとき私は、明仁天皇のこのことばは戦後天皇制、またこれと国民との関係に関して肝腎な点をついていると思いました。天皇制を理解するためにはこれを受け入れている国民の方をも理解しなければならないということで、たまたまそれは私が若いころから考えつづけてきた天皇制問題の中心点でありました。私はどんなことを考えてきたのか。今日はそれをいささかお話してみようと思います。

私は1941年生まれ、59年大学入学ですが、その学生時代、社会における天皇の「内在度」は低下していたようでした。だれも深くは気にかけなかったということです。

けれども私は、近代日本史を専攻しましたが、天皇制への関心はかなり大きかった。もっともそれは現実の政治問題というより、歴史的・理論的問題としてで、天皇制は当時近代日本史研究者の大問題だったからです。

当時歴史学者の多数意見では、近代天皇制はそれ以前から引きつがれた古い権力の機構であり、この「絶対主義天皇制」は政治・社会の根本的決定要因として、遅れた弱い日本資本主義を支えてきた、ということでした。そしてこの古い遅れたものが戦後にも本質的に残っていると考えるのです。これは当時の日本共産党の考えでしたが、また大方の民主主義派知識人(マルクス主義者も丸山眞男さんの一派も)にも信じられていました。古いものを克服して本当の近代を作り出すことが日本の大問題だというわけです。

ところが1960年代というのは経済の高度成長、社会の急速な変化の時期でした。古いものよりも新しく生まれつつある社会の内的対抗関係が重要じゃないか、と60年代半ばころには私は感じていたと記憶します。そして天皇制には古い権力機構としての抑圧感が全然なかった。

かえって私には、戦前の天皇制をも一面的に古いものと見ることに疑問が持たれました。形はたしかに古いけれども、それは欧米列強のあとを追って近代的強国、列強の一員に加わる強引な道を担った権力ではないか、「反革命による進歩」とでも言うべきものだなと。私はそのころA・グラムシの思想にも接しましたが、彼の言う「受動的革命」の概念がそこに当てはまるように思えました。

そして戦前の天皇制は国民に対して専制権力であるけれども、案外国民が反感・敵意を持っていないらしいのは、江戸時代から引き継がれた権威への屈従性もあるが、同時に天皇制権力が先導している日本の国家としての飛躍、戦争での勝利、植民地の獲得に、自分の生活を託すべき信頼できるもの、輝かしく誇るべきものを感じていたからではないのか。天皇崇拝が「万世一系の国体」に「万民翼賛」を結びつけ、国民意識の内実をなすことになったのだろう。70年代を迎えるころ私は大体こんなふうに考えておりました。

私はそれまでに、近代日本史のなかでも社会主義運動史・労働運動史に集中するようになっていました。そうすると天皇制は私にとってさらに大問題になってきます。こうした人民運動は天皇制国家が作った近代日本に対する内的批判です。これには権力は強烈な弾圧を加えます。運動が目的を達するには当然、この大きな障害である天皇制と戦わなければなりません。実際、運動左派の中心になった日本共産党は天皇制打倒のスローガンを掲げるようになりました。ところがこれが人民の支持を集めることにほぼ失敗したのです。これはなぜであったのか。それを調べることが私の天皇制問題になります。

私はこの勉強の過程で戦前の運動の活動家多数とめぐりあうことになりました。それを求めもしました。文献史料だけでなく、当時の人との接触、聞き取りで運動の実際の姿に近づこうとしたからです。1920年代に活躍した人がまだ60〜70代でたくさん健在という時期でした。1977年には私は、「運動史研究会」という団体の創立に参加し、会存続の10年間、事務局責任者を務めました。この会はかつての運動の活動家が自分たちの経験、考えたことを突き合わせ、これを戦後の人たちに伝えたい、自ら記録を残そうとして作ったもの、会員は大体三百から四百人、戦後の運動の活動家もかなり入っていました。学者たちがあまり近づきませんでしたが、これは日本共産党が冷淡な黙殺という態度だったからかもしれません。

