太田昌国
ウェブ・マガジン「反天ジャーナル」前号(2023年8月)に、オランダ王室の動向に関する興味深い資料が載った。去る7月1日、オランダにおける奴隷制廃止から150周年を迎えた記念式典で、国王が王室も関わった奴隷制は「人道への犯罪」であったと謝罪したというものである。前号では、国王のスピーチ全文が翻訳・紹介され、これに関する英ガーディアン紙の記事が掲載された。
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https://www.jca.apc.org/hanten-journal/?p=3462
https://www.jca.apc.org/hanten-journal/?p=3459
私は、2017年7月から、ウェブ・マガジン「レイバーネット」上に月一回のコラムを書いている。オランダにおける植民地主義克服の動きにはここ数年来注目し、何度か触れてきた。今回の国王の謝罪スピーチについても、去る7月10日付けコラムですでに触れた。
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http://www.labornetjp.org/news/2023/0710ota
それらの記述と若干重複する箇所も生まれようが、「反天ジャーナル」という媒体の独自性に鑑みて、改めてこの問題について考えてみよう。オランダ現代史研究者であれば、もっと緻密な議論が展開できようが、基本的にはにわか勉強に基づいた、私の限られた視野と知識からの記述となる。
オランダ固有の動き
まず、植民地支配という、オランダの過去と向き合う動きを年表風にまとめてみる。これは、2021年9月21日付「しんぶん赤旗」に掲載された「17~19世紀の奴隷酷使、植民地搾取で繁栄――歴史直視するオランダ」と題する記事に大きく依拠している。
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■2005年8月 ポット外相、インドネシアに対する植民地支配と、独立後の同国に対するオランダ軍の攻撃に関して、「インドネシア国民の利益と尊厳を傷つけた」として「深い遺憾の意」を表明。
■2011年9月 ハーグの裁判所が、政府に対し、1947年にオランダ軍がインドネシアの村で起こした虐殺事件の遺族に対する賠償を命令。同年12月、駐インドネシア大使が虐殺事件で初の公式謝罪。
■2020年3月 ウィレム・アレクサンダー国王(2013年に即位)、訪問先のインドネシアで、独立戦争当時のオランダによる暴力行為を謝罪。
■2020年6月 ルッテ首相、米国のBLM(ブラック・ライヴズ・マター)運動を受け、自国の人種差別の存在を認めたが、謝罪は拒否。政府は、奴隷制が現代にまで及ぼしている影響を検討する独立委員会を設置。
■2020年10月 政府、インドネシアでの虐殺事件に関し、犠牲者の子どもたちへの賠償金支払いを発表。
■2021年1月 政府、植民地起源の略奪文化財の無条件返還を決定。
■2021年7月 独立委員会、政府に対し、大西洋奴隷貿易は「人道に対する犯罪」だと認め、オランダが果たした役割を謝罪すべきだと勧告。アムステルダム市長、奴隷貿易に「市が積極的に関与した」事実を公式に謝罪。
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世界的な背景
オランダ固有のこれらの動向の中に、みっつの重要な国際的な契機を挟み込んでみる。
■1992年 コロンブスの大航海と地理上の「発見」から500周年(1492→1992年)。ここに始まる植民地支配を通して世界を二分割したヨーロッパ近代を相対化し、民族・植民地問題を基軸に、世界像と世界史を分析する方法が地球規模で活性化。
■2001年 アパルトヘイト(人種隔離)体制を廃絶したばかりの南アフリカ共和国のダーバンで、奴隷貿易・奴隷制・植民地支配・あらゆる人種差別に反対する国際会議開催。
