徳仁天皇制の現在--日本国憲法における天皇制と国民主権

斉藤小百合(恵泉女学園大学教員)

私は憲法研究者として名乗っていますが、それはいちばん興味を持って勉強しているのが憲法だということです。日本国憲法は立憲主義的な憲法ですが、その最大の特徴は平和主義にありますから、憲法学だけでなく、「平和学」研究会・学会にも加わっています。

今日、お話しさせていただくにあたって、テント芝居集団「野戦之月」の森美音子さんのパフォーマンスが予定されていて、それを楽しみにしているということもありますが、いま平和学の中でも注目されているのが、「アートと平和」というキーワードです。アートで平和をつくり出そう、アートの観点から平和を広げていこうという。ただ、アートも権威主義化しやすいのです。そういう傾向を崩していくためには貴重な役割ですね。今回はそういう企画でお話させていただくので、すごくうれしく思っています。

0 意外な発言

まず「意外な発言」だと感じたのが、資料にもある元最高裁判事・園部逸夫さんが「毎日新聞」(2023年12月29日)の記事「無関心ではいけない 『象徴』必要と思うなら」でした。次のように言っています。「面倒な反発を恐れて、政治家は皇室の課題を脇に置く。憲法学者は触らぬ神に祟りなしの姿勢で矛盾を素通りする。国民も関心を寄せない。このままでは皇室の縮小が続きます。それでもいい、そもそも天皇制はいらないという意見を含め、いろいろ出し合ったらよい。皇室のこれからについて議論が進まないのは社会全体の問題です」と。全体のトーンとしては「議論しましょう」ということに尽きるのですが、しかしその議論しましょうという中に、「そもそも天皇制はいらないという意見を含め」という。

なぜ「意外」と感じたのかというと、こんなことです。園部さんは、小泉内閣のときの、「皇室典範に関する有識者会議」の座長代理をされていました。わたしはこの有識者会議の設置にあたって、「皇室典範」という皇位継承に関する規定が細かく書かれている法律を、大日本帝国憲法での名称と同じ、この古い名称の「皇室典範」という法律の名前を変えることも含めてゼロベースから議論されるべきじゃないかと思っていたんです。しかし、この有識者会議は、結局、天皇制を維持することが大前提で、制度を維持するために小さい修正をいかに施していくか、そのための会議だったわけです。天皇制に関わる根本的な議論はしないのだ、と。それこそ、「天皇制はいらない」という考え方も含めて議論する発想がみじんもなかったのです。それでとてもがっかりしたのでした。

そういう方が、「そもそも天皇制はいらないという意見を含め、いろいろ出し合ったらよい」とおっしゃるようになった。これが新聞で私たちの目に触れ、読む人にシェアされるのは大切なことだと思いました。「そもそも天皇制はいらない」「終わりにしよう天皇制」ということが、躊躇することなく言えることが大切だということを思わされました。

園部さんの発言が、意外と感じたもう一つの根拠は、別の元最高裁判事の宮川光治さんのある弁護士会のインタビューでの発言です。「一言でいうと最高裁と皇室との関係は深くて密である」と。びっくりしました。何のことなのかというと、新年には、講書始の儀とか、歌会始の儀とか、ありますよね。春秋園遊会、皇室祭祀の一環としての春秋皇霊祭、新嘗祭とか、こういった機会に、最高裁判所の判事は宮廷に招待される。そして、おそらくはありがたく行っているのでしょう。そして何回もそうやって接触する。これは心理学で単純接触効果とされ、何回も何回も、人だったり、ものだったり、考え方だったり、それに繰り返し触れていると、それだけで愛着がわいたりすると言います。まさにそうして「深くて密な関係」というのを形成している。その最高裁の判事が、皇室の行事にかかわることについて、即位の礼や大嘗祭についての「違憲訴訟」などに際して、本当に公平公正に判断してくれるのでしょうか? 「憲法の砦」としての役割を果たすでしょうか?