実際共産党にとって会の存在は歓迎すべきものではなかった。会員の多くが戦前共産党の党員やその周囲の人びとでしたが、彼らは自分の党がかつて天皇制打倒のスローガンを持ったことを誇るよりは、むしろその敗北の経験を総括する機会を求めていたと思えるのです。運動の敗北は「大量転向」という形をとったのですが、それは多くの人の場合、権力の弾圧に恐怖したというより、自分たちの運動が広く人びとのなかに入れず孤立したという実感、そして何をどうすれば天皇制と戦ったことになるのか、全党が最後までわからなかったからでした。転向は党上部から提唱されますが、そしてそれは満州事変における国民的戦争熱の高揚に対して運動側が不戦敗に終るなかでのことですが、多くの党員はその後退の提唱が正しいとは思わなくても、どういう党運動をどう再建したらよいか、みなわからなかったのです。そしてかなりの党員が、本当は転向なんかしていない内心を押しかくして、改めて多くの人といっしょにやれる運動を試みるのですが、それも権力がすかさず弾圧するためだいたい不成功に終わります。

私はこうして戦前の人の経験にふれているうちに、戦後の私たちにもなにかそれにつながるものがあるな、と感じました。私たちも、別に悪いものではない天皇制はあったっていいじゃないか、という周囲の多数意見に対して、説得する論理を持っているだろうか。そう思うと私には、後の時代のものとしての高い視座から戦前の運動を客観的・高踏的に批判する気になれず、戦後世代の自己批判につなげて主体的に戦前の運動を研究するという態度で臨むのが正しいと思えました。

戦前派の多くの旧共産党員は戦後復党しても口を開けなかったのです。獄外で泥だらけになっていた転向者に対して、獄中での別の苦しみはあっても社会での戦時体験に乏しい非転向派幹部が戦後の党再建を主導しました。彼らの社会的権威は圧倒的で旧転向者たちは軽蔑をもって扱われ、自分たちの経験を語るどころではなかった。運動史研究会は彼らに口を開く機会を与えたことになるのです。

反天皇制運動での戦前と戦後のつながりの中心問題は、それぞれの時期の国民の意識から社会に「内在」する天皇をどう追い出すか、ということだったでしょう。こうして私は、2015年末にこの考えをまとめて『「国民の天皇」論の系譜』という本を出版しました。そうしたら数年後に、明仁天皇がまさに自分は国民の天皇なのだ、と自信を表明したのです。私と明仁天皇とはここで同じ地点に到達したわけです。ただしそこから向かう方向が正反対ですが。「国民は君たちの側でなく私の側にいるのだ」という明仁天皇からの挑戦状に答えなければならない。今日お話しするのは、まず国民の側のことから検討してみようという私の考えの片はしなのです。

2 かつての天皇の「社会への内在」

明治維新まで天皇は一般民衆にとって縁のうすいものでした。しかし明治維新で国家権力の中心に天皇をすえ、しかも欧米なみの国民国家をめざしたため、民衆に天皇を知らしめることが必要でした。天皇には民衆を新国家の国民に育てる上での大きな役割も与えられました。教育勅語、軍人勅諭は、民衆が持つべき国民道徳・兵士道徳を、人びとの意識に権力的な形で押し込んだものです。天皇はいわば無理矢理に国民の内面に押し入り、社会に「内在」するに至りました。戦後天皇、とくに明仁天皇の手法とだいぶ違います。

戦前の天皇にもやわらかく国民を教化・啓蒙する形はありましたが、それも相当押しつけがましいものです。その一例を、天皇ではないが、明治天皇の皇后(死後昭憲皇太后とおくり名された人)に見てみましょう。この人は国民教化、ことに女性の教育に熱心な人でした。それも良妻賢母主義をはみ出して、女性が広く教育を受けて社会的に有用な人になるべきことを言った。欧米流啓蒙主義の臭いがする。和歌が得意なこの人が作詞して女学生たちに与えた「金剛石」という歌は有名です。人は勉強してこそ人間を磨くことができます、勤勉に励む人にはできないことはないのです、といった歌詞。戦前は全国の女学校で教えられ、儀式のときなど奉戴して歌ったのでしょう。大変普及していたものです(ついでに言うと、戦後、米国占領下の日本で、GHQがこんな歌は知らないだろうと、君が代のかわりに歌わせた学校もあった形跡もあります。私もある小学校で教わったから、戦後の、それも男の生徒なのに、この歌をうたえるのです)。