■2020年5月 米国ミネソタ州ミネアポリスで、白人警官による黒人青年の虐殺事件が起こった。青年を路上にねじ伏せた警官は、膝で首を8分間も押さえつけて死に至らしめた。この残虐行為の映像が繰り返しテレビで流れた。
第一番目は、時代的に言えば、1989年から1991年にかけて起こった東欧・ソ連社会主義体制の連続的な崩壊の直後に当たる。その時、第二次大戦後の世界の最大矛盾として国際秩序の在り方を規定してきた東西(ソ米)冷戦構造が消滅した。この最大矛盾の下に押し隠されてきたのが、大戦前の世界に当たり前のように存在していた植民地支配と帝国主義国による侵略戦争をいかに清算するかという課題であった。近隣アジア諸国の人びとが、日本国家に対して、日本軍「慰安婦」、徴用工、虐殺、強制連行……などに関わる国家責任を問い始めたのがこの時期に集中していることを思い起こすなら、同じことが世界のさまざまな地域で起こっていたと推定しても、おかしくはない。
二番目は、21世紀の初頭に実現した国際会議だが、民族・植民地問題に関わって、被害国側と加害国側の双方が同じ場に集まって討議したこと自体が、画期的であったと言える。問題の捉え方は、両者の間で真っ向から対立した。しかも現代における人種主義の一つとしてパレスチナ問題が議題に上ると、問題提起それ自体に反発するイスラエルと米国が代表団を引き上げて、討論は成立しなかった。加えて、ダーバン会議直後に起こった米国における同時多発攻撃(いわゆる「9・11」事件)を契機に、「イスラーム過激派」掃討を目標とする「対テロ戦争」なるものが発動された。イスラエルと米国はこの「時流」を利用し、「ダーバン会議は反ユダヤ主義」との喧伝を行ない、西側諸国はこれに追随した。このような限界をもちつつも、過去および現在の人類史の中には、「人道への犯罪」と規定されるべき出来事があり、それは仮に時間軸を数世紀遡ってでも、現在に繋がる問題として捉えるという方法が、この会議を契機にして定着し始めたことの意義は大きい。
三番目は、人種差別をむき出しにしたこの仕業の根源には、奴隷制・奴隷貿易・植民地支配などの歴史的「過去」の痕跡があることを実感した人びとは、米国のみならず世界各地で、奴隷商人・他領土を侵略した将軍や王・差別を扇動した大統領……などの銅像・記念碑を引き倒したり、破壊したりした。起因となった殺人行為は、許しがたい「悲劇」であったには違いないが、その事件に「過去」と「現在」の歴史的な関連性を見て取った人びとが、世界各地で同時多発的な反応を示したことに、一番目と二番目の出来事から何事かを引き継いでいる新しい時代の息吹を感じる。
再び、オランダ固有の動き
20世紀以降のこの世界情況の中に、改めてオランダを据え直してみる。先に参照した「しんぶん赤旗」の記事では、21世紀に入ってからの動きが辿られているが、20世紀末の動きを取り入れると、事態はヨリ鮮明になる。
ソ連崩壊から4年目の1995年、オランダはナチス支配からの解放50周年を祝っている。今までなら、アムステルダムの或る家屋の屋根裏に隠れ住んだアンネ・フランクの物語に象徴されるように、「被害国」としてのオランダの姿が浮かび上がる「装置」があった。だが、時代はすでに、オランダ史に潜む「影」の部分を覆い隠すことはできない局面に至っていた。オランダ当局はもとより少なからぬ一般の人びとも、ナチス占領下でユダヤ人狩りに関与した史実が明かされていた。国家元首たるベアトリクス女王(1980年即位。現国王の母親)は記念祝典の演説で、元の敵国=ドイツとの和解を国民に呼びかけたが、同時に、ナチス占領下では圧倒的多数のオランダ人が抵抗者であったという戦後創生神話に疑問を投げかけ、「抵抗は全般的ではなく、大部分の人びとは生き延びることを願って、ただただ生き続けることを優先した」とも語った。
同じ年、イスラエルを訪問したベアトリクス女王は同国国会で演説し「(オランダ国民の対ナチス抵抗神話は例外的なもので)オランダ国民はユダヤ人同胞の絶滅を阻止できなかったことを私たちは知っている」と述べた。
