高市とトランプ:日・米の歴史と現在 伊藤晃 vs 太田昌国 pt.2

太田昌国

「自由と民主主義の国=アメリカ」という幻想

今年(2026年)1月3日の米軍によるベネズエラ攻撃以降、半年間、同じテーマで何度も講演をしたり、文章に書いたりしてきています。この半年間、話を聞きに来られた方、文章を読んでおられる方、重複のところはお許しください。

僕がこの半年間、集中的に考えてきたのは、米国という問題です。これは前からの僕の持論ですが、人類は米国問題を抱えて苦しんでいると思います。この厄介なアメリカ合州国の存在、この国の政策によって世界にさまざまな矛盾や悲劇が起こっているということを、いつ頃からかわかりませんが考えてきていて、今日もその問題を中心にお話しようと思います。

まず考えておきたいのは、「米国は自由と民主主義の守り手である」と、歴代大統領が異口同音に言い募っているということです。メディアもそうであり、世界もだいたいそれに追随して、一般社会全体もそのような解釈になっている。そして、これが基本的には間違いであって、真実は別なところにあるということです。

しかし、そのような幻想があるがゆえに、問題が見えないままに、解決の道が遠のいているというのが現状であろうと思います。そこで僕が最初に触れたいのは、その自由と民主主義の国・米国という幻想は、他ならぬ、その米国の元軍人、多くはおそらく優秀だったのであろう軍人、それから諜報機関である中央情報局、CIAですね、そこの元工作員、それらによって遥か以前からすでに暴かれてきているということです。

フィリップ・エイジー『CIA日記』(勁文社、青木栄一訳、1975)、ハワード・ジン『民衆のアメリカ史』上・中・下(TBSブリタニカ、猿谷要監修、1993)、同『甦れ 独立宣言――アメリカ理想主義の検証』(人文書院、猿谷要、1993)、チャルマーズ・ジョンソン『アメリカ帝国への報復』(集英社、鈴木主税訳、2000)、ダグラス・ラミス『憲法と戦争』(晶文社、2000)、ウィリアム・ブルム『アメリカの国家犯罪全書』(作品社、益岡賢訳、2003)等々、これらの本を二冊でも三冊でも読むと、建国250年を迎えている米国が近現代史の中でどのようなことをやってきたのかということが明らかになるわけです。

いく人かの例を挙げます。最初に触れたフィリップ・エイジーという人は、1960年から68年まで、CIAに勤務していた人です。この年を見ればお分かりのように、彼が勤務し始める直前の59年にキューバ革命が起こります。彼が勤務を辞めた68年までは、キューバ革命の初期10年間に該当します。CIAが、キューバ革命を潰すために、アメリカで、世界で、どのような工作活動を行ったのかを、彼自身が体験したことに基づいてこの本で書き記しているわけです。

2番目のハワード・ジンは、ご存知の方多いと思いますが、日本の60年代・70年代のベ平連活動などにも協力した米国の歴史学者です。彼は第二次世界大戦の時は空軍の軍人でした。ものの本によれば優秀な爆撃手、爆撃の名手であったと言われています。戦後彼は、この『民衆のアメリカ史』を書いています。非常に得るところの多い人物です。

3番目のチャルマーズ・ジョンソンもまた軍人で、朝鮮戦争に従軍しました。だから50年から53年までの朝鮮戦争全体に従軍していたかどうかは分かりませんが、その関係で横須賀などにも立ち寄ってもいます。それで広くは東アジア史、狭くは日本現代史に関心を持つに至った。軍人を辞めてからは歴史学者として生きた人です。『アメリカ帝国への報復』の後にも、『帝国解体——アメリカ最後の選択』(岩波書店、雨宮和子訳、2012年)という本を書いています。つまり、いかに軍事帝国としてのアメリカ帝国主義が世界にとって危険であるか、これは全面的に解体しなければならないと書いています。2冊目の本では「普天間基地を返還し、アメリカ帝国は解体せよ」という惹句がつけられています。