こういう「深くて密な」関係について、憲法研究者の江橋崇さんが、『日本国憲法のお誕生』という著書で、制定・公布の80年前には、私たちが現在思い描くような日本国憲法として、日本の人たち日本社会に受け入れられたわけではなかったということを指摘しています。例えば憲法施行にあたって施行記念「憲法音頭」なるものが作られたとか、憲法記念カルタ、記念切手などがつくられた。そうしたモノを通して見てみると、相当な程度に大日本帝国憲法的な、1945年8月以前と切り離されているというよりも、繋がりをより強く感じるものとして、「壮大な立憲君主制のお芝居」というものが引き続き行われている、ということを指摘されています。

その点でいうと、裕仁天皇制は君主制のままだった。神権の色彩こそ薄まっているけれども、「人間宣言」でも、自分が神の末裔であること、万世一系の天皇であることを根底的に否定してはいないわけですね。裕仁さんは、君主制をやめられなかった。辻田真佐憲という作家は昭和天皇について、「君主制やめられない症候群」といっています(『天皇のお言葉』2019年)。日本国憲法になってからも、いろいろな形で国政に関しても隠然たる政治的な役割を果たしたわけです。その意味では君主を辞められなかった人なのでしょう。

しかし、あの大日本帝国憲法下の天皇制というのは単なる「君主制」だったわけではないということを再確認しておかなければなりません。天皇がいて、天皇のために戦い・死ぬための、皇軍というものがあって、その皇軍を支えるための精神的な支柱として靖国神社という天皇の神社があり、それらが三位一体となった、祭政一致の軍事国家としてつくり上げられて存在したわけです。

1 「大日本帝国憲法的なるものをいかに残すか」という暗闘

現在の天皇制というものは、大日本帝国憲法下の天皇制とは全く異なるものとして構想されています。現在の日本国憲法でも天皇制は残ったけれど、戦前の大日本帝国憲法下の天皇制とは全く違うものとなったということを、やはり、私たちはその核心として汲みとっておかなければならないと思います。

今の憲法では、9条(戦争放棄)と20条(信教の自由)があって、これが決定的に戦前の天皇制と異なるものにしています。天皇制それ自体についても、条文上は残ってはいるんですが、憲法研究者たちも解釈において天皇制を小さく理解するということを苦心しながらそれなりにやってきたのです。1条に「主権の存する国民」とあります。主権が変わったということが決定的に大きいし、9条によって、天皇と一体となっていた軍隊(皇軍)をなくす。平和主義によって、(天皇だけではなくて国家全体がそうだけれど)天皇は軍隊とは切り離された。そして、国民主権原理によって「国民の総意に基づく」ところに天皇の正当性の根拠があって、皇祖皇宗などという神勅、神話に基づくものではないのだと。9条による平和という土台があって、軍隊と切り離された天皇制、天皇のために戦って死ぬということはもうやめる、そのための宗教的装置だった靖国神社も国家から切り離す、神勅によって正当化されるのではない、そのために20条の政教分離原則がある。

日本国憲法の核心的な柱・原理は何かといえば、日本社会のアンシャンレジームとしての祭政一致の軍事国家を解体するということなのです。だから、ある意味では靖国体制を解体するということが一番重要なのです。

でも、日本国憲法の中に、大日本帝国憲法なるものが残ってしまっていますね。天皇制がないほうがすっきりします。国民主権原理なのですから。そうなのだけど、天皇制が入っている。その天皇制に関する規定、1条から8条までの規定を読んでも、大日本帝国憲法における天皇制とまったく違ったものであるはずなのだけど、何か曖昧化されているところがあったりするんです。