同じ1995年、ベアトリクス女王は旧植民地=インドネシアも訪問している。こうして、東西冷戦消滅後の1990年代の過程でオランダでは歴史の見直しの気運が高まっており、自国の過去を訪ねる、女王自身の言葉を引用すれば「きびしい」旅が始まっていた。第二次世界大戦中にここを占領統治した日本軍が敗戦によって撤退すると、オランダは再びインドネシア統治の回復をめざした。だが、独立闘争が高揚したために、オランダ軍はこれに残虐な暴力をもって応えた。インドネシアは1949年に独立を勝ちとったものの、旧植民地権力が揮った無惨な暴力の記憶は長いことインドネシア民衆の心に残り続けることとなった。それから半世紀近くを経て行なったインドネシア初訪問で冷遇を受け、歓迎されざる客であることを悟った女王は、大統領主催の歓迎会で、独立闘争の犠牲者に「深い哀悼」の意を表した。インドネシア人にとってはあまりに不十分なこの表現でさえもが、インドネシア統治時代に郷愁をおぼえるオランダの在郷軍人会の不興を買った。
20世紀末に起きていたこれらの出来事の延長上に、上記「しんぶん赤旗」の21世紀初頭年表を接続すれば、ひと繋がりの関連性をもって事態が見えてくる。ソ連崩壊=東西冷戦構造の消滅という事態が、オランダでも日本でも、総じて世界じゅうの私たちにもたらした衝撃の深さを改めて思う。自国の歴史(過去)や政治に関して、国家元首としての発言を行なう立場にあるオランダ女王(あるいは国王)が、そこで果たした役割も浮かび上ってこよう。
別な観点からも見てみる。米国のBLM運動の高揚は、欧州諸国が関わった大西洋奴隷貿易の現実の姿をも露わにした。米国での悲劇から1カ月後の2020年6月19日(この日は、米国の「奴隷解放記念日」に当たる)に、欧州議会は大西洋奴隷貿易が「人道に反する罪」だと指摘する決議を採択した。上記年表で示したように、同年6月オランダ政府はこれを承けて、奴隷制が現代に及ぼした影響を調査する特別委員会を設置し、2021年7月、同委員会は大西洋奴隷貿易が「人道に反する犯罪」と認め、アムステルダム市長がいち早く、「利益と権力に飢えて奴隷取引に参加した市の職員や支配階級のエリートたちは、肌の色や人種に基づく抑圧のシステムを定着させてしまった」と公式に語り、市の過去を謝罪した。
少し遡って2020年10月、オランダの人権活動家や博物館の専門家から成る委員会は、旧植民地の住民の同意のない文化財の持ち去りは「歴史的不正義」であり、原産国に無条件で返還すべきだとする勧告書を発表した。
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NMVW Return of Cultural Objects Principles and Process.pdf (volkenkunde.nl)
同国の国立世界文化圏博物館所蔵品43万6000点のうちほぼ半数が旧植民地由来のものであり、インドネシア関連の所蔵品は17万4000点に上ることも明らかになった。勧告書を出した委員会の議長は、南米スリナム(オランダからの独立は1975年)出身の人権活動家、リリアン・ゴンサルベス=ホ・カン・ユーといい、中国系の末裔の女性だと知れる。委員の多くが旧植民地にルーツを持つオランダ人だった。旧植民地出身者が、過去の歴史を精査する委員会の要職に就けること自体が、日本の現実と比べた場合に、オランダ社会の成熟度を示している。委員会には、もちろん、白人の博物館学芸員や大学の研究者も参加している。そのうちのひとり、アムステルダム自由大学研究員、ヨス・ファンビュールデンは、過去の植民地支配という悪行を認めることは重要としつつも「罪の意識を持つ必要はない。責任を果たすことが必要なのだ」、「責任とは、すべての関係者に働きかけ、文化財返還に関する議論が発展すること」、「過去と向き合い、歴史的に気まずい関係にある国の関係者と対話する勇気を持つこと」と語る。この問題をめぐる議論が、どんな水準で行われていたかを物語る言葉である。加害側がこの問題を〈倫理的に〉考えることが必要不可欠であることは言うを俟たない。同時に、被害側が〈倫理的な〉突きつけをもって議論を進めようとしても、それは往々にして不毛に終わるという意味で。
