即位・大嘗祭違憲訴訟の東京地裁判決が言い渡される--国の憲法違反行為を放任

木村庸五(弁護士、即位・大嘗祭違憲訴訟弁護団)

既に本サイトの記事で紹介されているように、2024年1月31日、即位・大嘗祭違憲訴訟の第一審判決が東京地裁で言い渡された。

判決当日、裁判長は、予定どおり午後3時きっかりに「原告らの請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」と判決主文のみを読み上げると、原告・原告代理人やほぼ満席の傍聴人に対して原告を全面敗訴させた理由を一切説明することなく、直ちにそそくさと退廷した。訴訟提起から5年以上経過してのあっけない判決であった。
国家賠償と差止請求を申し立てた事件であったが、差止請求は早い段階で却けられ、残る国家賠償請求についての審理が続けられてきた。審理が本格化しても、原告の主張を裏付けるための専門家証人の申請はすべて却下されてしまった。

われら原告側は、

(1)①国が、2019年5月から11月にかけて徳仁天皇の即位の礼及び大嘗祭関係諸儀式等を挙行しこれに国費を支出したこと、及び②国が、2020年11月から翌年にかけて秋篠の宮の立皇嗣の礼関係行事等を挙行しこれに国費を支出したことが、いずれも、憲法(憲法20条1項後段、3項、89条)の政教分離原則に違反するのみならず、原告らの思想及び良心の自由(憲法19条)、信教の自由(憲法20条1項、2項)、主権者としての地位(憲法前文、1条)並びに納税者基本権(憲法30条)を侵害する違憲違法なものであり、また

(2)「天皇陛下御即位奉祝国会議員連盟」、「天皇陛下御即位奉祝委員会」及び「公益法人日本文化交流財団天皇陛下御即位奉祝委員会」の共催で2019年11月9日開催された徳仁天皇の即位を祝う国民祭典を、中央省庁(内閣府、総務省、法務省、外務省、財務省、文部科学省、厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省及び防衛省)が後援し、内閣総理大臣が新天皇の即位に祝意を表したが、同祭典が宗教色の濃厚な催しであったことから、この政府による後援行為が政教分離原則に違反するのみならず、国がかかる祭典を後援することは、原告らの思想及び良心の自由を侵害する違憲違法なものであると主張し、

これら(1)(2)の国の違憲違法な行為について国家賠償を求めてきた。

裁判所による争点整理--司法審査の範囲について消極的姿勢を変えず

裁判所は、判決文において、この訴訟の主な争点を上記(1)の諸儀式の挙行及びこれに対する国費の支出、あるいは上記(2)の後援行為等によって、原告らの権利又は法律上の利益の侵害があったかどうか、という点に絞った。

しかし、この争点の絞り込みの段階で、重要な論点が挙げられていない。

仮に原告らの権利又は法律上の利益の侵害があるとは言えない場合であっても国の政教分離原則違反の行為を裁判所が違憲審査すべきではないか、国民からの訴えを審理すべきではないかという争点は、ここでは主要な争点からは排除されているのである。この主要な問題は(1)と(2)の争点の検討の判示の中においてこの争点は既に解決済みであると言わんばかりに付言する形で論じられている。裁判所は、この原告適格の争点については、司法権の範囲を狭く解し、

「憲法76条により裁判所に与えられている司法権は、いわゆる法律上の争訟について裁判を行う作用をいい(裁判所法3条1項)、具体的な権利又は法律関係について紛争が存する場合に初めて発動することができるものであり、憲法81条により裁判所に与えられている違憲審査権も、このような司法権を発動することができる場合に行使することができると解すべきであるから、裁判所は、具体的争訟事件を離れて抽象的に政府が行った行為等の違憲、違法について判断する権限を有しない」

との1952年、1953年の最高裁大法廷判決の基本的立場から一歩も踏み出そうとせず、また、政教分離規定はいわゆる制度的保障を定めたものであり、政教分離原則に違反しても国又はその機関の行為が直ちに私人の信教の自由を侵害するものということができないとする1977年、1988年の最高裁大法廷判決の立場に固執し、政教分離規定の人権規定性を否定しており、また、「権利又は法律上の利益の侵害があると認定できない場合においては、国の政教分離原則違反に対する司法審査権を行使しないこと」を明言し、国の政教分離原則違反に対して裁判所が憲法擁護の判決をすることを放棄しているのである。

これでは信教の自由とは別に政教分離原則を定めた憲法の趣旨は全くないがしろにされることになる。

新憲法制定後の早い段階において、日本の裁判所は、憲法違反事件の審理における自らの役割を狭く解し、憲法違反があっても、原告の権利又は法的に保護すべき利益が侵害されていない場合には、憲法違反を放置し、原告適格を認めないで訴えを斥けるという立場を明確にし、憲法訴訟の大きな壁を築いたのである。

憲法違反を放置するこの法理の壁に対しては、さまざまな裁判において挑戦がなされてきた。今回の判決においても、法廷におけるさまざまな努力の甲斐なく、またしても裁判所の消極的な姿勢(行政の違憲行為を放置し結果として違憲行為をサポートする姿勢)が明らかになったのである。

裁判所としては、地方自治法の住民監査請求のような制度があって、具体的な法律上の権利として政教分離原則違反を争う地位が住民に与えられていれば裁判所が審理できるが、国に対する関係では国民による国民監査請求制度はなく国民に同様の権利は与えられていないので、権利侵害が認定できない国民の訴えを裁判所は取り扱うことができない、国民監査制度を定める国民訴訟法の制定があれば裁判所は違憲審査をすることができるということであろうか。違憲な国の行為を国民が争うことができる手続きを法律が定めていないのは重要な法律の欠缺である。政教分離に反する地方自治体による公費支出に対しては、住民監査請求を経て政教分離原則違反を裁判で争う適格があるのに、より重要な国の違反行為については争えないという法理の齟齬は、憲法の番人としての裁判所は、その重い役割を自覚すれば原告の主張を採り入れて判決によりこれを乗り越える法理を展開することができるはずである。

