オランダでは、毎年7月1日は奴隷制廃止を記念する日とされている。それは1863年のこの日に法律によって奴隷制が禁止されたからである(その時点で奴隷であったものはその後10年間、プランテーション等での労働を継続することとされたので、実際に奴隷が解放されたのは1873年である)。2023年は、奴隷制廃止の法律制定から160年、実質的な奴隷廃止から150年にあたる。以下は、この日アムステルダムのオーステル公園(国立奴隷記念碑がある)で行われた奴隷制度廃止を記念する式典で、オランダが関与した奴隷制度について謝罪した、オランダ国王ウィレム・アレクサンダーのスピーチ(全文)である。
翻訳:編集部
“NL Times” 2023/07/01
https://nltimes.nl/2023/07/01/full-english-text-king-willem-alexanders-speech-apologizing-history-slavery-0
紳士淑女の皆さん、ここオーステル公園でも、ミュージアム広場でも、スリナムでも、我が王国のカリブ海地域でも、これをお聞きになっている方が世界のどの地域におられようとも、「アムステルダム市とその管轄区域内では、すべての人は自由であり、だれも奴隷ではありません。」——これは1644年に制定されたオランダの法律のなかの1節です。
我々は、何世紀もの間、何よりも自由を大切にしてきた都市にいます。歴史を通じ、専制と抑圧と繰り返し戦ってきた国の首都に。しかし、この都市やこの国で当然のこととされてきた原則が、外地には適用されていなかったのです。ここでは奴隷制度は禁止されていましたが、海外ではそうではありませんでした。
人が自由を奪われるあらゆる方法の中で、奴隷制度が最も痛ましいものであることは間違いありません。最も卑劣で、最も非人間的なものです。仲間であるべき人間を商品と見なし、好きなように扱う。自分の利益のために仲間の人間を、意志のない、荷を負う獣として利用する。人々は、鎖につながれ、取引され、烙印を押され、骨の髄まで働かされ、罰せられ、あるいは、罪もないのに殺されました。
最近、王妃と私はヨーロッパのオランダや、オランダ王国の一部であるカリブ海の島々の人々と多くの会話を交わしました。スリナム人のルーツを持つ人々や、インドネシアに縁のある人々に会いました。その中には、3世代さかのぼるだけで奴隷として生まれた家族がいるという人たちもいました。そして彼らは、その傷がどれほど深く残っているかをはっきりと教えてくれました。
多くの熱心な研究者たちの努力のおかげで、私たちは奴隷制の歴史におけるオランダの役割について、ますます多くのことを学びつつあります。60万人以上の人々が、奴隷として売られたりプランテーションで働かされたりするために、オランダの船でアフリカから大西洋を渡って輸送されたことがわかっています。そのうち約7万5,000人の人々は大西洋横断を生き延びることはできませんでした。私たちはまた、オランダ東インド会社が支配する地域における大規模な奴隷貿易についても知っています。植民地の先住民に対する残虐行為についても知っています。一方で、私たちが知らないことも多くあります。公文書館には生の数字が収められていて、簿記のように正確に事実が記されていますが、奴隷にされた人々の声は時の霧の中で失われ、かろうじて痕跡を残しているに過ぎないのです。
この人々は何を感じていたのだろうかと私は自問します。自分たちのコミュニティから引き離され、自分たちの文化、習慣、先祖が住んでいた土地から切り離され、空気のない船倉に押し込められ、男たちは二人一組で足かせをはめられ、長旅をしながら彼らは何を思ったのだろうか。奴隷市場で、まるで自分たちが人間ではなく家畜であるかのように値踏みする商人たちの視線を感じる時、彼らの心には何が去来したのでしょうか。また、自分たち自身の音楽を密かに演奏するとき、カウィナドラムやタンブーの音を聞くとき、彼らは何を感じていたのでしょうか。
たとえそれが多くの場合、自暴自棄の行動であったとしても、彼らの多くが捕獲者に対して立ち上がる強さを持っていたことには畏敬の念を抱かざるを得ません。スリナムの広大な森や沼地の隠れ家から、ボニ、バロン、ジョリ・クールといったレジスタンスの闘士たちは、奴隷制の非人間性に抗い挑みました。彼らの英雄的な行為、そして他の多くの人々の行為は、決して砕かれることのない誇りと強さの証であります。