それからダグラス・ラミス。この人はご存知の方も多いと思いますが、津田塾大学で長らく教師をして、今は沖縄に住んでいます。彼が最初に来たのは1960年で、海兵隊の兵士として沖縄に来ました。一年ぐらいで除隊したと思いますが、その彼もまた非常に激しいアメリカ帝国への批判者として、日本語の著作をたくさん出しています。

最後にウィリアム・ブルム。彼が最初に勤務したのは国務省の外交部門です。しかし1960年代、ベトナム戦争を批判して国務省を辞任した。その後、独立したジャーナリストになって、例えば1973年のCIAがテコ入れしたチリの軍事クーデター前後の状況などは非常に詳しく報告をしています。そして、彼は最初に触れたフィリップ・エイジーと一緒に、国防省、ペンタゴンやCIAが、どれほどの害悪を世界中にばらまいているのかということを暴露する映像企画にも携わっています。非常に有益な言論を残している人です。

ここに挙げたのはわずか5〜6人の人たちですが、いずれも軍隊の中で働いていた、あるいはCIAの工作員であった、こういう人たちが自分たちの体験に照らして、内省的に振り返ったとき、なんという職務に自分は携わっていたのか、この負債を返還するためには、とにかく米国が世界中で何をやってるのかということをあらためて言わなければならないと考え、これらの著作を残したのです。このことを頭に入れて、判断や分析が必要となった際には、彼らの著作を参照することで、米国の姿を捉えておかなければならないだろうと日頃から考えています。

米帝国の発端

このアメリカ帝国は、今年は独立250周年で、つい数日前もむなしい行事が行われましたが、この250年の歩みの中から特に注目すべき三つの段階について触れます。そして最後に現在の段階、21世紀に入って4分の1世紀、25年が過ぎましたが、この25年の中で現れている事態をどう捉えるかについて考えます。ベネズエラやイランの問題には特に触れません。そうでなくてもアメリカ帝国の振る舞いとして十分理解できるような二つのテーマについて、この現在の段階に触れます。その上で、伊藤さんのお話とも絡みますが、19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカ帝国主義の動きと日本帝国主義の動きを時代的に合体させるようなまとめをして終わります。

アメリカ帝国の発展を遂げた3つの段階の最初として、アメリカ帝国の発端に触れます。ご存知のように建国250周年を現在祝っている人たちのもともとの出発点は1607年、イギリスの大陸における初の永続的な植民地として、バージニアにジェームズタウンを建設したこの時に始まります。この約1世紀ちょっと前、15世紀末の1492年10月、最初に植民地帝国として世界制覇に乗り出したのは、ヨーロッパの辺境ともいうべきイベリア半島のスペインとポルトガルでした。その先駆けとなったのはスペインで、カリブ海域とアメリカ大陸と呼ばれることになる中南部地域の征服と植民地化を始めたわけです。

これは、僕がよく触れることですが、当時は征服にも植民地化にも携わり、その恩恵に一時的には預かったことのある、スペインのカトリック僧ラス・カサスが、やはり、自分が関わってきた征服と植民地化が一体どのような内実を持つものであったかということに途中で気づいて、内部告発した文章があります。それが『インディアスの破壊についての簡略なる報告』(岩波文庫判/現代企画室版。書名に若干の異同あり、原著1552年)です。私としては現代企画室版で読んでいただきたいのですが、ほぼ品切れ状態で、おそらく再販の機会は難しいと思うので、まだお読みでない方は廉価版の岩波文庫版でお読みになれば良いと思います。これこそが植民地支配というものが、初源形態として一体どのような形で行われるものであるかいうことを、非常に簡潔な形で明かしていて、5世紀後の現在にも通用する文献であると僕は思っています。

ともかく、植民者とは、どのような形で先住者を殺すものであるか、その土地をいかに奪うものであるか、いかに性的暴行を働くものであるか。そして植民者として、やがてこの人たちの末裔たちが何世紀後かに独立宣言をする。そういう形で植民地支配というのはあるわけです。つまり最初は外部から来た征服者であった者が、何世紀か後にまるでその土地の主人公であるかのように、本国に対して反乱して独立国を名乗る。じゃあ、先住者はどうなったのかという問題が、そこには残るわけです。スペイン人の多くの末裔も、19世紀初め、3世紀の植民地支配を終えた後に、そのスペインに反逆して、独立を遂げていきます。入植者の末裔たちが独立するわけです。