日本国憲法の制定手続きが、まず初めに、平和主義、国民主権主義、基本的人権の尊重、という基本的な原則を立てて、その原則から、日本国憲法の103条が作られていたら、論理の一貫した憲法となったと思うのですけれども、でも、そうなっていないのです。手続き的には、日本国憲法は大日本帝国憲法の改正として、成立しましたので、論理的な必然とか、憲法上の理念に基づいて、この天皇制というやつを作ったということではなくて、いわば典型的な妥協の産物として居残ってしまった。それがこの象徴天皇制です。それも自然と残ったわけではなく、ものすごく強い意志・国体護持という意志--鈴木貫太郎、東久邇、幣原、吉田、と続く一連の政府が、国体をいかに維持していくかということに腐心したこと--によって、象徴天皇制という妥協の産物が憲法の中に居座ってしまった。

まず、日本政府はポツダム宣言を受諾したのだから、神権主義を排して国民主権主義を採用し、基本的人権の保障を徹底し、平和国家を実現する必要があったけれども、これを日本政府は、ちゃんと理解しませんでした。そこで、ポツダム宣言という国際的な約束を果たす能力が日本政府にはない、と判断したGHQが、比較的早い時点で憲法策定に介入し、「GHQ草案」が出される。

しかし日本政府はこの「GHQ草案」に対して、がぜん頑張った。国民主権主義や基本的人権の尊重などについて、すごく抵抗するわけです。とりわけ、「国体護持」に関わるところです。主権原理が天皇主権から国民主権に変わりましたよ、ということに抵抗するんです。

大日本帝国憲法は第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と明確に天皇主権を規定しています。日本国憲法の第1条は「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」です。この条文は「天皇は」から始まっているのですが、重要な部分は「主権の存する日本国民」というところですよ。主権は「日本国民」である、ということを言っているはずなんです。でも「天皇は」という主語で始まっていて、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と、何となくぼやーっとした文章になっている。それが、主権原理が変わった、天皇主権ではなく国民主権なんです、ということを見えにくくしていると思います。

日本国憲法は、大日本帝国憲法73条に基づく改正手続に従って制定されました。「公式令」という旧法があります。これは、日本国憲法の施行と同時に廃止され効力を持たなくなった法律ですが、大日本帝国憲法の下で法律を制定するときの手続きを定めていました。それによると、明治憲法73条に基づいて帝国議会で審議し、さらにそれを枢密院に諮詢し可決する。そして天皇の裁可を経て宮中で「発布式」を行う。そして11月3日に公布にされた日本国憲法は、憲法の前文よりも一つ前に「上諭」というのがついています。憲法の原本は、国会図書館のデジタルライブラリーで見られます。

その「上諭」を付すという形式は、この公式令に従った手続きなわけです。それによれば、「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」と。誰が公布を命じて、誰が公布をしているのか。旧公式令に基づいた公布の仕方になってしまったとことで、大日本帝国憲法の「残りかす」のようなものが居座っているのです。

これもまた、当時の日本政府の悪知恵ですが、GHQは、神権天皇色というのを絶対に払拭したかったので、新しい憲法に、神権天皇制的なる残り滓みたいなものがいろんな形で出てくることを、とても警戒していました。だけど政府は、5月3日を施行日とすることにGHQの許可を得ます。そして政府は、公布はその半年前として、11月3日--いわゆる「明治節」(明治天皇の誕生日)--を公布日にする。何とか大日本帝国憲法的なものというものを残していこうと。その色彩を、国民主権的な日本国憲法ではなくて、大日本帝国憲法から繋がっているという形を何とか演出するということに拘泥するわけです。

これらも含めても、象徴天皇制として、この日本国憲法の1条から8条まで天皇制が残ってしまいました。国民主権主義を採用した以上、「すべての人が平等」でなければなりません。身分制は払しょくしないとならない。他方、天皇制という身分制も残っている。これを、憲法学的にはどのように説明するのか。早稲田大学の長谷部恭男さんは「飛び地」だと説明しておられます。日本国憲法の原理は平等原則なのだけれども、天皇制という、日本国憲法の基本的原理が及ばない「飛び地」みたいなものなんだという説明です。