原告側の政教分離規定の解釈の展開

というわけで、この原告適格の論点については、裁判所は、頑なに憲法違反を止める法的救済に乗り出さなかったが、原告側は、この論点について本裁判において以下のように主張を展開した。

すなわち、政教分離規定は、国家と宗教との厳格な分離を図るために設けられたものであり、その趣旨及び機能は、国家による宗教的行為による国民の信教の自由等の侵害を防止する点にある。従って、政教分離規定は、政教融合による国民に対する直接的な強制や弾圧だけでなく、間接的な圧迫も排除して、信教の自由の完全な保障を図るもので、政教分離原則は、国民の人権として保障する規定であり、国民の信教の自由や思想及び良心の自由の侵害を予防する、いわば「防火壁」である。国民は、国の違反行為について、裁判所の憲法適合性判断により違反の是正を求めうる抽象的な利益を有し、このような利益もまた法律上の利益として保障される。仮に政教分離規定が制度的保障を定めたものであると解するとしても、国の違反行為が国民の信教の自由を侵害したものと推定されるべきであり、又は当該自由を侵害したものとみなされるべきである。

宗教性の主張・立証

原告側は、さらに、上記(1)及び(2)の国の行為が、明らかな政教分離原則違反であることを式典の内容やその歴史的背景などを詳細に明らかにし、その宗教性を具体的に主張・立証することについても手を抜くことはなかった。
即位の礼及び大嘗祭関係諸儀式等が、現憲法の発効と同時に新憲法と相いれないとして廃止された登極令及び同附式に定められた神道式儀式の形式のまま挙行されたものであり、天照大神の神勅が体現する神権天皇を再生産するところにその本質があり、天孫降臨神話に基づく高御座や三種の神器である剣爾を用いた宗教儀式であって、大嘗祭関連諸儀式等は、皇室神道及び国家神道の流れを受け継ぐ宗教的儀式である。立皇嗣の礼関係行事等も神道又は天孫降臨の日本神話に基づく宗教的儀式である。

権利侵害・保護すべき法的利益の侵害の主張・立証(信教の自由侵害、思想及び良心の自由侵害、主権者としての地位の侵害、納税者基本権の侵害)

原告側は、国の上記(1)及び(2)の行為が、原告らの信教の自由、思想良心の自由、人格権などの権利の侵害及び保護すべき法的利益の侵害に該当することを主張・立証するために多くの力を注いだ。

すなわち、本件諸儀式等の挙行及びこれに対する国費の支出が原告らの権利又は法律上の利益を侵害しており、侵害の態様、程度等にかんがみ、また行為の悪質性と生じた結果の重大性からみても社会通念上甘受すべき限度を超えるものであることを主張・立証した。さらに信教の自由の侵害は、直接的侵害に限定されず、国家が特定の宗教を喧伝することなどによって個人の信仰や宗教的行為の自由が間接的に妨げられることによっても生じる。国家が宗教的儀式を挙行し、これに国費を支出し、事実上特定の宗教を殊更に優遇しこれを流布宣伝することは神道以外の宗教を信仰する者あるいは宗教を信仰しない者に対し強い心理的圧迫を与え信教の自由を侵害する。また、「国民こぞって」新天皇即位と代替わり儀式に祝意を表することを国が要請した上で、戦前の祭政一致の絶対的神権的天皇国家体制のイデオロギーと密接不可分に結びついた本件諸儀式等の挙行と国費の支出をしたことは、これに賛意を表明すべきであるという「同調圧力」を形成し、個人の思想及び良心の自由を侵害する。さらに、本件諸儀式は、天皇制国家体制のイデオロギーに基づく服属儀礼的な性格を有し、憲法の基本原則である国民主権原理に反しており、これに違反する態様でなされた公権力の行使に当たる国の公務員の行為は、社会通念上の受忍限度を超える精神的苦痛を与え原告らの権利又は法律上の利益を侵害する。また、国民は納税者基本権を有し自己の納付した税金が憲法上の原則に反して支出された場合には、納税者基本権侵害を理由に発生した精神的損害の賠償を求めることができるのである。

権利侵害や保護すべき法的利益の侵害を否定する裁判所の人権感覚の鈍さと憲法からの逸脱行為の放任

しかし、裁判所は、(1)及び(2)の行為が政教分離規定に違反するかどうかは判断することを回避し、仮に違反しているとしても、本件諸儀式は、原告らに対して特定宗教の信仰や宗教上の活動を禁止し又は強制するなどしたものではない。原告らの信教の自由を制限し、宗教上の行為等への参加を強制するなど信教の自由を直接侵害するに至っていない。国費の支出によって、原告らの宗教上の感情が害され主観的な不満や不快感等を抱いたという域を出ず、原告らの権利又は法律上の利益が侵害されたと認めない。又国が「国民こぞって」祝意を表することを要請して「同調圧力」を形成した上で、本件諸儀式等を国が挙行し国費を支出したとしても原告らが本件諸儀式等を含む天皇の代替わりに伴う儀式や天皇制の在り方などに関して否定的な思想や信条を形成することを何ら禁止するものではなく原告らの思想及び良心の形成に対して不当な圧力や干渉等を加えるものであると言えない。などと断定した。

人権の最後の砦、憲法擁護の役割を担うべき裁判所が、その本来の職務を果たすように訴える裁判は、あきらめずに続いていく。

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