アメリカ合州国も同じです。冒頭で話した1607年に初めて入職者として永続的な植民地ジェームズタウンを建設した末裔の人たちが、1世紀半有余過ぎた後で独立をする。ですから、入植してある町を建設した1607年から独立の1776年に至る150年有余の間には、入植者による先住者に対する仕打ちの歴史がいっぱい詰まっているわけです。入植者・征服者と先住民の関係は、別にアメリカ大陸に限りませんが、それはアイヌの場合を考えてもいいし、世界各地で残されたそのような歴史物語に触れてもいいのですが、多くの場合、先住者は、慣れぬ土地に来て食料不足で飢餓状態に陥る征服者・入植者に対して、極めて友好的な態度を示します。食べ物を提供し、住む家を提供し、疑うところを知らない受け入れ方をする。それに対して入植者たちがどのような仕打ちをするかということは、この北アメリカの場合は150年有余の中に込められているさまざまな物語になっていくわけです。

150年有余経って、1776年7月4日にイギリスからの入植たちが、独立を宣言した。「独立宣言」とか「人権宣言」--この十数年後にフランス人権宣言も発せられます--とか、この時代の中では進取的な進歩的な立場に立った宣言というのはすべて例外なく、そこで保障される人権の対象としては先住者であるインディアンは含まれていない。アメリカ独立宣言の場合には黒人奴隷が入っていない。フランス人権宣言がそうであるように、女性も含まれていない。そういう18世紀後半の時代であった。つまりこれらの宣言が謳う、生命、自由、幸福を追求する権利を持つものは、白人男性に限られていたという、18世紀的な限界をきちっと頭に入れて考える必要があると思います。

対外膨張の第一段階——2世紀前、モンロー教義の時代

時代は今から2世紀前、1820年代に移ります。モンロー教義の時代です。ここで基本的に大事なのは1823年当時の大統領モンローによるモンロー教義の問題。それから、1846年から48年にかけてのスペインから独立したばかりのメキシコに対して、さまざまな術策を労して、テキサスを独立させたり、戦争を仕掛けて膨大な領土を割譲させた問題。この二つの問題が基本的に大きな問題です。

今からちょうど3年前が、このモンロー教義から200年目でした。先ほど触れた独立から半世紀ほど経った段階で、モンロー教義というものが発表されます。当時の時代的な背景としては、スペインに3世紀ほど植民地支配されていたラテンアメリカ諸国の独立がすでに始まっていました。1810年アルゼンチン連合、チリ、1811年ベネズエラ、ヌエバ・グラナダ、これは当時のパナマを含めたコロンビアの呼び名です、1821年メキシコ、ペルー、1825年ボリビアなどです。このようにいくつかのラテンアメリカ諸国が独立し始めていた。これは。独立後半世紀たったアメリカ合州国にとっては、またとない機会であったわけです。スペインによる中南米大陸の植民地支配があまりに強固であって、後発の帝国としての北米合衆国は手を出せなかった。しかし、ようやく各国が独立し始めて、これからもますます独立を続けていく、その気運が高まっていくだろう、という情勢を読んで、モンロー教義は、ヨーロッパ列強は、今後、西半球に口を出すな、手を出すな、と言っている宣言です。

よく私たちが耳にするのは。「アメリカはアメリカ人の手に」ということをうたった宣言、教義であると言われるわけです。このまとめ方の場合の「アメリカ」というのは、本当は、地域としてのアメリカ南北大陸全体を指すわけです。しかし、後者の「アメリカ人」とは、北米人、合州国の人間だけを指している。そういうまとめ方になるわけです。つまり、西半球はすべて北米人の手に任せろ、いうことをライバルである欧州列強に対して言ったということです。