先ほどお話ししたように、主権原理が天皇主権から国民主権にかわった、これってものすごく決定的に大きなことです。でもそれがとても見えにくくされてしまった。条文の上でも、制定・公布・施行される手続きでも、大日本帝国憲法とのつながりが残された。「国体護持された」という言葉に象徴されているような、当時の政府によって、繋がりの方をより強く見せる演出が行われたからです。

このように、主権の所在が変更していることがなかなか私たちにわかりにくいのだけれども、でもこの象徴天皇制というのは、天皇の権能が極限まで縮減されていて、しかも、これも重要なことですが、天皇の正統性の根拠というのを、神がかり的な神話の世界の「神勅」というものから、「国民の総意」に変更したのです。そうだから、「象徴になった」というよりは、憲法制度としては、天皇の権力を完全に剥奪したと考えるほかないのです。なので、象徴天皇制になりましたよ、といっても、象徴に何か憲法上の積極的な役割を与えるということをしたわけではないのです。それは国民主権原理と象徴天皇制と、どっちが日本国憲法の基本原理かということを考えたら、すごくわかりやすいことです。どっちが基本原理かと問えば、それは国民主権原理です。だから、象徴天皇制の方が国民主権原理の方を侵食していく、ということは、あってはならないことのはずです。天皇制を極小化するということが、日本国憲法の含意・趣旨だと思います。

当時の日本社会の支配層による「居直り」によって曖昧にされてしまっている国民主権主義を、わたしたちに主権があるということを、手放してしまうことにつながったりしないよう警戒していないとならないです。

2 残念な「飛び地」--苦渋の選択としての「象徴天皇制」

すでにお話ししてしまっていますが、次に残念な「飛び地」の話です。「飛び地」として残ってしまったのだけれども、大日本帝国憲法下の神権天皇制とは決定的に違うこと、まさに冒頭でお話しした園部さんの発言に示唆されているように、「そもそも天皇制はいらない」という選択肢を選び取ることもできるのです。わたしたちが「必要と思わない」ようになったら、天皇制を廃棄するということも可能なのです。そうではあるのだけれど、「象徴天皇制」として居残ってしまった。では他の選択肢、つまり、象徴天皇制という形で、天皇制を妥協の産物として残すという以外の方法はなかったのだろうか。私は、それはあり得た、と思うんです。本来だったら、大日本帝国憲法をゼロベースで作り出したように、こんどこそ日本国憲法は密室ではなく憲法制定議会を設置して、草案を作り上げて考える、ということもできたと思います。でもそれは、いろんな状況でできませんでした。

また、大日本帝国憲法の改正であったとしても、改正の中身として、もうちょっとできた可能性もあったのかもしれません。たとえば、GHQ草案に強く影響を与えたと言われている、日本の研究者や政治家のグループである「憲法研究会」は、憲法草案を1946年に作っています。その研究会メンバーであった高野岩三郎さんが、単独で「憲法改正要綱」を作った。そこで、高野さんは「天皇制ニ代ヘテ大統領ヲ元首トスル共和制ノ採用」するとしています。もっと遡って自由民権運動の時代にも植木枝盛の「日本国国憲按」には抵抗権や革命権が盛り込まれていました。

もう一つ、天皇の「退位」というのもあり得たのではないか、と思います。実際に近衛文麿が「ヒロヒト退位論」を(その後すぐに撤回しますが)表明していました。それから高松宮、三笠宮、東久邇宮稔彦ら皇族からも「退位論」はかなり強力な形で主張されていました。こうした「退位論」も、憲法改正に伴う諸般の法制の整備に関して調査審議するためにつくられた臨時法制調査会で否定されてしまう。