第2次大戦敗戦後、状況は大きく変わりました。戦争敗北はやはり天皇が先頭に立つ輝かしい国家像を崩したのです。深い厭戦気分と権力抑圧への反感、もうあんな時代に戻りたくない。天皇はその時代の象徴なのです。戦中の、天皇の名による命令で死ぬ運命を予感し続けてきた若い世代には、天皇への怨念さえ存在します。近代天皇が国民にとって重い、その重さだけ反感も大きくなるでしょう。

ところが一方で別の感じ方もあったのです。天皇は戦後社会の国民に適応するために一所懸命でした。慣れない、しかし大まじめなぎこちない姿を衆目にさらして歩きます。そこにはある同情心も湧いてきます。オレたちも大変だが天皇も大変だな。天上にいたほどの偉い人が手の届くところに来るとなれば一種の興奮をも呼び起こします。敗戦の翌年天皇は全国まわりを始め、数年がかりで沖縄を除く全都道府県を訪れます。各地で天皇は大いに歓迎されました。この頃世論調査では天皇制の存在を是認する人が90%を超えていたといいます。

しかもまた同時に人びとは、それまでの天皇の重さと社会に適応しようとする行動とのチグハグさになにかこっけい感をも持ちました。なにしろ下々とことばを交わすなど初めてで適切な応答ができない。「アー、ソウ」の一点張りで、この、「アー、ソウ」は当時の流行語、私たち子供も大いにこれで笑いました。こっけい感はある種の軽蔑をも伴います。こうして戦後の一時期、人びとの天皇の受け止め方は多様だった。こうした気分を、当時人びとが使った「テンチャン」という呼称が表していたでしょう(明仁皇太子は「チビテン」だった)。このことばは戦前にもあったらしいが公然とは口にできず、また1960年代くらいになるとあまり使われなかったと記憶します。この時期の裕仁天皇の専有でしょう。

要するに戦後国民の天皇像はもうもとには戻らない。しかし否定し去るのではなく、敵意・憎悪はうすい。これは後にも言うように、国民が自分で天皇制を変える運動を起こさなかったことと関連しているでしょう。

こういう気分は1950年代にはまだ残っていたと思います。よくも悪くも天皇とともに生き、自己形成した世代が世間をリードしていたのです。ところが60年代ころのわれわれ青年世代にとって天皇なる存在はめっきり軽くなりました。意識のなかで希薄あるいは気楽になった。政治的意味あいはもちろん感じないし、だいたいわれわれの実存とのかかわりが感じられないのです。特別な人という感じはもちろんあって、皇太子の結婚のときなどスター扱いも生まれますが(松下圭一の言う大衆天皇制)、まあだいたいはふつうの青年にみえました。つまり一般的に言えば天皇の国民社会への「内在度」は格段に低くなっていた、と私は思います。

さて、明仁皇太子は1933年生れ、1960年には27歳です。この国民の変化のなかで天皇修業を始めていたわけです。当然彼にとって、ではこの社会にいかにして再度「内在」するか、自分が内在(象徴)すべき国民がどういうものか、が大問題だったに違いありません。ところがこれは、私たちにとっても大問題でなければならないはずです。明仁皇太子が観察していた、そして天皇を「内在」させることにおいて結局彼を満足させることになる国民とはどういうものだったのか。つぎにこのことを考えてみたいと思います。

3.戦後国民というもの

1960年代以降の国民を見るために、ここでも敗戦時までさかのぼってみましょう。

敗戦時、最大の問題は国民が大日本帝国憲法破棄運動を起こさなかったこと、従って日本国憲法創設勢力にもなれなかったことです。自分でこの国の主権者になったのではなく、この地位を国から与えられた形でした。受動的に敗戦を迎え、戦時の緊張感が一時にゆるんで、「虚脱状態」(ということばが当時あった)にある間に助動的に政治・社会の民主化過程におかれました。だから戦前・戦中にもっていたいろいろな性格を自らきちんと批判・変革しないまま戦後の生活に入ったのです。天皇制のもとで作られた国民一体(戦後、社会対立は生まれてもまとまりは基本的に保たれた)、国家的権威への屈従性、しみついた排外主義(ことにアジア諸国にたいする)等。