去年岩波書店から出た『アメリカ大統領演説集』(岩波文庫、2025年)という非常にコンパクトにまとめられた演説集がありますが、これにも1823年の「モンロー教義」は出ています。重要なことは、当時のアメリカ社会の支配層にとっては、「わが国=アメリカ=西半球」なんです。だから、わが国の権益という表現をする場合に、そのわが国と西半球はイコールになる。しかし、西半球には、この段階ですでにスペインから独立したいくつかの国々があった。アルゼンチン連合があり、チリがあり、ベネズエラがあり、現在のコロンビアがあり、メキシコ、ペルーもすでに独立をしていました。少なくとも5カ国の独立が宣言されていました。その後も各国がだんだんと独立宣言をしていき、今は、カリブ海諸国を含めた国は30以上になるわけです。

この段階でも複数の国々が存在している西半球というものを、アメリカとイコールで結んでしまうということが、いかに身勝手な意識であるかということが、ここでまずはっきりするわけです。ところが大統領がこのような宣言をしてしまって、10年経ち、20年経ち、そのうちにアメリカ社会では、この言い方を当たり前のこととするようなジャーナリストが出てくる。

有名なジョン・オサリヴァンというジャーナリストは、「神によって与えられたこの大陸に我々(米国)が拡大するという明白なる天命(manifest destiny)」と言う。これが有名な、「明白なる天命」=運命論です。神によって与えられたこの大陸は、アラスカからパタゴニアまで、アメリカ大陸全体を示しています。この大陸に、米国が拡大するという天命を我々は神から授けられていたんだ、ということを言って、このような意識がアメリカ社会に普遍化、浸透していくわけです。

そのような宣伝と扇動がなされた後、1845年、テキサスは当時はメキシコ領でした。メキシコは24年前にスペインから独立を遂げたばかりです。国家形成としてはまだまだ整っていない段階のメキシコ領のテキサスに対して、アメリカ北米人の入職者がかなり多くなったという状況を利用しながら、独立運動を起こすわけです、1836年に。そして、45年にこれを併合してしまう。

これが西部劇的な描き方になると、「アラモ砦の悲劇」というような、大西部を開拓していく白人たちが悲劇に見舞われた、というお話になってしまうわけです。そして、この1845年のテキサス併合に力を得た米国は、今度はメキシコに戦争を仕掛けます。軍事力からして当然勝利します。勝利して、現在のアメリカ合州国の西海岸の広大な地域--テキサス、ニューメキシコ、ユタ、ネバダ、アリゾナ、コロラド、ワイオミングの一部、カリフォルニア--をすべてメキシコに割譲させるわけです。

一応当時のお金で1500万ドルは払っています。領土を金で買い取る、割譲させる。歴史上、強国がよく使う手です。これが1848年に実現することによって、米帝国は、最初の入植地であった東海岸だけではなく西海岸にまで至る、つまり現在で言えば、ロサンゼルスやサンフランシスコのような大都会のあるカリフォルニア州にまで達する大帝国に変貌します。

このメキシコ戦争で米軍が見れば「軍功」を挙げたペリーという軍人が、インド艦隊を率いて浦賀に来航して、鎖国中の日本に、砲艦外交によって開国を迫ったのは、1853年です。メキシコから広大な領土を奪って西海岸に進出し、太平洋に自由に展開できるようになった5年後です。ここに、一つの帝国が地勢的な形で大きな展開を遂げた時に、いかなるスピードでその後の世界的な展開を図るものであるかということがわかるわけです。

第一段階の終わりとして、もう一つ加えておけば、当時のロシア皇帝。クリミア戦争、オスマントルコとの戦争での膨大な軍費負担に苦しんでいました。その経費負担を税金だけでは賄えない。それでアラスカをアメリカ帝国に売りました。アラスカというあの広大な土地が、どのような経緯で、帝政ロシアからアメリカ帝国の元に移ったのか。クリミヤ戦争は、今のウクライナ戦争とも、歴史的にも地域的にも接続していく問題ですから、これも歴史的な繋がりの中で見なければならない、そういう問題であるということがわかるわけです。