結局のところ、現状維持で決着し、新天皇の即位は、旧皇室典範の10条(「皇嗣ノ践祚ハ天皇ノ崩御ト其ノ時ヲ同フシ」)」による、前天皇が死んだときだけという規定((天皇即位の「崩御唯一原因論」)に則ることになりました。これは、神様である天皇が、辞めても存在しているというのはあり得ないという考え方や、辞めてからも上皇として存在していると現天皇に影響を与える、現天皇よりも上皇の方が敬愛の対象となってしまうことを避ける、また、政治的な混乱を引き起こしてしまうかもしれない、といったようなことを考慮したためとされています。要するに、退位というのは議論されたけれども、この問題を先送りしたのです。

憲法研究者の奥平康弘さんが1985年1月の「世界」に「『象徴天皇制』として残されることになったとしても、せめて帝国議会が日本国憲法制定以前に、旧皇室典範を改正し、『生前退位』をさせる(という形での戦争責任を取らせる)ことができていたら……」と書いています。GHQ草案が公になるまでのどこかで、天皇自身が退位の意を表明し、それを受けて、帝国議会がイニシャティヴをとって旧皇室典範を修正し、生存退位の筋道をつけ、ヒロヒト天皇が政治責任をとって退位する、ということがあったら、と。もしも、当時の帝国議会がこういう形で天皇の責任問題を扱うことができていたとすれば、GHQ草案が示される前に、その線での改正の流れができる前に、帝国議会が、実質的に新しい憲法の成立に踏み込んだという事実があって、わたしたちがそのような歴史経験ができていたとすれば、天皇主権から国民主権への転換という憲法的な革命を私たちの政治経験に刻むことができたのではないか、と。

しかし、実際には、わたしたちはそんな経験をすることもなく、ここまで肥大化した象徴天皇制に付き合わされてきました。「肥大化した」といいました。「平成流」です。これが多くの人たちに称賛されるに至ったわけですが、これを憲法的にどう理解したらいいでしょうか。それが次の話です。

3 「平成流」の憲法理念からの逸脱

平成天皇がこだわった「象徴天皇としての務めを果たす」ということ、そのために、いわゆる「公的行為」というのを拡張させてきたのですが、「象徴天皇としての務めを果たす」というのは、積極的・能動的に活動するということで、それは憲法理念からは著しく逸脱していると言わなければなりません。それは典型的に、日本国憲法4条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」で、国事行為は、限定列挙されていているし、それも内閣の助言と承認を受けてやるほかない。宮澤俊義さんがいった「ロボットのようなもの」として機能するだけで、政治権力や権威的行動が厳格に禁止されているはずだった。本来は「ほんの少しの天皇制」であったはずなのです。

しかし、この「平成流」という活動そのものはなかなか否定し難いものがあると思いますが、例えば、安倍首相が歴史修正主義的なことをどんどんやろうとする中で、第二次大戦の激戦地であったペリリュー島へ「慰霊」にいくとか、そういう格好でやってきたわけです。正面から否定するのがすごく難しい。それでも「平成流」として積み重ねられてきた「象徴としての行為」(「公的行為」)は、憲法の条文には一切根拠の無いものです。「国事行為」は憲法に明記されています。そして人間なのだから、水を飲むとか食事をするとか、生物としての活動や本を読んだりする「私的行為」は、憲法には書かれていないけれども人間である以上仕方のない行為として当然認められます。「国事行為」は憲法上の規定があり、「私的行為」は説明できるのですが、「公的行為」というのは憲法のどこにも書いていない。その「公的行為」、「象徴としての行為」あるいは「準国事行為」という人もいますが、これは、憲法が構想しようとしている自由で平等な社会の構築にとって、どちらかというと害悪です。

2016年8月8日のあの天皇のメッセージで、天皇自らが退位の希望を表明した。その途端に、特例法で退位という流れができてしまった。彼がこのメッセージで、「退位したい」と言う前はどうだったでしょうか。おそらく「退位」と言うことを、恐れ多くて政治家は誰も口にできなかった。思ってもいなかった。だけど本人がそれを言ったら、一気にその方向に流れていった。これはまさに、本来憲法で構想している「国政に関与しない天皇」に反する行為であったのです。