この研究員は、次のような言葉も語っていることを記憶しておきたい--「自国の暗い歴史を認めることは、現在の私たちの重要な責任です。たとえどんなに不快な出来事であっても、です。例えば日本軍はアジアを侵略し、残虐な行為をしました。おそらく多くの日本人が思っているよりも、海外の人たちはこの事実をよく知っています。過ちを認めることは道徳的な力の表れです。二度と繰り返さないように注意を払えば、国際的な信用も高まります。逆に歴史を否定すれば、国際的な信用を著しく傷つけます。隠すことは『弱さ』であり、意味のない重荷を背負ってしまいます」。
植民地主義克服の動きは、さらに社会に浸透する
2021年5月から8月にかけて、アムステルダム国立美術館は、特別展「奴隷制」を開催した。私はオランダから、この展示会のカタログを取り寄せた。”SLAVERY”と題するそれには「たくさんの声たちの展示会」との副題が付されている。それを読むと、同美術館が奴隷制に関する展示会を行なう企画を公表したのは2017年2月だった。数字やデータで埋め尽くした、奴隷制の経済学的な歴史を概観するのではなく、その歴史の一部をなした人びとの声(証言)に、数世紀を遡って焦点を当てること、に主眼をおいた。
海洋大国オランダは、スペインとポルトガルには遅れをとったが、この2国に対抗して海外に進出した。その植民地支配は、現インドネシア、カリブ海諸島、南米の現スリナム、南アフリカなど世界各地に及んだ。時期は17世紀から19世紀にかけて。まさしく植民地支配と奴隷制が全面展開されていた。その各地で、奴隷制に関わった人びと--奴隷にされたひと、奴隷制に抵抗したひと、奴隷所有者だったひと――10人の人生が、美術館所蔵の展示品、地図、絵画、音声ガイドなどを通して、明らかにされた。アムステルダム市内に残る「奴隷制の遺産」をめぐる「ブラック・ヘリテッジ・ツアー」も行われたという。カリブ海のオランダ自治領キュラソー島出身の案内人、アシャキ・レイトゥは、市中心部の広場に立つ壮麗な王宮、オランダの「黄金時代」を象徴する豪華な装飾と彫刻や絵画で飾り付けられた17世紀建設の市庁舎、奴隷所有者や大規模農園の投資家が住んでいた運河沿いの通りなどを案内しながら、「私たちのルーツを目にするたびに、心が波立つ」と語ったという。だが、展示会を通して、この隠されてきた史実が社会全体に可視化されたのだ。
これが実現されるに当たって、どんな力が作用したのか。私が注目するのは、美術館学芸員たちのイニシアティブだ。レンブラントやフェルメールが活躍したオランダの17世紀と言えば、芸術のみならず、貿易、産業、軍事などの観点から見ても最盛期を迎え、今までは「黄金時代」と呼ばれてきた。だが、これを可能にした背景を探る中で、学芸員たちは、同館が所蔵する美術品の解釈・位置づけが一方に偏していた事実に気づく。美術品展示に使用してきた「黄金時代」という時代区分をまず止めた。それは2019年のことだったが、上で見てきたように、オランダにおける歴史見直しの気運が、政府・王室レベルでも、民間レベルでも横溢していた時期に重なった。国立美術館での「奴隷制」展は大きな反響を呼び、大勢の人びとが詰めかけて、奴隷制の過去と現在をめぐる議論が全社会的に沸騰したようだ。
国王が「黄金馬車」の使用停止を発表したのは、それから間もなくのことだった。100年以上も前から公式行事に使用してきた王室専用のこの馬車には、過去の植民地政策と奴隷制を象徴する装飾が施されている。側面には「植民地からの貢ぎ物」と題した絵があり、頭を垂れ、跪いた黒人が白人女性に捧げ物をする様子が描かれている。王室は、「奴隷制」展の時期に合わせて、馬車の展示会を開き、馬車の使用を今後も継続するかどうか、国民の意見を集約してきた。国王は言う、「われわれの歴史には、誇るべき多くのものと同時に、過ちを認め、将来繰り返さないための教材も有る。過去を書き換えることはできないが、ともに受け入れようと努力することはできる。これは植民地時代の過去にも当てはまる。」「オランダに日々差別の痛みを感じる人びとが生きている限り、過去は現代に影を落とし、終わってはいない」。こうして、2022年1月、国王は自ら、国民の意見を体して、「黄金の馬車」使用停止との判断を下したのだろう。