これが米帝国の対外膨張の第一段階です。19世紀のちょうど半ばです。これが一つの決定的な段階であったと思います。

対外膨張の第二段階——19世紀末~20世紀初頭、ローズベルト系論の時代

対外膨張の第二段階、これが19世紀末から20世紀末です。

二つの事柄に注目します。一つは1898年、キューバとフィリピンの問題です。もう一つは。1901年から3年にかけて。キューバをめぐるアメリカの振る舞い方です。

1898年はどういう年だったかというと、キューバはラテンアメリカの独立の趨勢からは半世紀遅れました。19世紀前半から中盤にかけての独立の趨勢には、カリブ海国のキューバは乗れなかった。19世紀末になってようやくスペインからの独立闘争が盛んになりました。フィリピンも同じ時期、まさに1898年にスペインからの独立闘争が非常に高まっていました。アメリカ帝国の立場からすると、この機を失うと、自分たちは独立したキューバおよび独立したフィリピンと対峙しなければならない。これはめんどくさい。いっそのこと、スペインと彼らの独立闘争に自分たちが介入して、スペインとの戦争にしてしまって局面を変えようとした。米国は、すでに経済活動などでたくさんの北米人がキューバ島に入り込んでました。軍艦もハバナ沖に派遣していました。この軍艦に自作自演の爆発行動を行ったわけです。そしてこれはスペインによる仕業だと、押し付けをしたわけです。ベトナムのトンキン湾事件がそうであったように。そして戦争の局面はアメリカ・スペイン戦争になった。軍事力の差から、当然、米国が勝ちました。講和条約は、米国とスペインの間で結ばれました。キューバとフィリピンの人々は無視されました。どういう講和であったかというと、米国は200万ドルで、フィリピン、グァム、プエルトリコを譲り受ける。キューバは独立の準備が整うまでは、米国の軍事占領下に置くが、いずれは独立は認める。こういう講和条約だった。

フィリピンを得たことは、19世紀末以降のアメリカ合州国の対アジア戦略を考える上では、非常に重要なことでした。まさに同じ年に、そのフィリピンへの軍事展開を展望しながら、ハワイに目をつけて真珠湾を使いたいということで、ハワイを併合しています。それまで独立国であったハワイを併合したのも1898年です。

このキューバとフィリピンの独立闘争の局面をスペインとの戦争に変えて、このような獲得物を得たということです。これが第一点です。第二点が、キューバの独立を認めた。しかし、実際に独立するキューバに対して。米国はどういう仕打ちをしたかということです。

1901年にキューバの独立を認めました。しかし、新しく作られるキューバ憲法に、アメリカ議会が採択した次のような条項を付け加えることを要求した。「付け加えなければ、どうなるか分かってるね」という脅しによって、ブラット修正法と言われるものを付け加えさせた。それは、

キューバの独立を損なうような条約・協定をキューバは結んではならない/キューバ政府は、その独立を擁護し、市民の生命・財産・自由を保障するにふさわしい政府を維持するために、米国が干渉する権利を有することを認める/キューバの独立を維持し、防衛するために、キューバ政府はしかるべき地点に米国海軍のための燃料と基地を貸与するものとする

というものです。確かにこれにはキューバ議会は抵抗しました。民衆も抵抗しました。しかしこの抵抗は、武力介入するぞという軍事的な脅しのもとで、あえなく消え去るわけです。

翌年1902年に独立します。しかし、03年、米国とキューバは、さっきのプラット修正法というとんでもない他国による憲法への介入を永久条約化するわけです。そして米国は、キューバ東部にグアンタモ海軍基地を獲得したわけです。今、2026年ですから、123年後の今も、このグアンタモ基地はあります。あれだけ嫌がらせ的な敵対行動を、米国はキューバに対して革命後一貫して繰り広げているにもかかわらず、この軍事基地は存在しています。これが、対外膨張の第二段階で、小さな国、しかもフロリダ半島の先端からキューバの首都ハバナまでは、東京駅から静岡ぐらいまでの近接した国であるキューバに対して、米国が行った嫌がらせです。それが革命後67年経った現在、どのようなことがなされているかということは、後で触れます。

この第一段階と第二段階の対外膨張の段階に限らず--これはあまりにもあからさまに見えやすいから、私が任意に取り出した時期だけであって--、年表を詳しく追っていけば、米帝国がいかに怠ることなく、対外膨張を続けてきて現在に至っているかということはつぶさに辿ることができます。そのごく一部を抽出したということを改めて繰り返しております。