天皇が退位したいと言ったから、退位への流れが生まれた。それ以前は「退位」について自由に議論することもできなかった。これはあるべき民主的な政治プロセスではないですよね。彼は圧力をかけたわけです。それで議論の流れを生み、そして決定づけてしまった。政治的意思でそれを作り上げてしまった。これは憲法上とても問題ですが、それまでの「平成流」に対する広い賞賛があったので、それに対する批判の言論は封じ込められてしまったところがありはしなかったでしょうか。

そしてこの天皇メッセージから読み取れるのは、明仁さんは、「象徴天皇としての務め」というものにものすごいこだわりを持っていたことです。こだわりを持っているからこそ、高齢になってやりたい「象徴天皇としての務め」が思うようにできない、なので、退位させてください、という話じゃないですか。憲法的には、国事行為だけをちゃんとやっていけばいいのに。むしろ、そうしないで「公務(象徴としての行為)」が減ることには抵抗しました。

そうだから自分の次の人についても、ある一定の高齢に達したら、退位ができるようにしなければいけないよね。そうしないと象徴としての役割が果たせないよ、と思っていたんでしょう。「毎日新聞」(2017年5月21日)で報道されていますが、明仁さんは、「(一代限りの特例ではなく退位を認めるべきだという)自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」そうです。国事行為だけを行なっていたら、天皇の存在意義はどんどん薄れていってしまう。目に見えるように活動しなければ、天皇が象徴だなんて私たちが思わなくなる。そうすれば、「象徴効果」なんて無くなっちゃいます。だからこそ当事者の方からすると、自分たちが生き残る(=天皇制を存続させる)ためには、国民の関心を得ることをしないといけない。それが生存戦略なのでしょう。

その意味で明仁さんは、即位したときにも「日本国憲法と国民と共に」などと述べたりして、憲法遵守的にも見えましたが、そうではなかった。8.8メッセージは、1946年の1月1日の裕仁さんの「新日本建設に関する詔書(人間宣言)」と共鳴しているところがあります。「人間宣言」と称されているけれども、この文書では自身を人間だとして、神であることを否定しているというわけではありません。GHQと政府の間で文章をやりとりして作り上げるなかで、天皇が「神の裔」だというのは架空であるとすることは許容できない主張したのです。「現人神(あきつかみ)」であることは否定しているけれども、万世一系の天皇で、遡れば天照大神まで血統がつながっているということは否定をしていない、「万世一系の天皇」から決別してはいないのです。

この「人間宣言」と「8.8メッセージ」が共鳴しているところが見え隠れしています。それが「象徴天皇としての務め」に積極的であることに現れています。だから、自民党の復古主義的な改憲案(2012年の改憲草案)を下支えする可能性もありそうです。この間明らかになった、自衛隊の靖国参拝だったり、群馬の森の朝鮮人追悼碑の撤去だったり、軍人を靖国に行かせ、日本の戦争責任・植民地支配責任を否定する、ということが同時に起こっていて、国家安全保障戦略など「安保3文書」が作られ、敵基地攻撃能力を持つようになり、米軍とも頻繁に軍事演習をやるようになっている現実を見ると、2012年の自民党改憲草案というのが、明文改憲はやっていないのだけれども、着々と実態として進みつつある。これらと平仄を合わせるように、天皇の元首化だったり、神秘化、絶対化の方へ引き戻されてはいないだろうか。

「日本の青空」という映画にもなった、京都学連事件で治安維持法の第一号事件として検挙された鈴木安蔵さんは、「人権無視的専制、侵略的軍国主義、盲目的忠君愛国の日本と、その専制・侵略の頂点に立った天皇」と言っています。まさにそうしたところへだんだん引き戻されてはいないか。「平成流」という何となくほんわりとした、良さそうな活動の中で、実際に起こっていることはそういうことではないのだろうか。