しかし一方ではさきに言った厭戦やかつてのような権力抑圧はごめんだ、という気持ちがあり、また生活の窮迫は自分で解決しなければならず、言いたいことが言え、行動も大幅に自由になったのだから、ことに労働者のばあい、4、5年間の大衆的運動はまさに奔流のようでした。社会創造的というより、生活苦や政府・企業の支配への反発という性格が強かったにしてもです。

そこで、人びとが行動者として現れてくるなかに自己変革の契機もありました。新憲法はご承知のとおり、基本的には原案をGHQが与えたもので、支配集団にも人民勢力にも憲法創設過程がなく、憲法が成立してから、その諸条項をどう解釈し、どういう形態に実現するかをめぐって多くの対抗関係が生じ、戦後政治のなかで人民的運動の深く永続するテーマになっていきました。第9条をめぐる対抗はその代表的なものですが、もう一例あげれば第28条の労働者の団結・団体行動権。労働組合は社会・産業の安定した発展のために労働者のエネルギーを秩序づけるもの、という労働省筋などの考えに対し、それは労働者が自分で自分の諸権利と生活を守るために、自分たちで作っていまここにある組合で戦う権利だ、という対抗を、戦後労働組合運動は長く戦い続けました。こういう憲法闘争には、人びとの生活再建の行動や反戦争、反権力抑圧の感情を一時的爆発に終わらせることなく、自分たちの権利は自分で立って取る、そのために共同の組織と行動を作るという、民主主義的主体形成過程の出発点が明らかに存在していた、と私は思うのです。

ただこの対抗は、占領軍に素早くすり寄って憲法実施過程の主体顔してふるまった支配集団が、多くの面で先行しました。新主権者国民に対して臆面もなく民主主義教育の与え手、啓蒙者ヅラをしてみせたのが政府、ことに文部省でした。また憲法条項をどう解釈するか、たとえばそもそも第1章天皇条項で、天皇に許された政治行為を、明文に規定された国事行為以外にはみ出させたことがそうです。天皇の「公的行為」、「象徴としての行為」の出発点です。さらに憲法創設過程に不可欠な多くの下位法の制定はだいたい政府・官僚機構が主導しました。そこでたとえば地方自治法。自治体首長に国家の機関としての面を与えた条項が、その後どれだけ地方自治体を国の下部機構に化して歪めたかを思い出すだけで十分です。

つまり民主主義意識の多面性、中途半端性が戦後国民の実像をなしていた、ということもあるのです。さきほど言った天皇制への対し方もそのあらわれでしょう。しかしいろいろな経験の上に50年代には人民の政治勢力が、国会で社会党の三分の一の議席に表現されています。この年代には支配集団に政治制度の戦前回帰の志向(当時「逆コース」と呼ばれた)もあり、これが鳩山・岸両内閣に代表されて、その目標を憲法改正におきました。ところがこれが、戦前的なものは嫌だという人民勢力の強い反発で挫折します。58年警察官職務執行法の改変失敗と59〜60年日米安保条約改定反対運動の大きさが支配集団を方向転換させるのです。戦後国民の平和と民主主義志向に正面から対立したのでは国策の円滑な遂行が困難と感んじられたわけです。

このころ支配集団の国策の基本はつぎの二点だったでしょう。

(1)戦後政治の基本的前提、日米軍事同盟(51年日米安保条約締結)を通じて、「自由主義世界」防衛への貢献を進めること。これが日本の帝国的回復の方向。このための軍事的実力の養成。

(2)米国主導で飛躍する資本主義世界経済に有力な競争メンバーとして参入する。世界水準の資本力・技術水準達成をめざす急速な経済成長。

このために、人民的運動の抵抗を正面から蹴散らして進むより、改憲への野望などオクビにも出さず、国民的同意を獲得する方策の優先が、60年代池田・佐藤両内閣の基本選択になったのです。すなわち(1)国民の平和を求める願望をすげなく拒否せず、そらし、いなし、そのかげで実質的な軍備増強。(2)経済成長の恩恵に労働者・人民の生活向上の願望をまきこむ。こうして国民の平和と民主主義の意識を内面で国家に対して親和的な方向に変化させようとしたのです。