新たな帝国主義の時代——21世紀の米帝国:対テロ戦争

このような形で対外膨張を続けてきた米帝国が、すでに4分の1が過ぎたこの21世紀にどのような振る舞いをしたかということを、二つを通してみておきます。

一つは、もう、あまりにも大きな事件が次から次へと起こって、過去を辿ることが難しくなる、忘れてしまう、追いつかない。そういう私たちの状況があるわけですが、つい5年前までの21世紀初頭の20年間続いていた対テロ戦争なるものの結果を見ておきます。

犠牲者の数だけで見ます。20年間の対テロ戦争の犠牲者は、92万9000人(アフガニスタン:17万6000人/パキスタン:6万6000人/イラク:27万5000人〜30万6000人/シリア;26万6000人/イエメン:11万2000人/その他800人)です。

死者全体の4割(イラクでは3分の2)が民間人です。そして重要なのは、戦争がもたらした経済の破綻、医療インフラの崩壊、環境汚染、住民が抱えるトラウマと暴力などによる間接的な死者数が、360万から370万と推定されていることです。直接的、間接的な死者を合計すると、450万人か460万人になります。つまり、2001年から2021年の間に1年間で20万人の死者が生まれたことを意味します。

米国の戦費、8兆ドル(881兆円相当)。これも驚くべきことですが、2050会計年度までにかかる帰還兵対策費――つまり、あまりにもひどい戦争ですから後遺症(PTSD)に苦しむ兵士たちが当然でる。これの対策費――がその4割を占めている。この調査を行ったのは、米国のブラウン大学ワトソン国際公共問題研究所です。この報告書は、以下で読むことができます。

https://costsofwar.watson.brown.edu/paper/human-cost-post-911-wars-direct-war-deaths-major-war-zones

報告書は付け加えて、言います。これは「合理的で控えめな見積もり」で「国民生活のインフラを破壊した紛争当事者には支援と修復を行なう倫理的な義務がある。特に米国政府には重大な義務がある」としています。米国内の大学の研究所がこう述べているわけです。

僕がこの数字を見て改めて驚くのは、20年間、毎年20万人強の死者が出ていたという、この統計数字です。僕自身は、この450万、460万の死者の一人の名前も知りません。皆さんもご存じないと思います。決してテレビでも新聞でも報道されることはなかった。なぜか? 白人ではないからです。死者が出ているのは、アフガニスタンであり、パキスタンであり、イラクであり、シリアであり、イエメンでありその他です。白人の死者ではないのです。だから、何の関心もはらわれない。

「対テロ戦争」というのが、米国、それから英国、NATO軍、20数か国のたくさんの国が、国を挙げて、「テロリストに対する戦争である」と称してしまえば、そこで生まれた死者数は全く顧みられないんだ、ということをこのことは語っているわけです。私たちの多くも関心を払うことはない。このことを、この数字は示しているわけです。

今年(2026年)1月の米軍がベネズエラでやっていること、イランで現在も続けていること、キューバに対して、今すでに始めていること。これらは、日々進行中だから、私たちは目を凝らすことができる。ベネズエラは米軍に攻撃されてのち大地震が起こり、米軍やイスラエル軍の兵士が救助を装いながらベネズエラに入り込んでる状況がある。イランでは何が起こっているか。キューバに対する米国の嫌がらせ的な政策はどこまで進行しているか。米国が何をしようとしているかに注目し続けなければならない。これは私たちの、今送っている日々の活動として。認識活動としてあります。

しかし、5年前に終わったと世界がもう思ってしまっている「対テロ戦争」のことは、もう思い出す機会がない。こういう時にでも触れなければならない。米国は「テロリストに対する戦争だ」という名目で、これだけの非白人の人々を殺したんです。このことの重大さを言えば、米国が、自由と民主主義の守り手のような装いの下で何をやっているか、そして国際世論なるもの、主要国の政府なるものは、このような戦争に加担する、情報宣伝工作に加担する。そして世界が成り立っている。「対テロ戦争」の結果から私たちが読み取らなければならないのは、こういう世界秩序の構造です。