国王は、同年12月には、さらに一歩を進める。国王自身が今回の謝罪スピーチで触れているように、植民地時代に王室(オラニエ=ナッサウ家)が担った役割を検証するために、歴史研究者から成る特別検証委員会に調査を委託するというのである。3年間調査を行い、2026年に調査結果を報告する見込みだ。座長は、植民地・帝国主義史を専攻する、オランダ最古の大学=ライデン大学の元教授だ。
動きは止まない。アムステルダムに続いて、ロッテルダム、ユトレヒト、ハーグなどの各都市も、奴隷制存続のために、当時の市と職員が果たした役割を認め、謝罪した。オランダ中央銀行も、奴隷貿易を通じて利益を得ていた事実を謝罪し、旧植民地国・地域に今後10年にわたって融資できる500万ユーロ(7億2000万円)の基金をつくると発表した。
それにしても、国立美術館の学芸員たちから提起された、伝統的な歴史解釈の「改革」「変革」の呼びかけが、政府・行政・王室などを突き動かしてゆくこのダイナミズムは、どうだろう? 「黄金の馬車」の場合は、10年以上も前から使用停止を要求してきた市民やNGO 団体があったというから、国王がそれに応えて停止に至ったスピードは早いとは言えない。米国BLM 運動の高揚なども活かしながら、オランダ社会は全体として、ここで「時を掴んだ」のだと言えるのかもしれない。
この一連の事態の背景を探るために、オランダ関連書をいくつか読んでみた。日本社会と比較しながら読むと、次の2点が際立っていると思える。1点目は、オランダに住む旧植民地出身者の、社会への溶け込み方に関わる。そのような存在の人びとを、政府・行政が率先してひたすら「排除」「排斥」へと向かっている日本と比べて、社会の在り方として、オランダははるかに包摂的かつ融和的だと言える。それを理解するキーワードは「隠れ家」と「広場」だとする研究者もいる。「隠れ家」はアンネ・フランクの一件で有名だが、歴史的にも、宗教的な少数派に対して寛容にも「隠れ家」を提供してきた伝統が、この国にはあるとする。他方「広場」は、王宮が立つ首都中心部のダム広場もあるのだから両義的ではあろうが、多様な人びとが集うのことができる場でもある。このふたつが、現代日本ではどう作用しているかと考えれば、問題の在り処は自ずと明らかだろう。本や新聞を読んでいても、歴史問題を扱う機関や諮問委員会の責任ある部署を、旧植民地出身者が占めている確率が高い。「黄金の馬車」の展示会でも、アフリカ南部ジンバブエ出身のアーティスト、スィタビレ・ムロツワが奴隷貿易を再現した作品がそばに展示され、作家は展示会を訪れた国王とも議論を重ねたという。
2点目は、オランダ社会分析の書を読むと、「NGOは政府のパートナー」とか「政府=NGO=企業が協働するオランダモデル」などの表現によく出会う。自分をNGOの立場の人間だと仮定すると、日本において、そういう自分たちが政府や企業のパートナーであるとか、協働するというイメージはすんなりとは出てこない。最初から警戒して、身構えてしまうほどに、「落差」は大きい。オランダにしても、国内に住めばさまざまな問題を抱えているには違いないが、存在基盤の異なる三者が「パートナー」として「協働」し得るモデルを一定の局面では開発してきたのであれば、その経験が、今回のような、深刻な歴史問題の解釈を変えるという事態にも反映しているのかもしれない。
いずれにせよ、悔しいことに変化が起きにくい日本に比べて、オランダは社会の在り方がはるかに柔構造であるとは言えるようだ。
「王様」が謝罪した、に戻って