4 徳仁天皇制の現在

さて、頂戴したお題である「徳仁天皇制の現在」というところにようやく辿り着きました。

なかなか徳仁天皇制というものは見えてこない、というのが正直なところです。ただ、いくつか言えることがあて、それは怖いことでもあるなと、先ほどの鈴木安蔵さんの言葉がチラつくような怖いことではないかと思います。

「令和流」というのができていくのか。コロナの3年間というのがあって、私たちも活動できなかったけれども、彼らもできなかった。存在感といえば、まだまだ天皇よりも上皇の方が存在感を示している状況ではありはしないか。それは、本来の姿ではないはずです。徳仁さんの「即位後朝見の義」(2019年5月1日)というのを読みなおしてみました。その中ですごく気になる言葉が二つあります。

一つは、お父さんがやってきたことを自分も引き継ぐということで、「象徴としての責務を果たすこと」というものです。もう一つは、「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」というものです。「歴代の天皇」です。それはお父さんとお祖父さんまでというわけにはいかないのでしょう。「歴代の天皇」ということは、万世一系の天皇ということを言外に示唆しているのはないでしょうか。

一つめの「象徴としての責務を果たすこと」は、平成天皇が肥大化させてきた天皇の領域をさらに広げることになりはしないだろうか。そして、彼の頭の中には、神権天皇制的なるもの、人間宣言でも裕仁さんが否定しなかった「万世一系の天皇」、「神の裔」という考えが、抜き差しがたい格好であるのではないか、と思うのです。

日本国憲法が構想している象徴天皇制は、天皇の役割をできるだけ小さくしようとしていたのに(「ほんの少しの天皇制」)、それがむしろ突出してくる。その点で、怖いなと思ったのは、「朝日新聞」の最近の世論調査(朝日新聞デジタル・フォーラム「象徴」って何だろう https://www.asahi.com/opinion/forum/194/)があります。設問「象徴天皇に何を期待しますか」に、「宮中祭祀など伝統行事」と答えた人が、複数回答ではありますが、回答者の8割以上(83.6%)もいます。

徳仁さんが即位する際に、あの大掛かりな祭祀(大嘗祭)が行われて、それが影響を与えているのか、明仁さんが、ずっと大事なのは宮中祭祀だ、国民のために祈ってきたのだと言っていたことに、親近感を持っているのか。

忘れてはいけないのは、明仁さんも徳仁さんも、即位の際には、あのように神がかり的な大嘗祭という儀式で即位したわけです。三種の神器を継承して天皇になったわけです。「万世一系の天皇」というコンセプトと完全に決別したというわけではないのです。

そこで、「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ」というのは、あの儀式の中で、神々と一体化して、ということから来るのか、ということなのではないかということを私たちはよく注意してみておかなければならないと思います。

「本質的には日本国憲法の原理から逸脱する天皇制というものををできるだけ小さくしていこうという方向に進むのか、それとも肥大化させるのでしょうか。私たちはせめて憲法の構想している、「ほんの少しの天皇制」というところにできるだけ戻していく努力を日々していく。おかしい時には「それはおかしい」と言うことです。

そして、平成天皇に代行させたり、代弁させたりしてしまったところがある植民地責任・戦争責任・戦後責任を、政府にやらせる。政府は自らやりたくないので、天皇にやらせて、多くの良心的な市民も、それを天皇がやることを「平成流」として良かったね、と受け止めてしまった。しかしそれは、国民が主権者として正面から取り組むこと、まずは政府にやらせること、ではないか。

一言で言えば、「主権者であること」を真剣に考えるということです。主権者であるわたしたちが今問われていると言うことを、改めて考えさせられるところです。

*2024年2月22日に行われた「天皇誕生日奉祝」反対集会(主催:「紀元節」と「天皇誕生日奉祝」に反対する2.11&2.22連続行動)での講演全文

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