このむくろみは成功したと思います。実際60〜70年代に国民の政治・社会意識はあまり目立たない形で組み変わって行きました。

(1)国民主権について。国民主権行使の途は議会を通ずるもの、国民の直接的な発言・行動(さきの警職法改定阻止行動はその典型)、権力への監視など多様ですが、権力側は国民の直接行動を促すような露骨な「逆コース」をなるべく避け、国会で野党が一定の対抗勢力になったこともあって、人びとの政治関心は自分で直接行動に立つより国会に引きつけられて行きました。

(2)人権について。権力側は憲法上の国民の権利は少しも否定せず、それを実現する。ただしその実現は行政の主導による、というやり方に習熟しました。57年に生活保護法をめぐって、「朝日訴訟」が起こされましたが、これへの最高裁判決(60年代半ば)などはその典型。「住民の権利義務を直接形成しその範囲を確定するのは公権力である」という十数年前のある最高裁判決の文言を私は記憶していますが、これは昔から権力側を導いた信念だったのです。この中で国民には、自分の権利は自分で立って取るという敗戦後の荒々しさにかえて、行政に要求するという考えが強まってきました。

(3)平和について。60年代の権力側は9条改憲はもとより、国民を刺激する核武装、海外派兵、徴兵制はやらないと表明しながら、実質的に軍事的実力をつけていきました。国民は相変わらず自民党に国会の多数を与えて事実上このコースを支持し、70年代には日本はかなりの軍事大国になりました。

(4)平等について。60年代初頭に高校全入運動という運動がありました。希望者は全員高校に入れるように拡充せよという積極的運動で、私たちもみな支持しました。政府もかなりこれにこたえて、高校教育における機会均等は前進します。ところがそれと同じころ政府が始めたのが全国学力テストというもの。これは機会均等下に入っていく生徒たちを選別・競争・序列化の中におくもので、その後生徒も親たちもこれにまきこまれていきます。平等な機会が内面で経済成長政策に適合した個別利害追求競争に組みかえられていったのだと思います。

1960年代の経済成長で賃金は上がり、人びとの生活は豊かになりました。当時労働運動は依然盛んで、「春闘」の最盛期、そして闘わなければ賃上げもないことに変わりはありませんが、一方で経済成長が資本側にも妥協の余地を与えるなかで、労働側に企業収益の増大、労働生産性上昇の分け前を要求するという考えが強まったこともたしかです。技術革新の速さに労働運動がついていけなかったことも見逃せません。こうして戦後人びとの自主的共同性の代表的な形であった労働組合の内面に変化が目立つようになります。自分たちの利益の実現を幹部の交渉に依存する、幹部請負の傾向の肥大です。いま見てきた戦後民主主義内面の密かな変化は、こうした他への依存性増大を経て、結局国家への依存性、親和性、妥協性につながっていった、と私は思うのです。

自分の権利と感ずるところを自ら立って取る、自分たちの共同性をその力とする、という民主主義と、自分の権利と感ずるところを他に(結局国家に)依存して実現しようという民主主義、いずれもそういう傾向ということですが、前者から後者への微妙な重点の移動を、戦後のある時期において見ることができるのではないでしょうか。もちろん私は国家の頭からの否定などをいま主張しようというのではない。1、2年前フランスでだったか、年金問題で数万の人びとが街頭に出て国家に要求したと記憶する。これと若干の代表者が然るべく陳情する、あるいは某某の政党がそれを請負うのとでは少し違う、というまでのことです。

この間、人びとの生活と同時に日本社会の姿も変わりました。かつて歴史学は日本資本主義は遅れていて古いものを変革するに力不足だとしていました。その日本資本主義がいまや、進歩・豊かさという価値意識で人びとの内面を深くとらえ(原子力平和利用もここで世の希望を惹きつけた)、その遅れを批判していたマルクス主義や丸山眞男さん流の近代主義など、戦後民主主義を牽引していた諸思想を歴史の後方に置き去りにし、険しい再建過程につかせました。