イラクの作家アフマド・サアダーウィーが、この対テロ戦争の初期の段階、2005年か2006年ぐらいの作品で、『バグダードのフランケンシュタイン』という小説を書いています。翻訳が集英社から出版されています。読みでがあります。始まったばかりの「対テロ戦争」なるものの数年間の現実を見て、この作家は急かせられるようにして書いたんだと思います。イラクの作家の目はこの「対テロ戦争」をどう見たか。それを読むことで、いま確認した450万人、460万人の「対テロ戦争」の死者の目に連なる可能性が生まれるかもしれない。これだけの死者を傍観した私たちにできる、せめてもの認識上の変革です。

新たな帝国主義の時代--21世紀の米帝国:経済制裁という名の一方的戦争--キューバに対する制裁措置の具体例

新たな帝国主義の時代、21世紀の米帝国ということを物語るためには、革命から67年目を迎えているキューバに対して、経済的な力のない小国に対して、アメリカが一体どのような戦争を行ってきたのか。聞こえのいい響きが時にはするかもしれない「経済制裁」というものが、どのようなものであるか? それがわかるように、具体的に制裁措置を見てみます。

これは、67年間のキューバ革命の流れの中で。一貫して捉えているものもあるし、ある時期から捉えたものもあるし、時期的なものは凸凹です。しかし、基本的にはこのような措置がとらえているんだというふうに考えてくださってけっこうです。人口1100万人、大きさは北海道と四国を合わせたぐらいの国に対して、これだけの規模の制裁措置が、一番近い国、しかも世界の超大国からなされた時にどうなるか、という問題です。

例えば。キューバには全面制裁して輸出入を断絶するわけですが、キューバに交易のために立ち寄った船舶にも、180日間米国に寄港できないということもいうわけです。キューバのような小さな国との貿易だけで、輸送船が成り立つわけではない。行きか帰りに米国に寄って、そこで貨物の荷降ろしをする。それをキューバのケースと一緒にやるというような形で船を運行しなければ、貿易輸送船としての経済的な剰余価値を生み出すことができない。ですから、これはもうほかの国の船舶に対して「キューバとの貿易をするな」ということを意味します。

それでも、例えばベネズエラのような国があれば、チャベスの時はもちろんできていたし、マドゥーロの時だって、連帯経済--新自由新経済的なあり方ではなく、ともに帝国の抑圧(経済制裁)を受けている国同士が助け合うこと--が、乏しくなりともあり得た。ベネズエラは石油があるから、それに対して連帯経済の精神で、キューバに供給することは2026年1月3日まではあった。それに対してキューバは何らかの自分たちができる産品で、ベネズエラに報いる。そういうパターンがあり得た。

しかし、1月3日のような軍事作戦が米国によって行われて、その後半年間、ベネズエラからの石油ルートが断たれると、完全にキューバは立ち行かなくなります。ですから最近は、非常に長時間の停電が続いています。これはほんの一例です。米国のような経済大国が、隣の小国が経済的に成り立ち得ないような細々とした諸措置をここまで実施しているのか、と驚くことばかりです。

そういう形での完全なキューバの孤立化が、1959年からの数年後から、キューバ制裁法が具体化する段階で始められていったわけです。

またキューバは、第三世界としては医学に重点を置いたので、医療が非常に発達しました。そして、第三世界の医療の貧困に苦しむ国々にも、医師や看護師を派遣するという形での、医療支援活動も行ってきた。しかし、それ自体がもはや成り立たなくなる。今になってもまだそのような医療活動を行うキューバの医療チームを国外追放するよう、力の弱いラテンアメリカ各国政府に、アメリカ政府は圧力をかけているわけです。今年になってもいくつかのラテンアメリカの国々が、キューバからの医師団を、涙を飲んでだと思いますが、帰国させたというニュースが出てきています。

