「原発に死を!」 調査意見報道シリーズ

10. 原発は軍需偽装:A級戦犯『巨怪伝』抜粋

1999.11.18.mail再録。

『知ってるつもり』の原子力「お召し列車」報道

『噂の真相』最新号(1999.12)「東海村臨界事故報道が“黙殺”した原発推進の背景に隠された利権」には、「最大の元凶はマスコミ」の小見出し部分があります。ぜひ、御覧下さい。私が、組合の全面支援を受けて会社構内の書記局に通い、不当解雇撤回闘争をしていた時期も含めて、27年半在籍した日本テレビ放送網と、その親会社の読売新聞の超大ボスは、初代原子力委員会(のち科学技術庁)の委員長、国務大臣でした。

 ところが、驚いたことには、というよりも、「ここでもやはり同じことか」の感を深くするのは、現代の情報社会の「虚構」の深さ、その結果としての錯誤の滑稽さです。

 これはあくまでも、私の交際範囲の中での話ではありますが、核兵器や原発の反対運動関係者の内の、ほとんど「誰もが知らない」のが、「原子力平和利用」の本音なのです。その本音は、一部で「原子力の父」などと祭り上げる向きもある元A級戦犯、初代原子力委員長(初代科学技術庁長官としても位置付けられている)、読売新聞の独裁者、正力松太郎の正体を知れば、それだけでも、十分に明らかになるものです。さらには、とりあえず、すでにmailで紹介して置いた『巨怪伝』を読めば、いかに多くの「左翼」までもが、見事に騙され抜かれてきたものかと、驚きを深くすることでしょう。しかし、わが『巨怪伝』紹介mailへの反応は、まだないのです。同好の士は御応答下さい。

『巨怪伝/正力松太郎と影武者の一世紀』(佐野眞一、文藝春秋、1995.11.1)の「主要参考・引用文献」欄には、拙著、『読売新聞・日本テレビ・グループ研究』『読売グループ新総帥/小林与三次研究』『マスコミ大戦争/読売vsTBS』の3冊が明記されています。私は、さらに、この伝記、『巨怪伝』をも参考文献に加えて、それ以前から準備を進めていた『読売新聞・歴史検証』(汐文社、1996.3.6)を発表しました。

 私の方の興味は、主に、新聞・放送メディアの歴史にあるので、原子力「平和利用」の希代の詐欺行為に関しては、特に記しませんでした。しかし、東海村臨界事故に関する議論の中で、「平和利用」の本音、つまりは、アメリカの原子力覇権維持と軍事利用の下地作りに関する関係者の知識の不足が、何とも情けなくなり、とりあえずの「抜粋」紹介をする次第です。

 初めに、資料収集力では最高を極める佐野眞一でさえも『巨怪伝』に記していない実体験を紹介して置きます。私が日本テレビ放送網株式会社に入社したのは、1961年(昭35)ですから、1956年に総理府の外局として設けられた原子力委員会(のち科学技術庁)の発足から数えると5年後になります。しかし、現在話題の焦点の東海村で東海発電所1号炉が発電に成功したのは1965年であり、関西電力の敦賀、美浜の両発電所が1970年、東京電力の福島発電所が1971年に営業運転開始ですから、入社当時は、まさに日本の原子力発電の黎明期でした。

 そのころ、読売新聞でも日本テレビでも、「原子力の父」こと、自由民主党衆議院議員、原発族議員の大ボス、正力松太郎の政治行動は、「お召し列車」の異名の特別報道の扱いとなってました。私は、入社当初に配置された編成局と、正力松太郎のガラス張りの居室、通称「金魚鉢」とが同じ2階のフロアにあったので、何度か廊下で、あの怪老人、生きている戦前、元A級戦犯の姿を見掛けました。この元警視庁特高課長、正力松太郎と相呼応して、原子力「平和利用」の政治詐欺を仕組んだ希代の破廉恥漢は、内務官僚としても正力の後輩の中曽根康弘でした。

 テレヴィ創設でも原子力「平和利用」でも、正力松太郎の懐刀として「影武者」の下働きをした柴田秀利は、元読売新聞社員で、戦争中は特務将校(スパイ)でしたが、当時は、日本テレビの専務で、私は、団交で会ったこともあります。柴田は晩年の正力と袂別し、暴露出版をします。以下、『巨怪伝』から、「原子力平和利用」と、正力、中曽根、柴田が登場する典型的な仕組みについての記述だけを列挙します。


アメリカの核兵器開発競争への追随

 まず、1954年、読売が原子力開発の解説、「ついに太陽をとらえた」の連載を始めたのは、「前年の12月8日、アメリカのアイゼンハワー大統領が国連総会で“アトムズ・フォア・ピース”演説をしたのがきっかけだった。この年の8月、ソ連が水爆実験に成功し、アメリカは核兵器の開発競争でソ連から激しく追いあげられていた。アイゼンハワーの演説には、原子力平和利用の国際管理機構を設置することで、核開発競争のイニシャティブを握ろうとする目的がかくされていた」(p.503)

 当時の中曽根について、湯川秀樹の1年後輩の山本は語る。「[前略]彼はとりわけ、原子力兵器、しかも小型の核兵器開発に興味を持っていました。[後略]」(p.510)

 柴田は、アメリカ人の密使と会合を重ねていた。ある日、「柴田は結論を告げた。『日本には昔から“毒は毒をもって制する”と言う諺がある。原子力は諸刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大なる産業革命の明日への希望を与える他はない』」(p.516)

ノーベル賞の湯川を騙しのテクニックで担ぎ出し

 原子力委員会の発足に当たって、「中曽根は一計を案じ」、まずは、経団連の会長、石川一郎を「学界ではノーベル賞の湯川さんが承諾してくれました。[後略]」(p.539)と嘘を付いて口説き、次には、石川の名を出して、「日本学術会議の会長で、のちに東大総長になる茅誠司」を通じ、湯川を原子力委員会のメンバーに加えた。「湯川がこの要請を断わりきれなかったのは、ノーベル賞受賞の翌年、読売新聞の協賛で、読売・湯川奨学基金をスタートさせていたせいもあった。」(p.540)

 私は、茅誠司が東大の総長時代に、1960年安保闘争を経験しましたが、同じ文学部の学生だった樺美智子が国会構内で警察官に蹴り殺された翌朝、英文学科の授業の教室で教授の許可を得て報告し、学内での議論を求めた際、普段は物静かな英文学科の某教授が、急に色をなして、茅誠司のことを「財界の妾」呼ばわりしたので、非常に驚きました。茅誠司は、当時の焦点、「産学協同」に熱心だったのです。

 湯川秀樹は、のちに正力に対する不信感を募らせて原子力委員を辞任しますが、その事情は世間に知られることなく、湯川秀樹の名とともに、「原子力平和利用の幻想」が、いまだに、“唯一の野党”などとも言われ、核武装には絶対反対の日本共産党にさえ、こびり付いて離れないのです。世界中を見渡せば、原子力「平和利用」を謳う原発推進こそが、核兵器開発の技術的土台になっていることは、明々白々なのですがね。

 ああ、この滑稽極まる錯誤、ああ、この現代の“情報社会”の「虚構」の深さよ!

 取り急ぎ以上。