国民の自己意識も変わりました。かつて遅れた日本から欧米先進国を歴史のはるか前方に見るのは、学者だけでなく社会の常識のなかにあったことです。それが60年代に変わってくる。アメリカ由来の「近代化論」なるものがそこでの一つの事件です(もともと日本史学者のE・ライシャワーという人がこのころ駐日大使として来ていましたが、この人はこの考えのいわば旗手でした)。それがこんなふうに言う。「日本の近代化は欧米の近代をマネしてのことだったとされているが、実は日本人は近代社会を自らの社会の内的発展のなかで作ったのだ」と。そしてそれにつながる要素を江戸時代の日本に「発見」する。庶民に至るまでの高い読み書き能力など。アジア諸国に社会主義に対抗して近代化への発展モデルを与えたい米国が、そのモデルとして日本を動員したのでしたが、当時の日本人にとってこれはうれしかったのです。これはアジア諸民族に対して昔からある論、日本人の「単一民族文化」を統一国家に形成した能力という論(日本には一貫して天皇王朝で頻繁な王朝交替のない「国体」がある云々)と結びつけることもできます。この国家形成能力が現代では「民主主義国家」形成能力になって、いまの日本は「民主主義的価値観を共有する諸国」と固く結んで、自由主義世界防衛国家群の有力な一員としてふるまっています。

60年代からの経済大国化がこうしたナショナリズムに根拠を与えたかに見えた。70年代にオイル・ショックなどで世界経済がそれまでの繁栄期から一転する時期、それをうまく乗り切ったようだった80年代日本の国民には、自信を通り越して世界への傲慢な優越感さえのぞいていたと思います。外国にもそれをいわゆる「ヨイショ」する人がいて、ヴォーゲルという米国の学者が、「Japan as No.1」なんて本を書いて日本人を喜ばせたりしました。

さきほど述べた、自分たちの共同の力で生活を向上させるより他への依存に微妙に傾斜する戦後民主主義の内的変化は、経済大国化、そこでの企業や国家の発展を疑わないナショナリズムに受け止め手を見出した、と私には思われるのです。

4.明仁天皇は新しい国家社会にどう「内在」しようとしたか

さて、明仁さんが父天皇死去に伴って天皇に就任したのが1989年。80年代の有頂天にはもうかげりが見え、いわば情勢から周回遅れのスタートでしたが、国民意識はまだそんなに崩れていないころです。内面が微妙に変化した平和と民主主義意識、その外枠としてのナショナリズム、これが新天皇が見出した、そこに「内在」し象徴していくべき国民意識でした。そして彼はその「内在」の努力を始め、精力的に進めますが、その基本は、国民の平和と民主主義意識に逆らわずに、それと国との親和的一体性をどう増進させるか、中心的国策にどう媒介するか、だったでしょう。二つの点について述べてみます。

(1)国民の平和意識に対して。父天皇もそうでしたが、明仁天皇も、8月15日の式典などで、「戦後日本の平和と繁栄」を語り、そこでの国民の努力を称えたものでした。しかし戦後日本は本当に平和だっただろうか。たしかに日本自体に戦火が及ぶことはなかった。しかしその日本にとっての平和時代、つまり戦後の時代、地球上に戦争がすべて途絶えた年は一年もないそうです。この一貫した戦争の時代、日本は米国に基地を提供し、日米軍事同盟を結び、そのもとで自らも軍事大国になり、朝鮮戦争・ヴェトナム戦争に深く関与するなど、米国主導の「自由主義世界防衛」の多くの戦争で有力な与国になってきたのでした。

両天皇のことばはこの現実から国民の眼をそらさせるもの、天皇の言う平和はつまり「日本人にとっての平和」のことで、これはさきほど言った、自分がまずいと思うことまで進まなければ軍事大国化の現実を消極的に認める国民の平和意識に合致していたと思います。そして自由主義諸国の世界的主導権の中に平和を見させようという国策への同意が導かれます。これは裕仁・明仁両天皇に共通する親米主義の歓迎するところでもあります。