僕自身は非常に大きな関心を持って、キューバ革命の67年間の歩みを同時代的に見てきました。革命指導部に対する批判も疑問も多々あります。でも、少なくともアメリカ帝国によってこのようなとんでもない経済制裁を受けなければ、この典型的な第3世界の国家社会が、どんな社会になり得たかな、と夢想はします。米国は軍事的な介入もたびたび試みました。先ほど触れたように、なにしろ、海軍基地をキューバ国内に維持し続けているのだから、恥を知れ、と言いたいものです。ほとんど嫌がらせに近い、なぶり殺しに近いひどい政策を、現在の米国政権は、行い続けていると思います。

これば現在のアメリカ帝国の本質を表している、非常に具体的な例であると思います。

今述べたキューバに対する歴代アメリカ政権の制裁措置、および、今世紀の20年間続いてきた「対テロ戦争」のあり方によって、アメリカ帝国の現在の姿を、浮き彫りにしておきたいと思います。

帝国主義の同時代性

最後に触れておきたいのは、帝国主義の同時代生ということです。ここでは、1904年6月段階の問題を取り上げます。日本では日露戦争が始まった年です。この時、日本政府が米国に派遣した金子堅太郎は、ローズベルト大統領に会見します。日本は始めたばかりの日露戦争を有利に遂行するために外交交渉を行う。この時、ローズベルト大統領は、日露講和の条件として「韓国は全然日本の利益圏内に有るべし」との保証を与えた。韓国は、日本の利益圏内にあってよいというわけです。でも、満州で日本の勢力が拡大することには否定的であった。その勢力圏を満州南部に留めておきたいし、朝鮮北部国境・満州南部で日露が張り合っている状況は好ましいのでこれを維持したい。

フィリピンについては、先ほど言いましたように、1898年の段階でアメリカはフィリピンを領有しましたから、そのフィリピンへ日本や他の外国が干渉すれば、これは阻止する、ということを伝えたわけです。このようにローズベルトは、日本の朝鮮支配は容認したのだけれども、日本の拡張主義には警戒を十分怠ってはいなかった。これは白人帝国主義者としてのローズベルトの言葉ですが、「主な危険は、日本がうぬぼれて傲慢と侵略の全般的な経歴を辿りはしないかという点」で、もしそんなことになれば「その他の世界にとって一時的に非常に不愉快なことであるが、日本にとって結局一層不愉快になるだろう」と、白人の傲慢な言い方で警告はしているわけです。

このように、1904年に日本が日露戦争を戦い始めた時には、このような牽制がアメリカ大統領から入っているわけですが、そこに至るまで、明治維新前後から日本がいかなる形で植民地支配の展開を試みていたか、ということを考えるために、朝鮮との関係を辿ってみたのが、添えた「年表」です年表

他国を支配するときに、どのような段階を踏んでいくものであるのか。一旦その政治的な、また経済的な、そして軍事的な相手方の本拠に立ち入ったときに、相手国からどのような権限を次第に奪いながら、自分たち植民地支配者としての自国の実権を確立していくものであるかに触れた「年表」です。この「年表」を通してみれば、私たちの国である日本が、19世紀末から20世紀初頭にかけてどのような形で、東アジアの朝鮮に対して支配を行っていったか、同時に、アメリカはカリブ海のキューバに対して同じようなことをやっていったわけで、その帝国主義の植民地支配の方法の共通点が、 この「年表」を見直すことによって、見出すことができるのではないかと思います。

最後に、当時の日本の意図を指し示すものとして、幕末の吉田松陰と、ロシア革命に干渉した日本軍のシベリアからの撤兵段階での宇垣一成の言葉を見ておきます。

1854年、吉田松陰の「幽囚録」での発言--

いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャツカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。また朝鮮を促して昔同様に貢納させ、北は満洲の地を割り取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである」。(現代語訳=田中彰)

1922年、後に陸相となる宇垣一成の、日本軍のシベリア撤兵の日の日記での記述--

「神后以来朝鮮に占拠せし任那日本府の撤退、太閤第二次征韓軍の朝鮮南岸の放棄を連想して実に感慨無量、ことに渾身の努力をもってシベリア出兵に尽くしたる余においては一層痛切なり。……かならずや更に新装して大発展を策するの機、到来すべきを信じて疑わぬ」。

カテゴリー: 侵略戦争・植民地支配責任, 天皇制問題のいま, 状況批評, 講演記録 パーマリンク