去る7月1日のウィレム・アレクサンダー国王が行なった謝罪演説は、「政府の一員として」語ったものとしては、よく考え抜かれたものだと思われる。その直前にくる「あなたたちの王として」という表現は、人類に普遍的な課題として王制を否定する私の立場からすれば、容認はしない。彼と王妃が「黄金の馬車」に乗ったのは短い期間だったろう。即位が2013年で、15年には馬車の修復作業に入ったというから。だが、写真で「黄金の馬車」を見るだけでも、よくもまあ、こんなものに乗って、市中をゆくことができたものだ、と思う他はない代物には違いない。王制の本質の一端が、そこに表れていよう。だから、こんな「立派な」謝罪演説をなし得た現国王は、植民地時代に王室がどんな役割を果たしていたかの調査結果が判明する3年後の2026年には、黄金の馬車どころか王宮をすら捨て去るかもしれない。私には、〈論理的には〉その未来が見える。しかしこれは、他ならぬオランダに住む人びとが判断し、決めるに任せるしか、ない。国王は「奴隷制度廃止から長い年月が経った今になって、謝罪するのは行き過ぎだと感じているオランダの人々もいます」と語っている。オランダにも「自虐史観」を批判する人びとがいるのであろう中での謝罪発言であることは、心に留めておきたい。
さて、最後に、このオランダの現実に照らし合わせたときに、日本はどう見えるだろうか? この社会にも、近代日本が近隣アジア諸地域に対して行なった植民地支配と侵略戦争に由来する諸々の結果に関わって、国家責任を追及し、問いかけ、清算と補償を要求する民衆運動は多様に存在する。近隣諸地域の植民地化と対外侵略を「国是」とした明治維新国家以降の日本近代史の政治・社会体制を思えば、中軸をなした天皇制が、その責任追及の「的」の一つであり続けていることは理に適っている。これを読む私たちの多くが、それらの運動のいずれかに関わってきているだろう。
残念なことだが、その努力が十分な成果をあげていないから、この社会の現状があるのだということも、私たちは自覚している。その根拠について、私(たち)は今までにも内省的に分析してきた。それをこれからも論理的・実践的に展開し続けることが私たちの課題だと自覚しつつ、以下のことを書いておきたい。
日本では、自国の過去の過誤に関して「王」に謝罪させてはいけない。その権限を持たない者に、権限外の任務を委託してはならない。「王」が謝罪したのだから、もうすべては終わった、ケリがついた。これ以上、もうガタガタ言うな!--情緒に流れ、〈非論理と非倫理に慣れ親しんだ〉社会には、こんな「空気」が充満し、何事も解決できないままなのに、「新しい明日」が始まったとの錯覚が生まれるだろう。それは、ちょうど、敗戦直後の1945年から52年頃にかけて、「現人神」が、その責任を問われることもなく新憲法下で「象徴」に変化した時代の「空気」にも似ていて、それでは新しい坂口安吾が登場して、「堕落論」「新堕落論」「天皇陛下にささぐる言葉」「天皇小論」などを改めて書かなければならない時代が到来するだろう。
そうであるならば、一度は「偉大な悲劇」であったものは、もう一度は「みじめな笑劇」と化すほかはない。否、「みじめな笑劇」はすでにして、二度、三度、そして数多く演じられてきているのだ。
■主な参考文献
桑野白馬(「しんぶん赤旗」ベルリン駐在記者)執筆の同紙掲載記事 2021年1月11日、同7月4日、同9月2日、同9月21日、2022年1月15日、同2月19日、同12月11日、2023年3月18日、同7月3日、同7月5日など。
ギド・クノップ=編著『世界王室物語――素顔のロイヤル・ファミリー』(平井吉夫=訳、悠書館、2008年)
長坂寿久=著『オランダモデル――制度疲労なき成熟社会』(日本経済新聞社、2000年)
長坂寿久=著『オランダを知るための60章』(明石書店、2007年)
水島治郎=著『隠れ家と広場――移民都市アムステルダムのユダヤ人』(みすず書房、2023年)
井上亮『天皇の戦争宝庫』(ちくま新書、2017年)
中国文化財返還運動を進める会=編『中国文化財の返還――私たちの責務』(同会、2022年)
同上『ニュース』(同会、不定期刊、2022年8月3日創刊~23年7月19日現在、第5号)
坂口安吾『堕落論』(新潮文庫、2000年)
坂口安吾『天皇陛下にささぐる言葉』(景文館書店、2019年)