ごく稀に、黒人の自由戦士の声が文字記録として残ることがあります。その一例が、1795年にキュラソー島で起きた反乱のリーダー、トゥーラです。5カ月前、王妃と私は長女とともに、彼が住み、働いていた場所、かつてのクニップ農園を訪問しました。トゥーラの言葉は、現代の私たちの耳に、なんと合理的で慈悲深く響くことでしょうか。フランス革命の理想とともに、肌の色に関係なくすべての人が平等であることを訴えかけながら、彼は次のように言いました。「私たちは誰に危害を加えようとしているわけでもない。ただ自由がほしいだけなんだ」と。しかし当局の対応は残忍で無慈悲でした。罰としてトゥーラは拷問を受け、そして斬首されたのです。奴隷制度の恐るべき遺産は、今日でも残っています。その影響は、いまだに私たちの社会におけるレイシズムの中に感じられます。
昨年12月19日、オランダの首相はオランダ政府を代表して、何世紀にもわたり、オランダ国家の名のもとに、人間が商品として扱われ、搾取され、虐待されたことを謝罪しました。そして今、私は皆様の前に立ち、本日、あなたたちの王として、また政府の一員として、私は自ら謝罪をいたします。そして、この言葉の重みを私の心と魂に刻みます。
しかし私にとっては、もうひとつの個人的な側面があります。奴隷制度と奴隷貿易は、人道に対する犯罪として認識されています。そして、総督たちとオラニエ=ナッサウ家の王たちは、それを止めるために何もしませんでした。当時は容認されていた法律に従って行動したのです。しかし、奴隷制度はその法律の不当性を物語っています。
第二次世界大戦が最近になって浮き彫りにしたように、同じ人間が動物に貶められ、権力者の気まぐれに服従させられているときに、法律の陰に隠れることはできません。道徳的義務により行動しなければならない一線があるのです。ここヨーロッパのオランダでは、奴隷制度が厳しく禁じられていたことを考えれば、なおさらでしょう。海外の植民地では当たり前とされ、実際に大規模に行われ、奨励されていたことが、ヨーロッパでは許されていなかったのです。それが痛ましい真実です。
私が委託した第三者調査により、オラニエ=ナッサウ家がわが国の植民地支配の過去と奴隷制の歴史において果たした正確な役割について、より多くの光が当てられることになるでしょう。しかし今日、この追悼の日に、私は、この人道に対する犯罪に直面して行動しなかったことに対する赦しを請います。
ただし、この記念日について、決してすべての人が同じ感情を共有しているわけではないことを、私は十分すぎるほど理解しています。奴隷制度廃止から長い年月が経った今になって、謝罪するのは行き過ぎだと感じているオランダの人々もいます。とはいえ、オランダの人々の大多数は、肌の色や文化的背景に左右されない、すべての人々の平等のための戦いを支持しているのです。ですから私はあなた方に、今日この場にはいないけれども、誰もが完全に参加できる社会を築くために皆さんと一緒に働きたいと願っているすべての人々に心を開いていただきたいと思います。人々の経験、背景、想像力の違いを尊重してください。
先日、王妃と私が奴隷にされた人々の子孫と話したとき、ある人が言いました。「そんなに心配するな。間違っていたと言うことがそんなに大変なことなのか」と。またある人は言いました。「私たちの不快感を受け入れよう」と。癒し、和解、回復のプロセスに青写真はありません。私たちは共に未知の領域にいます。だから、支え合い、導き合おうではありませんか。
60年前の今日、スリナム系オランダ人の一団が “Ketie Kotie fri moe de. “と書かれた横断幕を振りながらアムステルダムの中心部を行進しました。彼らは、私たちが今日も灯し続けている記憶の炎に火をつけたのです。この日は、契約労働者として植民地に渡った先祖を持つ人を含め、スリナムに縁のあるすべての人々にとって重要な日です。
奴隷にされた人々や、世界の他の地域で強制労働を強いられた人々の子孫が、この集いに参加していると感じてくれることを私は願っています。彼らの声が聞かれたと感じてくれることを願っています。オランダ王国のカリブ海地域の人々。インドネシアとつながりを持ち、過去の大きな不正義の痛みを背負っている多くのオランダの人々。
私たちは皆、それぞれの家族の歴史を持っています。私たち自身の感情。私たちのコミュニティに根ざす文化的伝統。私たちを慰める儀式、私たちを励ますシンボル、心に響く知恵の言葉。これらの伝統はすべて貴重なものであり、尊重に値します。しかし、それらを超えて、私たちは互いに手を差し伸べようではありませんか。レイシズムと差別と搾取のない世界を築くために。認識と謝罪の後、癒し、和解、回復を促進するために協力しましょう。そうすれば、私たちは皆、自分たちが共有しているものを誇りに思うことができます。私たちが次のように言えるように。
Ten kon drai
時代は変わった
Den keti koti, brada, sisa
鎖は解かれた、兄弟よ、姉妹よ
Ten kon drai
時代は変わった
Den keti koti, fu tru!
鎖は切れた、本当だ