また明仁天皇は、大戦での戦死者を戦後の平和と繁栄の礎として、沖縄をはじめ旧戦場のあちこちに慰霊の旅を重ねました。これは父天皇にはさすがにできなかったことですが、明仁天皇がこれを通じて現代の国民を多くの苦難を経てきた国民の歴史に一体化させ、ここに国民としての歴史意識を高めようとしたとすれば、これも日本の戦争行動がアジア諸国民にもたらしたものについてはほおかぶりする、傲慢で無責任なエゴイスティックなナショナリズムを助長するものでしょう。

(2)多くの災害地や社会的弱者を訪れての天皇夫妻のパフォーマンスは大変目立ったものでしたが、これは経済成長の結果としての深い社会的亀裂を癒し、壊れかねない国民の「心の一体」回復のために「情の回路」を作り出そうとするものだったでしょう。破壊されていく社会・人間・労働の再建のための共同の行動を勧めるのではない。深まる傷を心の内で癒させる。天皇自身の心を見せつける行動で、私のような心で気の毒な人びとをいたわり、励ましなさいと。これに多くの人が反発しないのは、組織的な行動でみずから問題を解決するより多くを行政に期待するような、受動的民主主義の時代に合っていたからではないでしょうか。

結局明仁天皇は、国民社会に再び「内在」するためのこれらの行動で、成功したようにみえます(いまのところ)。戦前のように国民を天皇制側から作ってこれを率いるというより、民主主義時代にふさわしく、国家を作る主体としての国民の「自覚」をある方向で促し、その国民と一体化する。彼はスマートにスムーズに父天皇を越えて、天皇制というものの懐を広げようとした。彼はよく過去の天皇の歴史的伝統の継承を言いましたが、これは天皇が国民のことを心にかけた伝統(こういう天皇の「徳」は中国伝来の思想に由来する帝王思想としていつの時代にもあった)を一段と高め、それを国民も支持している、という彼の自信を示しているでしょう。

実際、多くの人が彼から得た天皇像に照らして、彼の退位声明に好意的でした。そして多くの人が、安倍晋三政権と明仁天皇との間にギャップさえ感じたようでした。安倍晋三は、1960-70年代を経て内容が国家と親和的な方向に組みかえられた平和と民主主義意識でさえ不満だった人です。形骸化した平和意識であっても、自由主義世界防衛への意識のいっそうの増進、日本の帝国としての地位の飛躍の妨げになり(集団安保法制の際の国民的反発はそれを裏書きしていると感じたであろう)、世界資本主義において有力な競争者であるために、無限の資本蓄積、社会・人間・労働のいっそうの破壊が必要であるときに、妨げとなる政府批判の片はしといえども除去しなくてはならない。憲法は現実に障害となっていなくても、人民の自主的解釈の可能性がある以上、明文改憲が必要だ。

これに対して人びとは国家に親和的な民主主義の立場からさえ反発したのであり、明仁天皇もあるいは、こういう国民をたやすくは媒介して行きがたいものを安倍政策に感じたのかもしれない。少なくともかなりの「進歩派・リベラル派」知識人がこのように受け取り、天皇に好意的な立場に立ったと思われます。

ここまで明仁天皇の軌跡を追ってきて、一応言えることは、戦後天皇制を打破しようとするなら、天皇国民一体の相手方、国民の考え方を批判していかなければならない、ということです。天皇を内在させている現存の民主主義意識の再検討が必要でしょう。天皇がその内面で希薄だった民主主義を私たちは再建できるでしょうか。この難しい問題がいま私たちの前にあります。

最後に現徳仁天皇にも少しふれて終わりにしたいと思います。

5.徳仁天皇のこれからと天皇制の将来

現天皇徳仁氏は父天皇の自信を引きついで社会への「内在性」を維持・伸長していけるでしょうか。

いまのところ彼はそのための行動があまり目立ちません。コロナ流行という事情もあるでしょうが、彼にとって難しい客観条件もあると思います。そもそもいまいったいどんな国策に国民を媒介していけばよいのか。

国民社会の構造はいっそう崩れています。資本の効率・利潤追求一点張りの中で、社会・人間・労働の破壊は止まりそうにありません。天皇が介在すべき国民和解の根拠は崩れたままです。なにかの希望・光があってこそ、効果のある天皇の慰め・励ましでしょう。

日本資本主義は世界に雄飛しても、国民はいまやそれと利益・誇りをともにできません。”Japan as No.1″ は昔のこと。技術・学問分野での日本の地位も急速に低下しています。最近、技術ことに品質方面で失態をさらしたトヨタ、富士通は、かつてトヨティズム、フジツーイズムなどといって、海外から視察団が来るというので得意だった、まさにその企業です。

国際政治においては多極化の問題があります。G7の地位低下は著しい。グローバル・サウス台頭の中で、米国を先頭とする大国は主導権を発揮できません。米国と緊密に連携して自由主義世界防衛に貢献するという戦後日本の一貫した政治目標は混迷しています。集団安保など、日本を対立する世界での戦争挑発者の一つとすることで「日本人の平和」に戦争を引き寄せるかもしれません。

しかしこういったことは客観条件であって、私たちがそこで変わらなければものごとも変わらないでしょう。そして、国策のあれこれに反対することはもちろんとして、天皇との関係でいえば、その国民社会への「内在」の困難の中で、私たちが積極的に抜け出せる自己を確立することが重要と思います。

だいたい、天皇が「国民統合を象徴する」とは、われわれが一人一人ではともかく、まとまった姿をとろうとするならそのまとまりを天皇に表現してもらわねばならない、ということでしょう。つまり国民がまとまるとは天皇-国民一体のことだ、というのです。そこで、それがいやなら、私たちは自立的な共同というかたちでのまとまりを広く作り出すのでなければならない。こういうまとまりは、天皇にそこに「内在」して体現してもらうには及ばないでしょう。つまり天皇は無用です。

いまこの社会には、自主的・自立的な小さな運動組織・社会組織があらゆるところに無数にあります。これらはみな広い自立的な共同性を構成すべき細胞だと言えるでしょう。問題はそれらが共通の政治・社会問題に対してそれぞれに取り組み、戦っているのに、広くつながっていかない、バラバラだ、というところにあるでしょう。そこに私たちの知恵が欠けており、課題がありますが、もしこうした状況を脱け出すことができるなら、ここに共和主義というものがあるのではないでしょうか。憲法上天皇制をなくすとは、その第1章を廃することで、これは共和政体を想定することになりますが、いうまでもなくそのためには主体である私たちが共和主義に立っているのでなければなりません。しかし共和主義は別に取り立てての考えではなく、自分たちの政治や社会のことは自分たちで決め、取り行います、そこに権威ある中心は要りません、というだけのことです。私が今日のお話の中で、国家に親和的な民主主義について語ったのは、そこから脱却するという夢を皆さんと共にしたかったからでした。

将来のことについてもう一つ。現代世界の広い人口流動化の中で、日本もやがては移民時代に入ることでしょう。いま日本国家は必死でそれに抵抗し、それは在日朝鮮人への国家・社会あげての排除の伝統を引き継ぐ、在日外国人への過酷な扱いにあらわれていますが、世界的な流れを元に戻すことはできないでしょう。もしこうして日本全体の住民構成が変わるなら、いわゆる国民文化がかき回されるでしょう。これは天皇が体現し、「内在」しようとする国民一体の根拠が揺らぐということです。百年単位で考えれば、日本の文化は、東アジア、東南アジアを包摂する新しい文化世界を構成する質料、素材の一つになるのではないでしょうか。

これはかつて千数百年前にも起きたことでした。67世紀、中国の隋・唐帝国の形成は東アジアの大変動、人口の流動化を引き起こし、その中で朝鮮文化も日本文化もそれまでのそれぞれより高次な一つの文化世界に溶け合わせられました(これは従来、日本の歴史に中で、そこへの渡来人、日本の中の朝鮮文化というように論じられていますが、それとは次元の違う問題として考えるべきでしょう)。これが将来もっと大きなスケールで繰り返されるのではないでしょうか。ただしかつてのそれは、その文化世界の力を日本という地域で独占した勢力がそこに一つの国家を実現したのですが(古代天皇制国家)、これもまた繰り返されるか、今のところ私にはわかりませんが、ともかくそこには多分天皇の居場所はないでしょう。というよりも、私たちはそうなる方へ向けていまの歴史に棹さしていきたいものです。すでにそこでの課題は、在日外国人のこの社会で生きる権利のための運動と私たちとが共同することなどとして現存しています。

 

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